ガジ丸が想う沖縄

沖縄の動物、植物、あれこれを紹介します。

凛として歌う

2011年09月02日 | 沖縄03音楽芸能・美術工芸・文学

 ヤマトゥンチュ(倭人)でありながら、東京で琉球民謡の唄三線の先生をしているというM女史から2曲の琉球民謡が送られてきた。作品名は『貫花節』と『収納奉行』で、演者はいずれも船越キヨ。船越キヨは戦前、戦中、戦後の琉球民謡界では糸数カメと共に女性ウタシャ(唄者)の超有名人。琉球民謡レコード歌手の草分け的存在でもある。
 大正2年に生まれ、平成4年に数え80歳で他界した。グソー(後生)の人となって早や十九年になる。「超」が付くほどの有名人とは知らなかったが、私にとっては親戚のおばさんでもあったので、民謡界では名の知れた人というのは知っていた。ただ、私が高校生になる頃にはもう第一線から退いていたようで、有名な民謡歌手のその活躍ぶりはほとんど知らない。親戚のグスージ(御祝事)の際にはたびたびその唄を披露したらしいが、私は覚えていない。今から思えば、その唄をちゃんと聴いとけば良かったと残念に思う。「船越キヨさんの歌はパワフルでダイナミックでとても好きです」とはM女史の評、「最近の民謡歌手の技巧的なうたはあまり好きではありません」とも付け加えていた。

 私は、それが船越キヨの歌であると認識して聴いたのは今回が初めてで、「なるほど、これが名人というものか」と思った。「最近の民謡歌手の技巧的なうた」というM女史の言葉にも合点がいった。背筋の真っ直ぐな凛とした唄だと感じた。
  船越キヨが三線の名手であることは私も若い頃に聞かされ知っていた。しかし、M女史から送られた2曲を聴いて「三線の名手」の技に私は気付かなかった。船越キヨの歌声に感動して、そればかりに傾聴したいたからかもしれない。あるいは、船越キヨの三線の音が、空気がそこにあるが如く自然に存在していたからかもしれない。なんて、カッコいいことを言っているが、実は私は、三線が名人であるかどうかを判断できるほど三線の技に精通しているわけでは無い。素人耳にそう聴こえたということである。

 船越キヨの唄に感動してから3週間ほども過ぎたある日、船越キヨの娘K姉さんに会う機会を得た。その時に、「うちの母ちゃんは凄い人だったんだよ」のエピソードをいくつか聞かせて貰った。私にとっては親戚のおばさんでもあったので、私人としての船越キヨについては少し知っている。躾の厳しい人であったと記憶している。子供の私にとっては怖いおばさんという印象であった。しかし、その厳しさは我が身に対してと芸事に関してはなおいっそう強くあって、それが「凄い人だったんだよ」の源になったのであろう。
 以下は、K姉が語ってくれたエピソードの中からの一つ、二つ。

 私(K姉のこと)は子供の頃から母ちゃんに言われ琉球舞踊をやっていたでしょ、それで、高校の時に新人賞を貰って、ある料亭のの踊り手に応募して受かったの。踊り手は5人選ばれたんだけど、私が船越キヨの娘であることを知ると、料亭の人はその日から私一人だけ高級車で送り迎えをするようになり、たびたびお土産もくれるようになったの。それは良かったんだけど、他の4人から嫉妬されて大変だったさぁ。
 母ちゃんの告別式の時、私たちもびっくりしたんだけどね、当時の県知事、那覇市長をはじめ、各政党の偉い人達、財界の人達、マスコミ関係の著名な人達がたくさん焼香に来てくれたの。告別式会場の関係者も慌ててさ、大きな看板を出したりしてたさぁ。
      

 記:2011.8.20 島乃ガジ丸 →沖縄の生活目次