沖縄地上戦の始まり
明日6月23日は67回目の慰霊の日。「慰霊の日」とは何か?広辞苑には載っていない。ちなみに、「終戦記念日」も広辞苑には無い。
「慰霊の日」、広辞苑には無いが、『沖縄大百科事典』にはある。要約すると「1974年10月、県条例により制定された沖縄県独自の祭日。世界の恒久平和を希求するとともに、戦没者の霊を慰めることを目的とする」日のこと。
6月23日は日本軍による組織的戦闘が終わった日であり、終戦では無い。生き残った日本兵達があちこちでゲリラ的戦闘を行っていたらしい。7月2日、米軍が沖縄戦終了を宣言するが、なお守備軍の残存部隊は抵抗し、その部隊が米軍との間で降伏調印を行ったのは9月7日になってのこと。その日で沖縄線はやっと終結したことになる。
6月23日から9月7日までの間に、戦闘で、あるいは戦闘に巻き込まれて死んだ人も多くいたであろう。まったく無駄死にだ。こんな無駄、民間企業であれば、「何て無駄な事しやがる!会社を潰す気か!」と怒鳴られるに違いない。
話が逸れてしまった。終戦の頃の話はまた別の機会に譲るとして、今回は沖縄戦の始まりについて、艦砲射撃から米軍上陸にかけての事を紹介してみたい。
1944年10月10日
「十・十空襲」と呼ばれる米軍による大規模な空襲がある。
アメリカ海軍機動部隊による南西諸島への大規模空襲。沖縄大空襲ともいい、沖縄島の他、慶良間諸島、宮古島、石垣島、大東島、奄美大島、徳之島も攻撃された。
日本軍の基地破壊が主な目的で、飛行場の軍用機、港に停泊中の艦船などを爆撃し、壊滅的な被害を与えた。空襲は民間地にも及び、特に那覇市の被害が甚大であった。あちこちで火災が発生し、市街地の9割が焼失し、死者は255人にのぼった。
1945年3月23日
米艦隊による沖縄島への艦砲射撃が始まる。この日が沖縄戦開始とされる。鉄の暴風と呼ばれるほどの激しい攻撃で、民間人を含む多くの死者が出た。
同年3月26日
アメリカ軍が慶良間諸島に上陸、慶良間諸島には2千名以上の日本軍がいて、特攻艇も使い抵抗したが、31日占領される。ここで、いわゆる「集団自決」が発生する。集団自決者402名を含め、軍民あわせて1220名の戦死者を出した。
同年4月1日
米軍が北谷、読谷に上陸。ここから沖縄地上戦が始まる。米軍上陸地点は読谷村から北谷町にかけての約13キロメートルの海岸線で、読谷村渡久地の泊城公園に米軍上陸の地碑があり、北谷町砂辺の砂辺馬場公園に米軍上陸地モニュメントがある。
その日の内に米軍はチビチリガマに迫る。チビチリガマとは「集団自決」のあった所としてもっとも知られているガマ。集団自決は翌4月2日のこと。
記:2012.6.22 ガジ丸 →沖縄の生活目次
参考文献
『沖縄大百科事典』沖縄大百科事典刊行事務局編集、沖縄タイムス社発行
『沖縄の戦争遺跡』沖縄平和資料館編集、沖縄時事出版発行