マーベラスS

King Of Western-Swing!!
歌と食と酒、それに声のページ。

楽天地・大衆洋食の花ひらく

2012-12-26 02:27:25 | 

大阪ミナミ。
戦後無頼派といわれた作家オダサクが日々歩き回り、
戦前のニオイを嗅ぎ回った難波千日前界隈。

私も学生時分、オダサクに憧れて、小説「夫婦善哉」に出てくる店を
探して歩いた。古い看板の「いづもや」、「すし捨」、かやく飯の「だるまや」など
いずれも姿を消して久しい。



 



精華小学校ウラ。

古い看板の重亭が見える。

だが、ここは意外に新しく、戦前から続いていた重亭とはちがう。

明治初年、開港した川口界隈に、外国人向けのホテル「自由亭ホテル」があった。

そのモダンな響きの屋号が後々まで影響を与えていたのではないかと思う。

もう一つ、自由民権運動というのもあったが、深い意味なく、電気ブランの電気とか

モダン焼きのモダンに近いものがあったのだろう。

この通りを南に抜けて東へいくとある「自由軒」。

 



今はビックカメラの南側、その昔は、北側にあった。

ビックカメラはご承知のように、前身はプランタン。

それ以前は、大火を出した千日デパート。

その前は歌舞伎座、進駐軍に接収され、ダンスホールなどがあった。

歌舞伎座以前は、大正から昭和にかけ「楽天地」という、大人から子供まで

楽しめる遊園地があった。 ここで少女琵琶歌劇で人気だったのが

ありし日の田中絹代であった。その後、銀幕のスターとなり、溝口健二に見出されるのは

また別の話。

藪入りや正月休みに丁稚さんたちは、ここで活動見て、落語や少女歌劇見て、

帰りに「自由軒」で洋食を食べるのが最上の喜びだったという。





東京でいうと、須田町食堂だろうか、アラスカみたいに高級ではない

安直に食べられる庶民の洋食屋として生き続けた。

明治43年創業。阪急や京阪が開通し、宇高連絡船ができ、

新たなモータリゼーションの時代が訪れていた時代。

韓国併合や、大逆事件もこの年。飲食関係では不二家がこの年生まれた。







自由軒といえば、カレー。 「夫婦善哉」で織田作之助は、維安柳吉に

「どど、どや…ここのカレーは、あ、あんじょう、まむしてあるよって、うまい」

と言わせている。

それにしても、このコピーはどやねん。

織田の信奉としてはなんかいや~な気持ちになったものだが、

長姉の竹中タツさんは、忘れんとこうして出してくれることを

素直に喜んでいたというから、俺なぞが憤慨する話ではない。

さて、そのカレーである。

 





久々にいただいた混ぜカレー。

柳吉が「あんじょうまむして…」というがごとく、見事に混ざって出てくる。

昔の客はライスとカレーソースを徹底的に混ぜて食べたとおぼしい。

韓国の人がやり始めたかどうかは知らぬが、スッカラでピビンした訳である。

ボクらの子供の頃、まだそんなカチャカチャカチャカチャ混ぜてから食べるという、

オールドファッションなガキが存在した。 そんな客が「最初から混ぜといてぇな」と

でも言ったかもしれぬ。サービスのために初代は混ぜて出した。

もうひとつ、ご飯の保温もきかない時代、いつも炊き立てご飯があるわけはなく、

冬場はもちろんすぐに冷めた。それを温かく出すために思いついたといわれる。

まだある。

家カレーの場合、鍋に少し残ったカレーソースでもご飯放り込み、ベチャベチャと

かきまぜれば、自由軒風カレーが出来上がる。

すなわち、カレーソースの節約という店側の論理にも沿ったメニューだった。

生卵が全卵、ポンと落とされてくる。

この処遇に関しても、賛否かんかんがくがく分かれるところである。







滋養によかれと創業者が始めたともいえるが、これも客の要望だったのではないか。

柳吉のごとき女性連れの遊び人が、滋養強壮のために生卵落として食べて、

どこぞの貸席へでも繰りこんだのではあるまいか。

ぜんたい大阪人というのは生卵を落とすのが好きで、堺ちく満のせいろ蕎麦にも

熱いつゆに全卵が入ってくる。 いらぬ話ともいえる。


玉子を混ぜることによって、熱いカレーは冷め、しかもカレーの辛さが

緩和されるというか、味がボケる。 おそらく昔の人には辛すぎたのだろう。

混ぜて出てきたカレーなのに、さらにもうひと手間、客が卵を混ぜる…というのが

よくわからない。







特注のウスターという、ちょいと濃いめに感じたソース。

これをかけ回すと、うまく味がまとまる気がした。

甘味が先にやってきて、追っかけて辛さが来る。

これすなわち、インデアンカレーを源流とする戦後、大阪カレーの特徴である。







暖簾に刷り込まれた「大衆洋食」の文字が、創業者の気概を

表しているといえよう。

カレー粉の焦げくささが、いかにも昔の洋食を食べているようで、

ホロリとさせられる。

明治は遠くなりにけり。 

知らんけどな。


 


いづもやのづの字が鰻になっていた、遠い記憶

2012-12-24 14:31:36 | Weblog


織田作之助が、小説「夫婦善哉」の中に書いた、鰻の「いづもや」。

たぶん大阪人で知らぬ者はいないほどの名代の看板。
いわずもがなの、まむしの老舗である。







関西圏以外の人は、まむしの名前に眉をひそめるかもしれない。
今さらながらであろうが、まむしというのは「鰻(まん)蒸し」から来ている説。
ご飯の間に鰻を挟むから、「間蒸し」説。いろいろあるぜよ。
江戸の街で芝居勧進元、大久保某が鰻の出前を取るのだが、忙しくて冷めるから、
めしに挟み込んで持って来させた。食べる頃にはご飯の間で丁度よく蒸されて美味だった、と
これも定説というだけ、確信ある訳ではない。

さて、いづもや。

出身は「出雲の国」島根。
そもそも江戸中期、松江は鰻の豊漁に湧き返った。
これに目をつけ、高値で取引されていた大阪へ売り込む者あり。
どの時代にも目先のそろばんの立つヤツぁいる。

安来港から岡山通って播磨灘へ。ここから海路、京大阪を目指した。
これを鰻街道。鯖街道ばかりぢゃないのだ。
食紅を商っていた初代末吉、商売をしにきてこの鰻の魅せられた。
浜名湖の養殖が一般化するまで、鰻というと出雲の天然鰻だった。

明治9年(1876)創業、出雲屋の名前は鰻屋の代名詞となり、独り歩きした。
自称出雲屋も含め、ピーク時は大阪に300軒もの出雲屋があった。

三越少年音楽隊を皮きりに、松坂屋、高島屋などが宣伝用の楽団を持った。
出雲屋も少年音楽隊を持ち、そこで若き日の服部良一少年がサックスを吹いていたのは
有名な話。







都合五軒の出雲屋の中でまむしのうまいのは相合橋東詰の奴や、
ご飯にたっぷりしみこませただしの味が「なんしょ、酒しょが良う利いとおる」のを
フーフー口とがらせて食べ、仲良く腹がふくれてから、法善寺の「花月」へ春団治の
落語を聞きに行くと、ゲラゲラ笑い合って、握り合ってる手が汗をかいたりした。

意識して食べると、ほんとに酒塩がきいている。
たまり醤油と酒、みりん、砂糖などで作るタレは、酒の弱い人なら
一瞬酔いそうな気になるほど、ぷんと酒が香るまったりとした味。
そのタレがまんべんなくご飯にまぶされている。
柳吉でなくとも「う、うまい…」と言いたくなる。

職人はタレをかけて蓋をして、パコパコと振るのである。
これがいかにも大阪風な手荒さで面白い。
オダサク書いた相合橋東詰は遠になく、それを引き継ぐ
千日前の角にあったいづもやが閉めて5,6年にもなるか、
ここに30年いた職人が、船場センタービルに来て始めたのが「船場いづもや」。
だから、本家筋の味を継承していると店員は胸を張る。







住吉公園にも西田辺にもあるが直接的な関係なく、
京都、東京にも同名店あるがちがう系統。
どこぞに「柴藤」はいづもやが出す高級版とあったが、これも言下に否定された。

鰻料理を大衆化させたのは「いづもや」に相違あるまい。
ここは歴史をもう一度ひも解いて、きっちりと整理しておくといいだろう。
こういう大衆路線の歴史は日々の忙しさの中に埋もれ、うやむやになってしまう。

昼定食880円は、二切れのまむし・うまき・漬け物・肝吸い(または赤だし)が付く、お値打ち。
上定食1050円は、鯨のお造りが付く。ゆっくり一杯やるならこれもよし。