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科学と文芸を融合した仮説作品「風雅のブリキ缶」姉妹篇。街で撮った写真と俳句の取り合わせ。やさしい作品サンプルも追加。

掃部山公園(鉄道山)の由来と、井伊家から公園を貰った市

2006年03月26日 09時35分55秒 | Journal
 山の上に、掃部山(かもんやま)公園というのがあったので、てくてく登った。途中、市長選のポスター掲示板があった。中田宏氏は「横浜版ニッポン再構築プラン」、遠藤けんじろう氏は「公務員の価値の向上」、松川康夫氏は「格差を是正する、あたたかい市政に」を標語に掲げている。
 なんでも、この公園は、明治初期に新橋-横浜間の鉄道敷設に携わったエドモンド・モレルなどの鉄道技師の官舎があったほか、湧き水を蒸気機関車の給水に利用したことから、「鉄道山」と呼ばれた時期があったらしい。
 ところで、掃除の掃に部で、「かもん」とは、ちょっと読めない。明治17年、横浜開港にゆかりのある井伊直弼の記念碑を建立しようということで、旧彦根藩士が買い取り、井伊家の所有となった。その後、大正3年に、井伊家から市に寄付され、掃部山公園として公開された。井伊直弼のフルネームは、「井伊掃部頭直弼」(いい・かもんのかみ・なおすけ)であった。
 今の港湾都市・横浜の祖である井伊直弼の後輩政治家に、誰がふさわしいのか、よそ者には判断はつきかねるが、今日(26日)中に、井伊家から公園を貰った市の政治の今後が決まる。*ところが、今宵、テレビのニュースでは、投票率が30%に満たない低調と伝えた。出口調査では、政党がこぞって相乗り支持した現職の中田氏が、圧倒的な優勢とか。つまらない。

COMMENT:(Wikipediaから)エドモンド・モレル(Edmund Morel, 1841年11月17日~1871年9月23日)は、イギリスの鉄道技師である。新橋~横浜間に日本初の鉄道を敷く際、工部省の招きで技師長・建築師長として1870年に来日した。
 枕木には、イギリスから鉄製のものを輸入する予定であったが、「森林資源の豊富な日本では木材を使った方が良い」というモレルの進言により、日本産の木製の枕木が使用されることになった。日本の鉄道の将来を考えた技術指導を行ったことから、「日本の鉄道の恩人」と賛えられている。桜木町駅近くにはモレルを記念した「モレルの碑」が「鉄道発祥記念碑」とともに設置されている。
 来日前からすでに肺を病んでおり、鉄道完成を目前にして結核で早逝した。横浜市の外人墓地内にある彼の墓所は、1962年に鉄道記念物に指定された。モレルの名は、JR東日本グループのホテル・エドモントの由来にもなった。
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