mukan's blog

つれづれなるままに ひぐらしPCにむかいて

基本中のキの字(2)誰のための日本農業か?

2024-01-31 07:24:51 | 日記
 昨日のつづき。浅川芳裕『日本は世界5位の農業大国』を読んで、私の農業に関する認識が古いままであることに思い当たったのであるが、読み進めるにつれて、この本に関する疑問も同時に湧いてきた。
 本書のポイントは大きく三つに絞られる。
(1)日本農業は世界の先進国と比べると十分に強い。
(2)日本の農業政策は農業官僚の利権保守を狙いとしている。
(3)世界を視野に入れて農業者を保護する成長戦略計画を建てろ。
 データを示し、先進国農業として日本はいい線行っているが、その成長を阻害しているのは行政的利権だ。アメリカの戦略計画などを参考にして政策転換を図り、「日本農業の成長八策」(といいつつ七策しかないが)を提案している。
 データを見る思いも込めて何冊か、日本農業の概説書を図書館で借りてきた。『日本の農業図鑑』『日本の産業1 農業(上)』『日本の産業2 農業(下)』『スマート農業の大研究』の4冊。前の3冊は2021年、最後の1冊は2020年の刊行。
 最初の1冊は、「日本農業の最前線」を第一章において紹介し、二章以降に日本農業の基本、農作物と畜産の基本知識、「持続可能な農業」と、総括的に最新の農業を収載している。2020年の食料・農業・農村基本計画の改訂にも触れているし、浅川の指弾する食糧自給率の目標についても「カロリーベースで45%、生産額ベースで75%」としたと、10年前の批判に応えている。ただ、浅川の指摘する上記(2)については一言も触れていない。
 後の3冊は、ポプラ社とPHPの刊行した子ども向けの学習図鑑である。これらを見て強く感じたのは、いったい「日本の農業」って、誰にとって、どこに視点をおいてみているのだろうということ。
 浅川のは明らかにグローバルな世界に向き合っていける産業としての「日本の農業」をイメージしている。専業農家をプロ農家と呼んで農業の専門家として重用することを組み込んではいるが、兼業農家を疑似農家と名付けて(高齢化の7割は兼業と家庭菜園層の疑似農家として)埒外においている。それが起点となって、数としては農業者の多数を占める兼業農家にベースをおく農協やそれを視界に入れないわけにはいかない農水省の施策を、天下りなどの利権保守として批判している。農業関係雑誌の副編集長という立場もまた、農業官僚や農業事業関連者と違う立ち位置を保つことができるのであろう。
 最近刊の4冊は、日本の農業の全般を紹介解説しているのだが、これらのいう「農業」とか「農家」は、どの地方のどのような農業者を指しているのであろうか。最新の農業を語るときには、他の企業が農業法人を結成して乗り出している立ち位置をとり、中山間地のケースでは過疎地の高齢者であったり、都会地では兼業の零細農家であったりする。
 ではその本を読んでいる私は、どこに身を置いて見ているのだろう。そう自問が浮かび上がった。そうだよ、それが基本のキ。それを見極めて読み進めなければ、本の編著者の無意識の傾きを読み取れないし、ワタシの無意識が見過ごすことにも気づかない。リテラシーがないってことになる。そう思った。
 産業レベルに於けるグローバル時代の「日本の農業」と浅川のように言っても、コロナ時代のグローバリズムは、すでに破綻している。加えてロシアのウクライナ侵攻が(直に小麦の輸出入にもかかわって)農産物の世界的な流通の枷をなっている。さらにまた、米中対立がロシアやイスラエルの身勝手な振る舞いを介在させて、更にグローバルな市場の先行きを不透明にしている。浅川のいうように成長産業の日本農業を語る時代ではなくなっている。
 自分の日常から立ち位置を語るなら「食」のモンダイになる。カミサンの兄姉が暮らす四国の山の中を思えば、大規模農法は通用しない地理的条件と高齢化、過疎化の問題を抜きにはできない。あちらこちらを旅歩いてきた感触からいえば、日本の農家・農村はこの半世紀の間に、それなりに豊かな暮らしを味わってきたようにも思う。それは、日本の産業全体の体験したバブルの時代の余波であろうし、それが過疎化によって地方再生のモンダイにもなろうし、また今、アフターコロナ禍に於いて地方への移住が起こっているという事象とも重なって、ただ単に農村の問題ということもできないように感じる。
 オモシロイが、ワタシの視点を決めることが、基本中のキになるとあらためて思った。

基本中のキの字

2024-01-30 08:25:46 | 日記
 図書館の書架を眺めていておやっと思うタイトルを見た。『日本は世界5位の農業大国』。えっ、そうかい? と思い手に取った。2010年の出版、講談社α新書。著者は浅川芳裕、農業雑誌の記者をしていた方のようだ。
《日本の農業生産は約8兆円、世界5位、先進国では米国に次いで2位(2001年以降)》と入口にあったので、手に取ってベンチに座り、少し読んだ。
 日本農業は衰退し弱いと思っているというのは、農水省の創りあげた幻想だと指摘している。これは私の思い込みを衝いていた。慥かに、そう思っている。どこが?
 農家数と農業人口の減少、中山間地が多い地理的制約、小規模農家が多い、米作中心、生産性の低さ、土地所有への執着、農用地優遇と転換の制限などをイメージする。何より四国の山奥の農業地帯にカミサンの実家があり、そこに義兄弟姉妹が住まわっている。子どもらの多くは、京阪神の大都市へあるいは地方中心都市で仕事を見つけそちらに生活の拠点を築いている。「ふるさと」はいずれ限界集落になるといわれ、ま、それも致し方ない時代の趨勢と思っている。その思う時の「時代の趨勢」には、農業の衰退という近代工業国家の流れが重なっている。そう思ってきた。
 ところが、この本のタイトルは、そりゃあ違うだろうと、明らかな認識の間違いを剔りだし、ほれ、見てご覧と差し出している。
 この著者の提示するデータは次のようなもの。
(1)農水省のいう食糧自給率はカロリーベース、市場の廃棄食料も含めているインチキ。農業生産額ベースで比較するべき。日本は、先進国では2位、途上国を含めても5位。
(2)先進国の一人あたり食料輸入額をGDP比(2007年)で示すと、日本は4位。英・独・仏の2.5%、2.6%、2.2%に対し、0.9%と少ない。額もドイツ、フランスの半分以下。
(3)30年以上にわたって農業GDPは5位以内をキープ。1991~1995年は4位。
(4)一人あたりGDPに相当する農業指標(2004年)では、日本11位(1960年代は1位か2位)、上位はシンガポール、アイスランドというごく少数の農場、次いで北欧諸国の付加価値の高い畜産中心。
(5)農民一人あたりの(農業国内生産)GDPは、過去5年で5000ドルの伸び。これは生産性の向上と他の産業が低迷したための相対的向上。
(6)農業の国内生産が自給率100%を超えている国でも、食料輸入額が多いのは、食料原料を輸入して加工食品を輸出する付加価値生産が進んでいるから。農産物もグローバル化が進んでいる。
 これをみると、日本農業は衰退するというよりも、姿を変えつつあると思われる。つまり農耕地の拡大とか農業の工業化・機械化という、時々断片的に話題に上がっていたことは、順調に実行されて、だいぶ様変わりしているのかも知れない。
 でもデータは10年以上も前のもの。今がどうなのかを調べなくてはならない。
 「食糧自給率41%」というイメージは、農業補助金を獲得し、旧来の農業生産体制を保持しようとする農水省らの思惑によるものであって、むしろ日本の農業生産の生産性向上を阻害する要因でさえあると、この著者は口を極める。それもまた、私の腑に落ちるところもある。
 考えてみれば、食という最も基本のこと。地産地消という地元中心の暮らしの自律を考えているワタシにとっては、基本中の基本。それが古いイメージのままで、全然更新されないままで我が胸中に巣くっていると感じた。さてまた、新しい課題を胚胎することになってしまった。

御贔屓と勝ち負け

2024-01-29 14:10:29 | 日記
 昨日の大相撲はオモシロかった。優勝決定戦にまでもつれ込んだのが、メディアではもっぱらの評判だったようだが、私は宇良と龍電の対戦で「伝え反り」を観られたのが何よりうれしかった。あっ、あっ、潰されるかと思わせるような海老反りの姿勢で大柄で重い龍電を持ちこたえて、ど~んとともに倒れて投げた宇良の技は見応えがあった。以前にも誰とであったか宇良がこの技を使ったことがあったが、その時は宇良が押しつぶされてしまったことを覚えている。
 いや、それもそうだが、それに勝った後の宇良のうれしそうな顔。まるで子どもがいたずらをして、上手く行って喜んでいるような素直な笑顔。得意技が決まって良かったねえと、TVの画面に向かって声をかけてやりたい気分になる。
 琴乃若が翔猿を破った勝負は危なげがなく、へえ、強くなったなあと思うと同時に、それだけでない感懐を持った。というのは、前日の琴乃若の霧島との取り組みのときもそうであったが、時間が来てタオルを受け取り汗を拭き塩を摑んで土俵に向き直ったときの顔つきが、それまでの柔和な顔つきから一変していたこと。鬼の形相というが、まさにそのように、勝たいでなるものかという剥き出しの闘志が現れていて、こんな顔、朝青龍以来久々に観たなあと感嘆したのであった。
 照ノ富士と霧島はあっけなかった。横綱・大関戦というよりも、おおよそ対戦するに値しない相手と闘うように、軽々と吊り上げて土俵際まで持っていくような照ノ富士の様子に、いやはや強いなあと感心したのであった。
 優勝決定戦は、したがって予想通りに勝敗は決したが、琴乃若も横綱にもろ差しになられてしまっては、手の施しようもない。も少し欲を出して形相が変わるほどの闘志を剥き出しにしなくては、これからも勝てないかも知れないと思った。
 野球もサッカーも、オモシロイのだが、もうそんなに長い時間勝負に目をやっていることができなくなった。勝敗がすぐに決まる相撲のような単発決戦なら、さあどうなるかという興味が持続する時間と勝負の決まる時間がおおよそ見合っていて、年寄り向きだなあと思う。
 特にこれといった御贔屓をもっていない。勝負前の立ち会いのときの振る舞いや勝負、その後に土俵にみられる力士の人柄のようなモノが浮かび上がると面白がっているだけ。我がカミサンのように何人かの御贔屓力士がいて、勝つとわあっといって喜んでいるのも悪くはないが、私はそういうことができない。
 ま、だからどうだってことは、ないんだけど。

ムシン

2024-01-28 09:37:42 | 日記
 4回に分けて「区切り打ち」をした四国のお遍路を終え、そのときどきの感懐を綴ってきた。17年も前の第1回目の5日間は日誌にメモしていたくらい、辿った札所と宿がわかる程度で、感懐もなにも記していない。それもそのままで収めて一つに纏めると、400字詰め原稿用紙にして300枚を超える分量になった。
 以下のような「あとがき」を添えて、プリントアウトしておこうか。
【あとがき】
 65歳の高齢者になって始めたブログが、もう17年目に入りました。初めは山行記録とか旅の紀行でも書き付けることができればと思っていたが、日々の記録のようになり、そのうちに我が身と世界の自問自答となって、日誌のような様子を呈している。
 四国のお遍路も、最初の区切り打ち5日間は友人の話に興味を覚え、我がふるさとでもあることから暇な折にと歩き始めたのであった。記録もほとんど残っていない。それから17年経って第2回目の区切り打ちを始めたのは、秩父槍ヶ岳で遭難し救助・入院し、恢復のために1年近くリハビリをして後のこと。その後また手掌の手術をすることがあり、これまたリハビリに半年以上かかって恢復気分で第3回目にとりかかったのであった。後はお読み下さった通りである。
 4回目お遍路の二日目の宿で「歩いているとき雑念が湧いて困る。どうしているか」と2度目のお遍路をしている女の方から聞かれたことがあった。「山歩きは瞑想、ただその時々の足取りに気持ちが向かっていてなにも考えていない」と日頃の思いを口にしたが、もう少し違った応え方があったなあと、いま思う。雑念は生きている証しのようなもの、それを煩わしいと感じるとしたらそれこそが今のワタシ、どうしてそう感じるのかと我が無意識を身の奥深くでとらえて意識することがオモシロイ、と応えた方が良かったかなあと振り返っている。
 88番札所に着いたときの空っぽのワタシという発見の清々しさが何よりうれしかった。お遍路を総じていえば、ただただ、歩くワタシの発見であった。何だワタシってなんにもないんだと感じた清々しさ。妙な言い方だが、こういう風にワタシを感じることができる気持ちよさを、八十爺の私は何だか来るところへ来てしまったなあと、それも心地よく思っている。
 雑念を問うた方は自分の経験を重ねて私に「きっと春が来たら2度目の歩き遍路をしたくなります」と、まるで啓蟄の虫の心を知るように「予言」してくれました。だがワタシはそこまでムシン(虫心)になっていないのか、あるいはまだ何かに執着しているのか、ボーッとお遍路の感懐を読み返していて、第4回目の一部に記載が重複していることに気づきました。こういう粗忽もまた(恥ずかしながら)ワタシのトクイ(特異/得意)とするところ。これでどれだけ人生を損なってきたか、今更ながら思い当たること多々あります。ははは。御容赦ください。
 ま、こうして身をさらすのが平気になったというのが、歳をとることの一番いいところなのかな。


間に合った

2024-01-27 09:11:05 | 日記
 去年11月に山の本を上梓したことはいろいろと記した。反響の一つに山の会のオキタさんからの葉書があった。それには、一昨年(2022年)の11月に膵臓癌と診断され、余命半年と言われたが、何とか1年経ってまだ、生きながらえている、とあった。私は(その頃)手掌の手術をしてリハビリに通っていたから、山のことはすっかり忘れて暮らしていたが、そうか、そんな変化があったかと私より1年半年上の彼のことを思った。
 オキタさんと行った最後の山行は2020年2月19日、奥日光のスノーシュー合宿であった。そのすぐ後、コロナの緊急事態宣言が出され、公共交通機関が危ないといわれ、県境を越境しての移動を自粛するよう要請があり、2ヶ月ほど山の活動をしなかったことも重なって、ごく僅かの人たちとしか山へ行かなくなった。2年と10ヶ月のご無沙汰である。その間にこんな変化があったのだ。
 その後、オキタさんと一番親しかったカクさんを通して、12月の初め、訪ねたいと連絡をしたら、いついつがいいと返事をもらった。顔を見たときホッとした。すっかり窶れているのかと思ったら、相変わらずの痩身に笑顔を浮かべて「いやあ、驚きましたよ。膵臓癌なんてね」と淡々と話している。「うん、余命半年って言ってたけど、もう1年経っちゃった」と笑う。「子どもも気遣ってくれるし、時間はたっぷりあった。いや、これであちらへ行くってなっても、別段、だからどうってことはありませんね」とすっかり悟ったようなような口ぶりだ。むしろオキタさんに似てやはり痩身の奥様の方が気苦労で痩せてしまったような話をして、「山歩講」の本を読むと、ああ、こうやって元気に歩いてきたんだと気持ちが温かくなると、本のことを褒めてくれた。私は内心「間に合って良かった」と思っていた。
 カクさんもオキタさんの病状を知ってから、どう声をかけていいかわからず困っていたという。カクさんは細かく気遣いし、痛みへの響鳴性が高い人だから、ほんとうに電話をして様子を聞くこともできず、困惑していたようであった。オキタさんの恬淡とした様子と言葉を聞いて、喜んでいた。
 年を越えて今月中旬、山の会のリョウイチさんと奥日光で話す機会があった。オキタさんの様子を伝えると驚いていて、じゃあカクさんと私たちでオキタ夫妻を交えて、例年冬合宿をしていた奥日光で集まらないかと提案があった。そうだね、それがいいねと帰ってきてからカクさんに電話をし、奥日光への移動手段も含めて相談をした。先ず何よりオキタさんが行けるかどうかを聞きましょうとなった。
 カクさんは昨日、オキタさん家を訪ねた。「留守。病院にでも行ってるのだろうか。後で電話をしてみます」とメールがあった。午後私はご近所のストレッチがあり、その後月一の飲み会に行って、すっかり酔ってご帰還。私の留守中にカクさんから電話があったという。オキタさんが亡くなっていたそうだと聞いた。亡くなったのは17日。リョウイチさんと相談をした翌日のことであった。すぐに彼に知らせた。リョウイチさんからは電話があり、ミチコさんからは丁寧なメールが送られてきた。
 ほんとうに、本が間に合って良かったと私はあらためて思った。