先々週の土曜日、映画を観に桜坂劇場へ行ったが、上映時間に20分遅刻して観るのを断念した。先週の土曜日、その時と同じ映画を観に桜坂劇場へ行った。今回も遅刻はしたが、遅刻はたった5分だったので、本編の上映には十分間に合った。
映画は邦題『いのちの食べかた』、日常食べている肉や野菜がどのように生産されているかを淡々と映したもの。映画の内容や表現したい思想を説明する出演者、セリフ、ナレーションなどは一切無い。動物や植物が食物となるまでの過程が映されているだけ。
邦題の『いのちの食べかた』から、生産された食物を我々はどのように食べればよいのかを問題提起している映画なのであろうと私は予想していた。その予想は概ね当たっていたと思う。「食物はこのように食べた方が良いですよ。」というのでは無く、「食物はこのように生産されています。私たちはこれらをどのように食べたら良いのでしょうか?」ということである。「食べる」ということの意味を考えるわけだ。
映画の原題は『OUR DAILY BREAD』であった。簡単な英語なので、その題がスクリーンに映し出されたとき、すぐに目に入り、記憶に残った。これは、直訳すれば「我々の日常の食物」になると思う。映画の内容を直接的に表現した題である。この題からは、「我々の日常の食物はこのように生産されています。あなたはこれを見てどう感じますか?」と、映画は言いたいのだと私は感じた。命をモノ扱いすることについてどう思うか?命とは何なのか?ということまで問うているのかもしれない。
映画に映し出された食物の生産過程は、私がこれまで見聞きして知っている昔ながらの農業、酪農とは大いに違っていた。たとえば、食肉となる牛、豚、鶏などは生物としての扱いでは無く、いかにも工業生産品なのであった。
牛や豚が殺される場面、鶏が首を切られる場面などは残酷である。しかし、「それはそれで良かろう。需要があるから供給しているのだろう。」と私は思う。それらを、あるいはそれらに近いものを私は食べているのだ。たとえ、生産者が命を工業品扱いしたとしても、食べる方が命に感謝していれば良かろうと私は思った。
生産者にとっての牛や豚や鶏は、生活の糧を得るための商品でしかない。経済動物なのである。それらの牛や豚や鶏は生まれながらにして牛肉、豚肉、鶏肉なのだと思う。ピーマンやジャガイモなどと同じ扱いでも構わないと思う。ただ、肉や野菜も、私はそれらの命を食っているのだという意識は常に持っていた方がいいなと、この映画を観て、改めて認識することとなった。無駄には食いませんぜ。
その日の夜は模合(モアイ:正当な理由のある飲み会)があった。店はイタリアン焼き鳥屋、ワインやパスタがあり、焼き鳥がある店。牛肉も豚肉も鶏肉もある。私は何ら躊躇無く、それらを食う。さっき観た映画の、牛や豚や鶏が殺されるシーンが思い浮かぶ。しかし、美味しく頂く。美味しく、そう、それこそが無駄にしないということであろう。
私を生かしてくれているたくさんの命に、「美味しくなってくれてありがとう」と、この夜はいつもより感謝した。無駄にはなってませんぜ。
記:2008.4.18 島乃ガジ丸