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科学と文芸を融合した仮説作品「風雅のブリキ缶」姉妹篇。街で撮った写真と俳句の取り合わせ。やさしい作品サンプルも追加。

人形町甘酒横丁、明治座会長の三田政吉氏の回顧、河岸の芭蕉

2006年02月04日 10時04分36秒 | Journal
 交差点を渡って、しばらく歩くと、甘酒横丁が道路右手に見えてくる。ここを入ってまっすぐ行けば明治座だ。甘酒横丁と名がつくが、本当に甘酒屋があったか、覚えがない。交差点を白人のご夫人が乳母車を押して斜めに横断してきたところを入れたくて、慌ててカメラのシャッターを押した。

COMMENT:この明治座の会長さんが、つい先ごろ、亡くなったそうだ。
 三田政吉さん95歳(みた・まさきち=明治座会長、濱田家代表取締役)1月25日、心不全のため死去。葬儀は28日午後1時、東京都中央区築地3の15の1の築地本願寺。自宅は同区日本橋人形町3の12の10。葬儀委員長は作家で都知事の石原慎太郎氏。喪主は長男で明治座社長の芳裕(よしひろ)氏。東京・日本橋人形町の料亭濱田家に生まれ、東京大空襲で焼失した明治座の再建に参加。1967年に明治座社長になり、劇場経営に手腕を発揮した。93年から同社会長。

 HPにある故・三田氏の回顧に、こうあった。――私が生まれたのは日本橋のすぐそば。更地になってしまった日本橋東急百貨店(当時の白木屋呉服店)と老舗の布団屋伴傅の間を東に向かって、東中通りを越えた青物町ですが、関東大震災の後、昭和通りになって今はありません。当然ながら子供時代の遊び場は日本橋界隈。青物町と言う地名も、多分、江戸時代以来ずっと魚河岸が日本橋北詰めにあったので、それとの関連で青果ものの店がたくさんあったので、そんな地名が残ったのでしょう。私の子供の頃は、現在のようなビル街ではありません。大きな建物といえば白木屋さんだけでした。

 戦災以前はその賑やかさはまだ残っていました。四日市という塩乾物専門の店が軒を並べて、骨董店もたくさんありました。今でも仲通 りには画商さんや骨董屋さんが多いのはその名残りでしょう。東仲通りは高島屋裏と昭和通 りの間の横町で、骨董通りと呼ばれていました。古美術や中国、ペルシャものを扱う店が20軒くらい並んでいて、楽しい通 りでした。

 その頃、父は日本橋人形町に料亭濱田家を創業する直前で、まだ、板前の職人です。日本橋の福井楼という料亭の料理長でした。私が生まれてから2年後に、父は料亭濱田家を創業します。そのような町中で子供の時代を過ごしたわけです。

 子供の時はデパートに行くのが楽しみでした。まだ、高島屋が京橋の方にあった頃ですから、三越や白木屋の思い出でしょうか。三越の玄関に入ると段が一段高くなっていて、うすべりが敷いてあり、呉服売り場は畳でした。下駄 は脱がされましたね。下駄を脱ぐとそれを麻縄でくくった札を渡されました。その時分にはエレベータもエスカレータもありましたね。三越の向側で、梅村のお汁粉、宝来ずしなどを食べさせてもらえるのが、嬉しかったですね。白木屋の横に木原店という横丁が合って、お汁粉やおもちゃなどの子供の好きなものを売っていまして、私の家のそばということもありまして、よく行きましたね。「赤あんどん」という屋号の店があって、入るとすぐ土間で、両側にテーブルが10卓くらいあって、飲みながら話ができ、人の出入りが多かったですね。つまり今の居酒屋です。

 日本橋には関東大震災までは魚市場がありました。駿河銀行、三越前の木屋という刃物屋から江戸橋までの一角、2万坪くらいあったのでしょうか、錦絵にもあるようにたいへん繁盛しました。子供の時に連れていかれ、話もできない雑踏で両側に店がズラッと並んでいて、これが市場かと驚いたのを覚えています。魚を売る店だけじゃない。陶器、塗り物、練り製品、それに浅草の合羽橋と同じに料理に使う道具といろいろなお店が集まっていました。日本橋の大通 りでは木村屋というパン屋、岡村では絨毯や家具を売っていました。両替屋もありました。

 関東大震災の後に、何でもあった雑踏の子供の頃の思い出がある日本橋の魚市場も芝浦、築地へと移転していきました。当時東京で一番大きな100メートル道路である昭和通 りも、その時にできたのです。この時、危機管理の発想から大規模な都市計画がなされ、道路も6メートルから100メートルと広くなりました。それが大正時代の思い出として大きいですね。 … ■

 そう言えば、1672年(寛文十二年)一月、二十九才の芭蕉は、伊賀上野の「菅原社」に自ら編集した句集『貝おほひ』を奉納し、その春、俳諧師にならんと、江戸へ出た。江戸在住の弟子、幕府御用達(ごようたし)の魚問屋スギヤマ・サンプウ(杉山杉風)には、あらかじめ手づるが求めてあったともいう。
 屋号「鯉屋」を称した杉風による青物(野菜)を題材にした句集『常盤屋句合』の跋文に、芭蕉は、ユーモアを込めて、こうも市況ルポを綴っている。

 ――つらつら神田須田町の青物市場の景色を思うに、千里と離れた産の青草を麒麟(きりん)の背につけて運ばせ、鳳(おおとり)の卵は糠(ぬか)に入れて運ばれてくる。雪の中の茗荷(みょうが)、二月の西瓜(すいか)、朝鮮の葉人参(はにんじん)緑も深く、唐のからしの紅なものまでが、今この江戸に持ち集い、風がとうきびの枝を鳴らさない太平の世、雨が土生姜(つちしょうが)を動かさない世ならば、杉風の青物の作意は時を得て、貝割葉の二葉に、松茸(まつたけ)の千歳を祈り、芋の葉の露も散り失せずして、さゝげのつるのように長く伝われば、そらまめを仰ぎて、今このときを恋さないことがあろうか、冬瓜(かもふり)よ、そうであろう。(意訳)
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