マーベラスS

King Of Western-Swing!!
歌と食と酒、それに声のページ。

06.5.24   阿倍野の名店!

2006-05-24 16:41:53 | 

    

天王寺に来たので小打ち合わせを『明治屋』でさせてもらう。ここは大阪が誇る銘酒屋だ。長年にわたって大人たちが酒を呑み、折り重ねるように作り上げて来た空気感、こいつは昨日や今日の店に真似できるものではない。壁や天井に長年の客の喜びや嘆きが滲み込んでいる。
ここに連れてってくれたのは亡師で、映画批評や俳句に健筆をふるった滝沢一である。談論風発というほどこちらの知恵は追いつかなかったが、グレアムグリーンや伊丹万作、満映の話などへと転じて、「是非書くべきやないですか」という我々に「いやぁもう体が持たんわ」と自嘲気味に嗤ってらした。ろくでもない末席の弟子なので師匠に習ったことといえば、酒場と酒の呑み方ぐらいである。

                   

ここで初めて知った松竹海老という兵庫の酒を、銅製のちろりという燗つけの旧式マシンに注ぐ。中には火が入っていて、管をめぐる間に燗がつくという按配。下の蛇口をひねれば一合徳利にピタッと入る。今どきこんな機械おまへんで。ふんわりとした口当たりの優しい酒で、女性的なイメージのほろほろと酔わせてくれる酒だ。

  

つまみが多いのが嬉しい。秋から春にかけては定番の湯豆腐。天六には「上川屋」の湯豆腐もござるが、酒飲みにはここのちょいと濃い目の出汁が有難い。自家製、一芳亭風の焼売を芥子醤油で。敷いてある僅かなキャベツがまたおつな合いの手になる。この日は大阪の初夏の定番、かますごなんぞを頼んでみる。カマスの子ではなく、イカナゴの成長した姿だ。まずこれは東京では見ない。こういう婆さんの食卓に載ってたオールドファッションな肴がいい。

話し声に混じって、ときどき外を行き過ぎるちんちん電車の音がする。訳もわからず有線でジャズを流す店などとは心構えがちがう。さんざめきが最高のBGMだ。周辺は急速に再開発の波が押し寄せる。しもた屋が全部破壊され高層ビルに押し込まれてゆく。しかし明治屋は永遠なる哉。酒飲みの心に再開発などあるもんか。


06.5.23 小肌のキレ

2006-05-23 01:26:37 | 

      

実家にいる頃、近所から取った出前の鮨にコノシロが入っていて、手付かずのまま乾いて反っ繰り返っていたのを記憶する。網目もでかくピカピカと光ったそれはとても口に入れる気になれず、数合わせみたいで気の毒な気がした。長じて東京で再会したコノシロの若魚「小肌」は全くイメージが違っていた。まず姿がいい。そして味も複雑でこれが鮨だというような覇気と、何よりキレがあった。何で関西人はこれを食わないのかと思った。

小肌という名前も江戸好みである。小粋、小紋、小ぎれい、万事大袈裟を嫌いさりげなさを好む江戸庶民の心持ちに合った。『坊主騙して還俗させて小肌の鮓でも売らせたい』…小肌こそ握りの原型であった。色街を小肌の鮨を詰めた鮨箱を肩に乗せ、尻っぱしょりで流すいなせな鮨売りが女人達の熱い視線を集めたといふ。冷蔵技術もない時代だ、鮨は今の3倍の大きさで、塩も酢もきかした物だったんだろう。

かつて下北沢の小笹寿しに一枚色紙が飾ってあった。柳沢良平の絵に一言『一個なら小肌』、山口瞳のものだった。鮪も穴子も煮蛤もいいが、突き詰めると小肌にとどめを刺すということか。鯔背にも通じる様子のよさ。背から腹へのグラデーション、網目の細かいのでなきゃいけない。そこへスッと煮切り醤油をひと刷毛。あっさりした中に滋味があり、引っ張らずサラリと消えてゆく。真っ当な鮨職人はこの小肌に特別の思いを持つはずである。

                  

上は山椒の実を一粒のせた小肌。結構なもんだ。小肌に甘酢生姜を挟み、切って木の葉形に並べたのも、オールドファッションな定番の酒の肴である。

鮨っ食いは初夏の新子を待ちわび、鮨屋へそれっと詰め掛けるそうだが、これは輩にはよく判らぬ。小肌でさえ子供なのに、生まれたてのヤツをですよ、二匹、三匹とくっつけて握るというのは言いたかないが美的ではない。ちょいと可哀相な気がするのだ。じゃあイカナゴの釘煮はどうよ、タタミイワシは、といわれりゃ言葉もない。


06.5.20 穴子の収まり

2006-05-20 01:39:19 | Weblog

江戸前の仕事では煮穴子の場合、身の方を上にして握るのと、皮目を上に握ることがある。だが、あの皮目ってのはどうだかねぇ、食欲を喚起するものでない気がしてならぬ。鰻の蒲焼だってそうだぜぇ、あれ天地引っくり返して持ってこられてご覧、うわばみを開いたようで、げんなりすること請け合い。

  

なんで皮目で出すわけ…と職人に訊いても、大抵は「そういうふうに教わった」という答えだった。中にゃ表裏で陰陽を表しているともっともらしく答える者もいた。その割には二貫づけの場合、二貫とも皮目だったりするではないか。首をひねるばかり。

谷九の鮨職人石川氏に尋ねると、穴子の肉質からそうしているのではとのこと。すなわち柔らかく煮上げた穴子の太い胴の部分を切りつけると、身側の中央に向けて折れやすくなる。そこへ飯をかませるとしっくりとなじむというわけだ。
逆に細い尾に近づくと、皮の方に丸くなろうとする(のかな)か
ら皮目に飯をかました方が具合がいい。つまりは穴子の性質(たち)をみて、収まりのいいように上下を返しているというのだ。なるほどなぁ、これは説得力があった。出てきた穴子をもうちょい観察する必要がありそうだ。

いずれにせよ蕩けるような食感をもって最上となす。小笹寿しで出てくる煮切り醤油でさっと付け焼きにし、一味がパラリとかかった雉焼きの美味いこと。飲むなという方が酷である。弁天山美家古で出てきた穴子の肝の煮付、これもたまらんかった。銚子3本ぐらいあっという間に消えた。


06.5.16   幻の味、「とんかつ吉兵衛」

2006-05-17 01:08:46 | Weblog

幻のとんかつ、それは東京日本橋本町にあった『吉兵衛』のそれである。上京し、世田谷の明大前に間借りした俺は、隣室の慶応の学生の紹介で、三越前にあったそのとんかつ屋にバイトに入った。主人は小野吉之助という柳家金語楼によく似た頑固な親爺だった。今から25年ほど前に、とんかつ松¥1200、竹¥1500 梅(上ロース)¥1700、丸(ヒレ)¥2000もしたのだから高級とんかつの部類だろう。太田という肉屋から豚肉を仕入れていたが、気にいらないと烈火のごとく怒り、突っ返していた。

周辺はビル街の中にしもた屋が残り、かすかに三味の音が聞こえるようなちょいと粋な大人の街で、近所には天麩羅の「はやし」、はんぺんの「神茂」、佃煮の「鮒左」、洋食の「文明堂」、久保田万太郎や安藤鶴夫が贔屓にした酒亭「まるたか」や、かつサンドで聞こえた「宇田川」も目と鼻の先だった。『吉兵衛』も三越本社の社員が多く、松本清張や小椋佳も来ていて客筋はよかった。

俺の仕事は下働きである。店内を掃き清め、出来上がったカツ丼やカツライスを客に出し、出前へと出た。ここのとんかつは実にもう筆舌に尽し難い。今でこそ分厚いとんかつも珍しくないが、当時大阪にそんなとんかつは「ぼんち」以外、見当たらなかったのではないか。肉厚の豚肉をカラリと揚げ切り、ザッザッと包丁を入れ、キャベツをこんもりと盛った皿に乗せる。その熱々へさして、ソースをドロドロとかける。芥子もしっかりつけて、かぶりつく!見たかこの超ストレート!しじみの赤だしの深み!息子の作るかつ丼のとろりの美味さよ!

大阪のとんかつは小皿にソースを入れ、それをつけて食うようなチマチマした感じだったから東京の方が遥かに実質的だった。肉に食らいつく醍醐味、それまでに味わったことのない美味さだった。ささやかながら、俺のとんかつという料理を計る尺度はこの店で出来上がった。

吉兵衛で記憶するのは、太田という肉屋から買っていた上質の豚肉。日本橋東急辺りのパン屋に拵えさせたふわふわの生パン粉。ユニオンソースという地ソース…「茄子がなくなったので、買ってきて」と言われ、東急から大きいのを選って帰ると、大きくて使えず呆れられた。見映えが大事なのだと悟り、恥じた。シャレや芸の解る親爺夫婦。いつもニコニコと、射撃の元五輪候補の息子夫婦。サブでキャベツを切ったりしてた太田さん、洗い場の大久保さん、そしてペーペーの俺。なんといい職場だったのだろう。

親爺は言った。「とんかつはロース。それも端からぢゃなく、真ん中が一番美味いんだから真ん中からだぞ!」。閉店後、自分たちはさっさと息子の車で帰り、残ったカツでビールを度々飲ませてもらった。自分がいたら食べにくいだろうという配慮もあってのことだ。これが美味いのなんの!でもそうゆっくりもしていられず、三越前から銀座線に飛び乗った。ありゃあいい時間だったなぁ。芝居が忙しくなり店を辞してからも、時に懐の暖かい時にゃ親爺イチオシの「梅」を食べに行った。主人夫婦は、売れない芝居屋のタマゴに何くれと気にかけてくれて、有り難かった。

だが、夢の時間は長くは続かない。息子夫婦が住む新大久保のマンションは床にパイプの穴が開いた欠陥住宅だった。風呂の種火をつけたまま寝込んだ階下の過失の巻き添えで息子はCO中毒になり亡くなった。ここからがライク・ア・ローリングストーンだった。

葬儀の席で、生みの母(小野の前妻)は棺桶に取りつき、ショックの余り心臓発作で亡くなる。それを境に親爺夫婦の仲も急速に冷えてしまい別居。タイ人の嫁ビライさんと子供は帰国。親爺の体調がすぐれなくなる。こうなりゃ料理にも影響が出る。厚い肉を油で揚げ切るというのは油と相対するだけの体力が必要なのだ。次に行った時には、親爺の姿はなく、揚げ場の職人が替わっていた。そして、その次に店を訪ねると・・・もう、そこは人手に渡っていた。

料理本に載るような名店だった『吉兵衛』。今はもう夢まぼろしなのである。味とはそれほど移ろいやすく、はかなく壊れやすいものなのだ。一人の名人が作り上げる芸に近いのかも知れぬ。

東京日本橋、街も人も変わったが、あのとんかつの一代名人がくれた感動は、今も俺の味蕾に生き続けている。


06.5.13   ♪~お殿さまでも家来でも

2006-05-13 23:13:01 | 音楽

エノケン、ロッパと並び称された喜劇俳優古川ロッパ(1903~1961・緑波とも名乗る)。元々文藝春秋の映画雑誌の編集者だったが菊池寛だかの後押しで芸人になったという、インテリ芸人。生粋の喜劇人だったエノケンに対し、ロッパは旦那芸だったと評される事が多い。それまで声色といわれた物真似芸に声帯模写と名付けたのは、この方。軽演劇団「カジノフォーリー」で一躍寵児となったエノケンに対し、ロッパは「笑いの王国」を結成して対抗。ココの文藝部にゃ菊田一夫がいた。
太っちょで食に対し並々ならぬ執着を持ち、戦中戦後の窮乏生活の中でも、なんとか美味いものを食いたいというあがきは、晶文社の「ロッパ昭和日記」や「悲食記」に詳しい。

僕らはまったく輝ける時代を知らない訳だが、敗戦後4ヵ月後に作られた斉藤寅次郎監督の「東京五人男」で、その伸びやかな歌声を聴くことができる。この映画、無残な焦土となった帝都を舞台に「え~い撮ってしまえ!」とやっつけた作品で、あちこちのまだ煙がくすぶるような焼け跡や雑炊食堂などの現実の行列があり、非常に興味深いのだ。古川ロッパ、横山エンタツ、花菱アチャコ、石田一松(ノンキ節で人気、戦後初のタレント議員になった)、柳家権太楼の5人それぞれの戦後の厳しい暮らしぶりが描かれている。バラックの青天井のドラム缶風呂に入ったロッパが子供に歌って聴かせる。

       お殿さまでも家来でも  お風呂に入る時ゃみな裸

       裃脱いで刀も捨てて   歌のひとつも浮かれ出る

何にも無くなってしまったが、空からはもう焼夷弾はもう落ちてこない、やっと抑え付けられた生活から解き放たれた、自由な心持ちが伝わってきた。音程もしっかりしてるし、伸び伸びとしたクルーナーだ。「ちょいといけます」なんてノベルティソングの録音もある。岸井明もデブで美声。中性脂肪と美声の関係って何かあるのかな。

戦後は病気とそれまでのケンカイな性格がたたって、急速に忘れ去られていく。エノケンが脱疽で脚を失ってからも、トンボの切れる義足を…と死ぬまで「ドタバタ」を追い求めていたのに対し、ロッパはそこまでの執着はなかったように見える。そこもまた旦那芸たるゆえんか。

ロッパは戦後、「劇書ノート」の中だったと思うが、戦時中の軍歌の中にはいいメロディを持つものも沢山あり、戦意高揚のために作られたものとして一様に葬り去るのはいかにも惜しい、なんとか再生する道はないものかと記している。 まことにそう思ふ。