mukan's blog

つれづれなるままに ひぐらしPCにむかいて

起承転結

2023-06-25 09:22:29 | 日記
 ワグネルが叛乱を起こしたというニュースを聞いて、おっ、いよいよ「転」がはじまったとウクライナ贔屓の私は、喜んだ。「起」はロシアのウクライナ侵攻、「承」はウクライナの反攻。結構、拮抗しているようだ。さあいよいよロシアの後退戦が始まるかと思っていたら、ワグネルの叛乱。ロシア領内の州の軍事施設を制圧して、モスクワへ向かっていると報道は緊張の高まりを伝える。プーチンが叛乱を裏切りとして非難したから、軍は制圧へ乗り出すかと,わたしの期待は高まる。
 今朝になると、ワグネルはベラルーシへ入り、プーチンはクーデター疑惑の調査を中止し、加わった兵士たちの罪を問わないと発表したともいう。なんだ、大山鳴動ネズミ一匹じゃないか。面白くねえなあ。
 とまあ、わたしは全くの野次馬である。野次馬は、しかし、浮世離れしているわけではない。生活現実を踏まえて見知らぬ世界やよく知る世界の意外な展開に期待して覗き込む。あくまでも覗き込んでいるだけだから、当事者性はない。ハラハラしてみていても、展開する事態への、責任の欠片は何処にも見当たらない。
 ロシア? イヤな国だねえ。ウクライナ? 何だわたしらの日常じゃんか。こりゃあ、ひどい。頑張れ、ゼレンスキー。でも、そう思うだけ。
 ワグネルの叛乱は、仮想のドラマではなく現実の展開だから、ますます予測ができなくてオモシロイ。ということは逆に、映画やドラマであれば、予測できるのか。
 そうなんだね。予測できるというより、大きくズレることを予め組み込んでみている。かなり破天荒な展開になっても、ドラマなんだからそれはユルセる。予想と違って大きくズレている方が、よりオモシロさは膨らむ。しかしいくらズレても、ベースの「現実認識」と接点がなくなって,離陸してしまってはいけない。これが仮想世界と現実との「緊張感」を担保する。
 このドラマに組み込まれた現実世界との「接点」が、へえ、こんなところに目をつけたかと感心することもある。岩井圭也の小説『永遠についての証明』(KADOKAWA、2018年)もそうだ。天才的数学者が「難問」の探求自体が面白くてどんどんのめり込む。衣食住の暮らしの基本も忘れてゴミ屋敷に住まい栄養失調になってヘロヘロになるが、目前の「難問」に心惹かれて、そのイメージ世界に,文字通り没入してしまう。
 いつだったか朝日新聞に若手女性研究者の自殺を惜しみ、優秀な研究者を見捨てる文科行政を批判する記事があったなあ。あれも若い研究者がはじめ、それを誇らしく思う親に支えられて暮らし、続く何年かは文科省から月30万円ほどの研究費を得て暮らしていくが、その期限が切れて行き詰まる。結婚するがそれも離婚にいたり、ついに経済的に破綻して、自死するところまで追い詰められた方の話であったか。それを思い出させた。この女性研究者の話には、研究課題である「難題」そのものが持つ「永遠性」への言及がなかった。「優秀な研究者」という取材記者の思い入れだけが際立っていた。「永遠性」というのは、そうなんだ、そういう難しいモンダイがこの世界にあるんだというワタシの認知がベースにあるから成り立っているイメージなんだ。岩井圭也の小説はそのイメージを膨らませて読者に共有させた上で、この天才がのめり込んでいく傾きをふむふむ成程と思わせた情況を書き込んだ上で、最終版のステージを描き出すから、ヒトの好奇心の悲哀と読み取ることができる。
 リアルの世界というのは、私たちがイメージする世界とは違うが、別物ではない。世界認識としてはおなじ土台の上に設えられている。ただ、ワタシに当事者性が何処に位置しているか、しっかりと位置づけられているとき、それはまさしくリアルな現実世界である。だが、当事者性が脇に置かれ、ははは、オモシロイと野次馬気分でみている世界は、ワタシの外部に起こっている世界だ。それはイメージ世界といっても良い。
 となると、では、今回のワグネルの叛乱とか、ウクライナの戦争というのは、私にとってリアルなのか、イメージなのか。どうも野次馬にとっては、イメージ世界のコトのようだ。えっ? ドラマと一緒なの? 
 もっとも、たとえば水にも、川の水が流れ込む海辺には、淡水でも海水でもない汽水域という領域がある。このイメージに近いか。所謂創作の世界のイメージは、海水のようなものだ。飲むには難しいが眺めている分には懐かしさも含めてふるさとをみるような愛おしさを感じる。淡水は,明らかに飲むための水。野次馬が現実展開に感じている世界は、汽水域だ。鮎じゃないが、汽水域でこそ幼年鮎はすくすくと育つ。ヒトに置き換えてみると若いころの,何でもみてやろう、何でも体験してみようという騒々しい創造性こそ、楠井域の幼年鮎のような所業。それが人の身の習いとなって、高齢者になってからも身の裡から湧き立つ好奇心を支える。
 河口に身を置くワタシたち野次馬は、いつ何時、何かをきっかけにしてオモシロがってるイメージ世界が、わが身のリアルにならないとも限らない。その心奥のざわつきがベースにあって、野次馬気質が掻き立てられ、オモシロイと感じているのかもしれない。つまり、こうもいえようか。オモシロイと感じるのは、いつかわが身に降りかかる現実になるかもというリスクのスリルが加わっているからだ、と。
 そう受けとると、ワグネルの「転」が、暴発に至らず収まったことは、オモシロくない。ご贔屓ウクライナの「結」のためにも、もっとロシアが壊れるような「転」回が期待されるところだ。


正しさの証明

2023-06-24 09:34:58 | 日記
 80代半ばの知人が裁判を起こすという。えっ、どうして? 何があったの?
 話を聞いて驚いた。交通事故の始末について疑念が起こったから、という。起きたことは大雑把に言うとこういうことだった。
 首都高速を走っていて、車線を変更しようとして、後ろから来た車と接触した。知人は、明らかに後方確認が甘かったと、自分の非を認めている。自分の車はリッターカーの乗用車。相手はアウディの高級車。アウディの後方ボディにかすり傷、自分の車両も前方に傷が付いた程度であった。アウディを運転していた女性は、事故後テキパキと電話で連絡を取り、警察にも報せ、その動きは見事であったと知人は感心していた。
 どちらにも搭載していた車載カメラが事態を記録していて、その画像は警察だけでなく、加害者、被害者にも渡され、争うことなく処理が進んでいった。たまたまおなじ保険会社だったこともあり、すべて保険金で始末できることになって一件落着となるかに見えた。
 だが、ひとつの細部に知人は違和感を感じた。頸椎損傷という医師の診断が出たというのだ。
 画像を見ても、実際の車両の損傷をみても、所謂むち打ちのような身体に障害を与える衝撃があったと思えない。それを警察で口にすると、警察官は(それはそうですがと共感を示しながらも)「診断書がでてますからねえ」と、問題にならないというスタンス。アウディに同乗していた女性の子どもにも頸椎損傷の診断書が添えられていたという。
 この知人は現役時代に技術系の仕事に就いていて、いまでも80代半ばというのにデジタル機器を使い回し、スキーや野鳥観察に飛び歩き、日焼けした健康な姿をみせている。今風の時代に存分に適応している闊達な方である。車両の衝突とそれが及ぼす被害についても知見がないわけではない。その彼の感覚器官が違和感を感じた。えっ、それってほんとう? と。
 そう思った彼は千葉県に衝突とその衝撃を測定する機関があることをネットで調べ、問い合わせた。そこは、しかし、裁判所などの公的機関の要請であればお応えできるが、個人の問い合わせには応じられないとの返事。むろん、彼の疑問が解けようが解けまいが、保険会社の補償に自己負担が生じるわけではない。ま、そんなものかと放っておけば、コトは片付く。
 だが、彼はそれを裁判に持ち込むという。ただ一点、衝突の衝撃に頸椎損傷に至るほどの力が働くのかという直感的な疑念を晴らすために。
  話を聞いたご近所の同席者がいろいろとサジェストする。裁判費用は,もちろん持ち出し。敗訴すれば相手の費やした費用も原告側の負担になる。
 いくらくらいかかるかね。
 何百万という単位じゃないか。
 いいんだ、どうせ財産なんて残してもしょうがないんだからと、何年か前に奥さんを亡くした彼は、金銭的なことを気にしていない。むしろこの新しい「発見」を探求することに意欲が湧いているって感じである。
 そうか、こういう身の裡の好奇心が蠢いて彼の前向きの日々が紡がれているのか。そう思った。
 ご近所サジェストのひとつ。衝突の衝撃という理化学的な解析と警察の判断とは必ずしも連動しない。医師の診断書という決め手を覆す社会的な動機を警察も持っていない。司法もそうかもしれない。保険会社は最初の判断を護るために力を尽くすだろうし、医師はむろん診断を疑われて黙っているはずがない。しかも、こちら知人は加害者だ。当然のように被害者に同情的になる世論も、向こうさんに味方するであろう。よした方がいいよと、裁判に持ち込むのを止めることに傾いた。だが知人は、自分の疑いを明らかにしたいという衝動を抑えられないようだった。
 アウディはその女性の勤め先の社有車。ひょっとすると、女性が事故後電話をした相手は会社の弁護士だったのかもしれない。その指示に従って、警察に電話をし、コトをテキパキと処理したのかもしれないと推測される。医師の診断も、たぶん会社の弁護士の指示に従って機能的にテキパキと進めたのであろう。そうして交通事故につきものの事後処理の工程がテキパキと進行し、会社の指定する医師も、こういうときの「習い」に従って過大に症状を受け止め、もっとも保険処理の最高額に近い慰謝料などを手にする。もちろん運転者の女性に.何か下心があったり悪意があるわけではない。事故のことはすぐにでも忘れた日常を取り戻しているであろう。
 ふとワタシの頭に浮かんだイメージは、何年か前の池袋の暴走事故。母子二人が死亡した。当時上級国民と揶揄された高齢運転者が、頑としてブレーキとアクセルの踏み間違いを認めず、実刑判決にまでなったケース。もちろん今回の知人のケースとは異なるが、理化学的な「真理」を見極めたいという動機が、世論という情報処理の色づけにどれほどの力になるか、ワカラナイと思った。「交通事故の衝突衝撃の身体に及ぼす影響について」という論文を書くのならまだしも、保険会社に代わって民事訴訟を起こしても、獲得する金銭的損失はせいぜい、今後の保険金の金額くらいのものだ。とうてい百万単位の訴訟費用とは比較にならない。今の社会は、金銭に換算できるコトには敏感に反応するが、「真理」を探求する場ではない。なんだか、ずいぶんつまらない裁判の遣り取りになるのではないか。
 もしこれをきっかけに,司法とか事故処理の行政とか、それにまつわる保険会社や医療態勢の「腐敗」を書き留めようというのなら、それはそれでオモシロイかもしれない。あるいはこれをもとにして、社会派のドラマを一本書き上げるのなら、取材源として力を入れるのも、よくわかる。でもねえ、そういう風にいくかね。
 一度、相手側になって考えてみる。被害者は子ども連れの女性。むち打ち症で苦しんでいる。あるいは苦しまないまでも、衝突時の恐怖に悪夢にうなされる子どもをイメージするだけで、世間の同情は集まる。しかも、この加害者は裁判によって、何の得もしない。なのに、なぜ訴えるのよ。更に余計な負担を被害者に強いて苦しめるとメディアに載せれば、簡単に世論誘導はできる。裁判も有利に運べる。
 裁判は「真理探究」の機関ではないのだね。日々生起する猥雑な社会的揉め事を始末するのに大わらわなんだから、個人的な好奇心を満たすような「趣味のお遊び」は持ち込まないでよと、裁判官も思うかもしれない。
 正しさの証明は、庶民には開かれていない。ひょっとしたら、何百万円かの裁判費用を,先の千葉県にある機関に「衝突の衝撃が身体に及ぼす影響」研究の費用として寄付して、今回の画像を提供して、シミュレーションして貰うような方が、直に「正しさ」が証されていいんじゃないかね。
 さあ、どうする? 振り上げた手を、何処へ持っていくか。思案を勧めたくなってきた。


いいかげんさが頼もしい響き

2023-06-23 09:37:51 | 日記
 デジタル・ニュースをチェックしていたら、生成AIがコントロールする攻撃ドローンが、あろうことか命令者を攻撃するようになったので、そのシミュレーション実験を中止したというフェイク紛いの「情報」があった。フェイク紛いと思ったから発信元もシミュレーションの主体も覚えていない。だが概ねこんな話であった。
 はじめ、敵のあるものへの攻撃を命じた。だが破壊してよいかどうか疑念があったので、攻撃中止を命じた。ところが、ドローンは中止を命じた本部を先ず攻撃破壊しようとした。そこで、命令の発信元を変更して攻撃中止を命じたところ、経由通信元を攻撃し、命令元への攻撃をして、然る後に最初の攻撃目標を破壊するに至った、という。
 生成AIの自律的判断が、何処の時点で「命令」を受け止め、何を至上の命令目標と定め、その達成のために妨害となるさまざまな「工作」を乗り越えて、目的を達成するのか。そういうことが、生成AIの動作を考える上で欠かせない課題になると、教えているようだ。
 そうだね。生成AIのもたらす現実の「想定」は、間違いなくここ百年ほどの間にヒトが思いついたSFの世界になってきた。SFを読んで育ってきた私たちは、ヒトってそういうことを考えるんだよねと、展開する事態を(現実化するメディアがあるわけじゃないから)面白がって読み、且つ映像にし、仮想の世界に託して、人間の本質を感じ取りながら共感同意してきた。そのメディアが、現実になってきた。生成AIという、ものごとの判断を自律的にする人工知能が、何処から自律的に判断し、何処までは命令者の指示に従うのかを、限定しなければならなくなった。だが限定すると、「自律的」ではなくなる。
 生成AIがコントロール本部の意思にしたがうことを前提にするというのは、現今の人間社会がそのようなシステムで動いているからである。だが考えてもみよ。上司の命令を下司が受けて、命令通りに実行する、形だけ従う振りをする、サボる、あるいは従わずに反抗するというのは、それぞれ(後付けになるが)由緒由来があってのことだ。
 ところが、例えばつい先日の自衛隊射撃場における見習い隊員の教官たちの銃撃事件。厳しい訓練に対する怨恨かと思ったのは市井の老爺の経験則。それ以前に面識もなかったというから、どうも、なぜかわからない。それと関連付けていうと、「(殺害するのは)誰でも良かった」とか街中の「無差別殺人」とか八つ当たり傷害事件が相次いでいる。コトを起こす本人自身も、なぜ自分がそのような衝動に駆られるのかワカラナイままに、コトを起こしてのちに、尋問されてそれ後付けの「説明」をする事例が多い。
 それが、生成AIに起こらないとは、限らない。人ならば、狂ったというであろう。だが生成AIとなると、自爆も含め目的達成を最高指令と考えて放たれると、障碍を乗り越えて徹底遂行するのは極めて合理的である。
 攻撃対象の破壊を命じた後にそれを中止せよという指令が何者かによってだされたき、それを妨害工作と受け止めるのは「理に適っている」。発信元を変更したりするのは、もっと「怪しい」と考えるのも合理的判断だ。そもそも、生成AIは、なぜ自分がそのように判断したかを解析して説明する回路を持っていない。だから、ヒトのように迷うこともしない。妨害をかいくぐってひたすら任務を遂行する。
 いや、参ったなあ。そんなドローンが近隣国から多数やってきて、執拗に、ひたすら攻撃するようになる。「参った。降参」 と手を上げても、勘弁してもらえないのだろうね。
 意思堅固、初志貫徹、徹底遂行って言葉よりも、優柔不断、己を疑え、凡俗中庸って言葉を生成AIの身につけさせるにはどうしたらいいのかな。そんなことを,設計者は考えてんのかなあ。それとも、それは邪道と思ってんのかなあ。
 人のいいかげんさが、何だか頼もしい響きを持つような感じがしてきた。


人間手づくり三原則

2023-06-22 13:34:00 | 日記
 今朝(6/22)の新聞投書欄に「生成AIにもロボット三原則を」というのが載っていました。人間を傷つけない、人間の命令を聞くなど、70年以上も前にアイザック・アシモフがSF小説の中で提唱した「ロボット三原則」を確立せよと述べています。
 何だ生成AIのことをいうより先に、人間に「三原則」を躾けた方がいいんじゃないかと、ロシアのプーチンを思い浮かべて思いましたね。手塚治虫の「鉄腕アトム」もそういうことに関心を払っていたなあと懐かしい。
 生成AIで調べてみたら、ロボット三原則は「ロボットが人間の安全性、命令への服従、自己防衛という3つの目的をもって行動することを定めたもの」と要領よくまとめて文章にしてきました。その上で、「現実のロボット工学においては、この三原則をそのままロボットに適用することは困難」と付言し、アシモフ自身も三原則に「第零原則」を付け加えたと説明して、何だか私の関心を先取りしています。その解説が揮っている。


《例えば、「人間」と「人類」の区別です。ロボットは個々の人間よりも人類全体の利益を優先すべきかどうかという問題です》


 おっ、一挙に「カントの永遠平和のために」という論題が登場してきた感触です。それに続けて、


《しかし、これによっても、人類とは何か、人類の安全性とは何かという問いが生まれます。……ロボット工学はまだ発展途上の分野であり、今後もさまざまな課題や倫理的な問題に直面することでしょう》


 いやいや、お見事。この回答がウクライナ戦争を意識して作成されたものとは思いませんが、新聞の投書を軽く凌いで面白い問題提起にしています。
 現今の生成AIの「危険性」に関する論議は、二通りに分けられます。ひとつは、現今の利益システムを護ろうとして制限を設けようとするもの。もうひとつは、そのAIを利用をする(であろう)人間の「危険性」を直に反映したものです。不戦条約のように制約を設けようとしています。
 人間の危険性というのをこれまでは「悪意」と呼んできました。だがトランプ米大統領の登場以来、ヒトの「自然(じねん)」が「危険性」を孕んでいると思うようになりました。そこへプーチンのウクライナ侵攻が出来し、その人の存在が「危険」そのものと示しています。人間が、変わってしまっているのです。
 文科省は早速、学校教育における生成AI利用の「適/不適」の指針案を作成して発表していますが、直感、こりゃあ駄目だと思いましたね。なぜか。
(1)学校に指針案を提示するという文科省の初発のセンスが、上意下達的、中央集権的。すなわち、現場に「人間三原則」を見せて統制しようというモメント。これで動く人間は、とても生成AIを使いこなすようには思えませんね。
(2)人を育てるというとき、生成AIを使いこなしてゆくには、どう人を育てるか思案する場をつくるのが、文科省ではないのか。(1)のように文科省が思案し方法をつくって現場に降ろして実行させるという「人間工学」的な教育センスこそが、一番、教師と学校現場と児童生徒を損なっている。
(3)人間の「悪意」ではなく「自然(じねん)」が「危険」を孕まないように育てるにはどうするかを、最優先で考えなければならない地点に来ている。
 生成AIに紐付けていうと、文科省は生成AIを使いこなす(技能をもった)人間を育てようと思案しています。だが、デジタル時代になってヒトは「自然(じねん)」存在そのものが、「危険」になっています。その大元を考えると、いま最も喫緊の課題は、生成AIの「三原則」を打ちたてることよりも、アシモフが「第零原則」を付加したように、「人間」ではなく「人類」を育てる教育へと切り換えなければならないことです。その瀬戸際に立っていると言えます。
 かつて学校は、アナログの時代であったとき、もっと適当でした。世の中の全体がTV画面越しに見えていたわけではない。親も教師も町の人々も、それぞれ勝手に経験し、本を読み、昔の話を聞き新聞で知り、せいぜいラジオや映画で目にしたことから「事実」を思い描いていました。つまり世界の断片を受けとっていると自覚していました。断片から類推して、世の中とか世界というのはこうなんじゃないかと考えていたわけですね。
 とうぜん自分の類推は世界の一部、偏りがあると思うから、人の話に耳を傾けます。あるいは自分の話も半分だけと受け止める。それに反応する他人の振る舞いも、何をどう受け止めているか分からないから、判断をコレと決めつけるのにも、余白を採っておくようにしたからでしょうね。
 それが例えば、政治次元でいえば、民主主義は少数意見を尊重するという命題を組み込むようになりました。政党というのはPartyです。partなのです。たとえ多数派となっても一部だという自覚が、そうでない部分(少数意見)を尊重するという「倫理性」の源泉になっていたのです。
 適当というのは、いい加減ということでもあります。いずれも「ほどよい加減」という元の意味が、「厳密でない」「始末がずぼら」という意から「ものごとをきちんと始末せず、中途で抛り出している」という意にまでひろがって、人の性格の駄目さかげんを表すように用いられています。これは、たぶん近代に近づくにつれて社会関係が精密になり、契約の関係なども厳格になり、人がそれに合わせて「始末」をきちんとつけるようになって、意味が変わってきたのだと思います。
 それでも、人を育てることについては、すぐさま時代に即応するわけには行きません。いつも時代の変化の後を追いかけて変わってくるのが教育です。デジタル時代になってからもまだ、アナログ時代の教育が行われ、それが(社会の上層から下層までさまざまでしたから)ほどよさを残した「適当」であったと言えます。
 ところが、デジタル社会となってモノゴトの考え方が細かいところから一つひとつ「白/黒」つけるように階梯を踏んで進められていくようになりました。併せて、情報化の伝達単位がマス(塊)からインディヴィデュアル(個別)の多数へと一気に加速してきました。マス(塊)で情報が伝わっていた時代には、情報自体が、それを受けとる人たちの間の「共通感覚」になりました。ところが個々別々の人たちに降り注ぐように世の情報が流され、受けとる人もそれぞれの好みに応じているから、多様性だけはよくわかるが、共通感覚にはならず、むしろ自分の好みや在りようの不確かさが日常的に感じられるようになったようです。トランプ支持の群衆の過激化は、その不安の裏返しのようにみえます。
 デジタル機器の社会的な場面での採用は、ついつい人にもメリハリをつけ、端境・端末をきっぱりと始末することを厳しく要求します。とうとう1円でも足りなければ、押したボタンの何万何円という金銭支払機が次へ移ってくれないというようになりました。そして人は、それに適用しようと変わっていっているのです。感性も感覚も、好みも思考のメリハリもはっきりさせるようにして、迷うこと、曖昧なこと、訂正を繰り返すことは社会的不適応に分類されます。
 つまり今のデジタル時代の教育は人間ロボットを育てるようになっていると言えます。もちろん人を数として扱えるようなセンスです。そのプロセスに乗れないヒトは、社会の落ちこぼれ同然、生成AIを使いこなすどころか、埒外の人になっていくのです。
 ちゃらんぽらんに過ごしてきた八十路の老爺がこういうのですから、人間が変わってしまった時代とでもいうのでしょうかね。そうだ、ちゃらんぽらんて、語源は何だろうと生成AIに訊ねました。返ってきた応えは、以下のようなものです。


《「ちゃんぽらん」という言葉の語源は、諸説ありますが、有力な説は「ちゃらほら」が変化したものだと言われています12。 「ちゃらほら」の「ちゃら」は「でたらめ」「嘘」「でまかせ」の意味で、「ほら」は「ホラ吹き」の「ホラ」と思われます1。 いいかげんで無責任なことや人を表す言葉として使われています》


ははあ、恐れ入りました。いいかげんで無責任なことや人か。ソンナヒトニワタシハナリタイ。


夏至の動態感覚

2023-06-21 07:06:41 | 日記
 昨日、夏山登山の不安を記した。単独行では心配もあった。2年前まで一緒に山の会で歩いていたRさんに声をかけた。
《「笠ヶ岳へのお誘い」申しわけありませんが、無理です》
 と、返事がハガキできた。狭心症を抱えた彼は、発作が起きたとき対応できるかどうかを心配しているという。続けて、こうあった。
《今年に入ってから体力がガタッと落ち、ウォーキング止まりで低い山へも行っていません。登山はもう難しいかも、と思っています》
 と近況を添えてある。私より半年若い80歳。そうか、皆さん同じようなコトに向き合ってるんだ。
 3月に歩いたお遍路の頃から不安定であった歯が、とうとう力尽きた。できるだけ抜かないで行きましょうという歯医者のいいぶりが気に入って頑張ってきた。今月初めにぐらつきが大きくなった。
「痛む?」
「いや、痛くはない」
「もう少し頑張ってみましょうか」
 そう言われて、じゃあひと月くらいはと思い、月末に予約を入れていた。だが、軽い痛みが始まり、とても月末まで持ちそうにない。医者に電話を入れたら、この時間なら空いていると応答があり、昨日の午前中に診てもらった。麻酔をして抜く。麻酔の注射液の苦さが強かったくらいで、歯はくっと痛みもなく取れた。抗生物質と後で来る痛みに備えて薬を処方して貰った。お昼を食べ、薬を飲んだせいもあるのか、医師が気遣っていた痛みは、全く起こらない。短いスパンでみると痛みと処方は対処療法だ。だが、八十路に差しかかるという少し大きなスパンで眺めると、歯の劣化も意欲の減退も動態体力の衰え。こればかりは如何とも抗いがたい。八十路というのは、そういうことに見極めをつける秋なのかもしれない。
 午後、中央自動車教習所に行く。高齢者免許の実地試験の指定日。70歳以降は、免許を許してあげるわと言わんばかりに検査をする。認知機能の劣化検査に力点を置いていたのが、近頃は運動機能の劣化機能検査になっている。アクセルとブレーキの踏み間違い事故が、高齢に伴う劣化によるとみなされているってことだ。
「若い人には踏み間違いがないってことかね」
 と一人の同席者が呟いて、皆さんハハハと笑ったが、誰も答えられない。
 教習所のコースを3回ほど回って、一時停止、踏切、右折、左折、速度、車線変更、信号確認、段差の一時停止と発進などのチェックをして、15分ほどの実地。
 視野と動体視力、暗闇視力の検査をして2時間の講習が修了した。視野が狭くなっている。前回は190度以上あって、へえ視野って180度以上あるんだと思った印象が残っていたから覚えていたのだが、今回は170度。どうして何だか分からない。医者に聞けば、高齢化ですって応えが返ってくるだろうから聞いても詮無い。
 こうして3年に1回の、「向こう3年免許許してあげるわ国家関門」を無事通過した。夕方5時過ぎ、まだ明るい。そうか、明日が夏至だ。一番昼が長い。見沼田圃の中を通り抜けながら涼しくなった風を感じて帰宅した。
 目出度いから祝杯を挙げようとしたら、「歯を抜いたばかりじゃない」とカミサンにいわれ、そうかそうだった。でも、それほど飲みたいわけでもない。身の習いってことだ。これも胴体習慣かなと思った。