ガジ丸が想う沖縄

沖縄の動物、植物、あれこれを紹介します。

躾は子供の為ならず

2009年03月13日 | 通信-社会・生活

 ニュースだったかワイドショーだったか、乳母車、って言わないか今は、ベービーカーだ。ベビーカーを4歳過ぎの子供にも使っているという話があった。
 4歳といえばもう一人前の子供だ。一人で十分歩けるはずだ。いや、3歳からでも一人で十分歩けるはずだ。それをベビーカーに乗せるなんて、ずいぶん子供に甘い母親がいるもんだと思った。ところが、その母親達は、子供に甘いのではなかった。
 何故一人で歩けるほどの子供をベビーカーに乗せるのか?という質問に対する彼女らの答えの多くが、「ベビーカーに乗せていると子供があっちこっち動き回らないので管理しやすい、子供のペースではなく自分のペースで動ける。」などといったことであった。どうやら母親達は、自分の都合でそうしている。自分に甘いみたいである。

 モンスターペアレンツという言葉を去年幾度も耳にした。学校に理不尽な要求をする父母達のことを言う。私がテレビで観たり聴いたりした限りでは、彼らの理不尽な要求は子供を愛するが故の行動というわけではない。子供自身、あるいは自分達に責任があるべきことを学校側のせいにし、文句を言い、わけの分らない要求をしている。
 子供を躾けるのは親の責任だと思うが、彼らはそれをしない。子供のやることにいちいち注意したり、怒ったりするのは面倒臭いと思っているのだろう。モンスターペアレンツは子供を甘やかせているのではなく、自分を甘やかせているのだと思う。

 従姉の息子夫婦には二人の幼い男の子がいる。彼ら家族には年に数回会う機会がある。会うたんびに「厳しいのう」と私は感じる。私がこのブログでたびたび褒めている才色兼備の母親が、息子達の躾に厳しいのだ。「止めなさい!いけません!だめです!」を私は何度も聞いている。「厳しいのう」と私は感じながら、でも、「お母さん頑張ってるな」とも思う。彼女(彼女の夫も)は、厳しく自分の責任を果たしている。
 そうやって、自分を甘やかすことなく、面倒な子育てに日々奮闘し、厳しく子供を育てることは、きっと、子供にとってはまともな人間になるための修行となるが、親にとってはさらにその上の、立派な人間になるための修行となるのだろう。

  大家の家の隣の敷地が宅地造成されて、道ができて、そこから時々石が投げられる。その道を通って小学校に通う子供たちの仕業だ。「子供はケダモノだからね」と大家の奥さんが言う。彼女は、数年前に引退したが、小学校の校長であった。校長の前は教頭で、教頭の前は一般教諭であった。そんな彼女が言うので、それはその通りであろう。
 ケダモノを人間にするのは大変難儀な作業だと思う。難儀な作業を忍耐強く続け、子供を人間に育て上げる。それによって親達は自らも成長する。躾は子供の為ならずだ。子育てどころか、結婚生活という難儀な作業も経験しない私はなかなか成長しない。
          

 記:2009.3.13 島乃ガジ丸


瓦版084 すねかじり虫

2009年03月06日 | ユクレー瓦版

 いつもの週末、いつもの時間、いつものユクレー屋。
 もう3月、日もだいぶ長くなり、夕焼け空も明るい。風は春爛漫。いつもなら店の中で飲んでいるケダマンが、まだ庭に寝転がっている。寝転がって何やら歌っている。
 ちばりよーやータンメー ウンジュが頼みやる
と聞こえた。ウチナーグチ(沖縄口)だ。民謡みたいだ。声をかける。
 「やー、相変わらずのんびりだな。」
 「おー、」とケダマンは応えながら、むっくりと起き上がった。
 「春はいいな。大地も太陽も風も良い按配の蒲団になってくれるぜ。さっき目覚めたところだ。ちょうどいい時間だな、ドリンクタイムだな。」

 起き上がったケダマンと一緒にユクレー屋に入る。ユイ姉がカウンターにいる。開店準備も終えたみたいで、椅子に腰掛けてのんびりしている。
 「いらっしゃい。ビール?」
 「あい、お願ぇしますだ、奥方様。」とケダマン。
 「はぁー。ゑんちゅはさ、瓦版って仕事しているからいいけどさ、あんた、『働かざるものは食うべからず』って知ってる?」
 「生きていることそのものが俺の仕事みたいなものだ。オメエ、『居候、三杯目はそっと出し』って知ってるか?」
 「知ってるさあ、あんたみたいな居候は遠慮するもんってことよ。」
 「だから、遠慮した言い方をしたじゃないか、奥方様。」
 「あー、さっきの『お願ぇしますだ』が遠慮した言い方ってことか。」(私)
 「なるほどね。」と、ユイ姉は苦笑しながら、我々の前にジョッキを置いた。

 「ところで、さっき、庭で何か民謡みたいの歌っていたね?」(私)
 「ん?歌っていたか俺が、民謡を。」(ケダ)
 「最後の方だけ聞き取れたけど、ちばりよーやータンメーって。」(私)
 「あー、それか。昨日海岸を散歩してたらよ、ガジ丸にばったりあったんだ。その時ガジ丸が口ずさんでいたのが耳に残って、ついつい口から出たんだな。最後の方だけって言ったけど、そこしか覚えてないな。たぶん、サビみたいな部分だ。」
 「そうなんだ。しかし、サビの箇所が『頑張ってねお爺さん、貴方が頼りです』って意味だよね。どういう唄なんだろうな。」

 などと話をしているうちに夜になって、いつものようにガジ丸一行(勝さん、新さん、太郎さん、ジラースー)がやってきた。彼らとウフオバーを加えたユクレー島運営会議が終わってすぐに、ガジ丸は我々のいるカウンター席に加わった。
 「今、世界は大不況だそうだな?これもあれか、モク魔王の仕業なのか?経済が混乱して、倒産が増えて、失業者が増えて、貧困層が増えて、不満が溜まって、爆発して、大騒乱が起きて、大戦争になって、そのうち人類も破滅か?」とケダが口を切る。
 「世界は大不況、については、その通り。モク魔王の仕業、については、多少は加担しているだろうが、ほんの脇役だ。人類も破滅かについては、そんなことは無い。自分で自分の首を絞めるのは人類の得意技だが、破滅するまで締めたりはしないだろうさ。」
 「そうか、まあ、そうだろうな、食い物が無いわけではないからな。食っていければ生きてはいけるからな、だな、破滅には到らないよな。」(ケダ)

 「そういえばさ、新作民謡ができたんだってね、お爺さんの唄。」(私)
 「あー、だけど、お爺さんの唄じゃねぇよ。不況の唄だよ。」
 「不況の唄?」(私)
 「オキナワも失業者が多くてな、彼らを見ていたら、できた。」(ガジ)
 「タイトルは?」(私)
 「すねかじりぶし。」(ガジ)
  「すねかじり虫?・・・失業者達が親の脛を齧っている虫ってこと?」(私)
 「あれじゃねぇか、確か去年流行った『おしりかじり虫』の二番煎じ。」(ケダ)
 「違う、だとしても、『おしりかじり』よりは『すねかじり』の方が言葉として伝統がある。二番煎じにはならない。それに、『むし』では無く、『ぶし』だ。」(ガジ)
 「すねかじり武士、傘貼り浪人が誰かの脛を齧っているってことだ。」(ケダ)
 「アホかお前は、いつの時代の唄なんだ。」(ガジ)
 「解ったよ、脛齧り節だね。民謡でよく使う『節』って字だ。」(私)
 「その通り。」
     

 ということで、そのあとガジ丸は、ピアノを弾いて『すねかじり節』を披露した。メロディーは軽快であったが、歌詞の内容をじっくり考えると、切なくなるような唄だった。爺さんである勝さんたちも良く理解できたようで、場は少ししんみりとなった。
 「すねかじり虫ってタイトルでさ、ユクレー屋の脛を齧っている毛むくじゃらの、怠け者の唄も作ったらいいのに。」というユイ姉の言葉で、笑いが戻った。

 記:ゑんちゅ小僧 2009.3.6 →音楽(すねかじり節)


国産パンツ

2009年03月06日 | 通信-環境・自然

 靴下は、先ず足裏踵、最も多く地面と接着する部分が擦り切れて、穴が開く。穴が1センチ程度になると、その靴下は処分される。
  パンツは、何故だか知らないが、尻の穴近くに穴が開く(屁の力だろうか?)。靴下は爪先に穴が開いたりもするが、パンツはそこ以外に穴が開くことはほとんど無い。パンツの場合は、穴が4、5センチ程度になったら処分される。パンツはまた、穴が開く前にゴムが緩むこともある。立って、パンツがずり下がるようになったら処分される。
          

 ある日、パンツを買いに行った。私は慎ましいので、衣料品は概ね安物を置いてあるスーパーへ買いに行く。値の張るブランド物なんて、買おうと思ったことも無い。無印良品が世間的にブランドであるかどうかは不明だが、パンツだけは、4、5年前から無印良品で買っている。履き心地の良いものがあるからだ。値段も安い。
 その日無印で買ったパンツはしかし、後日穿いてみると、私のお気に入りのパンツでは無かった。無印のパンツもメーカーが変わったということなのだろう。

 それから1年ほども経った先日(09年2月21日)、1年前に処分したパンツと同時期に買ったパンツをさらに2枚処分した。で、新しいのを買いに行った。
 私は、できるだけ地産地消を心掛けている。外国産より国産、他府県産より沖縄産を選ぶようにしている。食べ物だけで無く、日用品もそうしようと思っている。どうせお気に入りのパンツ(中国産だった)が無いのならば、今回はパンツも国産にしようと思って、近くにある衣料スーパーへ行った。が、国産パンツは無かった。
 実家へ行くついでもあったので、そこからモノレールに乗って新都心へ行く。新都心には無印良品もあり、ユニクロもあり、衣料品も豊富に揃えている大手スーパーもある。しかしながら、無印とユニクロに国産パンツは無かった。

 そういえば2年ほど前、靴下を買いに行った時も、国産靴下を探せなかった。衣料品、靴、帽子などは、沖縄産というものがほとんど無い。しかし、国産はきっとあるはずだ。何しろ衣食住というくらい、衣類は生活にかかせないものだ。そんな大切なものに国産が無いなんてことは、国の危機管理の上で、大いなる不備と言えるだろう。

 国産パンツは新都心の大手スーパーでやっと見つけた。無いわけは無いとは思っていたが、それにしても、「やっと」という思いであった。
 国産パンツはいつもの中国産の2倍くらいの値段がした。でも、迷わず購入する。何しろ大事なところを守る役目だ。外国ではなく、自国に任せたい。
          

 記:2009.3.6 島乃ガジ丸