最近、友人Hの店に頻繁に通うようになった。Hの店の近くに浦添大公園があり、そこを私は時々散策していて、数年前までは、そのついでにHの店に寄っていた。ところが最近は、散歩は抜きでHの店に通うことが多い。Hの店のインターネットを利用するために私自らの都合で行くことが多いのだが、稀には、H、またはHの女房E子に呼ばれて行くこともある。彼らの用件は概ねパソコンSOSだ。
9月の初めの木曜日、「プロバイダーをヤフーに代えたらアウトルックでメールができない」とのことで呼ばれる。で、行って、使えるようにする。
翌金曜日、「昨日はできたけど、今日メールをしたら、できない」と電話があり、出かける。異常は見当たらなかった。どうやらE子の操作ミスだったようだ。
翌土曜日、Hの不調だったパソコンを直してHの店に持って行くが、誰もいない。で、そのまま持ち帰った。夕方、E子から電話がある。「さっき行ったんだぜ」、「みんなでソバを食べに行っていたさあ。ところで、98パソコンでインターネットができなくなっているんだけど、直せない?」と訊く、もう夕方だ、私は肴を準備しつつあり、もうすぐビールの時間だ。「明日にしてくれ」と言って、電話を切る。
翌日曜日、朝10時前にE子から電話、「何時に来れる、今からでもいいんだけど」と言う。急いでいるようだ。しかし、E子が昼寝したり、ソバを食いに行ったりしている時間、私は相続手続き書類の準備をしたり、水道工事会社社長Gさんのパソコンのセッティングに行ったり、ガジ丸HPの記事を書いたり、古いLPレコードをパソコンデータとして取り込んだり、部屋の掃除をしたりして、昼寝する暇も、飯食いに行く暇も、寝そべってテレビを観る暇も無く、バタバタと動き回っている。時間に余裕の無い私が、余裕のあるE子に行動を合わせる義理は無い。「午後2時頃行くよ」と言って、電話を切る。
「時間に余裕の無い私が、余裕のあるE子に行動を合わせる義理は無い。」ことは正当な言い分だと思うが、そう思いながら実は、「頼られる」ということは人として幸せな事ではないかとも思った。E子が私に「関わって」くれているのである。「関わり」は生きる上で大事、「関わり」が無いと、生きている意味が無いとも思うくらいだ。
忙しいからという理由で、人の頼みを聞かないなんていう生き方をしていると、そのうち私は、用無し人となってしまう。誰にも相手をされないオジーになってしまう。そうなっても私は生きていけると思うが、楽しくない人生となるであろう。楽しくない人生は楽しくない。楽しくなければ生きている意味が無い。パソコンの扱いに難渋している知人のGさんも含め、頼まれたらできるだけ助けてあげようと思ったのであった。
先週、大学時代の友人である埼玉在のKR、宮崎在のIYが沖縄に遊びに来て、宮崎出身(IYとは高校まで一緒)だが、大学卒業後沖縄に住み着いているKYと4人で飲みに行った。IYは2年ぶり、KRは5年ぶり、KYは私の住まいから車で30分とかからない場所に居を構えているが、もっと久しぶり、7年ぶりであった。
KRもIYも私を頼って来てくれた。それだけでも嬉しいこと。KYからは「またバンドをやろう」との誘いがあった。これもまた嬉しい。年寄になっても誰かが訪ねて来てくれる。誰かが誘ってくれる。私はそんな用有りオジーでありたい。生きていればね。
記:2010.10.1 島乃ガジ丸