我が家の墓の隣には、自由人(世間では浮浪者とも)が住んでいる。「隣」とは我が家の墓の西隣の墓で、そこは台所兼食堂兼居間。彼の寝室はさらにその西隣の無縁墓で、自作で壁や屋根を取り付けている。我が家の墓は物置きみたいになっていて、概ねは木材の廃材置き場で、その廃材は薪に使っているようである。
物置みたいになっている場所は我が家の墓だけでなく、通路を隔てた南隣りの墓にも多くのモノが置かれている。それらの概ねは鍋類、食器類、水缶などの生活用品である。長い間(少なくとも6~7年)そういう状況が続いているので、その墓も無縁墓かもしれない。ちなみに、台所兼食堂兼居間となっている墓は持ち主がちゃんといた。何年か前まではちゃんといたが、現在は空き墓になっているらしい。「移設した」とのこと。
自由人と最初に会ったのはいつ頃だったか記憶に無いが、2008年1月の日記に自由人(その時は浮浪者と書いてある)が登場し、それ以前に何度か会っているようなことを書いてあるので、その1~2年前には彼を認識していたのではないかと想像できる。ちなみに、母が亡くなった2007年10月18日で、自由人が登場している2008年1月の日記の日付は、母の100日命日の日で、私は墓へ出掛け彼と会っている。
それ以降、母の年忌、父の告別式、その後の年忌、毎年のウシーミー、旧暦七夕の墓掃除などで墓へ行くと、たいてい自由人と会った。会って、たいていはユンタク(おしゃべり)した。彼はよくしゃべった。そのおしゃべりが煩くて、ある年から彼を避けるようになる。2013年8月27日、実家の神事に関わることで墓へ行った。自由人はいて、その時少しユンタクしたのを最後に彼と会わなくなった。
自由人との長い間の付き合いで、彼のだいたいの日課が分かっていた。彼は午前中は概ね自分の住まいの周辺にいて、昼食後には出掛けるということが判断できていた。ということで、年に2回の墓参りは2014年以降、午後にやることにしたのだ。
先週水曜日(4月25日)、我が家のウシーミー(清明祭)をやるべく那覇にある我が家の墓へ出掛けた。墓にはお昼前(11時半頃)に着いた。自由人がいる可能性は高いと予想できていたが、「久しぶりに会ってもいいか」という気分であった。
長い付き合いなので、彼がどうやって生きる糧を得ているかを私は聞いているし、私がその年その時期どういう状況にあるかを彼は知っていた。2013年までは会っていたので、私が300坪の畑を始め、自給自足を目指していたということを彼は知っている。私が腰痛で畑を辞めたということを報告し、もしも私が、この先自由人(浮浪者)として生きなければならなくなった時のために、彼の助言を少し聞いておこうと思ったのだ。
4月25日、墓に着くと、彼は彼が台所兼食堂兼居間として使っている墓で椅子に腰掛けて読書していた。私を見るとすぐに駆け寄ってきて、すぐにしゃべりだした。
久々に見る自由人は「同一人物か?」と疑うほど人相が変わっていた。しかし、しゃべり方、笑い方は彼に間違いないし、しゃべる内容も彼であった。「何だ?どこが違うんだ?」としばし考えて、髭が無いということに気付いた。髭が無いせいか、少し弱々しい顔に見える。体型も少し変わっている。筋肉隆々だった体が、少しぽっちゃり型に変わっていた。彼も年取ったということか。まあ、私も同じことだが。
私が無職で、自給自足もできなくなったということを聞くと、彼は思った通りあれこれアドバイスしてくれた。我が家の墓、つまり、彼の住まいの近くに沖縄では有名な魚市場があり、これもまた有名な野菜関連の市場もある。魚市場でも野菜市場でも裏に回ればまだ十分食料となるものが多く廃棄されているとのこと。「貰える」とのこと。
「生活保護を受けるという方法もあるよ」と彼は言う。彼の仲間(路上生活者)には生活保護を受けている者も何人かいるらしい。彼はしかし、生活保護を受けていない。生活保護を受けると何らかの制約があると前に聞いたことがある。彼としてはおそらく、「今のままで食っていけるし、自由に生きられるのがいい」ということかもしれない。
その後、彼の話題は変わって、「宇宙人がやってきている」とか何とかの話を始めた。今興味を持って読んでいる本がそういった関係で、その本(彼は読書家、本はたびたび買っているようだ)を見せながら語ろうとするのを私は遮って、「インド行きはどうなったの?」と訊いた。もう何年も前、出会った頃だから10年ほども前に、彼は「いずれ近い内に沖縄を出てインドに行くつもり」と語っていた。
「インドはやめて、東南アジアを今考えている」
「外国に行くとしたらパスポートが必要でしょう、住所不定だと取れないんじゃ?」
「家賃の安い所に一時住んで、そこを住所にして取ることができる」とのこと。
自由に生きるための工夫がいろいろあるようだ。いろいろ工夫して、彼は我が身の自由を何とか守っているみたいである。そこでしかし、私は気付いた。
市場を回って食料を得る、街を歩き回って煮炊きの燃料となる木材を得る、街を歩き回って空き缶を集めいくらかの現金を得る、旅に出るということも含め、それらは体が元気である、歩ける、まともに脳が働く、などといった条件が必要だ。
私は、私自身が腰痛持ちとなって気付いたのだが、体はいつまでも若くはない。何のトレーニングもせずに若い頃と同じように動いていたら不具合が起きる。トレーニングをしたとしても体には限界がある。肉体は老いるのだ。
先日久々(4年8ヶ月ぶり)に会った自由人(名前はIさんと聞いている)は、私が見る限りにおいては肉体の筋肉が減っていた。何か弱々しく見えた。実際にはそうで無かったとしても、時は流れる、彼も老いていく。病に伏すかもしれない、歩けなくなるような大怪我をするかもしれない。そうなった時に彼の自由はどうなるのだろう。
彼と話をしている間に、私は彼を全くの自由人ではないんだなと感じるようになった。何とか踏ん張っての自由なんだと感じた。「何とか自由」の人なんだと。
そして、我が身を省みる。「私は自由か?」と。「私は、私が自由で幸せであるために何か努力しているだろうか?」と考える。戦争状態にある社会では厳しい生活を余儀なくされている人々が多くいる。私みたいな呑気者はそういう社会では生きられない。
そうなのである。私は自身で何とかして自由を得ているのでは無い。社会に守られているから、親戚友人知人の助けを得ているから何とか自由に生きることができている。
個人は社会に守られている。であるのなら、個人は社会に対する責任がある。「その責任って何?俺はその責任を果たしているか?」と考える。私は、例えば「働いて税金納める」についてはやってきた。「結婚し子孫を残す」はできなかった。・・・長くなりそうなので、このことについてはもう少し考えて、いつか別項としよう。
記:2018.4.29 ガジ丸 →ガジ丸の生活目次