mukan's blog

つれづれなるままに ひぐらしPCにむかいて

主婦の髪結い政談(6)  中国に対する親近感

2014-07-31 07:20:39 | 日記

★ もともと感じていた中国への親近感

 外務省が(日本で)行ってきた「中国に対する親近感」という調査がある。「親しみを感じる」「どちらかというと感じる」「どちらかというと感じない」「親しみを感じない」という四択を、二分して集計している。

 

 1980年は「親しみを感じる」78.6%、「親しみを感じない」14.7%と圧倒的に中国に親近感を持っている人が多い。1988年の日中平和条約の締結や小平の「四つの現代化――改革開放政策」の提起、1979年の米中国交回復が採用されたことが影響しているのだろうか、と思うかもしれないが、ベースは(たぶん)それだけではない。

 

 もともと私たちの(もう古稀を越えている)世代は、中国に対して疎遠ではなかった。高校では「漢文」を習った。四字熟語だけでなく漢詩の素読や暗誦までした。三国志や水滸伝、聊斎志異は(たぶん)必読書ではなかったろうか。つまり、ある種の文化的な共通性を感じていたことは間違いない。なにはともあれ、元祖・文字の国という敬意が、私たちが用いる中国という国の名にはこもっていた。

 

★ 「支那」という「差別語?」

 

 じつは子どものころは、中国というよりも支那という呼称を耳にすることが多かった。CHINAの漢語表現と考えていたし、最初の統一王朝、秦の呼称が地域名になったと思っていた。だから世界史を学んでいた頃には、漢、隋、唐、宋、元、明、清という王朝名ではおぼえていたが、その領域を年代を通して名指すときは支那と呼ぶと思ってきた。むろん、近代になっての国名としては中国と呼ぶと思ってきたのは言うまでもない。

 

 ところが、石原慎太郎が「支那」というのに対して、「差別語だ」と中国からの非難があるのを知った。石原がチベットやモンゴル、ウィグルの地を含めない意図で「支那」とつかっているのであろう。それはそれで、政治的な意図も込めて、漢族の支配地域ではないぞと釘をさしていると受け止めることができる。それが、現在それらの地域を支配下に置いている「中国」当局からすると、けしからんという抗議である。だが「差別語だ」というのとは、ちょっと違うのではないか。

 

 だが中国が「差別語だ」と抗議するのは、「支那」が単に地域を指し示す用語というよりは、自分たちの支配領域に侵略した「日本(人)」が、中国の国家権力の確立を認めまいとして地域名を用いているという非難が込められていよう。その点は、真摯に受け止めなければならないと、思う。

 

★  文化・文明の衝突が始まった

 

 話を元に戻そう。外務省の「中国に対する親近感」の「親しみを感じる」と「親しみを感じない」が急速に近接するのは、1988年から。1989年のそれは「感じる」51.6%、「感じない」43.1%。1995年まではその両者の入れ替わりが繰り返され、2004年に「感じる」37.6%、「感じない」58.2%とはっきりと逆転して後は、2010年の「感じる」20.0%、「感じない」77.8%へと大きく差が開き始めている。

 

 おおきく「親しみを感じない」パーセンテージが増えているのは、1989年の天安門事件など民主化の動きが弾圧されたことへの反発という「説明」が多いが、それほどイデオロギー的ではないだろう。それよりもむしろ、「改革開放政策」や深圳など「開放特区」との交通がはじまり、急速に、中国が身近になってきたためであると思われる。商業交通よりも、観光を含めた文字通りの交通が頻繁になっていったことも深く関係している。私の息子は1989年の6月4日に、北京のホテルから電話をかけてきた。「いま戦車が出動してきている。銃の発砲音がする」とカーテンの隅を持ち上げて様子を話していた。接触が深まるにつれ、より深い親近感と、抽象的であった存在感が、身近な脅威にもなる。まさに文化・文明の衝突である。

 

 でも、好悪が相半ばするくらいなら気にすることはないが、「親しみを感じる」が1/5になるというのは、隣人に対する好悪の感触としては、ちょっとありうる範囲を超えている。日中の政治的衝突や経済的中国評価、あるいは社会的な体制の違いからくる違和感がぶつかり始めているからであろう。肌身に感じるほどに、近しくなってきたのだとも言える。じっさい、私は中国を訪ねたとき、彼らのおしゃべりの声が騒々しいのに辟易したことがある。これは言語の発声にかかわることであるから、話をしている人たちのせいではない。だが、抑揚も含めて、飛び跳ねる音の響きが耳になじまないのであった。

 

 中華人民共和国という、冷戦下で接触のなかった国が、国交を回復して経済的にも往来が頻繁になり、観光も含めて具体的に接触するようになると、いろいろな驚きに満たされ、違和感に気がつく。文化・文明の衝突というのは、政治体制とか知意識的な考え方の違いよりも、日常生活的な領域のことの方が、はるかに強い衝撃を与える。仕種を含めた立ち居振る舞い、それに伴う音や体臭など、その人の存在感が異質さを感じさせることによって、もっとも敏感に(なぜなのかわからないがゆえに)体に感じられてくるのである。

 

★ 違和感は気味の悪さ=不信感が先に立つ

 

 尾籠な話で恐縮だが、私にとっては、中国のトイレに接したときほど衝撃的であったことはない。1990年代後半のこと、広東の空港であったか、トイレに入った時のこと。しゃがんだ何人もの目があった。脚の置場はあるが仕切りがない。浅く掘られた落としどころの水路には水が流れており、紛おうかたなく水洗、まさにオープントイレであった。私は一瞬、出るものが出なくなった。私はアウトドアを趣味としているから、青空トイレを含めて、天然そのものには違和感はない。中国のそれは、明らかに文化・文明の違いからくる違和感であった。しかしその話を最近中国に行った知人にすると、まったくそんな気配はないと否定されてしまったが。

 

 その強烈な違和感がこんどは逆に、言説による衝突に接したときに、「不信感」になって表出する。つまり、予測のつかないモノコトに触れたような、気味の悪さが先に立つのだ。もちろん違和感を感じることは、一概に悪いこととは言えない。だが、むかし感じていた「元祖・文字の国」という尊崇の念は跡形もなく消えてしまっていたのは確かだ。

 

 そういうわけで、なぜ中国は気味が悪いのか、と考えていかなければならない。それはとりもなおさず、私(たち)が欧米かぶれしているがゆえに、そう感じるのかもしれないから、自分自身の「傾き」を点検してみることに通じる。そう思ってみると、分からないことが多い。(たぶん)それは私自身が「わからないことが多い」のであろう。ちょっとそう思っただけで、何だかワクワクしてくる。

 

★ しばらくお休み

 

 さて、今日から1週間ほど旅に出る。その間、(たぶん)このブログへの投稿はできない。しばらくお休みになりますが、みなさん、ごきげんよう。


****** 第9回 aAg Seminarの報告(3)

2014-07-30 06:19:55 | 日記

★ 切実な「病気」との付き合い

 

 実際のやり取りは、もっと雑多であり、いろいろな話題が飛び出した。身内で脳梗塞を二つ経験したという話もあった。脳梗塞に効果を発揮する薬が4つあるというお役立ち情報も提示された。つまりみなさん、切実に感じていることがよくわかる。

 

 「脳梗塞はみんなあるよ。小さいのがね。倒れて、おや、なんだろうかと言っているうちに(詰まったところが)流れて、何でもないってことがある。肝心の運動とか思考にかかわる脳神経を詰まらせないかぎり、「無事に」過ごしているってことがある」というHmくんの話は、「病気」と「平生」とを分ける端境を取り払う。それはちょうど、年をとることが、健常者と障碍者の端境を取り払っていくのに似ている。

 

 アルツハイマー型認知障害も、25年という長いスパンで見た場合、どこから「病気」でどこまでが「平常」なのかを(たぶん)特定できない。25年という歳月での「進行度合い」をグラフに書いてあるのだから、どこかで規定できそうな気もする。だが、逆にグラフにしただけで、その端境は、実際生活で区切るしかないのではなかろうか。

 

★ 赤ちゃんをだっこして歩くと泣き止むのはなぜか。

 

 Sさんは「母親が抱っこして歩き始めたら約3秒後に心拍数が低下する。それは脳がリラックスするからだ。座っているときに比べて泣く時間が10分の1以下になる。」と話す。「マウスの首の薄皮をつまんで持ち上げるとマウスの心拍数は低下する」。これもマウスの脳がリラックスるからというのである。

 

 ここで、「脳がリラックスするとはどういうことか」という問いが出されて、展開されていれば、後の話題のところで、つまづかないで済んだかもしれない。心拍数が低下する。「赤ん坊が安心して眠りにつく」ことを「脳のリラックス」というのだとしている。「安心/不安」と「脳の弛緩/緊張」という図式が、よく了解できる。「脳の弛緩」が、「何も考えないこと/ボーとしていること」という(大人の頭の)イメージでは、ちょっと受け止めることができなかった。

 

 「脳のリラックス」が心拍数や心理的な「安心」ということを意味するとすれば、それは必ずしも「脳」の作用ではないかもしれない。私はむしろ、「心」の動きと指摘した方がいいように思う。「心」がどこにあるかということは、それ自体、面白い問題なのだが、「脳」にあると考えるのは、必ずしも多数派ではない。私はむしろ、「心」は「かんけい」を感知する力であり、皮膚の表面にその感知点は遍在していると考えている。顔で笑うと気持ちが明るく、笑いたくなるという研究も、どこかで目にしたことがある。ああしかし、それはまた別の問題として取り上げた方がいいかもしれない。

 

 話題はしかし、たぶん提起者が期待したのとは違った方向へそれた。

 

 「母親が、なの?」と問い。そして(笑い)。
 「父親じゃだめだよ」
 「小さい赤ちゃんも男の人と女の人は見わけするわよ」

 

 と、別の話に行ってしまった。もちろんこれはこれで、面白い[ジェンダー]の話題になるのだが、これまた、別の機会に回すほかない。

 

★ アルツハイマーは先進国病か

 

 Sさんの提起が続く。「衛生的な高所得国の環境はアルツハイマーの発症リスクになる」という研究があるそうだ。ケンブリッジ大学の研究者のものらしい。

 

 「7秒に一人の割合で認知症患者が増加している。その主要因はアルツハイマー型で、40~50%を占める。たとえば全国民が清潔な水を利用できるイギリス、フランスは、ケニアやカンボジアに比べて、アルツハイマー型認知症の発症率が90%高い」

 

 と。衛生リスクがアルツハイマーに関係しているというわけである。

 

 それは、汚濁した水によってなにがしかの抵抗力ができているってことなのか。「不潔だからというよりも、免疫性が高いってこと。アトピーも原始的な方が強いとか。雑菌にまみれて暮らしていると抵抗力がつくってこと?」。疑問が相次いで提出される。アトピーとか花粉症とかの(文明病の)ように、清潔な環境がもたらした人体の脆弱性としてアルツハイマーをみているということなのか。

 

 Hmくんが「生きる年数によるんじゃないの。病気になる前に死んじゃうんじゃないの。」と言ったことで、ひとまずの結論のようになった。でも、ケンブリッジのセンセイがそんなことを見落とすだろうかと、権威主義的な考えがアタマに浮かぶ。

 

 気になったので、あとから話題になった国の平均寿命を調べてみた。ケニア60歳、カンボジア61歳、インド65歳。男女共にした数値。男はそれよりも3歳ほど低い。確かにわが国だけでなく、世界の平均値よりも平均寿命が低い国々である。「発症率が90%高い」と結論付けるよりも、「発症前に死亡する人が9割」という方が、リアリティがあると思った。

 

 ★ 矛盾する砂糖の作用

 

 Sさんは「お酒を長寿薬にする賢い飲み方」を話すつもりでいたらしい。

 

 「1日5~30g位飲む人は、まったく飲まない人に比べ、心筋梗塞などの冠動脈のリスクが女性で42%、男性で31%下がっていた」とコメントにある。1日の数量は「アルコールの数値」であろう。

 

 だが彼女が左党であり、日ごろ日本酒の通として名を売っていることを知っている人が、「それは(いつも聞いている話だから)いい。」と忌避したことで、さっさと次の話題に移ってしまった。

 

 ひとつは「眠れない夜、運転疲れには砂糖をひと口」という「砂糖を科学する会」の小さなコラム。

 

(1) 「寝付けないときに砂糖入りの牛乳をコップ一杯、砂糖が睡眠に必要なアミノ酸を脳に運び、吸収の手助けをするため、安眠を援けてくれます」というもの。
(2) また、「ドライブ中に疲れてきたら、脳にエネルギーの補給を。すばやく脳のエネルギーになる砂糖入りのコーヒーやキャンディで頭をリフレッシュさせましょう。一粒のキャンディは頭をすっきりさせ、安全運転にもつながります」と記している。

 

 このコラム、Seminarでは「砂糖ってそんなにすぐに脳に吸収されるの?」という疑問を引き出しただけで、ほとんど問題にされず素通りしてしまった。だが、不思議な思いは残る。

 

 (1)は「睡眠に必要なアミノ酸を運び」と砂糖を摂取する根拠を説明している。だが(2)では、砂糖のアミノ酸が頭のリフレッシュ、つまり目覚ましの役割を担っている。これって、矛盾ではないのか。ひょっとすると、(2)は「コーヒー」や「キャンディ」の糖分ではなく、カフェインが作用しているのではないか。あるいは、キャンディを口の中に入れているという行為が、例えば唾液の分泌を促し、それが脳の活動を刺激しているのではないか。いくら「コラム」とは言え、「科学する会」が掲載するのであれば、矛盾すると思われることがらの根拠くらいは説明しておくべきではないかと思った。

 

★ 脳のリラックスは「心地よさ」

 

 もう一つのSさんが提供した話題。「脳のリラックスの為にはブドウ糖が不可欠」というコラム。


 「肉・卵・ミルクなどのみ摂取」し、「血中にブドウ糖が少ないと、そのほかのアミノ酸が先に脳に入ってしまい、トリプトファンは脳に入ることができない。」
 ところが「肉・卵・ミルクなどのほかにブドウ糖を摂取」し、「血液中にブドウ糖があると、そのほかのアミノ酸は筋肉に入るため、トリプトファンが優先的に脳に入ることができる。」と、図示して示している。

 

 つまり「タンパク質」の摂取にはブドウ糖を加えることで、脳へのトリプトファンの吸収が促されるという。トリプトファンはセロトニンを生み出す物質なのだそうだが、このセロトニンが不足するとうつ病になると、Sさんは話す。

 

 「脳のリラックス? ってどういうことなの?」と疑問が出た。先述の「赤ちゃんをだっこして歩くと泣き止む」のところで取り上げていれば、「能天気になるってこと?」とか「なにも考えないのがリラックスかね」などと話しがそれることはなかったかもしれない。結局、「うつ病になる/ならない」という対比で「脳のリラックス」をぼんやりと受け止めて、話しは先へ進んだ。

 

 「うつ病」というのは、「いろんなことを積極的にやる気がなくなる」「ただじっとして過ごしている」ような気分の揺れ動きというかたちで感じている。多少なりとも、誰もがその感触を知らないわけではないから、関心を引いた。

 

 Sさんは「脳が緊張している。脳がストレスを起こしている。脳が不安定になる。ところが、甘いものをとるとアルファ波、エンドルフィンというホルモンが分泌される。満足しているときにしか分泌されない。」と言葉を補足する。つまり、「心地よい/快適」と感じているときを「脳のリラックス」と言っている。ブドウ糖の摂取が「心地よさ」を増幅してくれるという話だ。

 

 ところが誰かが「北杜夫は躁状態のときに株をバンバン買って奥さんはたいへんだった」と言ったものだから、「北杜夫は高慢ちき」と非難する声が飛び出す。と、自分の縁戚にいた躁状態の人のケースが話され、「そうだよ周りは困るよ。アイムナンバーワンだと思うんよ。病気だよ。誰でも尋ねていく。しゃべったり活動的。そうして、鬱になると何か月も外に出ないでじっと内に閉じこもる。」と。

 

 野々村という絶叫県議の名前が飛び出し、「でもお金返したんでしょ。」「ママがね」と笑い飛ばして井戸端会議。時間が来てしまった。

 

★ 次回は9月27日(土)15時から、昭和大学で。

 

 次回の講師は、長年住宅事情の取材をしてきたFwくん。テーマは「住宅の商品開発最前線」。ご本人が「まあ、そんなことをやります」とご挨拶をして、夕食会の方に移った。(終わり)


****** 第9回 aAg Seminarの報告(2)

2014-07-29 06:56:05 | 日記

★ 生活習慣か遺伝的体質なのか

 

 「歯周病をマウスに発症させるって、どうやるの?」「歯周病菌をネズミの歯茎に塗るんじゃない?」とか「糖尿病って、刑務所の麦飯を食べていると治るんだって」と挟まる合いの手が、さらに言葉を呼んで、なかなか騒がしい。

 

 「刑務所で100人くらいの人を調査をしたところ、何年か入所すると糖尿病患者の8割は治った」とMyくん。「なにも刑務所に入らなくても、家で麦ごはんを食べられるよね」と誰かが混ぜ返す。

 

 「それは麦ごはんだけじゃなくて、生活が管理されて、すべてが習慣的にきちんとしてきたこともあるんじゃないか」とSさんが付け加える。「脳が糖尿病になってるって言ってたよ」とどなたかがNHK情報。

 

 つまり、食べ物を含めた「生活習慣」が糖尿病などの遠因を構成するということなのだが、それがどのようなメカニズムで認知症に結びつくのかは、わからない。そもそもアルツハイマー型認知症が遺伝的体質によるのかどうかも、わからない。

 

 生活習慣だとすると、自己責任ということになる。私たちの年になると、いまさら「生活習慣」だと言われても、過ぎ去った年月を取り返せるはずもない。どこをどうすればよかったとさえ考えない。つまり、後悔はしない。もう悔しいという思いも起こらない。私たちの時代は終わっているという観念が先に立つのだと思う。それは、我が身の過ぎ来し方を振り返って、(すべて)自らの招いたことだと「得心」することである。

 

 では、遺伝的体質だと聞かされると、どうだろうか。そういう体質に生まれついた不運を嘆くことはあっても、自分のせいではなかったのだとホッとする、だろうか。ホッとするということはないにしても、自己責任という思いは起こらない。まず、生き方に覚悟をしなければならない。そこを起点として人生を考えるというわけである。

 

 これは「諦め」ではない。見切りなのだ。運不運ということも含めて、私たちは幾多の物事を見切って生きてきた。いまこの、家族や地域や友人や社会的な関係におかれた我が身のありようを見て取ることから、私たちの「自我」は出立する。この年になると、生活習慣すらも、すでに形成された「かんけい」なのだと見切るほかない。そうすることによって、すべてを受け入れてカンネンすることができる。

 

★ 医療体制と医療の倫理

 

 「インスリンの点鼻療法が使えるんだね」と声が上がる。「うん、日本は難しいんだよね。そう簡単には認められない。エヴィデンスがきちんとしないと」とSさん。「どうして?」と疑問が投げかけられる。厚生労働省がストップをかけるのは、何を護っているからなのか。保険適用か否かという「医療費モンダイ」だけでなさそうだ。

 

 医師が社会的非難を恐れて慎重であるともいう。もし何か事故があったら「責任」問題が起こることへの防御かもしれない。でも、行政の責任当局がそうした「後ろ向き」の姿勢であるというのと、喫緊の治療法として少々のリスクを冒してもその薬を所望する患者との齟齬が、こんなかたちで現れている。その行政や専門家に向けた社会の(私たちの)視線は、アメリカなど(すでにインスリンが使われている社会)の視線とどこか違うような気がする。そこも、機会をみて子細に調べてみると面白いかもしれない。そのうえで、「医薬品の安全審査」にかける手間暇についても、アメリカなどとの比較をする必要があると思われた。

 

 では、東京女子医大が子どもへの使用が禁止されている(全身麻酔の導入と維持に使われる)プロポフォールを大量に投与した事件、と話題が横っ飛びに飛ぶ。なぜ「禁忌」を無視したのか。いろんな科の寄せ集めであるICUだから、その系統の態勢ができていなかったのではないか。女子医大のチームの責任体制がいい加減だったんじゃないか、と医療関係を仕事にしている人から指摘がある。

 

 (禁忌を無視した)にもかかわらず東京女子医大は、死亡した事例12件のうちの1件だけにプロポフォール投与が原因と認めたが、他の事例は認めなかったというのはなぜか、と話しは拡散する。ICUの薬剤師がなんどかプロポフォール使用の危険を指摘したのに止められなかったのは、なぜか。大学内部の勢力争いが反映しているのではないか、そういえば、この件は内部告発されて公になったと揣摩臆測が飛び交う。こうしたことも、一つ一つ取り上げて考えてみると、とても重要なことがらである。

 

 私たちは、そうしたことの子細にまで踏み込まず、したがって、そのひとつひとつがどうなっているかを確かめることもしないで、我が身の裡で了解できる「出来事」に還元して、「東京女子医大は危ない」と承知する。その了解は、まるごとである。それは「偏見をつくる」ことになるのか、我が身の安全を守ることにつながるのか。女子医大のことだけでなく、あらゆることについて私たちは、そうした「情報処理」をして暮らしを立ててきている。

 

 これを医療関係者の現場において考えるとどうなるか。実際の医療においては、機能的な指揮系統だけでなく、関係者がチームとして動いている有機性が大切だと、強調されている。むろん医療に携わる治療者側だけでなく、患者(家族)の側も含めた、まるごとの「倫理性」を視野に含める必要がある。ここでいう「倫理性」とは、人として「病を治す」ことに向き合う共通の規範性を意味する。あまたの領域に機能分化した治療者と患者の「関係としてのチーム」総体のかかわりが、単に機能的な治療だけでない「医療の倫理性」を保たせるのかもしれない。

 

★ 脳の研究が人間の不思議を際立たせる

 

 おや、いつの間にか「脳科学」の話が、医療倫理の話になっている。まあ、これも的外れとは言えないかもしれない。「科学」的に、MRIなどを通じて信号的に脳の働きをとらえたとしても、それが「人間」を解き明かすようになるには、どうしても「倫理」性に触れなければならない。それが「信号的に」科学/化学的数値として表現されるようになるとは、まだ思えない。

 

 いやそれよりも、人間の思惟が動作を起こす源にあると考えられてきたが、どうもそうではないという「脳科学」の報告がある。火に手をかざして「熱い」とひっこめるとき、「熱い」と認識するよりも先に、手をひっこめる脳の局所が反応を示し、「熱い」という認知をする局所は、それよりゼロコンマ何秒か遅れて反応している、という話が飛び出す。つまり意識より先に動作反応が生起しているのである。Htさんはそれを、「身体の防御反応」だという。脳からの指令で動作が起こるのではなく、身体の各部署が防御反応の判断と動作を行う装置を備えていると説明する。

 

 これは「スタップ細胞はあります」というのに似ている。iPSという特定の細胞が万能細胞になることができるのではなく、すべての細胞が万能細胞になる可能性をもっているというのと、同じ感触である。考えてみれば、小さな細胞という単位一つ一つが遺伝子をまったきかたちで備えている。「理屈」というよりも直感からすれば、すべての細胞が直感的に防御反応をする力を備えていても不思議はない。

 

 むしろ、脳がすべてを統括するという「理屈」を私たちは学習してかたくなに思い込んでいるともいえる。脳の研究は、身体全体の不思議をいっそう際立たせる。最終的には人間そのものの不思議に行きつくといえるのかもしれない。面白い。(つづく)


第9回 aAg Seminarの報告(1)

2014-07-28 07:03:59 | 日記

 昨日は、第9回のaAg Seminar。今回のテーマは「最近脳科学事情」。講師は、薬学研究をライフワークにしているSさん。現在もまだ現役の研究者。このSeminarも彼女のおかげで昭和大学をつかわせてもらっている。今回は14名が参加。

 

 今日は、彼女の研究分野にかかわりのある医療、薬学の窓からみた「脳科学」の成果を拾って、話題を提供するという趣旨。まず「アルツハイマー病」から入ったから、我がことのように皆さんからの発言が起こった。

 

★ 脳の中を覗く技術的深化

 

 認知症の研究が進んだのには、脳の内部をMRIやPETなどの断層写真によって子細に観察することができるようになったことが、影響している。これにより、脳局所の神経活動とその部分の血流の変化とが関係していることが認められ、脳の細部局所がどのような人間活動に結びつているか特定できるようになってきている、という。やりとりの途中で私は、造影剤のようなものを用いないのかと、ふと思ったのだが、聞きそびれてしまった。あとで調べてみると、血流の微細な圧力の差異を造影剤のように感知して測定することが断層写真に活かされているというわけである。

 

 それを今度は逆に用いて、脳の局所活動を信号化して義肢に伝え、義肢でサッカーボールを蹴ることもできる。それが、今回のワールドカップの開会式で披露された先端技術であった。

 

★ 内と外からの脳障害と高齢化

 

 認知症には、脳血管障害によるものとアルツハイマー型とがある。前者は、脳梗塞や脳出血などによって脳の局所の活動が阻害される、いわば外部的に引き起こされる脳の機能障害。後者は、脳の内部から発生する機能障害と言える、とSさんの話ははじまる。前者が大部分を占める。

 

 しかしアルツハイマー型以外に、高齢化に伴う(身体や)脳の劣化も進行するであろう。物忘れするといっても、なかなか思い出せないことと出来事自体を忘れてしまうこととの違いがあると言われる。前者は加齢による自然なこと、後者は認知症の症状と言う。その見分け方を知ることによって、自己診断(あるいは、身近な人の症状を判別すること)ができる。

 

 Myくんから知り合いの知人が、会うごとに歩けなくなっていく例が話される。危なっかしく歩いていたのが、両側から支えられるようになり、車椅子をつかわないと一緒に動けないことに至る。皆さん心当たりがあるのか、静かに耳を傾ける。ゴルフをしているグリーンの上で突然、「あれっ、俺なんでここにいるんだっけ」と言い出した知人の話には、笑ってしまったが……。

 

 近年MRIやPETなどの診断を通じてアルツハイマー型認知症の発見は、かなり早期にできるようになった。「早期にって、どれくらい早くなの?」。アルツハイマーの始まる(と推定される)のは25年ほど前からだそうだ。はじまってから15年ほどして発症するようなのだが、MRI検査によって、早期に調べることができるようになった、と自分の受けた診断(結果は、あんたは大丈夫じゃと言われた)を披歴する。それも保険でやってもらえるんよと、脳梗塞を患ったことのあるKmさんが言葉を添える。

 

★ アルツハイマー型認知症の少し明るい未来

 

 アロマの方からいうと、とSさんの得意分野から話が進む。鼻が利かなくなるという症状からアルツハイマー型のはじまりを発見することができる。あるいは、歯周病を発症させたマウスの方が認知機能障害が増悪することも分かってきた。さらにまた、アルツハイマー型の病理変化がインスリン・シグナリング系の遺伝子発現の低下をもたらすことが分かり、糖尿病がアルツハイマー病の発症に結びついていることが予測されるようになった。逆に、糖尿病の治療に用いられているインスリンがアルツハイマー病の進行を抑制するのに効果をもつことが指摘されるようになった。すでに欧米では、インスリンの点鼻療法が行われており、認知機能の低下を遅延させる効果が認められている。とSさんの話は続く。何だか別件逮捕みたいな話だと、私は思う。

 

 脳血栓や栓塞症の治療に効果的とされる抗凝血剤のワーファリンが、認知症進行を抑えるのに効果があると分かり始めたという。脳梗塞の再発を防止するのにつかわれてきたシロスタゾールも認知症の進行を止めるのに効果をもたらすという結果は公表されている、とSさんのコメントがつづく。

 

 少し(値段が)高いがプレタールもいいそうだと、そちらもその領域でかかわっている人の口が挟まる。そう言えばNHKのTVでアルツハイマー型認知症の進行を食い止めるのにシロスタゾールが効果的だとか、そういうことをやっていたと、少し細かく話が飛び出す。それについてもひとしきりやりとりがなされる。身に迫った関心の高さを感じさせる。 

 

 だが、抗凝血剤がアルツハイマー型認知症の進行を抑制する効果をもつらしいことが分かってきたというのは、「希望」をもたらす。レーガン大統領がアルツハイマー型認知症であることを(奥さんが)公表して、世の中が(元大統領を)そっとしておくことにしたとき、「勇気ある振舞い」と思った人たちも、いまならばいろいろと言葉を添えて励ますことができるだろうと思う。(つづく)


「災厄」すらもわが人生と考える屹立する主体が問いかける

2014-07-26 11:04:51 | 日記

 岡映理『境界の町で』(リトルモア、2014年)を読む。東日本大震災と福島原発の暴発によって警戒区域に指定された地域を経めぐって、その様子を記録したドキュメンタリー。

 

 震災が起こったとき著者は東京で雑誌の記者をしていたが、フクシマ取材と雑誌企画と自分のありようの落差に悩み、ついに雑誌記者をやめて警戒区域に入りびたりになる。その取材の経過と人とのかかわりと、取材している自分の立ち位置とを一つ一つ自らに問いながら書き留めて、フクシマのモンダイを浮き彫りにしていく。「境界の町を」語るドキュメンタリーは多いが、「境界の町で」自らの日常と警戒区域に生きる人たちとの対照は、読む者の思考回路に食い込んでくるものがある。

 

 一番私が感銘を受けたのは、楢葉町に住む伊藤巨子(なおこ)さん。3月11日から一度も避難をせず、自宅に住み続けている。昭和23年生まれというから、私のすぐ下の弟よりひとつ若い。93歳の母親が寝たきり状態であったからではあるが、この地を離れる意思はないという母とご亭主と3人で残り、暮らす。全町避難のために(電気を別として)ライフラインは消滅し、ご亭主が水を汲んできては風呂桶に溜めてトイレに使ったりする。ペットボトルの飲料水や日々の食糧、おむつやティッシュ、ウェットティッシュなどを救援してもらったりする。ときにいわき市まで買い物に出るなどしながら、暮らす。

 

 彼女がつけていた日記を著者は紹介する。坦々と3月11日から後の事実を記録している。警察が来て避難するように勧める。自衛隊が来て老母を運ぶともいう。それらをすべて断る。そうして、このように記している。

 

 《 4/8の自衛隊の方にも話したことは、原発の現場で働いている(作業員)方々のことも考えてくださいと。……原発の事故に関しては、この土地に誘致したときから万一の事故というのは想定していなければならないことだったと思います。……私は東電より恩恵を受けた部分はないし、東電を擁護するつもりはありませんが、これからのことを考えるときに、ここにいて自分自身で体験できるこの瞬間を生き抜き、今後の原発との共存共栄のあるべき姿はどのようにすべきか、この事故を土台に前進すべきと考えます。私たちのように避難しない行為をわがままと解釈する人たちがいるやもしれませんが、それも一つの意見と考えています。》

 

 ここに自律した主体を見た、と私は感じる。原発を自らが望んで誘致したわけではないが、それを受け入れて暮らしてきた全存在を、事故の後も引き受け、誰を責めるでもなく我がこととして判断し対処している。この、「災厄」すらも我が人生と考えてかのような伊藤巨子さんの屹立する姿こそが、では、お前はどう生きているかと、問いかけてくる。問いかけられる「お前」とは、東電の幹部の人たちであり、政府当局者であり、産業界の人々であり、その電力に依存して豊かな暮らしをしている都会地の私たちである。

 

 「お前」と問いかけられた私は、それほどに自律しているか、世の中に依存していることも含めて、すべてを我がこととして受け止めて己を侍しているか、と問いを変換して、日々のおのれを見つめなおしている。この本自体は、熟成度が高くなく、著者の対象化する自我が雑音のように煩わしい。しかし、見た・聞いたことごとを一般化しないで、きちんと記していることが、伊藤巨子さんの存在を引き出すことができたのである。このようなフクシマの「報告」に巡り合えたことを、感謝している。