なっぴ畑に水道は引いていないので、水は雨水に頼っている。水タンクに雨水を溜めて必要な時に使っている。水タンクは2つあり、一つは容量2トン、もう一つは1トン。雨樋からの水は2tタンクに流れるようにしていたが、先日、タンクが満杯になったので2tタンクからパイプを繋いでそこから溢れた水は1tに流れるようにした。
最初から2つのタンクを繋ぐ予定だったので、もう少し注意深く考えてタンクの高さを決めれば良かったのだが、注意深く考えない私なので2つのタンクを繋ぐパイプは私の身長より15センチほど低い位置となってしまった。パイプの向こう側は洗い場になっていてしょっちゅうその下を通っている。行きは立って歩くのでパイプが目に入るが、帰りは概ね座った体制から立ち上がってそこを通るのでパイプがほとんど目に入らない。帽子を被っている時は全く目に入らない。よって、不注意者の私は毎回のようにパイプに頭をぶつけている。パイプを繋いだのは4月23日で、それから昨日まで17日が経過しているが、まだ慣れていない。17日間でだいたい174回くらいはぶつけている。
去年(2012年)、東京在の友人I氏が沖縄に来た時、彼をなっぴ畑に案内した。その帰り、なっぴ畑の近くに住み着いている痩せた老猫を見て、「可哀そうだね」と彼は言い、「お金は私が出すから餌を買ってあの猫にあげてよ」と続ける。野良猫に餌を与えるのを私は好まない。野良は野生として生きればいいのだと思う。食うために闘う、闘って負けたら食えない、食えなくなったら死ぬという野生の法則で生きて行く。そこに人間の気まぐれな「可哀そう」が加わると、野良は甘え、野生の力を失くす。死ぬまで面倒をみてくれるのであればいいが、気まぐれは却って野良には不幸であろう。
「野良には不幸」などと、いかにも「私は思慮深い人間です、なまじな薄情けはかけません」みたいな言い様をしているが、じつは私は、ちっとも思慮深い人間では無い、野良に対し薄情けよりずっと酷いことをした、懺悔しなければならないことがある。
先日、畑に出ると、畑小屋の屋根裏から猫が飛び出して逃げた。「あっ、しまった、こんな空間は猫が好きであることを忘れていた、住み着いて子供でも産んだりされたら面倒だ、出入口を塞ごう」と思ったのだが、塞ぐのを忘れたままその日は帰った。
翌日、それを思い出して対策を考えた。屋根裏は2mほどの高さがあるので目で確認はできないが、猫がいる可能性は高い。で、先ず、ゴキブリ用の殺虫剤を屋根裏に少し撒いて猫を追い出した後、同じ殺虫剤を壁や床に浸み込むほどたっぷり撒いてやれば、その匂いを嫌って猫はここに住み着くことはなかろうと考え、その通り実行した。
猫はその時外出中だったようで、殺虫剤を少し撒いても猫は飛び出して来なかった。なので、次の作業、殺虫剤をたっぷり撒いた。その後、農作業をして2時間ほど経って小屋に戻って一服していると、屋根裏からミャ、ミャという仔猫の声がした。
「子供でも産んだり」という面倒なことは既に起こっていたのだ。その可能性もあるということを不注意者の私は考えなかったのだ。ゴキブリ用とはいえ、あれだけたっぷりの殺虫剤、仔猫にとってダメージは大きかろう、死ぬかもしれない。翌日、ミャ、ミャは聞こえなかった。「あー、悪いことしたなぁ」と脚立に乗って屋根裏を覗いた。仔猫はいなかった。猫は子育ての時引っ越すということを思いだした。ホッと安堵する。
記:2013.5.10 島乃ガジ丸