ガジ丸が想う沖縄

沖縄の動物、植物、あれこれを紹介します。

自殺する者たち

2018年09月07日 | ガジ丸のお話

 先日、久々(1週間ぶりくらい)に畑へ行った。後を継いでくれたGさんは相変わらず本業が忙しいようで、畑は雑草が蔓延っていた。でも、一部には堆肥が運ばれていて、水掛け用の発電機やポンプが設置されていて、少しずつは前に進んでいるようである。

 畑の水タンクの前には私が使っていたバケツやタライが今もそのまま残っている。私が腰痛を患う前、元気に畑仕事をしていた頃、それらにはたいてい水が溜まっていて、その中にはたびたびカエルや虫の類が溺れていた。自殺する心境になるほど彼らの精神が発達しているとは思えないので入水自殺ではない。たまたま飛び降りた所がバケツやタライの水面で、そこから抜け出せずに溺れてしまったということなのであろう。
     
     

 入水自殺ということからカワラを連想した。カワラは河原のカワラ。
 畑には番鳥がいた。他の鳥が畑にやってくると追っ払ってくれる鳥。なので番鳥とし、それに敬意を表し、彼に河原万砂(かわらばんさ)と名前もつけた。彼がいる時は、彼より何倍も大きなカラスでさえ畑には入ってこなかった。
 河原万砂は、種類としてはイソヒヨドリという種。方言名でカーラバンサー、瓦の番をするものという意。たいていは屋根(瓦)の上で辺りを見渡すようにしているのでその名がある。畑をやっていた数年の間、私は彼の世話になっていた。
 ということで、最近は、カワラというと彼のことが先ず頭に浮かぶのだが、彼と出会う前で言えば、「俺は河原の枯れすすき・・・」と始まる古い流行歌『船頭小唄』が浮かんだであろう。私が生まれるずっと前の歌謡曲だが、何故だか覚えている。

 同じお前も枯れすすき どうせ二人はこの世では 花の咲かない枯れすすき

 と、私が記憶している限りであるが、唄は続く。「この世では花が咲かない」から一緒にあの世へ行こうと、心中を予感させて淋しい気分になる唄。バケツの水の中で死んでいるカエルや虫たちを見て、『船頭小唄』が頭に浮かんだというわけ。
     
     

 沖縄県の自殺者率は、全国のランキングで女性はずっと低いらしいが、男性は全国の上位とのこと。「えっ、何で?南の島なのに」と、そのニュースを聞いた時、私は思った。南の島の空気はのんびりしているし、そこに住む人々も概ねはケセラセラで生きているはずだと思っていた。であるが、もう少し突っ込んで考えてみると、
 「のんびりしている、テーゲー(大概:いいかげん)やらナンクルナイサ(なるようになるさ)気分で生きている」ということは、「生きることに執着が無い」と言えるかもしれない。「ダメなら死ねばいいさ」と気軽に考えているのかもしれない。あるいは、沖縄の男性は根性無しが多いので、面倒なことが我が身に降りかかった時に「何くそ、負けてたまるか」とは思わず、「生きるのって面倒だなぁ」と思うのかもしれない。
 そして、『船頭小唄』のような心中は、沖縄では無いかもしれない。男が「一緒に死のう」と言っても、女は「何でよ、嫌よそんなの、私まだやりたいことあるし、死ぬなら1人で死んでよ、そしたら私、次の恋人を見つけるさぁ」なんてことになりそう。
     
     

 生きるということは戦って勝ちぬくことである。今生きているということはつまり、これまで勝ってきて、今も勝っているということである。少なくとも負けてはいない。平和主義者の私は争い事が嫌いで、そのような状況になることは避けており、肉体的暴力による戦いは全く無く、言葉での暴力もほとんど無い。それでも、この世の生命たちが日夜競っている生存競争には勝ち続け、今も生存している。これからも、天命が許す限りはのんびりと、テーゲー(大概:適当にという意)気分で生きていくであろう。

 実は先日、30年ほど前までは住まいが近かったこともあってしばしば会っていた親戚の姉さん、彼女の娘の1人が自殺したという話を聞いた。顔は覚えていないがしっかりした娘さんであったと記憶している。夫のDVが原因ではないかとその時聞いた。
 根性無しの沖縄男は、自身の不安や不満を解消するのに自殺を選ぶか、あるいは妻のいる男は妻へのDVで気を晴らすのかもしれない。バーカと思う。他人を死に追いやるくらいならテメェが死んじまえと思う。それで沖縄男の自殺者が増えたっていいさ。
 親戚の姉さん、Yさんというが、彼女自身は十数年も前に身障者となり車椅子の生活をしている。娘を助けることができなかった彼女の無念を想うと心痛くなる。

 記:2016.9.6 ガジ丸 →ガジ丸の生活目次