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科学と文芸を融合した仮説作品「風雅のブリキ缶」姉妹篇。街で撮った写真と俳句の取り合わせ。やさしい作品サンプルも追加。

玄奘三蔵法師像(月窓寺)

2006年08月13日 15時55分18秒 | Journal
 本堂の脇に銅像が重い荷を担いで立っている。
 西遊記で有名な玄奘三蔵法師だという。

 Wikipediaには、玄奘三蔵法師について、こんな年譜がある。
 ――大業10年(614年)13歳で出家し、兄の長捷のいた洛陽の浄土寺に住んで経論を学ぶ。
 武徳元年(618年)隋・唐王朝交代期に、兄とともに長安に入るが、兵乱のため講経を行なう寺がなかったので、蜀(四川省)の空慧寺に入った。
 武徳5年(622年) 具足戒をうけ、成都から草州、相州、趙州をへて長安に戻り、大覚寺に住んで道岳、法常、僧弁(僧辨)といった学僧から倶舎論や摂大乗論の教義を受けた。しかし、多くの疑義を解決することができず、仏教発祥の地の学者から瑜伽師地論を学びたいと、インドへの遊方を決意した。当時、唐では国外への旅行は国禁とされていたので、僧数名とともに請願書を出したが却下された。
 貞観3年(629年) 国禁を犯して求法の途についた。
 高昌(トルファン)国王からの懇請で、伊吾から高昌に向かい、国王から旅費などの寄進をうけた。
 クチャから天山山脈を越えて北路に出、西突厥の統葉護可汗に会う。
 アフガニスタンから北インドに入り、中インドのマガダ国ナーランダに至った。 この寺に5年とどまり、シーラバドラについて瑜伽師地論をはじめとする無著・世親系の瑜伽唯識の教学をきわめた。 その後、インド各地に求法と仏跡巡礼の旅を続け、多数の仏典を収集して帰路につく。
 貞観19年(645年) ヒンドゥークシュ山脈とパミール高原を越え、ホータンを通り、17年ぶりの長安に帰った。

 インドから持ち帰ったのは、仏舎利150粒、仏像8体、経典520夾、657部で、弘福寺に安置された。皇帝太宗は勅を下してただちに訳経を開始させ、はじめは弘福寺で、のちには大慈恩寺で訳経事業を行なった。20年間に訳出した大乗小乗の経論は、大般若波羅蜜多経600巻をはじめ、瑜伽師地論、倶舎論など75部、1235巻に達した。
 門下の窺基、円測、普光らにより法相宗、倶舎宗が興った。弟子の弁機に編述させた旅行記『大唐西域記(だいとうさいいきき)』12巻は、彼の伝記である『大唐大慈恩寺三蔵法師伝』10巻ともども、具体的かつ正確無比な記述によって、7世紀の西域各地、インドを知る貴重な文献である。
 西安南郊の興教寺に墓所がある。

 玄奘の翻訳は、よりその当時の中国語にふさわしい訳語を新しく選び直しており、それ以前のクマーラジーバ(鳩摩羅什)らの漢訳仏典を旧訳、それ以後の漢訳仏典を新訳と呼ぶ。一例として、『般若心経』も彼が翻訳したものであるが、この中で使われている観自在菩薩は クマーラジーバによる旧訳では観世音菩薩である。サンスクリット語の原語「アヴァローキテーシュヴァラ」は「自由に見ることができる」という意味なので、観自在菩薩の方が訳語として正確であり、また玄奘自身も旧訳を非難しているが、訳文の流麗さは旧訳に譲るといわざるを得ない。ただし、唐の太宗皇帝の姓名は『李世民』であったため、『世』の字を使うのが避諱によりはばかられたからともされる。また、玄奘はこの『般若心経』をはじめとして維摩経など、クマーラジーバ訳に上書きして済ましたかのごとき翻訳もあり、彼の学究としての興味の程度により仕事ぶりが変わるようである。
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