昨日のつづき。浅川芳裕『日本は世界5位の農業大国』を読んで、私の農業に関する認識が古いままであることに思い当たったのであるが、読み進めるにつれて、この本に関する疑問も同時に湧いてきた。
本書のポイントは大きく三つに絞られる。
(1)日本農業は世界の先進国と比べると十分に強い。
(2)日本の農業政策は農業官僚の利権保守を狙いとしている。
(3)世界を視野に入れて農業者を保護する成長戦略計画を建てろ。
データを示し、先進国農業として日本はいい線行っているが、その成長を阻害しているのは行政的利権だ。アメリカの戦略計画などを参考にして政策転換を図り、「日本農業の成長八策」(といいつつ七策しかないが)を提案している。
データを見る思いも込めて何冊か、日本農業の概説書を図書館で借りてきた。『日本の農業図鑑』『日本の産業1 農業(上)』『日本の産業2 農業(下)』『スマート農業の大研究』の4冊。前の3冊は2021年、最後の1冊は2020年の刊行。
最初の1冊は、「日本農業の最前線」を第一章において紹介し、二章以降に日本農業の基本、農作物と畜産の基本知識、「持続可能な農業」と、総括的に最新の農業を収載している。2020年の食料・農業・農村基本計画の改訂にも触れているし、浅川の指弾する食糧自給率の目標についても「カロリーベースで45%、生産額ベースで75%」としたと、10年前の批判に応えている。ただ、浅川の指摘する上記(2)については一言も触れていない。
後の3冊は、ポプラ社とPHPの刊行した子ども向けの学習図鑑である。これらを見て強く感じたのは、いったい「日本の農業」って、誰にとって、どこに視点をおいてみているのだろうということ。
浅川のは明らかにグローバルな世界に向き合っていける産業としての「日本の農業」をイメージしている。専業農家をプロ農家と呼んで農業の専門家として重用することを組み込んではいるが、兼業農家を疑似農家と名付けて(高齢化の7割は兼業と家庭菜園層の疑似農家として)埒外においている。それが起点となって、数としては農業者の多数を占める兼業農家にベースをおく農協やそれを視界に入れないわけにはいかない農水省の施策を、天下りなどの利権保守として批判している。農業関係雑誌の副編集長という立場もまた、農業官僚や農業事業関連者と違う立ち位置を保つことができるのであろう。
最近刊の4冊は、日本の農業の全般を紹介解説しているのだが、これらのいう「農業」とか「農家」は、どの地方のどのような農業者を指しているのであろうか。最新の農業を語るときには、他の企業が農業法人を結成して乗り出している立ち位置をとり、中山間地のケースでは過疎地の高齢者であったり、都会地では兼業の零細農家であったりする。
ではその本を読んでいる私は、どこに身を置いて見ているのだろう。そう自問が浮かび上がった。そうだよ、それが基本のキ。それを見極めて読み進めなければ、本の編著者の無意識の傾きを読み取れないし、ワタシの無意識が見過ごすことにも気づかない。リテラシーがないってことになる。そう思った。
産業レベルに於けるグローバル時代の「日本の農業」と浅川のように言っても、コロナ時代のグローバリズムは、すでに破綻している。加えてロシアのウクライナ侵攻が(直に小麦の輸出入にもかかわって)農産物の世界的な流通の枷をなっている。さらにまた、米中対立がロシアやイスラエルの身勝手な振る舞いを介在させて、更にグローバルな市場の先行きを不透明にしている。浅川のいうように成長産業の日本農業を語る時代ではなくなっている。
自分の日常から立ち位置を語るなら「食」のモンダイになる。カミサンの兄姉が暮らす四国の山の中を思えば、大規模農法は通用しない地理的条件と高齢化、過疎化の問題を抜きにはできない。あちらこちらを旅歩いてきた感触からいえば、日本の農家・農村はこの半世紀の間に、それなりに豊かな暮らしを味わってきたようにも思う。それは、日本の産業全体の体験したバブルの時代の余波であろうし、それが過疎化によって地方再生のモンダイにもなろうし、また今、アフターコロナ禍に於いて地方への移住が起こっているという事象とも重なって、ただ単に農村の問題ということもできないように感じる。
オモシロイが、ワタシの視点を決めることが、基本中のキになるとあらためて思った。
本書のポイントは大きく三つに絞られる。
(1)日本農業は世界の先進国と比べると十分に強い。
(2)日本の農業政策は農業官僚の利権保守を狙いとしている。
(3)世界を視野に入れて農業者を保護する成長戦略計画を建てろ。
データを示し、先進国農業として日本はいい線行っているが、その成長を阻害しているのは行政的利権だ。アメリカの戦略計画などを参考にして政策転換を図り、「日本農業の成長八策」(といいつつ七策しかないが)を提案している。
データを見る思いも込めて何冊か、日本農業の概説書を図書館で借りてきた。『日本の農業図鑑』『日本の産業1 農業(上)』『日本の産業2 農業(下)』『スマート農業の大研究』の4冊。前の3冊は2021年、最後の1冊は2020年の刊行。
最初の1冊は、「日本農業の最前線」を第一章において紹介し、二章以降に日本農業の基本、農作物と畜産の基本知識、「持続可能な農業」と、総括的に最新の農業を収載している。2020年の食料・農業・農村基本計画の改訂にも触れているし、浅川の指弾する食糧自給率の目標についても「カロリーベースで45%、生産額ベースで75%」としたと、10年前の批判に応えている。ただ、浅川の指摘する上記(2)については一言も触れていない。
後の3冊は、ポプラ社とPHPの刊行した子ども向けの学習図鑑である。これらを見て強く感じたのは、いったい「日本の農業」って、誰にとって、どこに視点をおいてみているのだろうということ。
浅川のは明らかにグローバルな世界に向き合っていける産業としての「日本の農業」をイメージしている。専業農家をプロ農家と呼んで農業の専門家として重用することを組み込んではいるが、兼業農家を疑似農家と名付けて(高齢化の7割は兼業と家庭菜園層の疑似農家として)埒外においている。それが起点となって、数としては農業者の多数を占める兼業農家にベースをおく農協やそれを視界に入れないわけにはいかない農水省の施策を、天下りなどの利権保守として批判している。農業関係雑誌の副編集長という立場もまた、農業官僚や農業事業関連者と違う立ち位置を保つことができるのであろう。
最近刊の4冊は、日本の農業の全般を紹介解説しているのだが、これらのいう「農業」とか「農家」は、どの地方のどのような農業者を指しているのであろうか。最新の農業を語るときには、他の企業が農業法人を結成して乗り出している立ち位置をとり、中山間地のケースでは過疎地の高齢者であったり、都会地では兼業の零細農家であったりする。
ではその本を読んでいる私は、どこに身を置いて見ているのだろう。そう自問が浮かび上がった。そうだよ、それが基本のキ。それを見極めて読み進めなければ、本の編著者の無意識の傾きを読み取れないし、ワタシの無意識が見過ごすことにも気づかない。リテラシーがないってことになる。そう思った。
産業レベルに於けるグローバル時代の「日本の農業」と浅川のように言っても、コロナ時代のグローバリズムは、すでに破綻している。加えてロシアのウクライナ侵攻が(直に小麦の輸出入にもかかわって)農産物の世界的な流通の枷をなっている。さらにまた、米中対立がロシアやイスラエルの身勝手な振る舞いを介在させて、更にグローバルな市場の先行きを不透明にしている。浅川のいうように成長産業の日本農業を語る時代ではなくなっている。
自分の日常から立ち位置を語るなら「食」のモンダイになる。カミサンの兄姉が暮らす四国の山の中を思えば、大規模農法は通用しない地理的条件と高齢化、過疎化の問題を抜きにはできない。あちらこちらを旅歩いてきた感触からいえば、日本の農家・農村はこの半世紀の間に、それなりに豊かな暮らしを味わってきたようにも思う。それは、日本の産業全体の体験したバブルの時代の余波であろうし、それが過疎化によって地方再生のモンダイにもなろうし、また今、アフターコロナ禍に於いて地方への移住が起こっているという事象とも重なって、ただ単に農村の問題ということもできないように感じる。
オモシロイが、ワタシの視点を決めることが、基本中のキになるとあらためて思った。