マーベラスS

King Of Western-Swing!!
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これが本店 !

2010-02-21 02:40:33 | 


   

つ、ついに、突きとめた・・・、というか。昔っからここにある寺町の力餅本店。ピーク時は180店あった力餅のご本家がこちらになるのぢゃ。

明治元年生まれの池口力造は兵庫県豊岡の生まれ。同28年、寺町六角にて饅頭屋を開業。日清戦争の勝利に因み「勝利饅頭」と名付ける。だが世は金融恐慌の頃、青息吐息が続き、ついに借金をして一大リニューアル。自分の名前から『京都名物・力餅』の看板を上げた。

時代は日露戦争へ、そこへいかにも力が出そうなネーミングと、力造の心魂込めた仕事ぶりで、爆発的に当たり、京都名物の一つといわれるようになる。そう、力餅食堂とは元々和菓子屋だったのだ。しかも、茶の湯と結び付いた洗練された上菓子ではなく、庶民の饅頭であり、田舎をあとに上京した者にとって何よりの、おはぎ・赤飯だった。それがず~っと100年以上、力餅食堂に連綿と残ってきたのである。


   


寺町通りを通っている方は先刻ご承知だろうが、本店は看板のみ。固く鎧戸を下ろしたまま、営業はしていない。


   


近くの看板には、ご覧の通り・・・たばこ屋とある。な、なんで?

確かにたばこの自動販売機のみ明かりが付いている。力餅グループ店数ある中、居酒屋もしている店、和菓子屋になった店、いろいろあるが、たばこ屋になっているのはこの一店のみ。それが本店。実に不可思議なことである。


   


あとで分かったのだが、創業者池口力造の子孫に男子が恵まれず、後継ぎ問題でついに閉じなければならなかったとのこと。

それならばきれいさっぱり看板を下ろす手もあるだろうが、長らく本店の文字を消していないということはどういうことだろう。ただただ消えゆくのみの廃業とは思えない。

想像だが、これはきっといつか、この創業の地で蘇るという予告なのだ。ファサードの色が、力餅名物おはぎ・赤飯の“小豆”カラーである。こんな色はたまたま塗られることはない。ここに今は被覆の時代であれど、何代かして必ずや力餅本店の復興を予言・予告するファイティングスピリットを見る。そう読み取ってしまうのは単なる力餅ファンの深読みに過ぎないのだろうか。


面白いことには、力餅の暖簾分け数あれど、おはぎ・赤飯など餅菓子を商うのは京都にはもはや一軒も残っていないという。これも不思議な話だ。大阪などでは律儀に受け継いでいるというのに。和菓子の競争率の高い京都では、こういうノスタルジー漂う田舎の餅菓子も難しいということなのだろうか。


力餅を探り、うどんがどうしても食べたくなり、錦市場の「冨美家」へ入る。これはおじやうどん。船場の松葉家のように、ご飯が沈められている。いかにも合理性の関西の食いもんである。


   


この不景気な時代、もう一度評価されても良い力餅の存在。内向きには、後継者不足もある程度留まるのではないか。案外と安定収入がある。目先のいいカッコばかり追わず、力餅という与えられた「お題」の中で、いかにいいものを出して行くかを考えたらどうだえ。

たとえば現在80店ぐらいになっているが、一軒たりとも手打ちはしていない。本部の引き締めも何もないのが「力餅食堂」暖簾分け制度のいいところだ。自由に新しいメニューも加えられる。

今まで時代に取り残されていた感もあるだろう。だが、そこを逆手にとって、ぶれずに、そこそこ美味い町場のフツーのうどんを作ってほしい。年配者が大手を振って食べに入れる町のホットステーションになれるはずだ。まだまだタップをするにゃ早すぎる。生き抜く隙間はまだこれから見つけられるはずだ。

力餅食堂よ、永遠に。池口力造の魂は生き続ける。
我々も小声で応援し続ける・・・



        力餅食堂 本店   京都市中京区寺町通
  



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