Discover the 「風雅のブリキ缶」 written by tonkyu

科学と文芸を融合した仮説作品「風雅のブリキ缶」姉妹篇。街で撮った写真と俳句の取り合わせ。やさしい作品サンプルも追加。

日比谷公園の祝田門と三笠山

2006年02月11日 09時17分18秒 | Journal
 晴海通りを渡るとき、先程の「鳶と東京タワーと六本木ヒルズ」を撮った。
 日比谷公園に、この門「祝田門」から入るのは初めてだ。その向こうに見える築山は「三笠山」だとか。
 三笠山とは、卑近なところでは、そういう名のお菓子がある。挽茶を入れた餡(あん)をカステラの皮で包んだものらしいが、一二度食べたことがあるかしら。なぜ、そんな名がついたかというと、カステラの皮のふくらみが奈良の春日神社に接した三笠山の稜線に似ているからだとか。

 この実際の三笠山を遠い唐の都から和歌に詠んだのが、あの阿倍仲麻呂だ。(以下、あるHPから借用)

 もろこしにて月を見てよみける

 あまの原ふりさけ見ればかすがなるみかさの山にいでし月かも(古今406)[百]

【通釈】大空をはるかに仰ぎ見れば、月が出ている。今や微かな記憶になってしまった春日の三笠山――その山から昇るのを眺めた月と、同じ月なのだなあ。

【語釈】◇あまの原 広々とした大空。空を平原になぞらえて言う。土左日記ではこの句「青海原」とする。◇ふりさけ見れば 遥かに仰ぎ見れば。「ふり」は振り仰ぐ。「さけ」は遠く離す、遠い距離を置く。◇かすがなる 春日にある。「微かなる」と掛詞。「はや『かすかなる』記憶しか残っていない故郷の山と、確実な記憶としての月の姿とを対比した表現が際だっている」(小松英雄『やまとうた 古今和歌集の言語ゲーム』)。春日は、今の奈良県奈良市東部、春日大社とその周辺の地。◇みかさの山 春日大社背後の山。山容が天皇に差し掛ける衣笠(絹張りの傘)に似ていることから、この名が付けられたという。◇いでし月かも 「し」はいわゆる過去回想の助動詞。作者が月を見ているのは唐においてであるが、その月によって、昔奈良で見た月を回想している。

 阿倍仲麻呂は、中務大輔船守の子。渡唐後は仲満と称し、のち朝衡(ちょうこう)と改めた。
 霊亀三年(717)三月、第八次遣唐使の留学生として入唐(二十歳)。唐の太学に学び、科挙に合格、唐朝の諸官を歴任した。同行した真備・玄らは天平六年末、帰国の途につくが、仲麻呂は帰朝を許されず、その後も唐に留まった。天平勝宝五年(753)、遣唐大使藤原清河らと延光寺で鑑真に面会して渡日を依頼。その際自らも帰国を願って許されたが、日本へ向かった船は途中暴風に遭って難破、安南(ベトナム)に漂着し、再び唐に戻ることを余儀なくされた。のち、玄宗などに仕えて従三品の高位にまでのぼる。李白・王維ら文人と交流し、その詩はのち清乾隆帝勅撰の『全唐詩』にも収められている。宝亀元年(770)、在唐五十四年、七十三歳にして唐の都長安に骨を埋めた。和歌は古今集の一首が伝わるのみである。

 ちなみに、日比谷公園のこの小丘を含むテニスコート西側の一帯を「三笠山」と呼ぶようになったのは、大した風雅の由緒とも言えないようだ。これは公園造成時に池などを掘った残土で作られら人工の山であるが、その当時は、全体が三つの笠を伏せた形に似ていたのでこの名前が付いたと言われる。その後、テニスコートの造成など周辺の整備に伴い、山の形は変わったが、三笠山の名は残ったという。
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