mukan's blog

つれづれなるままに ひぐらしPCにむかいて

師走の気配

2022-12-31 07:23:27 | 日記
 3日前に芦屋の孫が一人でやってきた。大学生になって、親とは別に行動するようになり、友人と会うなどの宿泊地にするつもりなのかもしれない。その翌日に名古屋の孫が家族でやってきた。こちらはまだ高校生と中学生。従兄弟同士で交わす言葉が、一寸した遠慮というか、互いの立ち位置を尊重した物言いになっていて、「面白うて喧嘩になりぬ」幼い頃の遠慮会釈のない遣り取りと違って成長を感じさせる。
 正月に奥日光へ行く。今年からスキーではなくスノボをしたいという。大学生の方は、バイトで稼いだ資金で自分好みのウェアなどを購入したいという。高校生の方も靴や防寒の品が必要というので、そちらは父親が付き合った。
 最初,スキーなどのスポーツ用品店を検索したら、大宮西区に昔ながらの大規模店があることが分かって、車で足を運んだ。11時からというので少し待たされたが、開店して店員に聞くとゴルフ用品しか扱っていないという。ネットには特売しているような案内があったよというと、そんなこと私にいわれても・・・と困ったような顔をしている。昔の大型店が、電話機も含めて売り払って変わってしまったのかもしれない。ネット情報は、削除して置いてほしいものだ。
 近くのスキーなどのスポーツ用品店を検索すると、与野区にあった。そこへ向かう。大型店舗というより一つの街といった方がよいような3階建ての総合店舗のごく片隅に、結構大きなスポーツ用品店があった。人が多い。いくつかの防寒用品の「男性用のは売り切れ」といっていたから、年末と正月にかけて野外活動へ向かう人は多くなっているのかもしれない。
 孫たちは、言葉を交わしながら品定めをする。二人の靴の大きさが28センチといっしょだという。170センチを少し越えたばかりの高校生孫も180センチを超えている大学生孫に、いずれ追いつくかもしれない。そう思ってみると、二人とも本当によく食べる。まさしく成長期だ。
 お目当ての品が何処に置いてあるのかわからないほど大きい。店員に聞けばいいのにと私は思うが、若い彼らは聞こうとしないで、タグを子細にみて、同じように見えるこの二つの品が倍ほども値段に違いがあるのはなぜなのかを考えている。ああそうか、私世代はアナログだからすぐに店員に尋ねる。だが若い人たちはデジタル世代、人の手を煩わせることにためらいがあるようだ。そういう気遣いをみると、若い世代は人と接するのにうんと優しくなっていると思った。
 大学生の孫は自分の懐具合と相談しながらあれこれ迷っているのが、微笑ましい。なんと2時間も掛けて買い物をし、お昼をフードコートで済ませて帰宅した。滞在時間は3時間ほどになった。私にとっては、久々の雑踏。若い人の好みというのが、TVなどで観るほど私世代とかけ離れていないのに,ちょっと安堵する気分でもあった。
 さて、出かける準備をしなくてはならない。夏から秋にかけて、部屋の片付けや移動などで品物を動かしたせいか、いつもの場所にない。はて何処に置いたか、探し物をすることになった。井上陽水の「さがしものは何ですか~」と声が聞こえてくる。
 のんびりとした年の瀬だ。夕食には7人分の蕎麦を打つ。その段取り手順も考えなくちゃあならない。


自問自答は生命史への旅

2022-12-30 09:19:47 | 日記
ミヤケ様/ツナシマ様/皆々さま
 お送りしたエッセイ「生きてきた世界の違い」(2022-12-19)にお目通し下さり、ありがとうございます。ミヤケさんには、いずれ、量子力学的な観点から,かかわる部分の見解を教わりたいと思っています。とりあえず、今日は、ツナシマさんの感想に,少しばかり付け加えておきたいことを記します。
(1)《これに対して「ヒトのクセの動態的プロセス」というのは、ヒトをより根源的にとらえ、ヒトを宇宙・自然の中の生命体の一つとして捉えようとするものであるかのように感じました。》
 その通りです。わが身を含めて「人間」のことを「ヒト」と表現するのも、「量子力学的な観点から・・・」とミヤケさんにお願いするのも、わが身が「宇宙・自然の生命体のひとつ」とみているからです。いや、みているだけでなく、「宇宙・生命体」の歩んできた径庭が堆積しているのが、わが身・「ヒト」だと感じています。そのほとんどは無意識ですから、ワタシにとってはほぼブラックボックスです。ですからひとつひとつわが身が受け止めた「感触」の根源を探り、はてそれは何だろうと問うことだと考えてきました。その自問自答を,哲学することだと思っていたこともあります。しかし、「後に掲げるエッセイ」のように、そりゃあ違うよとホンモノの哲学者に軽くいなされてしまいました。ご笑覧下さい。でも門前の小僧であるワタシのテツガク的志向は間違っていないと思っています。
(2)《人のクセのトップに感情がきていますが、感情は生命や本能に近く、生存に必須なものと私は認識しています》
 前述の自問自答のアタマに「感情」がくるのは、ワタシがセカイを感知するのが、それだからです。通常セカイを感知する感官を五官といいます。眼・耳・鼻・舌・身と、感知する箇所で表現したりしますが、それらで感知したことを身体全体でひとつに総合して、外部からの刺激としてセカイを感じています。それをワタシはココロとみています。逆に表現するとココロは世界を感知するセンサーです。仏教では心身一如という言葉を用いますが、五官の感知器官のひとつとされている「身」が「心」とひとつになってココロとして働いていると考えています。それほどに五官の働きは繊細精妙であり、五つに分けて扱えるほど単純ではありません。すべてがつながって外界とワタシを連接させて、「身」として反応しています。それを、「生命や本能」と一括してしまうと、あまりに大きくとらえすぎてしまうために、身の裡の微細な働きに目が届かなくなります。
「知・情・意」というとらえ方で、ヒトのタマシイの作用を取り上げようとするのも、「身」と「心」を分断していると感じます。肉体と精神を分断して、精神こそがヒトを象徴する気高いこととし,逆に(それによって)肉体を,ただの物として貶める考え方を西欧キリスト教世界はしてきました。
 ツナシマさんが「プーチンを理解できるか」と論題を立てていますから,ちょっと逸脱して、ロシアの人々の肉体理解に触れますが、30年ほど前に週刊誌で目にして驚いたことがあります。藤原新也という写真家が撮ったロシア(ソ連?)の屍体工場の写真だったと思います。極寒の地の大きなプレハブ工場の広いスペースに山のように積み上げられた人の死体です。それを解体して(何かの)利用に供するという趣旨のコメントがつけてありました。そのとき私は、ロシア人のこの人間観には付き合えないと強烈に感じました。魂の抜けた肉体はただの物というのが、彼らの自然観だと思ったのです。それ以来、キリスト教世界の自然観には用心してかかろうと思いました。確かに,何でもかでも大雑把に一括してかかるのは間違いの元ですが、この初発の印象は、いまだに拭えません。
 さて話を本題に戻しましょう。
 わが身の裡に、人類史ばかりか生命の歩んできた道筋がことごとく堆積しているという直感は、ワタシの姿勢を正すのに大いに貢献しています。ミヤケさんが宇宙の果ての考察が宇宙の始原を観ることと同じと指摘したことも、同じ感触で受け止めました。つまり、わが身の裡への視線が、世界を受け止めることと等質の重みを持つという充実感です。ワタシが感じていること、ワタシが考えていること、ワタシが想像することは、全人類史ばかりか全生命史の堆積である。その感覚や感性、直感や感情、思索の流れや価値意識も、どこで、なぜ,どう身につけたかと、根拠を問うことがじつは、全生命体の歩みとを問うことと等質だという直感でした。
 こうしてワタシの自問自答の旅がはじまったのは、還暦で仕事をリタイアしてからでした。ハマダさんやミヤケさんと(再び何十年ぶりかで)言葉を交わしはじめたのもその頃でした。それがこのseminarにつながったと思っています。
 とりあえず、ツナシマさんのコメントへの私の感懐を綴りました。でもね、このワタシへの旅が、門前の小僧の戯言かもしれないと指摘されたのが、冒頭にお断りした「後に掲げるエッセイ」です。別送しますので、こちらもご笑覧下さい。
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 皆々さま
 相変わらずコロナは勢い盛んですが、2023年1月22日(日)13:00~16:30 seminar会食を行います。元気でまた、顔を合わせることができますように、お身体に気をつけてお過ごし下さい。
 佳い年をお迎えになりますよう。


ピンポイントの今を生きる

2022-12-29 09:18:26 | 日記
 12/28となると、年の瀬も押し詰まったという気分になる。リハビリに行く。病院もこの日で1/3までお休みとあって、患者が押し寄せている。だがリハビリ士は、施療をしながら世間話をする。正月にどこかへ出かけるか、と。ははあ、この人は出かけるんだなと思ったから、こちらの話しを少しして、あなたは? と問いかける。案の定、妻の実家の豊岡に行く、妻と子らは一足先に今日出かけ、自分は明日出発する。話しぶりから、関西は僻遠の地のように感じているようだ。
 驚いたのは、私の実家は岡山の南部と話したとき、オカヤマってヒロシマの向こうかこっちかと聞いたことだ。そうか、岡山に住んでいるものにとって、たとえばトチギとイバラキは? っていうと、どっちがどこにあるという位置関係がわからないのかもしれない。そうだね、ヒトはその暮らしの中で直接関わりのないことについては、慮外のこと、僻遠の地と思っても致し方ない。
 ではなぜワタシは、そうした地理的な位置関係を熟知しているか。今の学校ではどうしているのか知らないが、小学生の時には、日本列島の河川や山脈、大きな湖沼や古くからの街道、都道府県の位置、あるいは特産物など地理的な「知識」を、今思うと、まるでクイズのように覚えたものだ。今はネット検索をすればすぐにワカル。検索すればすぐにワカルことを覚えてどうするというのが時代的風潮だ。昔風に謂うと、「知」が単なるデータになった。だがそうだろうか。
 検索すればすぐワカルというのは、必要になったら検索すればいいということを意味する。だが、闇雲に覚えていたことが、あるときパッと閃いて目下のデキゴトと結びつくという経験をしたことはないだろうか。ただただ覚えるというのは、その覚える事項の意味合いがワカラナイことを意味する。都道府県の位置関係や、それと河川や湖沼、山脈の所在とがヒトの住むところ、暮らしを立てる知としての空間的なベースをなし、それ故に、その感知は創造力の大きな力になる。駆動力となり、現実的な時間と空間の移動という感触につながり、その感触にまつわるデキゴトに接したときにリアルを持って受け止める触覚を育てる。知っているということは、その筋の触覚のセンサーを持つことになるのだ。
 もちろんそれは国内の地理的な関係事項ばかりではない。世界の国名とか面積的な大きさとか、人口的な規模などにも通じること。私たちは何かコトが出来し必要に応じて、その地のことを意識するようになる。そのときには、ただ単に地名や人口規模とか広さといった大きさばかりでなく、デキゴトにもつ地理的データが起ち上がり、ヒトの営みが経済的・政治的・軍事的・文化的な色合いを添えている豊かさを感じる。今年の大きなひとつでいえばウクライナがそうだ。ロシアの侵攻によって、それまでまとまりのない茫洋とした国家と思われていたウクライナが、一挙に国民国家としての堅固な集約点をもって動いている。人々の、というかヒトの営みが連綿として受け継いできたコトが、良くも悪くも浮き彫りになる。それにワタシが深い関わりを持つことが実感できるのも、ワケ知らずわが無意識の中に溜め込んできた「データ」があったればこそだと、振り返って思う。
 冒頭「クイズ的に覚えてきた」と記したのは、幼少期のヒトの好奇心に導かれていたことを指していた。それにとりかかろうとする時機に、「検索すればワカル」と水を掛けられると、たぶん自分の好奇心がつまらないことに見えてきて、消し去ってしまうであろう。「検索すれば代わる」というのは、データ検索を覚えたすっかり大人になったヒトのいう言葉であって、それが如何程に浅知恵であるかは、己の知恵・知識がどれほどに無意識の裡に身につけたことによって支えられているかを忘れた振る舞いかに目をやれば、判る。わが身の来し方を振り返り往き来して参照してこそ、そう感じられる。そのココロは、ワタシには見えていないことがずいぶん多い、である。
 「知」が単なるデータになった。だから、データの使い方を直に教育せよ、アタマの使い方を訓練した方がよいというのが、今風な学校の風景だろう。だがそうだろうかとワタシには疑問がついて回っている。
 いつだったか、私の高校の同窓生で車の設計・製造を生業にしてきた男がいる。彼が現役の時、ドイツの自動車会社の幹部たちと言葉を交わしたとき、経営者が車がどのように設計・製造されているかに頓着しないで、製造経費をどのように詰めろと指示命令しているのを観て、驚いたと話してくれたことがあった。そのときは、ヨーロッパと日本との製造現場と経営者との立ち方の違いを論題にした場であったから、謂わば会社の中の分業が経営者の戦略的な視線を養い、現場は現場でその指示命令を受けて工夫を凝らす素養を培っていると終わった。だが、データとその使い方との教育の方法を巡るコトで、それを思い出した。
 会社経営では、経営者の市場を踏まえた戦略的思考が要求する無理難題を製造現場がやりくりして凌いでいくことによって、全体としてうまくいっている/破綻するということになろう。だが、それぞれの領域の担当者間で暗黙に了解している、謂わば無意識の働きによって乗り越えている部分が結構多く、そのことに関知しないで済むのは、運びが順調なときだけなのだ。
 一人のヒトが自らの無意識部分を分けて取り扱うことはできない。「データを覚えるのに等しい」とそしられる知恵・知識も、それを覚えている間にどのような世界認知の文法作用が働いているか、ワタシは知らない。子どもが言葉を覚え使いこなせるようになる間に、複雑な文法作用を身につけ、時に間違って、へえ子どもって面白い発想をすると笑いを得、ときにバカだなあと嗤われて心裡で修正を加えてゆくことは、多くの親が、そして多くの子ども時代のワタシが経験したことである。それを私は不可思議と呼んでいるが、ヒトというのは、身の内奥でそういう不可思議なメカニズムを働かせながら、言葉を操る方法を覚え、ヒトの社会の群れに身を投じていっている。その無意識の部分を、ただ単に機械が代替するようになったというだけで、データ処理として切り離して処理していいものとは、思わない。
 こうも言えようか。データ部分を機械任せにするというのは、アタマのデータ処理部分を外部化することだと。外へ出してしまったとき実は、それを内部処理していたときの無意識的に醸成していた世界認知の奥行きもまた、内部から放逐されてしまう。そうして、データを処理する方法が教育されて養われる部分が、果たして放逐されてしまった部分を補うだけの奥行きを保つかどうか。ヒトの意識する部分の方が、無意識の部分よりも遙かに少ないと自覚しているワタシにとっては、明らかに深みは失われ、浅薄になると思う。ヒトがそう変わっていくこと自体は止められないが、つまらないデータを外部化しただけでなく、ヒトのセカイをとらえる深みをも失うことだと知っておかねばならない。古語古典を読み書きしていた時代の人たちの内奥の深みを、現代のワタシは失ってしまっているという自覚と重なって、それは申し訳ないことをしたと私は思っている。ワタシもまた、ピンポイントの今を生きているに過ぎないのだね。


三位一体のワタシ的理解

2022-12-28 08:42:06 | 日記
 食卓について「父と子と精霊の御名において、アーメン」と祈りを捧げて食事をはじめる場面を映画などでよく見てきました。キリスト教のいただきますだなと受け止めてきました。文化人類学の本を読んでいて、違った文明・文化の地に育つ宗教や考え方も、ヒトの暮らしの根源に於いては、相共通する要素があり、それが形を変えてそれぞれの地の言葉になっているのだと思うようになりました。食卓の祈りの言葉がどういう意味を持つのか、いろいろなキリスト者の解説を読んできました。父は神、子はイエス、イエスの時代にはなかった観念とか、精霊は聖霊だとか諸説ありましたが、神を男としたことによって発生した概念だとか、処女懐胎の不可思議を組み込んだ合理性を保つためにつくられたカトリックの教義だとかあり、三位一体が何か、キリスト教の信仰をしていないものにとって感性の奥底を刺激するものに出逢うことはありません。縁なき衆生かと思うばかりでした。
 それがふと寝床で思い起こり、わが胸中でひとつになって氷解するように感じたことがあります。それをほぐしてみました。ま、謂わば、ワタシ流の自然信仰的「三位一体」とは何かをお話ししようというわけです。
 閃いたのは、父=過去、子=未来、精霊=現在、という見立てです。三位一体というのは、その、時制で表現したわが身の、心身一如。わが身に受け継がれているのは、いうまでもなく父性原理や父権主義的なジェンダーから自由な、生物学的な生々流転の継承だ。つまりワタシの現在に、過去も未来も一体となって存在しています。
 キリスト教では、旧約聖書由来の父権主義的なジェンダー意識がすでに埋め込まれています。また、それとも関係するが、身体と魂を別物ととらえ、魂に永遠性を託す発想も埋め込まれています。だがワタシの自然信仰では、それはことごとくワタシに体現された「時間」で表現される「空間」的実在がひとつになって、次の世代へと受け継がれてゆくヒト的=文化的連続性なのであって、性も実存も、あるがままにワタシなのですね。どなたかの言葉を援用すると、動態的存在なのです。
 以上が、今朝の寝床で私のアタマに閃いた「三位一体」の腑に落ちた実感でした。それがキリスト教の教義とかその解釈と符節を合わせているかどうかは、まったく感知しないのですが、たぶん、この辺りの実感を身の土台のところで共有するキリスト教徒たちが、思いついた言葉なのではないでしょうか。あるいはこれがベースに於いて実感できるから、その人たちは言葉を信仰しているのではないかと思います。キリスト教徒の胸中は、知りませんけど。
 こういうワタシ的理解を口にすると、それは一知半解、もっとちゃんと古今の言説を参照しなさいと、その筋の方々は言うに違いありません。そうなんだよね。門前の小僧はついに境内には踏み込もうとしませんでしたってワケだ。でもね、三位一体というキリスト者が謂っている言葉の意味を確定して新説を提示したいわけじゃないんですよね。ただ、キリスト者とワタシとがまったく違うセカイに身を置いているとも思わないのですよ。どこかに接点がある。その接点のところからほぐしていけば、同じ地面に足をつけて暮らしているとワカル瞬間がある。そんなことを思っています。
 あっ、ワカルというのは、ワカリアウっていってるんじゃないんです。相互の理解が大切って、向こうさんにも理解を求めているわけではなくて、ワタシが異世界の方々をリカイできればいいのですから、一知半解も全解も、向こうさんに伝わらなければ、殆(あやう)いだけで終わります。ただもしどなたかこれを目にして、一知半解だなと思われるか違いましたら、いや一知全解はこうだよと教えて下さるとありがたくは思いますがね。
 今のご時世もあるのでしょうか。近頃やたらと、身を護ることに意識を傾け、つまりそのために外からの言葉を攻撃的に受け止め、攻撃されると痛いだろうなと思うから、だったらやられる前にやってしまおうと、先制攻撃事態とかいって飛び道具を調えようとする気配が濃厚になっています。ウクライナになっては大変だと、対岸の火事に敏感に反応していますよね。中にはスズキムネオさんという方のように、ロシアの言い分もリカイしなくちゃいけませんよと取りなす方もいますが、なぜ彼がロシアの肩を持つのか、その根拠が少しも披瀝されない。ただただ、ロシアを悪者にしていいのか、NATOだってアメリカだって、こんな不埒なことをしてるじゃないかと言い募ってばかりです。そんなことを言わないで、何でロシアに肩入れするのかを、心情のベースに降りたって、わが身の裡と響き合うように語り出せばいいのにと、岡目八目は思います。あ、ちょっと、卑俗へ近づいてしまいましたね。


年寄りの小言

2022-12-27 09:16:58 | 日記
 やっとモンダイ大臣を更迭することになった。政治資金に端を発し、選挙のときに息子が本人に代わって襷を掛けて選挙カーになるなどの不正が指摘されてきた。任命したキシダ首相は「本人が説明責任を果たして」と言い続けて、とうとう年を越すかという段になって更迭を決断した。何でこうなるのか。
 モンダイ大臣が自民党の派閥推薦で任命したからだ。つまり、この大臣を任命したのはキシダ首相ではなく、当の大臣の所属派閥のボスだった。キシダさんには、罷免権も形式的にしかなかったと言える。だから首相は本人に「説明責任を果たせ」と言ったのであろうが、キシダ首相自身がなぜ彼を任命したのか、説明責任を果たさなければならなかった。にもかかわらず、あたかも他人事のように「説明責任」が本人にあるような振る舞いであった。そうか? 
 大臣の登用が派閥推薦できまるのであって、じつは首相にはない。それを政治家もメディアも、その情報を受けとる人々も知っているから、だれも「説明責任をしろ」という首相の言葉をヘンだとは言わない。まるで、国会政治スクラムでも組んだみたいに、メディアも連日そういう報道に満たされていた。つまり、タテマエがすでに形骸化して行き渡り、ホンネのところで実政治が運んでいる。だからキシダ首相も、ホンネで「ワシャ知らんもんね。ちゃんと説明しなはれ」と他人事にように言って何憚ることはなかった。スクラムメディアも、それをよく知っているから、そのことをモンダイにしない。
 アベさんの時は首相自身が最大派閥、モンダイがあればその大臣の推薦派閥が責任を持って始末しなさいと派閥の領袖に要求することができた。だから彼は、罷免する必要はないと突っ張ればそれで済んだ。今のキシダさんにはその力がない。ますます下世話週刊誌の報道に振り回され、私ら庶民は、政治世界の人々はすっかり腐っていると再認識している。
 これは、何だ? 何を取り替えねばならないのだろうか。タテマエをタテマエとして取り戻して、ホンネを恥ずべきこととして抑え込む道か、または、派閥の領袖が選んで大臣に送っているってことを、周知のこととしてではなく明らかな御正道、つまりタテマエとして掲げて、それに遵って派閥の領袖に「説明責任を求める」。首相の任命責任がカタチだけしかないのなら、そんなものは屑籠に入れて、裏の密談とか取引とか根回しというのを表側に引っ張り出して、それをタテマエと一致させる。裏表をひっくり返せばいい。恥ずかしがることはない。トランプもそうだし、プーチンもそうだ。#me-firstを堂々と掲げてくれた方が、反対する方も論議が回りくどくなくていい。
 たぶんこれは、「恥の文化」といわれた日本文化が覆る、決定的な臨界点に来ているのだと私は思う。それはじつは、欧米渡りで入ってきた近代的な理念が、じつは単なるホンネを覆い隠す外套でしかないという日本人のタテマエ理解を正面に押し出す。人ってのはそんなメンドクサイ上着を纏ってしか他の人と向き合えないメンドクサイ文化を創り上げてきてしまった。
 日本ではそれを、タテマエとホンネ名付け、表と裏の二枚の意思疎通経路をとってきた。人が表で喋るのはタテマエ。それを聴く方はそのホンネを推しはかる。あるいはそれを忖度する。上司のホンネを察知・忖度して対応する下僚こそが出世をするに相応しいという文化が、ここ1200年もの長い間の錬磨を経て、列島全体に行き渡り、時代的な変奏を加えて作り上げられてきた。
 それが、もう無用の長物だということを明らかにしたのが、グローバル世界のトランプさんの振る舞いであり、アベさんのモリ・カケ・サクラであった。いや、いくらなんでもあからさまな、と感想をしたのは戦中生まれ戦後育ちの私たち、すでに後期高齢者の老人たちであった。知識人という人たちは、ご自分の纏っていた衣装と現実政治のズレを調整するのに懸命に理屈を繰り出すが、もう誰もそんな専門家の声に耳を傾けようとはしない。
 じつはほとんどの国民は、王様は裸だと知っている。王様も裸で何が悪いと居直る。でもそれでは、いくらなんでも恥ずかしい部分が丸見えじゃないのとメディアも騒ぐから、忖度したかつてエリートと呼ばれた下僚は、恥ずかしい部分を削り取って見えないようにした。下僚に仕える木っ端役人が、手を染める罪の大きさに心を傷め自らの命を断つ。そのことを問われた元エリート下僚も王様も、ワシャ知らんもんね、を貫き通した。王様は晩節を汚すこともなく、まぐれ当たりの手製銃に斃れ、その非業の死という部分だけが王様の裸を知っていた国民の心を打ち、国葬儀にうなだれたってのが、一幕の終わりとなった。
 これはしかし、ホンネとタテマエの交代劇であり、じつは日本文化の大きな転換点を画するデキゴトであった。背景にグローバルな、理念と目前実益の交代というもっと大きな交代劇が展開していたから、主役たちはいよいよ恥知らずに突き進むことができたってワケだ。
 そのことをどうして感知できたか? ワタシらは旧世代。押しつけられた日本国憲法の理念を身に染みこませて、それを実現することが日本の進むべき道と信じて、戦後の経済一本槍の世界を渡ってきた。それはそれなりに現実化したから、誇らしくもあった。だからタテマエとホンネという使い分けすら脇に避けて生きることができた。ホンネにタテマエの外套を着せるなんて恥ずかしいとさえ思った。そうした身に染みた世界の見立て方をしてきたから、上記の交代劇がよくみてとれる。すでに引退して渦の中に巻き込まれていない。傍観しているものにとって、渦中の混沌は、面白く、かつはっきりとみてとれるのだ。 
 こうして俯瞰してみると、もはや戦後民主主義の着ていた外套はすっかり剥ぎ取られ、経済一本槍で過ごした戦後政治現実の最良の部分を継承していると自称するキシダ首相は、すっかりホンネをさらけ出して「説明責任を果たして下さい」と、ご自分に任命責任など存在しないことを、恥ずかしげもなく口にするようになった。彼も時代の波に揺られて変わりゆくご自分の姿が見えないんだね。言葉と有り様のズレがアベさんほどうまくない。ワタシらは外套を脱ぐよりも人間の皮を脱ぐのが先になるから、行き詰まりを感じないで彼岸に渡る。これからの人が大変なのかどうかは、わからない。
 人として恥ずかしいことはしないでねというお袋の小言が、ちっぽけな世間を気にして生きる人の卑小を思わせていた、だが案外、人類史に照らして恥ずかしいことはしないでねと、現実世界の舵を取る世界の政治家たちに言えるのかもしれない。年寄りの小言として。