mukan's blog

つれづれなるままに ひぐらしPCにむかいて

二十歳になりました。

2024-02-29 06:47:41 | 日記
 今日はおまけの日。2月29日。もし私がこの日に生まれていたら、目下二十歳の日々を過ごして意気軒昂ってことになるか。法的には前日に一つ年をとることになっているから、2/29生まれでも少しも不都合はないのだが、その煽りを食らったのが、4/1生まれの人。学齢が「早生まれ」として繰り上げられる。ここは法も生活感覚を踏襲している。
 もっとも私の生まれた年は閏年ではないから、2/29生まれはいない。たられば、というお噺である。
 ヒトの二十歳はかつては成人年齢。いまはそれが18歳に繰り下げられたのか、いや、それは選挙権だけで成人年齢は相変わらず二十歳だよなのか。このあたりになると、法と生活感覚がズレてくる。法は一般的な規定でなくてはならないからこういうことが起こると、専門家は答えるかも知れないが、市井の民はそうは考えない。18歳に選挙権を繰り下げたのは「政治的思惑」からだと感じているからだ。つまり法的な一般性と人口減少によって選挙の投票者が減ってくることを「政治的に考えて」こういう措置を執った。その場限りの弥縫策であるから、じつは一般性がない。もし一般性があったら、成人年齢を18歳にすればいいのに、そういう見識もない。目前の「利得」しか勘定に入れていない。
 えっ、誰が?
「政治家たち」だよ。与党/野党と分けて見せているから、多様性があるように見えているが、その実、国会議員として政治権力を握り、国家の財政を好き勝手にお手盛りしている人たちの集団。次元を変えて観れば、「国会議員=政治家/庶民=市井の民」という構図になる。本来それを軸にして政治家=統治者を相対化してみせるのが、庶民の味方=マス・メディアの立ち位置のはずが、この人たちも統治社会の市場システムのお陰で「利得」を得ている者だから、同じ穴の狢。彼らがスクラムを組んで、世の中をいいようにしている。
 おいおい、そう言っちゃあなんだが、だったら市井の民=庶民も、18歳成人年齢って声を上げたらどうなんだよと、声なき声が聞こえる。
 そうだね、市井の民っていっても、市井の老爺だもんね、こちとら。年寄りは、成人年齢が二十歳だろうと18歳だろうと大して変わらない。関心がないんだね。
 えっ? 未来がくらい。そうだよ、暗いから冥府っていうんだよ。年寄りには冥い府(みやこ)しか待っていない。自分の寿命以上先のことを考えるのは、古来稀なる歳までがせいぜい。それを過ぎると、子や孫でもいれば別だが、そうじゃなければ、後は野となれ山となれって感じになる。野となり山とでもなれば、そりゃあ自然回帰でひょっとすると幸せかも知れない。野にも山にもならず、山川草木さえも生えそろわぬ轉(うたた)荒涼な沙漠が広がっている世界。彼岸に渡る三途の川のイメージって、そんな感じじゃなかったかい。
 でもね、ヒトって想像世界と現実世界の区別がつかないアタマをもってるんじゃなかったか。いや、そんなことを言うと、昔はキ印扱いされたもんだが、いまのITとかAIが跋扈する世の中になってみると、ヴァーチャルとリアルの境目が見えなくなってきている。
 あっ、そう、シームレスっていうのか。それとともになのか、それとは別の道を歩んで偶然ここで一緒になっているのかわからないが、フェイクもリアルも皆ごちゃ混ぜになって言葉になって繰り出されている。世界中でだよ、それが。
 ふと気づくと、その延長にミサイルをぶっ放し、戦車を繰り出し、あるいはドローンとか段ボール製の無人攻撃機が飛び交っていたりして、人の世って、こんなだっけと、日本の高度成長期育ちは驚いているんじゃないか。
 私ら戦中生まれ戦後育ちは、そういえば昔はこうだったと忘れていた幼い頃の風景が甦ってくるような気分。そうか、こういうのを原風景っていったか。78年経って世界は元に戻ったってことか。ということは、このWWⅡ戦後の日本の歩みこそが夢幻(ゆめまぼろし)であって、原風景こそが「真実の姿」じゃないか。
 えっ、何の?
 人の世の真実の姿さ。あはは、平家物語だね、これじゃあ。
 そう、一千年前にもどって安倍晴明にあやかり、八十爺は仮の姿、じつは二十歳の若者だよってあやかしの踊りでも踊ってみしょうか。
 バカだねえ、能はもっと後だよ、生まれたのは。
 いいじゃないか、どうせ、浮世もあの世もごちゃ混ぜなんだから。ウソだと思ったら、GAFAMにでも聞いてみな。

ヒトの特性、気移りの根拠

2024-02-28 09:35:32 | 日記
 先日ちょっと触れた『啓蒙思想2・0』にオモシロイ記述があった。AIのアルゴリズムは直列方式で論理的に一貫しているが、ヒトの思考は並列方式で直観タイプ、論理的に一貫しないのは気移りするからというもの。
 AIは同時に一つことしか処理していないが、ヒトはいくつものことを並行して思考の中に取り込んでいる、と。
 うん? でもPCでは、同時並行処理してるよと思うかも知れない。だが、それは一つ作業を一時休止して高速処理しているのであって、その作業そのものに連関はない。
 ヒトの並列方式は気移りするようなこと。並行する思考の相互に「おもい」が移り変わる。それゆえに、思いをよぎる事柄が互いにクロスしたりスパークする。象徴的に移行して、それが想像力に繋がり、創造へと向かったりする。むろん時に、それとは逆の方向へ「おもい」を引きずり落とすこともある。
 AIにはそれがない。アルゴリズムに沿った「0か1」「YES/NO」的な応答が超速度で繰り出されデータが処理される。そう、それが何を意味するか、どういう意味を持つかは、実はAIは頓着しない。その違いを、直列/並列として分けて見せているのが、オモシロイ。
 直列は論理的思考に乱れを引き起こさない。並列は、横っ飛びして別のコトに思いが行ったり、細かい論理を辿らないで、すぐに結論へ結びついたりする。つまり論理的というよりは、直感的/直観的に考えが運ぶことが多い特性を持つ。
 そう考えてみると、ヒトの思考は、いちいち意味を勘案して、判断をしている点で、メンドクサイ。いや、意味を勘案する前に、デキゴトを感受する。その情報を受信するときすでに、感性や感覚を通して、受信しているワタシにとって意味を持つかどうかを腑分けしているとも言える。主体が起ち上がっているのだ。
 どうでもいいことは目にも止まらない。音さえも耳が選り分けて聞いているように、聞きたくないことは篩にかけてどこかでふるい落としている。友人で片耳のよく聞こえない方がいる。補聴器を試すが、何もかも同等に聞こえてきて五月蠅くて適わない。時にそれらが重なってキーンという音になってとても補聴器を付けていられない。むろん補聴器の販売者もそれを承知しているから、付けるとなると何度も足を運んで、微調整に微調整を繰り返し、程よいところで聞き取れるように世話を焼いてくれる。
 ところが最近TVで、耳を塞がない集音器が宣伝されている。ある日友人は頭にヘッドフォンをかけて現れた。
 あれ、ソレってアレ?
 そうだよ。こりゃあ、いいよ。余計な音を拾わない、五月蠅くない。
 とうれしそうであった。受信に際して無意識に作動する耳の情報濾過機能が復活したってわけだ。凄いなあと(身体の働きに)感嘆した。
 むろんヒトの並列思考の特性は、情報の選別だけではない。この本の著者は並列に付随するヒトの情報処理の特性を付け加える。
《環境にある要素を開拓して、自らの認知(そして動機付け)へと変換する能力》。
 並列式の弱点は、一つのことを考えている途中で、別の刺激が入ったり、間に他の作業を挟んだりすると、先に考えていたコトを忘れるという特性である。
 自動車の高齢者認知機能検査を私は、もう何回かやってきた。16個の絵を覚え、そのあと数字処理をする作業を行った後に、さあ、先程の16個が何であったかを全部書き出しなさいという検査である。何だそんなことかと軽く臨んで片付けたのは最初の時だけ。3年後にやったときには12個しか覚えていられなかった。ヒントをもらってかろうじて16個を思い出したのだが、さらにその3年後、12個は覚えていられたが、ヒントをもらっても14個しか思い出せなかった。つまり忘れるのである。論理的思考も、これではAIには敵わない。
 ところがヒトは、「環境にある要素を開拓して」それを克服する力を身に付けた。「鉛筆、文字、数字、付箋メモ、スケッチ、紙の束、ネット検索、そして何より重要なのが他の人たち」。これらは「受動的な記憶装置というだけではない。合理的思考のプロセスの可動部分である」と著者、ジョセフ・ヒースは思考の「外部装置」を、思考作業の一角に位置づける。
 これは、ワタシに人類史が堆積している、それがワタシの無意識を作動させる。ワタシは空っぽであっても、ワタシの身に備わった感性や感覚、喋る言葉などはことごとく、人類史の所産であり、かつワタシの内発的な主体であるという私の主張の根幹と同じことを指している。そればかりではない。論理的思考を、ときに(というより、しょっちゅう)補うように経験的蓄積を利用して、判断を短縮したりしている。誰が何処でいつ書いていたか、喋っていたか、映画みたのであったか本で読んだのであったか覚えていないが、身に刻んでいたイメージが、論理を飛ばして思考を次のステップへ導くようなことがよくある。これも、間に合わせの技法といえば言えなくもない。言葉を尽くして説明すると何となくウソっぽくなるようなことを、そうだよ、その通りだと確信的に腑に落とすことへとつながっている。
 この間に合わせの技法を、本書では「クルージ」と翻訳しているが、辞書を引くと「クラッジ」「クルージとも」とある。コンピュータ技術者の間では「間に合わせ」として邪道扱いされているようだ。だが、これこそがヒトの本性的な特性と私は思っている。その点も、この著者、ジョセフ・ヒースのとらえる視界と重なって、オモシロいなあと読み進めている。

隠れていた心臓疾患

2024-02-27 09:10:06 | 日記
 ペースメーカーを植え込んでから12日、毎朝計る血圧計に表示される脈搏がほぼ70になった。医師の話では、ペースメーカーは60以上になるように設定しているという。手術前は、概ね50台の後半から60くらい。それでも、遭難事故以前に比べれば、10ポイントほど多くなっていた。それが70となり、ちょっと驚いている。ペースメーカーのせいで高くなっているようだが、過剰適応じゃなかろうか。あっ、これは文末に(笑)と付けるようなことだ。
 実は手術後、退院するときに医師が口にしたことが気になっていた。
「手術はほんとうに時期が良かった。手術中からペースメーカーは作動していましたからね」
 と、ホルター検査の結果を診てすぐにでも手術をした方が良いと判断し、電話までしてきて、設定してくれたことであった。でもそれだけではなかったようで、こう付け加えた。
「ペースメーカーが作動したお陰で、不整脈の陰に隠れていたもう一つの〈どうふぜん〉のあったことがわかりました」
 といったのだ。その時は、ペースメーカーの会社の方もいて、ペースメーカーの作動状況を持ち込んだ機器でチェックしているときだったので、医師に聴くわけにも行かず、そのままにしてしまっていた。
 いまになって気になって、〈どうふぜん〉をネットで調べてみた。
 ネットでは「洞不全症候群とは」という項目があり、次のように説明が添えられていた。
《心臓を動かす司令を送る洞結節がうまく機能しない病気です。加齢や虚血性心疾患や心筋症、薬剤の副作用などが原因になって洞不全症候群は起こります》
 不整脈と同じとは書いていないが、その原因に当たるようなことなのだろうか。症状は不整脈によって起こることとほぼ同じ。また、ホルター心電図やカテーテル検査で発見されるともある、と。そういえば6年前、私の心電図を診たかかりつけ医が慌てて市立病院へ連絡し、救急車よりもタクシーで行けと奨めて、カテーテル検査をしたこともあった。隠れていた私の心臓疾患というわけである。ネットの記事は、更にこう続ける。
《症状がない場合は特に治療しませんが、意識消失を起こしたり徐脈と頻脈を交互に繰り返すような場合はペースメーカーを埋め込んで治療します》
 なるほど、これで医師は不整脈と洞不全の二つを同時に治療したと言っていたわけか。もう心配ないと。
 この「洞不全」は「不整脈のひとつ」とネット記事は書いている。不整脈がなぜ起こるかを、そういえば私はほとんど気にかけていない。せいぜい心臓に正常な信号が送られないため心拍数が減少し徐脈になると考えていた。だから、いまさらこんなことを気にしているのも変な話だが、「洞不全」となると、徐脈が「心停止」につながったり、「脳への血流が途絶えることで意識障害や失神などの症状を起こ」したり、血栓が生じ、「塞栓症や脳梗塞などの重大な病気が起こることがある」というと、なるほど大きな一つの心臓疾患と呼ぶのもわかる。
 幸運にもそれが、今回のペースメーカー手術によって救われたわけだ。やれやれ。
 洞不全の「原因」を読んでいると、加齢によって洞結節の機能自体が低下するとある。老衰である。八十爺の身としては、ま、当然な成り行き。だがそのほかに、「高血圧治療薬(等)によるもの」ともある。これは我が身の、心当たりである。
 ま、とりあえず、こうして無事にひとつ壁をクリアしたことになるか。体調は順調である。

理性再構築2・0

2024-02-26 11:17:42 | 日記
 オモシロイ本を読んでいる。ジョセフ・ヒース『啓蒙思想2・0[新版]』(栗原百代訳、早川書房、2022年)。副題は「政治・経済・生活を正気に戻すために」とある。つまりこの著者が考察する対象の現代アメリカは「狂気にある」とみている。
 原著は2014年。だが「新版」は、《トランプという「極地」》と小見出しを付けた「文庫版序文」でコロナ禍にも触れて、「今」の状況と重ねて読んでもらっても一向に遜色はない、むしろ「それだけ多くを主張する必要がなかった(事実がそう証している)」と言えるほどだ、と。
 2016年の選挙でトランプがヒラリー・クリントンを破って大統領に当選したとき、何人かの日本のジャーナリストや学者たちがすでに予見していたとTVのコメントで見得を切っていたけれども、なるほどこの著者のこの本を読んでいれば、当時のアメリカ世論の移ろう先を読み取るのはさほど難しくなかったと思われる。日本のジャーナリズムがむしろ、(アメリカ世論の動向に関しては)時代遅れの想念に停滞していたと言えるかも知れない。
 いや、それどころか、日本だってその時すでにアベ政権の(三権分立と権力の相互抑制システムに於ける)勝手気ままを歓迎していたわけであるから、高度消費社会を経験した国や社会が凋落していくときの世情の動向を、もっと敏感に読み取っていても良かったと思うほどである。日本のジャーナリズムがガラパゴス化していたと言えなくもない。
 文庫本で590ページにもなる本書のまだ前半を読んでいるところだから、本全体のことは触れない。ただ、トランプが登場して「証した」ことをいつごろから、どうとらえていたかだけを、ちょっと紹介しておこう。
 この徴候は2005年頃からすでに散見され、フェイクを含めてメディアにおいてはますます隆盛になっていっていたと記している。
 状況をどう見ているか。
(1)政治に於ける非合理主義の度合いが目立って増している。COVID-19のパンデミックに対する公衆衛生対策がでたらめに変わっていった。噂や陰謀論が溢れ、専門家の判断よりも「勘」や「常識」を信頼する傾向が強まった。(合理性を尊重する)市民は政治問題だけでなく、気候変動や公衆衛生対策の諸課題に対しても、合理的アプローチの必要性を自ら護らなければならなかった。
(2)この「合理性」概念こそが、20世紀全体を通じて攻撃されてきた。合理性という概念は体制的な権力や支配の見え透いた隠れ蓑に過ぎないと、ポストモダニストや批判理論家は攻撃した。心理学の研究がそれに追い打ちをかけてきた。人間の意思決定が認知バイアスによって救いようもなく損なわれている、と。
(3)気づくと、地球規模の気候変動問題に直面している。この深刻さを受け止めるには、科学者の仕事に信を置くという意志に全面的にかかわっている。パンデミックを抜け出すには、これまで悪者扱いしてきた製薬会社の開発するワクチンに頼らざるを得ない。でも、これら科学者に対する「合理性」の根拠=「理性」が何であるかを改めて構築しなければならない。
 と、いうわけである。
 つまり「人間の合理性という概念」を哲学的に防衛可能なものへ発展させる必要がある。それには、どうするか。起点を築き上げようと考えている。
(a)20世紀に展開されてきた「合理性への批判」の有効性を認めること。とりわけ心理学研究に焦点を当て、「人間の思考がいかに無意識的なヒューリスティックスとバイアスに支配されているかをみていく」。
(b)こうした知見は、啓蒙時代に出現した合理性概念の傲慢さを示す。私たちの頭の中に備わる問題解決能力や社会制度を再検討する能力を過大評価した。
 と見極め反省した上で、ポスト啓蒙思想の合理性の概念を構築することを試みたいと著者は、まず狙いを定める。その上で、《理性を支える「外部足場」》に着目して、こういう。
《合理的思考をもっとも導きやすい環境を特定すること。そしてそうした環境を推進することは、合理性の政治の核となりうる》
《「問題に対する考え方」――とりわけ人間の合理性の外的かつ社会的な側面に着目している――が、問題にどう対処するか探し当てるために、よりよい知的ツールになってくれたらと思う》 
 これは、何をどんな場で、誰が、いつ考えるのかを外しては、理知的にモノゴトを考え進めていくことはできないとみている、と私は市井の老爺の立ち位置で受け止めている。つまり合理性という概念の再構築に際しては、いきなり全世界の普遍性を前提にして語り出すのではなく、また選挙や政治論戦の場に於いて語り合うのではなく、静かに思いを語り出し、言葉を交わし、ひとつひとつを聞いているヒトの感性のフィルターを通して吟味し意味を汲み取る、そういう作業を経てモノゴトの理知的判断を創りあげていくのが、「啓蒙思想2・0」だと直感した。
 むろん「直感」の裏付けとなるワタシの根拠を挙げることできる。それが言葉にならないと「直感」は決めつけとなり、「ヒューリスティックス」(つまり、自身が繰り出した考え)と「バイアス」(傾き)から自由になれない、とこの著者も口を酸っぱくして説いている。
 いま深入りはしない。この著者が挙げる現状認識、それへの批判的ポイント、言葉は重ならないが、この著者の探ろうとしている到達目標とそれへのアプローチの仕方については、このブログで繰り返し、いろいろな事例に出遭うごとにワタシが説いてきたことと、大雑把な筋道が重なる感触を抱いているからである。
 ま、それは全部読んでからにしたいが、オモシロイ本に出会ったと悦んでいる。

菜種梅雨の晴れ間

2024-02-25 09:24:46 | 日記
 まだ2月なのに、このところの雨は菜種梅雨を思わせる。暖かいわけではない。退院して今日で1週間、20℃を軽く超え半袖で過ごすような日もあれば、一転して霙となり小雪が舞い、羽毛服を着て外出する。落差が大きいというか、ジェットコースターのような移り気に振り回される感じ。季節の変わり方の進行も早くなっている。というか、これまでのように四季が4つの季節として分節化されない。大きく分かつ夏と冬の二分化だが、冬に夏日の気温がやってくるというのをみると、だいぶ混沌が近づいてきているのかなあ。季節がクルイはじめている。
 2/20に気象庁の長期予報が発表された。今年の3月~5月、6月~8月の気温と降水量の予報だが、「平年並みか多い」という予報。去年同様かそれ以上に暑い夏になるとも付け加えている。天候を見ながら外で仕事をしている農林漁業の人たちは大変だろうなあと、こちらは部屋に籠もってノー天気に過ごしながら「温暖化」に思いを配る。いや全く当事者性の定まらない無責任な気分だね。
 うん? 「平年並み」ってなんだ?
 ここ30年の平均値ってことらしい。そうか、とすると1990年~2020年の平均。バブルが終わるころからのものだ。あの頃すでに「地球温暖化」と言われていたことを考えると、気温は上り調子の右肩上がり斜面の平均。それが「平年並み」ということは、相変わらず上り調子は変わりませんよってことか。じゃあもっと長い目で見ると、そんなもんじゃないなと、身の裡のムシが蠢く。
 国立環境研究所・地球環境研究センターの江守正多という方が書いた文章に、過去1000年の北半球の平均気温変動データ・グラフがあった。気候学者が2001年に「復元した」とある。なんでも「木の年輪、サンゴ、氷床などに刻まれた間接的なデータから復元した」そうだ。そうか、そんな痒いところに手の届くような研究がなされているのだ。研究者は、やはりすごい。「最近200年程度の赤い線は温度計で測られた気温の変動」というから、なるほどそのあたりから人類は気温を計測できるようになったってわけだ。
 復元した「青い線」と計測した「赤い線」をつなぐと、「何百年間もほとんど変動がなかった気温が近年のみ急上昇しているように見えます」。そう、大雑把に見ると屈曲点は産業革命ではなく、20世紀に入った頃。そこから急角度に気温が上向きになり、ぐぐっと折れ曲がって上昇している。
《この形がホッケーのスティックに似ていることから、俗にこのグラフは「ホッケースティック曲線」とよばれます》
 とコメントがついている。
 いつでも産業革命からと観念は形づくられているが、地球に大きく変動要因として作用し始めたのは20世紀になる頃から何だと、人動説時代に入った時期とそれが明らかに証左をもって現れてくるのとのギャップが腑に落ちる。
 ところが、そうした古い時代の機構を研究している方たち、古気候学者によると「中世の温暖期(10世紀ごろからの気温の高い時期)や小氷期(14世紀ごろからの気温の低い時期)」があったそうな。だから一概に一千年をひとくくりにして、20世紀までの900年を変化のないスティックの柄の部分と思ってしまうと考察としてはいい加減になると留意しながら、しかし、「20世紀後半の北半球の平均気温は、過去500年間の内のどの50年間よりも高かった可能性が非常に高く、少なくとも過去1300年間の内で最も高温であった可能性が高い」と「結論づけている」そうな。
 オモシロイねえ。研究進み、観察方法が発見され、加えて観察技術が開発されると、一挙に時間が一つにまとまって考察されるようになる。これは、時間が一方向に流れるというのとは異なり、時間は堆積する。空間と我が身に全部とりこまれて時空間を往き来しているような気分になる。
 江守さんが強調するのは次のように言いたいからでもある。
《「人為起源温暖化説」の主要な根拠は、「近年の気温上昇が異常であるから」ではなく、「近年の気温上昇が人為起源温室効果ガスの影響を勘定に入れないと量的に説明できないから」》
 そうそう、これを私は、「人動説」の時代に入ったと概念化している。地球の大自然がヒトによって動かされる時代というわけである。むろん、天球の地球という惑星はいまだ厳然と太陽系に属し、天の川銀河のほんの片隅に所在するにすぎません。でも、「地動説」という言葉自体が、ヒトが足を付けた大地が動くという、ヒトの感性を観測軸として中央に据えて表現しているところを抑えると、所詮ヒトの暮らしを軸に据えて世界を見て取っているに過ぎません。となると、天動説時代が終わり、地動説時代がやってきて、その牽引力となった近代の発明発見によって生み出した内燃機関や電気が実を結んでCO₂を大量に生み出し、「人動説」の時代を将来しと見て取るのも、そう突飛もない着想ではありません。
 異常気象にこと寄せて、異常定説を提案しているって考えれば、うん、それはそれでオモシロイって受け止めてもらえませんかね。菜種梅雨は人の思いを狂わせると、いつかどこかで誰かが記していましたね。わたしぁクルっちゃいませんがね、でも狂いたいって身の裡の奥の方で何かがささやいていますね。ふふふ。