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科学と文芸を融合した仮説作品「風雅のブリキ缶」姉妹篇。街で撮った写真と俳句の取り合わせ。やさしい作品サンプルも追加。

松島・瑞巌寺の門と禅師の取り違え、芭蕉、漱石

2007年12月08日 12時16分35秒 | Journal
 なかなかに古びて床しい門である。門を抜けると本堂へ向かって一本道。脇には洞窟と石像がつらなる小道もあるが、まずは一本道を行く。本堂を見学したが、さほど感心はしなかった。復元された襖絵などは色が出すぎていて、さびがない。写真撮影も禁止なので、上ってぐるっと廻って出てきた。
 ところで、この瑞巌寺については、やはりブブの説明として、作中にこんな風に触れてある。

 ――ショウ翁が『奥の細道』の旅において、1689年に訪れたマツシマ(松島)のズイガン(瑞巌)寺で、並べて置かれていた開山の祖「法身(ほっしん)禅師」と中興の祖「雲居(うんご)禅師」の二つの木造坐像をあべこべに拝んでいた事実が判明するということがありました。
 解体修理で、「法身禅師」とされてきた像の頭の内側に「雲居」の文字が、また、「雲居禅師」と思われてきた像の胴体からも「開山法身和尚」という書き付けが見つかったのです。いずれの像も1654年作だから、それから350年近くも取り違えていたことになります。

〔バショウ翁は、船を雇って、マツシマに渡った。「雄島が磯は地つゞきて海に出たる島也。雲居禅師の別室の跡、坐禅石など有。将(はた)、松の木陰に世をいとふ人も稀まれ見え侍(はべ)りて、落穂・松笠など打けぶりたる草の菴(いおり)、閑(しずか)に住なし、…」と書いてあるが、実際は、オ島は陸続きではなかった。
 このあと、前にも小生が引き合いに出した付き人ソラの「松島や鶴に身をかれほとゝぎす」の句の紹介があり、バショウ翁が「予は口をとぢて眠らんとしていねられず」とつづけるくだりがある。そして、「十一日、瑞巌寺に詣(もうづ)。当寺三十二世の昔、真壁の平四郎出家して入唐帰朝の後開山す。其(その)後に、雲居禅師の徳化に依(より)て、七堂甍改りて、金壁荘厳光を輝(かがやかし)、仏土成就の大伽藍とはなれりける。彼見仏聖(かのけんぶつひじり)の寺はいづくにやとしたはる」と、バショウ翁はやや形式的な記述にマツシマ観光を結んでいる。
 ズイガン寺は、もと天台宗で、「延福寺」と称し、828年にエンニン(円仁)が創建、ホウジョウ・トキヨリ(北條時頼)が臨済宗に改宗、1610年、ダテ・マサムネ(伊達政宗)によって再興、「瑞巌円福禅寺」と改称した。マサムネの菩提寺だったけに、豪華絢爛たる障壁画などで有名だ。
 どうも、バショウ翁は、余りにも立派になりすぎた伽藍に興ざめしていたようではある。三十五年前にできた新品の仏像にも、多分、違和感があったでしょう。ソラの旅日記には、「残らず見物」とあるが、バショウ翁は内心どちらがどうでもいいような心持ちで二つの像を眺めていた気がする。実際、当時の新聞記事の写真で見る「法身禅師」と「雲居禅師」は、その逸話と二つの仏像の対照的な衣裳や風貌からして取り違えようなどないはずなのである。
 なお、1894年(明治二十七年)7月、悩める青年ソウセキは、漂白の旅に出、イカホ(伊香保)温泉からマツシマのズイガン寺に周り、住職の「南天棒」から一喝を浴びて、「年来の累を一掃」しようと思いかけた。しかし、その年の9月、シキ宛ての書簡には、「理性と感情の戦争益劇しく恰(あたかも)も虚空につるし上げられたる人間の如くにて…、去月松島に遊んで瑞巌寺に詣でし時南天棒の一棒を喫して年来の累を一掃せんと存候へども生来の凡骨到底見性の器にあらずと其丈は断念致し」と心境を伝える。12月末、年の暮れも押し迫った時期に、ソウセキは、友人「菅虎雄」の紹介状を持って、同じく臨済宗「鎌倉円覚寺」の塔頭(たっちゅう)、帰源院に参禅。「釈宗演」和尚から「父母未生以前の面目はなんだ」と聞かれ、「ぐわんと参った」。〕
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