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科学と文芸を融合した仮説作品「風雅のブリキ缶」姉妹篇。街で撮った写真と俳句の取り合わせ。やさしい作品サンプルも追加。

葛飾北斎「鏡面美人図」

2006年11月23日 11時28分41秒 | Journal
 展示されている浮世絵の中では、やはり筆致・構図的な面で北斎が異彩を放っていた。「鏡面美人図」もその一つ。これは鏡は別世界で、美人の顔の位置や大きさからいっても実際にはこう映るわけがない。
 ボストン美術館の修復作業で、美人が着る絹地の裏に色を塗る、裏彩色という技法が使われていたことが判明したとか。例えば、着物の白えりの部分は裏に施された赤色が透けてピンクに染まって見えるというが、写真では分からない。

 Wikipediaによれば、葛飾北斎(かつしか・ほくさい、宝暦10年9月23日?(1760年10月31日?) - 嘉永2年4月18日(1849年5月10日))は、江戸時代の浮世絵師である。森羅万象何でも描き、生涯に3万点を越す作品を発表し、版画の他、肉筆画にも傑出した。さらに読み本挿絵芸術に新機軸を出したこと、北斎漫画をはじめ絵本を多数発表して毛筆による形態描出に敏腕を奮い、絵画技術の普及や庶民教育にも益するところが大であった。葛飾派の祖となり、ゴッホなどフランス印象派にも影響を与えた。代表作に「富嶽三十六景」「北斎漫画」などがある。その功績は海外で特に評価が高く、1999年雑誌『ライフ』の「この1000年で最も重要な功績を残した世界の人物100人」に日本人でただ一人、ランクインした。
 北斎は生涯に30回と頻繁に改号していた。使用した号は「春朗」、「宗理」、「葛飾北斎」、「画狂人」、「戴斗」、「為一」、「卍」など。この改号の多さについては、弟子に号を譲り収入としていたからとの説もある。
 また、93回に上るとされる引越しの多さも有名である(一日に3回引っ越したこともあるという)。これは彼が絵を書くことのみに集中し、部屋が荒れれば(あるいは汚れれば)引っ越していたからである。当然、食生活も大変乱れていたが、それでも90歳の長寿を全うしたのは、慈姑だけは毎日欠かさず食べていたからだと言われている。
 浮世絵以外にもいわゆる挿絵画家としても活躍した。黄表紙や洒落本・読本など数多くの戯作の挿絵を手がけたが、作者の提示した下絵の通りに絵を描かなかったためにしばしば作者と衝突を繰り返していた。数ある号の一つ「葛飾北斎」を名乗っていたのは戯作者の曲亭馬琴とコンビを組んだ一時期で、その間に『新編水滸画伝』『椿説弓張月』などの作品を発表し、馬琴と共にその名を一躍不動のものとした。読み物のおまけ程度だった挿絵の評価を格段に引き上げたと人物と言われている。一時期馬琴宅に居候していたことがある。
 飯島虚心『葛飾北斎伝』によれば、元禄赤穂事件(忠臣蔵)で吉良方のヒーローとして扱われている剣客の小林平八郎には、娘が一人いて、その娘が後世、鏡師中島伊勢に嫁いでいて、その子が葛飾北斎なのだという。この噂の出所はどうやら葛飾北斎自身らしい。北斎はこのことをやたら自慢して歩いていたといわれる。真偽のほどはかなり怪しい。
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