高校の漢文に、ことわざみたいなもの、または慣用句といったようなものがよく出てくる。その内のいくつかを私は今でも覚えている。「虎穴に入らずんば虎子を得ず」、「国破れて山河あり」、「背水の陣」、「朋有り、遠方より来たる」など。
「朋有り、遠方より来たる」は「また楽しからずや」と続き、論語の1節。同じく論語からの1節に「民は之に由らしむべし、之を知らしむべからず」というのがある。これも高校の時に習って今でも覚えているものの一つだ。「人民を為政者の方策に従わせることはできるが、その理由を理解させることは難しい。俗に、人民はただ従わせればよく、理由や意図を説明する必要はない」(広辞苑)ということ。特定秘密法が話題になった時に「そういうことなんだろうな」と私の脳に思い浮かんだ1節。
友人のKから先日、「こんな話知っていた?」と、「こんな話」の内容が載っているサイトを見るようにと勧めるメールがあった。翌日、ネットのできる場所へ出かけ、彼の勧めるサイトを見た。沖縄の、反戦平和の立場にある団体を非難するような内容であった。私もまた、個人として反戦平和を願う立場にいるが、その団体と付合いがあるわけでもない(そもそも私は、どの団体とも挨拶以上の付き合いは無い)ので、その団体がいかに非難されようとも、「そんなこともあるだろうな」くらいにしか思わない。
右が左を非難する時に誇張表現があるように、左が右を非難する時にも同じく誇張表現がある。自分たちが有利になるような情報操作もあるであろう。よって、私はどちらの主張もそのまま鵜呑みにはしない。右の人も左の人も欲深き人間であることには変わりないので、その欲から発生するみっとも無い言動は、どちらにもあると思っている。
沖縄戦当時の様子を記録した米軍のフィルムがあり、沖縄戦の悲惨さを伝えるためにそのフィルムを買い取り上映する「1フィート運動」なるものがある。以前にテレビでもその中のいくつかを放映していたので、私も少しは観ている。少し観た限りでいえば、「沖縄戦の悲惨→戦争の悲惨」を期待した私にとっては不満のある内容であった。私が観た限りでは、それは「沖縄戦の悲惨→沖縄の悲惨」に編集されているように感じた。
「沖縄の悲惨」を伝えることによって「戦争を二度と繰り返してはならない」を言いたいのだと思う。それに対しては何の異論も無いが、その言葉の中に「沖縄では」という気分が隠されているような気がする。さらに勘繰れば、「だから沖縄に基地があってはならない」とか「だから沖縄には特段の配慮をせよ」などが含まれているかもしれない。そういったことが私は好きでない。我が主張を有利にするための意図的編集は気持ち悪い。
「沖縄の悲惨」では無く「戦争の悲惨」を伝える。それによって、沖縄人も日本人もアメリカ人も等しく「悲惨」を味わったことを伝える。また、悲惨だけを伝えるのも片手落ちだ。アメリカ軍も日本軍も沖縄で互いに酷いことをしたかもしれないが、一方、アメリカ軍は日本軍の負傷兵を保護した。赤十字の精神である。日本軍の将校が「敵は負傷兵を手厚く保護しております。それを見ると攻撃の矛先が鈍ります」と上官に言ったとの記録があるらしい。人道主義のアメリカ軍も、日本の将校も人間の心を持っている。そういったフィルムがあれば、それらも沖縄の悲惨と同じように発表して欲しいと願う。
記:2013.12.20 島乃ガジ丸
参考文献
『沖縄大百科事典』沖縄大百科事典刊行事務局編集、沖縄タイムス社発行
『1フィート運動10周年記念誌』10周年記念誌編集委員会編集