ガジ丸が想う沖縄

沖縄の動物、植物、あれこれを紹介します。

忘れたくない人生

2008年10月10日 | 通信-その他・雑感

 先週土曜日、友人Hの店で、Hとその女房のE子とおしゃべりしていたら、「すみません、○○新聞ですが」と一人の新聞勧誘員が店に入って来た。その言葉が終わらない内に「おい、Aじゃないか!」とH。Aは、私も顔見知りの、高校の同級生だった。
 「私のこと知っているんですか?」とAが言う。
 「何、ふざけてるんだ!」と、Aと親しくしていたHが怒鳴るように応じる。聞けば、Aは、交通事故で頭を強打し、記憶喪失になったらしい。あまり親しくなかった私のことはもちろん、Hのことも全く記憶から失せてしまっているようだ。

  もしも私が、Aと同じように記憶喪失となって、友人知人親戚の顔を全て忘れたとしたらどう感じるのだろう、と考えてみた。人の顔以外の知識は残っているというので、私はパソコンを使えるだろう。腕に覚えた現場仕事もできるだろう。社長や同僚達の顔は覚えていなくても、今の仕事を続けていけるかもしれない。
 家に帰るとパソコンがあり、スケッチブックと絵の具があり、ギターがあってサンシンもある。それらを使って何をしていたかという記憶が残っているなら、それらを使って今まで通りのことをやるであろう。人の顔を忘れても、私はきっと退屈しない。
 さらに歳取って、仕事が無くなって、時間がたっぷりある身分になったとしても、やりたいことが山ほどある私は退屈しないと思う。もしも、やることが無くなってしまったとしても、これまでの人生の思い出を思い出して幸せを感じていると思う。

  そんな時のためにも、私は私のこれまでの人生をできれば忘れたくないと思った。幸いにも、私は中学2年生の頃から断続的に日記をつけていて、大学ノートが8冊、B5サイズ程度のスケジュール帳が10冊ほどあり、2001年からはその日あったこと思ったことなどをパソコンに綴っている。それらは、私が思い出を思い出す道具になる。
 ところがである。日記には何を思って、何をしてきたかということが書かれてあるが、忘れたくない人生には、誰のことを思ったのか、誰と何をしてきたかという「誰」が不可欠なのだ。若い人であった、女であったなどといった大まかな括りではダメで、あの人のことを思っていたという「あの人」の顔が脳裏に浮かばなければ楽しくない。
 なわけで、記憶喪失になると思い出が楽しくない、という結論に私は達した。
 そう考えると、これまで思い出を作ってくれた友人知人親戚に感謝したくなった。さらに、「これからもお付き合いよろしく」と願いたくなった。

 「なるべくここに寄れよ、何か思い出すかもしれないだろう。」と記憶喪失になったAにHは声をかけていたが、たとえ何か思い出すということが無くても、そうすることによって、Aは新たな人生の思い出を作っていけるかもしれない。そうなるといいね。
          
          

 記:2008.10.10 ガジ丸