mukan's blog

つれづれなるままに ひぐらしPCにむかいて

自治と統治の兼ね合いと民主化への移行はどう進むのか

2016-05-31 08:52:32 | 日記
 
 天児慧『「中国共産党」論――習近平の野望と民主化のシナリオ』(NHK出版新書、2015年)を読む。2014年11月の36会Seminarで「中国問題」を取り上げた。それからまだ、ほんの1年半しか経っていないが、関心の焦点が変わってきている。2014年には中国の国内問題が対外関係にどう噴き出すかを探っていた。だが、その後1年半、日中関係は良好とはいえないまでも、かつてのようにぎすぎすと揉む気配はない。加えて中国は経済成長も鈍化しはじめた。高度成長段階が終わり、安定成長へ切り替える時期に来ている。となると、社会の諸方面にわたる驚くほどの「格差」に手を付けなければ、共産党の独裁とは言え、「自治」を通しての「統治」という支配体制であるから、構造的な改革そのものが、難題となっている。なにより中国は今、「大虎の腐敗・汚職」に対処して、何人もの要人を排除している。それが権力闘争なのか、中国共産党の独裁を維持するための「改革」なのか注目が集まる。国内の「格差」状態が果たしてうまく軟着陸地点を見出せるか、懸念されるようになった。「大国主義」方針で国内のナショナリズムを刺激して国内不安を乗り越えようとしているが、どうなのだろう。そんなことに、この本は目配りして、最新の状況をよくつかんで見せてくれる。
 
 ひとつ気に止まったこと。中国の統治体制を「包」と総括している。わかりやすい。「包」というのは「請負」のこと。中央政府の「指定した内容を担保するなら、あとはあなた(地方政府や関係組織)の自由にしてよい」という意味であり、「不確実性が高いとき、請負方式はとりわけ有効性を発揮する方式」とみている。つまり、社会の隅々にまで「中央政府」の意向を通そうとすると、地方政府やその下部機関の自治を組み込んで請け負わせるという「あいまいな」やり方が、これまでの中国で行われてきている。それが「腐敗・汚職」を生み、かつての軍閥のような地方の「土皇帝」を排出させている、と。つまり、王朝時代と酷似する共産党体制だというのである。「腐敗・汚職」を放置しておくと、民衆の(広がる格差への)不満が爆発する。といって、あまり徹底的に「虎退治」をしてしまうと、地方政府の「自治」が委縮して、うまく進まない。その「自治」と中央政府の「統治」との兼ね合いが取れないと、民衆の不満は中央政府に向いてしまうから、「共産党独裁」の正統性が疑われる。習近平はその危ない綱渡りをしているとみる。当然、「腐敗・汚職の大虎退治」もほどほどにすることになろう、と。
 
 エリートが「先知・先覚」して、「後知・後覚」の民衆を領導するという共産党の前衛理論が崩れてしまえば、共産党独裁の正統性は瓦解する。それを「大国主義的ナショナリズム」を煽ることによって取り繕おうとしているとみているのだが、米中のG2的な大国主義が通用するには、中国は知的・道徳的主導性において、国際的にはとても信頼されない。だから南シナ海で力づくの横車を押しているともいえる。それはしかし、中国国内の経済の停滞気配がつづくようになると、早晩無理筋となる。そのとき噴き出すのは、民主化への動きであろう。
 
 中国にとって痛しかゆしなのは、香港。一国二制度としてスタートはしたものの、香港の民意を尊重していては、大陸の民主化要求が強まってしまう。香港の言論の動向に神経をとがらせている中国は、目下(公然とひそやかに)言論弾圧をして、統制を強めようとしている。だがそれが何をきっかけに爆発するかわからないとなると、中央政府自体が、自らの主導で「緩やかな民主化」へ軌道修正をしていかなければならなくなる。どこから手を付けるか。共産党組織の地方組織の「役職選挙」を行うことから、民主化を推進するか。あるいは地方政府の首長などの選挙を(共産党地方組織の領導の下に)実施する方向をとるか。著者は、脱出口を(日本モデルを採用した)「緩やかな民主化への移行」として提案しているが、どうなることか。政治的な状況ばかりでなく、大気汚染や水質悪化など、暮らしそのものの改善も喫緊の課題になっていて、これもまた、火種になりかねないほど切迫しているとみえる。日本への影響もふくめて、目が離せないし興味は尽きない。

やっと近代的市民たちが寄り集う社会

2016-05-28 09:31:08 | 日記
 
 久々の雨、でもないか。25日にもちょっとばかり降ったようだが、私は山を歩いていたので、パラパラと落ちてきたのを気に留めた程度。このところ晴れの日がつづいている。陽ざしの下は暑いが、ほどほどの陽気。いい季節だ。
 
 昨日は午後半日、我が団地の定例総会でつぶれた。例年なら午前中半日、3時間で終わるのだが、今年は長期修繕計画の策定と修繕費や管理費の値上げもあって、5時間の長期戦になった。といっても、すでにその大半は年度の途中に設けた「説明会」で公表しているから、じつはしゃんしゃんと進めればいいものを、なぜか「議決を記録したい」と全部投票にした。参加者の全員の賛成で承認された人事議案が1本、残りの11本は、反対が3票から10票。1割にも満たない。なぜ(例年通り)「賛成多数」としなかったのかその理由を問いたいくらいだが、でも反対の数が明確になるのは悪くない。
 
 やりとりを聞いていて、こいつは執行部の回答がヘンだと思うのがあった。長期修繕計画の項目を全部実施すると3億円ほどかかる。ところが、予算は2億2000万円ほどしかない。そこで、一応全項目を実施したときの「見積もり」をとって、予算を超えたときは、後回しにする「項目」をピックアップして選び出すというのを承認してもらいたい、というのが「原案」。第一回の長期修繕計画のときには、見積もりが予算額の6割ほどであったのだが、今は2020年の五輪などもあって目下業界は「値上がり気味」。いくらになるか「わからない」のでそうしたいというわけ。見積もりを出す業者は「全体を見計らって見積もる」から、一部だけ取り出して予算に合わせるというのは「おかしい」、最初から「予算に合わせて(不要不急の項目を取り出して)」見積もり請求を出すべきだと、やり取りしている。双方ともそれなりに言い分があるとは思った。
 
 ところが、やりとりするうちに苛立った理事長の応答がヘンであった。異議を申し立てる人を名指しで、「あなたは修繕委員会にも出席していて同じことを言ってきた。平行線だよ」と難じた。おいおいそれはヘンじゃないか。反対者が「総会」の場で反対を表明することは、私のような平構成員にとっては初耳。原案を作成する段階での反対を公然と表明してもらわなければ「気付かない/わからない」ことが多いから、ありがたい。理事長の発言は、反対論を封じるような響きをもつ。そう感じた。だから、その議案の「原案」に反対ではなかったが私は、「反対」に1票を投じた。
 
 なにしろ修繕積立金の値上げが尋常ではない。我が家は44%、もっと高い棟では77%の値上げになる。もちろんこれも、長年値上げを先送りしてきた結果を、今回の理事会が全部引き受けて初めて値上げを提案するのだから、いうならば26年間の据え置き分を全部引き受けている。それでも必要資金(という専門業者の見立てによる見積もり)の7割程度。後日、緩やかに値上げをしていく見通しもたてている。その値上げが身に堪える人たちからすると、不要不急の「修繕」は後回しにしてよと思うのも、よくわかる。
 
 皆さん交代で理事を引き受けてやっているから、たいていのことは「承認」しておこうと、私は思う。ご近所づきあいと私は考えているから、出来るだけ平穏に済ませようとする。わりといい加減にコトをとらえるという私の才能は、案外こういう時に力を発揮する。まあ、いいじゃないか、そう細かいことにことにこだわらなくても、と。
 
 だが、仕事をリタイアした人たちの多いご近所には、不動産管理や電気関係とか建設関係とかその発注者側の仕事や総務・経理関係の仕事をしてきた方もいる(むろんまだ現役の若い人たちもいる)。皆さんそれらをそれぞれに背負っているのだが、「総会」という場でその経歴は(ひとまず棚上げして)やりとりが交わされる。それが、ついつい(説得力を持たせるために)余計なことを口走ってしまう。それに反応する人たちには、そうした社会的関係の仕事に対する「怨念」も籠っていたりするのかもしれない。その背景を捨象したままなされるやりとりは、深さや奥行きを読み取ることが難しい。理事長の苛立ちとか「賛否の投票」は、ひょっとすると「明確な反対」に突き当たって、それをあいまいにしないで置きたいと考えた結果かもしれない。とすると、いよいよなあなあでやって行くのは無理ということだろうか。ご近所世界が他者性を明確にして、構成員の「賛成3/4」で評決する重要事項決定の「数の争い」をするところにきていると告げているように思える。やっと近代的市民たちが寄り集う社会になってきたのだね。
 
 そう思うと、私も、敗戦後の「混沌」に身を置きながら、大きくは古い日本の共同性に身を包まれて育ってきたのだなあと、ふと71年前のおぼろな記憶をたどって深い感懐に囚われる。大きな時代の変化と社会の推移を感じる。昔が懐かしいというよりも、ヨーロッパ的市民社会に身を置くようになっていることを、寿ぎたい。向こうさんはいま、揺り戻しで理念先行的なことが嫌われ、異質者排除でまとまろうと「同質性の共同性」へ舵を切りはじめているようだけれど。

すべてを「いただいています」と感謝したくなる

2016-05-28 09:31:08 | 日記
 
 ダニエル・チャモヴィッツ『植物はそこまで知っている』(矢野真千子訳、河出書房新社、2013年)を読む。副題は「感覚に満ちた世界に生きる植物たち」。原題は「WHAT A PLANT KNOW ――A FIELD GUID TO THE SENSES」。
 
 動物と植物の遺伝子にそう大きな違いはないのではないかと考えた著者が、私たちの感受する「感覚世界」を植物はどう感受しているかいないかをまとめて、述べている。面白かった。言われてみればなるほどと思うのだが、植物がそのように世界を受け止め、(世界と)交信しているとは思いもしなかったからだ。つまり、読んで、私の世界を見る視覚が変わったと感じた。
 
 見る、匂いを嗅ぐ、接触を感じる、聞く、位置を感じている、憶えているという六つの「感覚」を、どう植物は処理しているかいないか。古くは17世紀から2011年までの研究を集約して、記述する。私など、山を歩きながら触れる樹木や山野草ていど。おおっ、珍しいとか、やあ、きれいだなあとか、樹木や草花の置かれた環境と気象条件から感じるたたずまいを愛でるばかり。それが、こんなにも植物は「感じている」のだと思うと、ひときわ愛おしくなる。愛おしくなるという言葉の響きが私という人間の優越性を前提にしていると思うので、すぐにそんなことはありませんよと、訂正を入れたくなるが、植物はすごいなあという感嘆とともに、我が祖先に触れているような尊崇の念を感じている。
 
 思えば、生命の誕生の旅をたどり返してみると、植物と動物が遺伝子においてかなり共通部分をもっていて何の不思議もない。なにしろ生命は35億年の来歴をもつのに対して、現生人類、ホモ・サピエンスは10万年ほどしか経っていない。DNAが「10万年/35億年」ほどしか違わなくても、さもあらんとうなずくばかりである。でも、どうして植物が「感じている」と思わなかったのであろうか。
 
 いや、苗を育てるのにベートーベンを聴かせているとか、モーツアルトの方が生育がいいとか聞いたことはある。だが、育苗家の趣味の話しぐらいに受け止めていた。その私の判断は、じつは、あまり間違いではなかったが、音を聞いているのではなく、空気の振動をそれとして受け止めているのを「感覚している」と思うと、一挙に世界が違って見える。人間だって、空気の震えを「音」として脳内で処理しているに過ぎないのだ。ただ脳をもたない植物が「音を聞く」感覚をもつはずがないと、決めてかかっていたからであろう。だが考えてみると、「音」としてでなくても「振動」として受け止めて、何かが近づいてきている、触っている、葉を食べている、幹に穴をあけて潜り込んでると受け止めたり、それが害をなすものと理解して、防御的になにがしかのガス(気体)を発生させていたり、他の樹木が発揮するガス(気体)を感知して、未だ害を受けていない樹木が防御の態勢をとるとなると、これは明らかに「交信」し世界を共有して共存しているといえる。動かないだけ、他の動植物を捕食するのではなく(食虫植物は例外とするが)、炭酸同化作用によって栄養源を摂取しているという違いがあるだけ。なんと素晴らしい佇まいではないか。あるいは子孫を残すために色を付けて媒介者の虫類を呼び寄せる業なども、なにがしかのかたちで「色」を識別している、その結果、うまく色を発揮したものが生き残るというように、色気づいて来たともいえる。それら、これまでも私たちが植物の系統発生の特性と見ていたものを、「濃淡を見分ける」ばかりでなく何色かの「色の識別」をしているとみてとると、はて、どのようにしてそれをなしているのか、どうそれを「認知・認識」しているのかと疑問が次々と広がる。植物学って、面白そう。
 
 驚いたのは、「感覚」のひとつに「位置を感じている」という項目を入れたこと。要するに植物が、下に根を張り、上に芽を出す上下の位置関係を、何によって関知して、そうしているかという疑問を解き明かす。しかも著者はそれを「第六感」と呼ぶ。ほほう、「第六感」って、そういうことだったのかと、つい惹きこまれる。重力の関知を私たちはどうやっているのだろう。三半規管という平衡をつかさどる検知器があるとは知っていたが、これを「感覚」と思ったことはない。だが言われてみれば、これもたしかに「感覚器官」である。どうして私は、これを「感覚」と受け取っていなかったのであろうか。
 
 そればかりかもっと驚いたのは、植物が「憶えている」こと。葉が裂けたり枝が折れたり、環境条件が変わったときに過去の経験を思い出して生長のしかたを変えるという。こうした長期の記憶やトラウマを「記憶」し、次の世代にDNAを変えるのではなく(エピジェネティクスというらしいが)伝えることをしているというのだ。これも、私たちの現在持っている「感覚」が、35億年にわたって連綿と受け継がれてきた系統発生の末にあるという、不可思議なつながりを思い出させる。いやはや、優位な立場に立つというよりも、あなた方植物様のおかげで今の私があるのは間違いないと感じさせる。食べるときばかりでなく、すべてを「いただいています」と感謝したくなる。

何を親世代から受け取ってきたのか(4) 顔を洗って出直せ

2016-05-27 14:54:20 | 日記
 
  「国際政治における軍事力行使の免責」――これが、1951年9月に結ばれ翌年4月に発行したサンフランシスコ講和条約における日本の現実的立場であった。軍事的には米軍に追随する道である。以後現在まで、その立場は変わらない。変わったのは私たちのうけとりかたであった。「戦争責任」としての「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」具体的かたちである「非軍事化」方針が、いつのまにか経済的な力の伸長によって「安保タダ乗り論」にすり替わって来た。その転換点になったのが「60年安保」であった。
 
 砂川判決のことに触れたついでに、60年安保のことにも触れておこう。私たちは戦中に生まれ、敗戦の混沌の中に育ったといった。この「混沌」は(世界の見方として)何を私たちの身体に刻んだか。(占領軍という)栄光と(日本という)悲惨、強いものと弱いもの、小ずるく賢いものと正直で馬鹿なもの、運よく(無事に)生きのびたものと不運にも親を失い体の一部を傷つけたもの、清潔で健康でありたいが黴菌や病気に取り囲まれた暮らし、よく起こる停電。そうして、先述した裏と表、建前と本音、ウソとホント、二枚舌の存在であった。
 
 つまり、「戦争責任」の表明であった憲法前文=「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」を、果たしてどこまで誠実に希求したであろうか。私たち庶民はそう願ったかもしれないが、それを「民主主義」を通じて主権者としてどう具現しようとしてきたか。それが問われていた。政府は二枚舌を用いて誤魔化している。「お上」は相変わらずそういうものだと考えてきた。そこにくさびを打ち込むことが出来たろうか。
 
 今思い返すと、占領下の帝銀事件や松川事件など占領軍がかかわったとされる出来事の「裏」が読み解かれ、松本清張の『日本の黒い霧』が「文藝春秋」で連載され評判となったのは、言うならば「敗戦後の混沌」から学び取った庶民の鬱屈をあらわしたものであった。だから、片務条約と謗られた安保条約を少しでも相互性を体した条約に改正しようとする岸内閣の「60年安保改定」のときも、ほとんど改定される条文に目をやることなく、ふたたび(今度は米軍に組み込まれて)戦争への道を歩んでいると、受け止めたのであった。それが、あの「60年安保」と呼ばれる騒ぎになったと言える。
 
 当時私は、岡山の片田舎の高校3年生。高校でも放課後に「討論会」がもたれ、教師も交えて「安保に賛成か反対か」とやり取りをしていた。いまの、18歳選挙権が付与される事態を迎えても、まだ学校のなかでの政治活動は許されないとするのが大勢であるのに、当時の高校は、(たぶん生徒会の主導であったろうか)教師も参加して、校内討論会をもつほど「民主的」であった。私は「憲法の平和主義を順守すべし」と主張したのに対して、社会科の教師が「理想論でなく現実をみよ。石油が運べなくなったら、日本経済は壊滅する」と「戸締まり論」を主張して、それを論破できなかったことを覚えている。なぜ覚えているかって? それがひとつの引き金になって(理系のクラスに身を置いていたのに)私は経済学を勉強する道に進むことを決めたのだから。
 
 その前年から私は、東京の大学に在籍していた長兄や次兄が、帰省して話したり、彼らの同級生と家に集まって「ラジ関」の録音テープを聴いたりしていた傍にいて、耳学問をしていた。そのなかに「宇野経済学」という先進の経済学があることも含まれていた。長兄が全学連反主流派の強い大学自治会、次兄が主流派の大学自治会にいることも小耳にはさんでいたが、その違いなどについては何も知らなかったし、兄たちの間でその主張が対立しているとも思えなかった。いま思うと、「反安保」は「戦争責任としての憲法の平和主義を守れ」という動きであった。私などはほんとうに純朴にも、裏表のない日本の政治を望むというほど、ナイーブな心もちであったと、気恥ずかしく想い起す。
 
 「敗戦後の混沌」に憲法がもたらした「平和・人権・民主主義」という「希望」に、庶民は(対外的にも)、戦争責任を踏まえていると感じとっていた。それが二枚舌で壊されていくのではないかというのが、「反安保闘争」であった。安保条約の改定は、いくらかでも条約の「相互性」を付け加えはしたが、岸内閣を倒したことで鬱屈は晴らされ、次の池田内閣が「所得倍増計画」を謳ったことに心惹かれて、高度経済成長に邁進した。エコノミック・アニマルと揶揄されはしたが、80年代にアメリカを追い越したことによって「果たしてどちらが敗戦国だったのか」と評されるようになり、敗戦国として軍事に追随していることを忘れて、「日米同盟」などと錯覚した用語法で、二重に自己欺瞞の轍を踏んでしまった。
 
 戦後生まれの政治家たちは日本がG7二隻を連ねていることに気をよくしてすっかり忘れているかもしれないが、国際政治的はいまだに、大戦時の連合国体制が国際連合と呼ばれるかたちで、日本とドイツを「敵国」とする条項を堅持しながら、つづいている。つまり、日本は永続的に敗戦国として国際社会に位置して、「戦争責任」を問われ続けているわけである。もし「ふつうの国」になろうというのなら、「敵国条項」を削除した国際機関に迎え入れられるように、「平和憲法」に代わる「戦争責任」を総括して再出発するのか、そこを明確にしなければならない。
 
 それには、大東亜戦争をなぜ開戦したのか。直前のシミュレーションで到底勝てないと結論を得ながらなぜ、太平洋戦争に突入してしまったのか。その後になぜ手ひどい敗北を蒙り臣民の犠牲が拡大していることを座視しながら、戦争終結を長引かせてしまったのか。それらについて、国家の決定過程や統治構造、支配体制、その暴走をチェックする方法をしっかりと提示する必要がある。なによりも法的に国民を動員するのではなく、国民国家のナショナリティが形成されていくような「知的・道徳的主導性」を社会に根付かせていかなければなるまい。
 
 そのためにはまず、二枚舌をあらためなければならない。今の安倍政権のように自尊意識ばかりが強くてイヤなものに目を止めず排除してしまうのでは、たとえ一枚舌でも困ったものだと思う。他者を組み込んだ、多様性を包み込むことのできる「知的・道徳的主導性」をこれから70年ほどかけて作らなければならないのじゃないか。
 
 顔を洗って出直せと、現下の国家権力の暴走ぶりを見ていると言いたくなる。(つづく)

涼しい箱根外輪山を歩く

2016-05-26 15:09:38 | 日記
 
 山の会の5月月例会。24日に箱根・小涌園に宿泊し、25日に登ろうというプラン。どうして? と問うた、元気のいい若いKzさんは、早朝に家を出て登山口で合流。なにしろ7時間半近く歩くから、早朝出発では身体にこたえるという年寄り登山への配慮。小涌園に泊まると言っても、贅沢なホテルではない。B&Bを基本とする温泉宿。3000円以下で泊まれるが、ご近所のイタリアンレストランの食事付きで4600円というのが目を惹いた。いまどき山小屋でも二食付きだと8000円を超えることを考えると、格別のお値段。それが、森に囲まれ、施設もこざっぱりとして洋風。アメニティはそれぞれが全部有料になっていたが、小涌園の園内の経営らしく、思わぬ拾い物をした気分であった。宿泊客は(朝になって分かったが)ずいぶんと多く、大半が作業員風の服を着ていたし、ビジネスバッグをもって出かける風情であったから、何か近所で行っている仕事の関係者なのであろう。
 
 朝、タクシーを予約して登山口まで運んでもらった。箱根は道路が四通八達していて、タクシーの運転手などは裏街道をよく知っている。昨年の早雲山の噴気爆発以来、外国人の観光客は減ったが日本人観光客はそうでもないという。だが私の感じでは、電車のなかでも宿近くの道路でも、交わされる中国語が耳に響いた。人も多い。車はヒメシャラ街道を抜けて仙石原を走り、公時神社まで20分ほど、運転手は箱根の最近の様子やヒメシャラなどを紹介して、手際よく送ってくれた。そこで、日帰り参加の若いKzさんと待ち合わせ。
 
 先着の人たちに先に歩き始めてもらい、KhさんがKzさんを待って後を追うとしたが、彼らはすぐに追いついた。公時神社の境内には、巨大な鉞(まさかり)がさりげなく大木の傍らに置いてあったりして、いかにも説話の由来によってしつらえられた神社のようであるが、入口の鳥居とその向こうに見える社殿の後ろに金時山がどっしりと控えているのが、説話由来よりも厳かさを醸し出している。
 
 空は曇り。十日前の箱根地方は「曇りのち雨、降水確率80%」であった。それが一週間前には「曇、降水確率40%」になり、昨日出発する前にみると「9時晴、12時曇、15時晴、降水確率10~20%」と良くなった。私は雨男、一昨年から昨年にかけて、何度も雨の登山を案内することが多かった。ところが、晴女を自称するMrさんが参加する今年の1月からは、7回もの間いつも晴れている。今回は私のオーラが勝つかと思っていたが、やはり晴女の霊気にはかなわないようだ。平地は暑くなると予報があったが、曇りのおかげで涼しく、今日のように長い山行にはありがたい。先頭を歩くKwさんの歩度もよく、順調に高度を上げる。女性陣はときどき立ち止まって草花の詮議に余念がないが、それでもコースタイムより少し早く中腹に着き、そこを中腹と教えてくれた、先行していた地元の登山者を、後には追い越して山頂に立った。さて、富士山は見えるか。先頭で山頂にたどり着いた晴女が「やったあ、富士山!」と声を上げ、今日も彼女の勝利が確定した。どんよりとした雲が覆いかぶさる空と下から湧き起ってくる雲の合間に、東側山頂に多くの雪を残した富士山がどっかりと姿を見せている。次々と登ってくる人たちも、嘆声をあげる。カメラに収める。Mrさんは記念写真を撮ってもらいながら、「いえ~い」とVサインをする。遺影にしようというわけだ。
 
 15分ほど山頂で過ごしていよいよ稜線歩きをしながら、火打石岳を経て明神岳に向かう。小さなアップダウンを繰り返しながら、外輪山の東側をめぐる行程。外輪山の西側はしかし、半分以上が雲の中に隠れている。早雲山も雲にけぶりながらも姿を見せ、大涌谷の噴煙は雲と見境がつかなくなっている。矢倉沢峠で右に仙石へ下る道を分ける。ハルジオンやヒメジョオンが背を伸ばしている。背の高い木に白い花を見つけてKhさんがミヤマウグイスカグラじゃないかという。ちょうど盛りを過ぎたころか、花を落として地面をく染める。小さい蝶が地面に張り付いている。黒褐色に白い斑が鮮明に入って小ぶり。気温が下がって飛び立つことができないのかと思った。Aさんがミスジチョウの仲間じゃないかという。
 
 花は賑やかに咲いている。ヒトリシズカ、フタリシズカ、ウマノアシガタ、サラサドウダン、ヤマツツジが目に留まる。ヒロハアマナの葉のように長く伸びた葉の中央部に白い線が入っている葉がひときわ目に着き、なんだろうとやりとりしている。ナルコユリかなとKhさんがいいながら、下をめくってみると二つ花をつりさげて、茎の下の方へいくつもつづいて花をつけている。Kwさんがウラシマソウよと傍らの人に話している。長い釣り糸のように花を先を細くして長く伸ばしている。またマムシグサに似たかたちの花をミミガタテンナンショウじゃないかと、花脇を見るように触れてここがミミとKwさん。アズマギク、ヤマボウシ、オオカメノキ、ガマズミも、今が旬という感じで花をつける。大きなフジをつけた大木があり、その先にクマザワの合間から顔を出して釣り下がっているフジもあった。クサボケが一輪、咲き遅れたようにひっそりとササのあいだに顔を出す。明星が岳を過ぎて下山にかかった、日当りのいい南西面にお花畑があった。色とりどりの花がたくさん咲いていて、おっと驚かされる。脇の看板に「箱根大文字焼き」の説明書きがあり、8月16日にこの場所で「大文字焼き」をするという。なるほど、下の方に強羅の町並みが小さく軒を連ねてみえる。その町に出る手前の、スギ林に暗くなっているところに、キンランが一輪咲いていたのは「おまけのご褒美」という感じであった。
 
 上り下りを繰り返し、花を見ては立ち止まるようにしながら稜線を歩いていたせいもあってか、火打石岳に着いたのが11時35分。明神岳まであと40分というところだったので、ここで昼食。「ひと休みしたら、大丈夫、元気になった」と誰に問われるでもなくAさんが独り言ち、12時10分に出発。登山道の傍らに「240」などと数字を記した葉書の大きさほどの小さい標識が打ってある。その数が見るごとに減っていく。よくみると「50mごと、箱根町」とある。これは箱根湯本からここまでの登山道につけているらしい。「ということは、あと12㎞」だ、「いやあれから2㎞来たってことだよ」などと言いながら歩を進める。風が強くなる。稜線とは言え、明神岳への登りは結構あるように見える。振り返ると、金時山も雲に隠れているが、富士山だけが風に吹き払われた雲間に顔をみせる。前を歩いていたKhさんに声をかけ、しばし見とれる。ほかの人たちはずんずん先へ行ってしまった。13時5分前に明神岳に到着。手前の背の高いクマザサに身を隠すように、何人もの若い人が強い風を避けて座っている。「体を冷やさないようにしてください」と声をかける。富士山はもうすっかり雲の中。早雲山も見えず、大涌谷の噴煙も、雲と一緒になって噴いているかどうかわからない。
 
 ここから箱根湯本駅までは3時間45分の行程。つまり、予定通り行動すると5時前になる。これからくたびれても来るだろうから「ここから宮城野に下山しようと思いますが」と私がもちかける。Kwさんが「せっかく来たのだから、明星が岳に寄ってから宮城野へ下りませんか」と提案し、「そりゃあそうよ、もう二度と明星が岳に来ることはないんだから、いきましょう」とSさん。45分余計に歩いてでも、明星が岳に行くことになった。「これと言ってみるべきところはないんですがね」と私は日和気味に言ったが、誰にも取り合ってもらえなかった。
 
 強い風も、クマザサの陰に入ると和らいで、気にならない。身体も冷えず、歩調は落ちない。ところどころの花が気持ちを和ませてくれるのも、ここまでの行程と変わらない。正面に台地上に高い明星が岳が見える。「明星が岳 15分 →」と標識がある。「え~っ、あそこまで15分なんて、行けないよねえ」とMrさん。黙々と歩く。11分ほど歩いて宮城野への分岐に着く。そこから明星が岳の山頂まではわずか2分。だが、登山路から少し脇に入ったところの「明星が岳」の標識は、それがなければどうしてここが頂上なの? と思うくらい、平坦なところにポツンと建てられていた。ただ、その横に立ち枯れた2本の木に横木を渡してしつらえたような、古びて、今にも倒れそうな鳥居があり、その奥に小さな岩室とその上に「御嶽大神」と彫り込んだ大きな石標が建てられてあった。まあ、こんなところよというのも、山頂といえば言える。山頂が小高くて、見晴らしがいいばかりとも限らないというのは、これまであちこちの山を歩いて、わかったつもりになってはいたが、こういう大きく広い頂の山頂というのもあるんだよね。
 
 先ほどの分岐に戻り、宮城野に向けて下山開始。お花畑を通り過ぎ、登山路が崩れないように手を入れ始めたばかりという道を標高差350mほど下ると、ポンと舗装路に出る。そこから15分ほどで大通りの「宮城野橋バス停」に着いた。15時24分。5分後には小田原行きのバスがやってきて、私たちを乗せて運んでくれた。バスの乗客は、立つ場もないほどの満員。水曜日の夕方というのに、なんという混みようだ。ここでこそ腕の見せ所と運転手は思っているのだろうか、バスは曲がりくねった細い道路をかなりのスピードで走り下る。身体は手すりにつかまっていないと倒れてしまいそうに、右へ左へと揺れる。20分足らずで箱根湯本駅に降り立ち、ロマンスカーの切符を買い、車内で飲むビールを手に乗り込むと、発車を待つまもなく、Kzさんと私は、飲みはじめる。「ロマンスカーですからね、いいですよね」とKzさん。こうして新宿に着くまで、2人は飲み交わしながら、話し込んでいた。呆れたような顔をしていた、飲まないKhさんとOtさんははやばやと寝込んで、がらがらに空いた車内は、平穏に時間が過ぎて行ったのでした。