腰痛で元気に動けなくて、このところボーっとしていることが多い。ボーっとしていると妄想する、元気な時の妄想はたいてい楽しい内容だが、最近の妄想は悲観的である。我が身を省みて「俺の生き方はこれでいいのか?」と柄にもなく考えてしまう。
「これでいいのか?」と問い、「これでいいのだ。」とこれまでは答え、「何とかなるさ、明日は明日の風が吹くさ」とテキトーに生きてきたこれまでの人生。体が弱って心も弱っている最近は、これまでのあれこれを思い出しては反省ばかりしている。
今の住まいは平屋の一軒家で2世帯が住める形になっている。その内の1世帯が大家さんで、残る1世帯が私。大家さんは私より年上の女性、親切な人で最初から仲良くしてくれた。手料理や、市販の食べ物飲み物をくれた。私も大家さんを招いて挽きたてコーヒーを出したり、縁側に2人腰掛け、七輪でイカを焼き日本酒を御馳走したりした。
大家と店子の関係は、私としては顔を合わせば挨拶し、たまに(週一くらい)10~20分ほどのユンタク(おしゃべり)をする仲で良かろうという感じ、これまで住んでいたアパートでも、そこの大家さんとは概ねそんな間柄であった。ところが、今の大家さんは距離が近い。一時期は毎日のようにドアのチャイムを鳴らした。「これ食べて」、「これ飲んで」といった差し入れが多い。一人であることが好きな私はついに、腹を立てつつ言葉は穏やかに、「揚物、スナック菓子はあまり食べない、昼寝している時は起こされたくない、疲れているので早く休みたい」などの理由を付けて差し入れを断った。
それでも大家さんはいろいろ持ってきた。先月(11月)からは私も諦めて、差し入れの品を頂いたら「ありがとうございます」と冷たく言って、さっさとドアを閉めるようにしていた。あれこれ断る理由を探すのも面倒臭くなってしまっていた。
12月15日、午後3時頃から甥と一緒だった。我が家の墓やトートーメー(位牌)など、これからのあれこれを話し合い、夕方からは私の家で酒を酌み交わしながら、なおもあれこれ話し合い、夜には友人のO夫妻も来てくれ、楽しい飲み会となった。
みんなが帰った(午後10時頃)後、私はこれまでに無い深い孤独を感じた。「寂しいとはこういうことなのか?しかし、甥や友人が来てくれたじゃないか、何でだ?」と考えた。考えて、「夫婦、親子のような深い関わりが、私には無いからか?」と思う。
「一人で生きていけるさ」と私は自信を持っていた。なので、嫌だなぁと思う人と付き合うことは時間の無駄とまで思っていた。嫌だなぁという感情が大きくなると、その人を無視することになる。無視って・・・最悪の虐めじゃないかとその時気付いた。
私の最近の大家さんに対する態度は無視と言える。言葉を交わすことさえ面倒臭がっている。それは「消え去れ」と思っているようなもの。そう思われる人は悲しかろう。
無視するというのは、自分の心からその人を抹殺することではないかと思う。「それはいかんだろう、俺は間違っていたかも」と反省(いつまで続くか?)する。
そう反省し、過去のあれこれを後悔しつつほとんど眠れない夜を過ごした翌朝、昨夜の楽しい飲み会を思い出し、「いいさ、楽しければいいさ。過去は過去、何とかなるさ」と吹っ切って元気が戻る。でも、無視は今後あまりしないようにしようと、このいい加減で傲慢な私が殊勝にも思った朝であった。でも、殊勝がいつまで続くか自信は無い。
記:2017.12.21 島乃ガジ丸