マーベラスS

King Of Western-Swing!!
歌と食と酒、それに声のページ。

明大前~トーキョー・センチメートル・ジャーニー1

2015-09-04 15:05:54 | 

さてますます個人的な話になるよ。

当たり前だ、オレのブログなんだもの。 御用とお急ぎの方はパスしておくれ。

小仕事と同窓会かねての今回の東京行き。

行きはまだ体力有り余っているので深夜バスで向かうことにした。







カーテンを引けば個室状態で、快適な筈だった。

だが、寒すぎた。 寒くて寝られない。

不機嫌なまま、朝7時の新宿南口に着く。

喫茶店のモーニングもまだ開かぬ。

 

    



新宿南口、黄色い看板の「老辺餃子館」の上にあったバーでバイトしていた。

カクテルの注文が来たら、そっとカクテルブックを盗み見て作った。

合間にゃカラオケの司会もしてご機嫌うかがう、インチキバーテンダーだった。








京王線の改札は想像よりちんまりした感じ。 

かつてしたたかに酔って鞄パクられ無一文になり、最低一区間分見知らぬ人にもらい、

とにかく眠ったのがこの場所、朝のラッシュの大雑踏に叩き起こされた。

そこから小田急に乗り、新宿~箱根、箱根~新宿、 新宿~藤沢、藤沢~新宿…と

めざす向ケ丘遊園までちっとも帰れず、着いたら夕方。三日酔いになったことがある。

あの頃はなんだかとても時間の余裕があった。

ともかくも、30数年前、東京生活の足跡を辿ってみたいと思う。







京王線「明大前」。 初めての一人暮らしはこの街から始まった。

ここで他人の家の二階に間借りした。


駅前に出てみると、田舎の風情はどこかへ消えていて、

すぐそこまでマンションが迫っていた。

ローカルなパン屋があったが、それも消失していた。







背中側、井の頭線の頭上渡り、明大の方に行くと、小林書店という古本屋あり、

そこで買った「芸のこころ~三津五郎・安藤鶴夫」はまだ手元にある。

牛丼とカレーの合い掛けの店があり、福神漬け山盛りにしてよく食った。

2軒とももう無い。



    
     




すずらん通りの喫茶店にいると、旧正月だったのか、三河漫才の太夫才蔵が入って来て、

訳のわからぬ店員に追い返されていたのを見た。

もうそんな街の余裕も残ってやしないだろう。

芝居してた頃には、よく明大和泉校舎に潜り込んで、舞台装置作ったりしたもんだ。

今ならセキュリティー問題になるだろうが、それぐらい世の中ゆったりしてた。

駅へと戻り、京王の高架くぐって反対側へ。








こちらはなつかしい風景が広がっている。 ちっとも変わらない。

駅からスグの割に拓けないのは、地権者が頑固なのだろう。

見た覚えのある古いアパートがあった。






この辺だ。






松原2丁目…そう、この路地に間違いない。



 




ここだ。Iさん宅。なつかし~

この二階の右側の部屋に下宿していた。

3人が間借りし、風呂なし、共同便所で当時2万円だったと思う。


変わらね~、まだサッシ窓ぢゃないよ。

よく女の子を連れこんで、大家さんに

「独身の男の子もいるんだから、困ります!」と叱られた。

靴を持って上がらせ、出て行く時も大家の部屋の気配をぬすんで、

サッと出させるのだが、こっちの行状はたいがいお見通しだったろう。

高齢だったからもう生きちゃいまいが、今は誰が住んでるのだろうか。







近所に松原カトリック教会があって、そこの学生寮でめしを食わせてもらってた。

渡辺さんという賄いのおばさん、親切にしてもらった。

敷地内に「オリエンス宗教研究所」という立派な建物あり、なんか怪しいが、

そこに潜り込んでは時々知り合いの神父にシャワー浴びさせてもらい、

出てきたら、コーラの瓶を差し出し飲ませてくれた。 有難かった。



朝の掃除してた事務員さんに、学生寮のことを聞くと、

もう10年も前になくなったとのことだった。

高槻から来た…と言うと、「あの、高槻?」と言われた。

小学生2名殺人事件がさかんに報道されていたので。








お、こんな昭和の門構えもなつかしすぎる。

いじわる婆さんが出てきそうでショ?


バイトした大衆洋食屋も、影も形もなかった。

そこでバイト中、クリスマス前にジョンレノンが撃たれたと記憶する。

ラジオから「Happy Christmas」が何度も何度も流れていた。









この高架下、こんなに暗かったかなー。

早朝というのもあって、学生の姿が少なく、なんとなく覇気のない

寂しい気持ちになった。 店という店が開く前だったからかな。



駅へと戻って、次なる思い出の地、「下北沢」へと向かおう。


ほんのちょっとの追憶・・・センチメートル・ジャーニーは始まったばかり。




コンビニ弁当もまた悪からずや

2015-04-03 02:36:39 | 

 

この日あたりがピークとの噂を聞き、ちゃりんこ転がして、芥川まで桜を観に


    

      



急な思い付きだったので、コンビニ弁当であるが。
気分だけは祇園菱岩の仕出し弁当の気持ち。


   
     



鴨や白鷺が水面で獲物を狙っていたりする。  極楽浄土ってこんなかなぁ

気分次第で草枕も羽根布団のごとく   気持ちの持ちようで乞食だって大社長



         


 2015年のお花見もこれで終わり。 大騒ぎもいいけども、ひょいと行ってくる花見も好き




十三、復活の狼煙!

2014-06-03 22:10:37 | 

 3月7日以前の十三ションベン横丁。

 正確には一本東側の線路沿いの路地こそがそれで、ここは中筋通り。

 だが十三好きは、ここもひっくるめてションベン横丁と呼ぶ。

 

   


3月7日はまだ寒かった。

朝6時ごろの出火により、11時間も燃え続け、36軒が灰になった。



       


    
ションベン横丁のある阪急電車「十三」西口は80日余りを経て、6月1日ようやく開通となった。

それに先んじて、飲食店は復興を待たず、仮店舗で営業を再開していた。




        



中筋通りの入口にあった居酒屋「十三屋」。

昼間から飲める、安くて美味い十三のランドマークだった。

それが東口の路地裏で4月末に再開した。喜ばしい。


  
      



成田一徹さんの切り絵のような、雨上がりのせまい路地。



        


十三というのは不思議な街だ。 

梅田からひと駅だが、淀川を挟んだ飛び地の繁華街で、どことなくペーソス漂う街。

高度成長期、大阪湾を臨む臨海工業地帯がもくもくと黒煙を上げ、

神崎川はドブドロになりながらも、経営者はキタ新地へ。

工員さんたちはこぞって十三のキャバレーやクラブに遊び、英気を養った。

「がんこ寿司」なども、十三で生まれ、その時代の空気を吸っている。



       


もちろん、ションベン横丁は良い時代も悪い時代も目撃してきた。


        



そんな空気の中で飲むのは、十三そのものを味わうことで、痛快この上ない。



         



ミンチカツは十三屋の定番。

今までの敷地の半分、いや、三分の一になったかもしれぬが、

十三とは切っても切れない間柄。

まだ、中筋通りがきれいに整備され戻って来れるまで、1年やそこらはかかるだろう。

それまで、どうぞこちらをご贔屓に、と言いたい。



   

 

 帰りには、ホルモン「まる武」へ。

 ビニシーの通りに面した、鉄板の前が特等席だ。




しぞ~か

2012-06-18 03:17:51 | 


茫月茫日 静岡。 陽が落ちたら、さぁ街へ出よう。


    


地元のものがいただけそうな、「味の店 乃だや」へ。





まずは、ビールで喉もとを清めて。





駿河湾由比漁港であがる、旬のサクラエビを刺身で。

ショウガ醤油で・・・プリピチの食感でいいね。

4~5月、こいつを天日干しするために、浜はピンク色に染まる。






静岡おでん。 味噌かけ大根。

しまった・・・でかいか。

よく味が沁みていて、甘いこってりした味噌がかかる。






牛すじ、黒はんべ(はんぺん)、糸こん

少し甘めのだし。ご丁寧に、例外なく串が打ってある。 

黒はんぺんは、思ったほどは黒くない。


静岡おでんの特徴は、「だし粉」が偏重されることにある。

青海苔・いわし・さばの粉末で、富士宮焼きそばにもかかる。

焼津や清水などの良港を有し、いわし・さばなどの下魚(今は獲れなくなり出世なすったが)

がたくさん獲れ、こうした調味料の一部になったと考えられる。

関西では、お好み焼きにかかる程度だから、おもしろきこと。






静岡藤枝の地酒「志太泉」の吟醸酒。

やっぱり地元のお酒でなきゃ。

こざっぱりと軽快に飲める。






ガツは豚の胃袋。 シャクシャクした食感も心地よし。

牛肉食文化圏である関西では、ガツのおでんはなかなか出合えない。





カウンターで隣り合った地元の年配夫婦の会話から、

やっと方言が聴こえてきてホッとする。方言のない地方都市はスカのようなものだ。

「おい、ちょっくら、加代!犬に食わせる飯はあっても、おみゃーに食わせる飯はにゃーだで!」
(細うで繁盛記、富士真奈美)

こう書くと、名古屋のことばとも似ているなぁ。






関東おでんの、自家製げそ団子。

ここ「乃だや」は七間町という、かつて映画館でにぎわった通りにあって、

地元の魚菜と共に、静岡おでんと関東おでんの2種類がある。

惜しむらくは、関東おでんと称するおでんはさっぱりした塩味で、

お多幸や呑喜のごとき、伝統的な醤油味ではないこと。

今が旬、久能産の新しょうがをたのむ。

しょうがの肉巻き揚げというのにもそそられたが、

女子供ぢゃあるまいし、ここは男らしく生のままで行くべきだ!と

そのまんまで。 どこが男らしいかは知らないが。







これが辛いの辛くないのって・・・!

味噌を漬けてポリッと齧っては、酒で洗う。

額の汗を拭き拭き、ひぃ~!辛い。

酒場でのダンディズムも楽ぢゃねぇなぁ~。

これでも一人にはちょっと多い。俺は笹っ葉かじるパンダぢゃねぇんだから。




なつかしき浜寺公園

2012-04-22 00:14:07 | 

どう考えても40年ぶりぐらいの浜寺公園は八重桜が盛りだった。
なつかしいというかなんというか、記憶も消えかかっている。

ガキの頃、ちゃりんこ転がして、浜寺公園プールにさんざん通った。
浜寺プールは昭和38年のオープン。高度成長期、子供の声が響き渡った。
堺出身者なら、浜寺か金岡プールの水をちょっとずつは飲んでいるだろう。






この紀州街道に面した公園の入り口はちっとも変っていない。

浜寺公園ができたのは明治6年(1873)。日本最古の公営公園。
すぐ目の前は白砂青松の浜が広がり、東洋一の海水浴場となっていた。

我々の時代、浜寺水練学校出身の泳ぎの達者な学友が何人もいたが、
その昔はこの海岸で行われたらしく、水は澄み、
簡単に素足で砂に潜る貝を探り当てることができたそうだ。

東の湘南、西の浜寺と称され、一帯は海浜リゾート地。
芦屋などと並び、浜寺・上野芝は高級荘地だった。





逆側を見ると、南海本線「浜寺公園」の駅舎。
アーキテクチャーに興味のある方は、このモダンな名建築をご存じだろう。

明治を代表する建築家、辰野金吾、明治40年(1907)の設計。
東京駅、日本銀行などでおなじみの西洋建築の第一人者。





駅から公園まではまっすぐ、商店街が伸び、そこにはかつて古い食堂が何軒も並び、
店先には浮き輪やスイカに似せたビーチボールみたいなのが店ざらしになっていた。

そんな古ぼけた、失礼、いい時代を知る食堂も姿を消し、マンションになっていたのに愕然。
この「富士家」はその生き残りとみえる。

この並びに精肉店が一軒あったように記憶。
なんだか黄色っぽいコロッケだったような。半日、プールで発散した体には無性に旨かった。
金岡プールは関東煮とキリンレモン、浜寺はコロッケがガキどもにはちょっとした贅沢だった。

海水浴時代を知っているのだろうか。
疲れてトボトボ帰る客の中には、ここへ寄る家族連れなんかがいて、
真っ赤に日焼けした首筋に冷たいおしぼり当てて、お父さんはビールを。
お姉さんはバヤリース、子供はオムライスなんぞを食ったのだろう。





公園の正面入り口の手前に、阪堺電車の終着駅がある。
この駅舎の古くさいこと。もちろんメンテナンスの手は入っているだろうが、
公園の松林と一体化も甚だしく、見過ごしてしまいそう。
建て替えなどせず、そっとしておいてほしい。





潮風にさらされたような、漁具の物置みたいな駅舎を置き去りにして、
高度成長とともに水質の悪化は著しくなり、プールになり、
潮の音ははるか西へと耳に届かなくなった。

さて駅前の道の拡幅工事が行われたとかで、南側にあった商店は一掃され、
古くから続く和菓子屋も奥へ下げられていた。






明治40年(1904)創業の菓子屋、「福栄堂」。
ここの看板商品がこの、浜寺公園の松林ゆかりの「松露だんご」。





これがばかに美味い。
球体に近づけようとして、なんとなく不揃いなのも、いとおしい。
上品なこしあんの中は、松露よろしく柔らかいお餅。





オレは洗練された京都の上菓子よりも、ひなびた団子の方に惹かれてしまう。
生まれついた性分、べたべたの庶民であるから仕様がない。
薄茶に合う菓子より、番茶に合う団子だな、やっぱ。





茶団子も、ういろうのごとき柔らかさ。
ほの甘さがすっと消えて行く。

ガキの頃は、行きは公園見えたらダッシュ。帰りはコロッケにダッシュで、
こんな老舗菓子店の存在なんか、気がつかなかったよ。

贅沢はいえないけれど、向かいの松林の中で、緋毛氈でも敷いた床几を置いて、
こういう団子でもって茶の一服もいただけたなら、こんないいもんは無いと思うんだがな。