どう考えても40年ぶりぐらいの浜寺公園は八重桜が盛りだった。
なつかしいというかなんというか、記憶も消えかかっている。
ガキの頃、ちゃりんこ転がして、浜寺公園プールにさんざん通った。
浜寺プールは昭和38年のオープン。高度成長期、子供の声が響き渡った。
堺出身者なら、浜寺か金岡プールの水をちょっとずつは飲んでいるだろう。
この紀州街道に面した公園の入り口はちっとも変っていない。
浜寺公園ができたのは明治6年(1873)。日本最古の公営公園。
すぐ目の前は白砂青松の浜が広がり、東洋一の海水浴場となっていた。
我々の時代、浜寺水練学校出身の泳ぎの達者な学友が何人もいたが、
その昔はこの海岸で行われたらしく、水は澄み、
簡単に素足で砂に潜る貝を探り当てることができたそうだ。
東の湘南、西の浜寺と称され、一帯は海浜リゾート地。
芦屋などと並び、浜寺・上野芝は高級荘地だった。
逆側を見ると、南海本線「浜寺公園」の駅舎。
アーキテクチャーに興味のある方は、このモダンな名建築をご存じだろう。
明治を代表する建築家、辰野金吾、明治40年(1907)の設計。
東京駅、日本銀行などでおなじみの西洋建築の第一人者。
駅から公園まではまっすぐ、商店街が伸び、そこにはかつて古い食堂が何軒も並び、
店先には浮き輪やスイカに似せたビーチボールみたいなのが店ざらしになっていた。
そんな古ぼけた、失礼、いい時代を知る食堂も姿を消し、マンションになっていたのに愕然。
この「富士家」はその生き残りとみえる。
この並びに精肉店が一軒あったように記憶。
なんだか黄色っぽいコロッケだったような。半日、プールで発散した体には無性に旨かった。
金岡プールは関東煮とキリンレモン、浜寺はコロッケがガキどもにはちょっとした贅沢だった。
海水浴時代を知っているのだろうか。
疲れてトボトボ帰る客の中には、ここへ寄る家族連れなんかがいて、
真っ赤に日焼けした首筋に冷たいおしぼり当てて、お父さんはビールを。
お姉さんはバヤリース、子供はオムライスなんぞを食ったのだろう。
公園の正面入り口の手前に、阪堺電車の終着駅がある。
この駅舎の古くさいこと。もちろんメンテナンスの手は入っているだろうが、
公園の松林と一体化も甚だしく、見過ごしてしまいそう。
建て替えなどせず、そっとしておいてほしい。
潮風にさらされたような、漁具の物置みたいな駅舎を置き去りにして、
高度成長とともに水質の悪化は著しくなり、プールになり、
潮の音ははるか西へと耳に届かなくなった。
さて駅前の道の拡幅工事が行われたとかで、南側にあった商店は一掃され、
古くから続く和菓子屋も奥へ下げられていた。
明治40年(1904)創業の菓子屋、「福栄堂」。
ここの看板商品がこの、浜寺公園の松林ゆかりの「松露だんご」。
これがばかに美味い。
球体に近づけようとして、なんとなく不揃いなのも、いとおしい。
上品なこしあんの中は、松露よろしく柔らかいお餅。
オレは洗練された京都の上菓子よりも、ひなびた団子の方に惹かれてしまう。
生まれついた性分、べたべたの庶民であるから仕様がない。
薄茶に合う菓子より、番茶に合う団子だな、やっぱ。
茶団子も、ういろうのごとき柔らかさ。
ほの甘さがすっと消えて行く。
ガキの頃は、行きは公園見えたらダッシュ。帰りはコロッケにダッシュで、
こんな老舗菓子店の存在なんか、気がつかなかったよ。
贅沢はいえないけれど、向かいの松林の中で、緋毛氈でも敷いた床几を置いて、
こういう団子でもって茶の一服もいただけたなら、こんないいもんは無いと思うんだがな。
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