mukan's blog

つれづれなるままに ひぐらしPCにむかいて

馴れと慣れと茹でガエル

2021-06-30 09:03:38 | 日記

 昨年の発生時からコロナウィルスの感染状況を気にしているカミサンが、去年6月29日の日誌をみて笑っている。電車に乗ってさいたま新都心まで行ってきたが、その間、はらはらしていたと記していたそうだ。その日の感染状況の数値、「東京47、埼玉11」。今年の状況「東京317、埼玉68」と較べてみると、いやはや「かわいい」。
 茹でガエルではないが、いったん大きな数値が出てしまうと、元の数値がなんでもないものに変わる。馴れなのか、これは。
 逆にみると、どうしてそんな小さな数値で「脅威」を感じていたのか。世界的な蔓延の勢いが、いつやって来るかという「来るべき将来」に対する不安が、「脅威」に感じられたのか。
 とすると一年を経た昨今、例えば埼玉県の日々の数値が三桁だと「まだまだ」と思い、二桁になっているとホッとしているのは、三桁が「将来的な不安」の解消には向かっていない証左であり、二桁だといくぶんかでも「解消の方向」を読み取ることができるからか。もちろん比較的なもの。TVの画面でいうと、神奈川県や千葉県と比較していて、数値的に「勝った」「負けた」と心裡では見ている。
 つまり「将来的な趨勢」を推し測る基準点を、周辺の県とか、前日とか前週という変数に置いて「(自分の)気分」の推移をみているのが「将来的な不安」ということか。これでは、私たちが嗤ってみている政治家たちの気まぐれと変わらない。
「ステージⅡ」になれば実施すると言っていた五輪を、「ステージⅢ」が見えた時点へ移したり、「感染者数」を「重症者数」や「空き病床数」へもって行ったりして、言葉遊びに右往左往している政治家の振る舞いが、私たちにも伝染してしまったのだろうか。それとも、日本人て、もともとそういう気分屋で気まぐれな気質を持っているのだろうか。う~ん、どちらともいえないと、わが胸に手を当てて考えている。
 そう考えてきて振り返ってみると、感染症の専門家というのは、エライ。
「感染者数」にせよ、感染拡大の兆候にせよ、どの数値をみているかをはっきりさせて、それを頑として堅持している。「病床逼迫」というのも、数値をみて、「ステージ」を定め、それに基づいて五輪に対しても発言する。
 その専門家の発言が、去年の「東京47、埼玉11」のときにどうであったか。覚えていないが、「病床逼迫が起こるのではないか」という懸念が、出されていたと思う。もちろんその後、病床拡大に関して何らかの施策はとられたであろうから、今年と同じ数値で較べることはできない。だがその、専門家たちの変わり映えのなさが、私たちの気分が振れる幅を、ある程度抑制していると思える。
 ただ単に「馴れ」たり「慣れ」たりしているわけではない。「将来的な不安」は、正体の見えないモノゴトに対して私たちが感受する「危険信号」だ。楽観的か悲観的かは、そのもう一歩先にある「判断」にかかる。まず、その「危険の察知」に関しては、「茹でガエル」と非難するのではなく、もう一歩踏み込んで、なぜ「馴れるのか/慣れるのか」を解析しなければならない。ひょっとすると、「危険察知」能力が拡散して、希薄になっているとも考えられる。
 コロナウィルス感染と重症化の世代的な差異があった。若い人たちが軽症で済むとなると、「ま、一度はかかって抗体を作っておいた方がいい」と考えて、出歩き、屯し、三密をものともせず、イベントに興じたくなる若者がいても、不思議ではない。日常の過ごし方自体が、「お祭り騒ぎ」に仕組まれているのだから、それを急に変えよというのは、それなりの「判断」に宿る「意識的な・社会的な・知的な・何か」が蓄積されていなければならない。そこにこそ、良かれ悪しかれ、ネーションシップの特性がある。
 そういう視点でみると、昨年以来の日本の高齢者の振る舞いは、褒められていい。わが身を考えてみても、自画自賛したくなるくらい、自己防衛に徹していた。当然、身の周りの人たちも、同じような振る舞いをしていたから、社会的な気質が作用したとみている。それは、日本社会における高齢者の特長を表しているのだが、そこに踏み込むと、また別のモンダイ次元に入るから、棚に上げておこう。
  もはや政治家に何かを期待する気分はないが、彼らが勝手なことをしているのに、そろそろ掣肘を加えたいと思う気分だから付け加えるのだが、大きな絵柄を描いて、上記したような「将来に対する不安」を解消する「地平」を指し示すのが、政治家の役割。細かな(非感染)五輪バブルの手立てを疎にして漏らさぬように講じるのは、役人の仕事。そう心得て、振る舞ってもらいたい。ゆめゆめ、民草は「茹でガエル」とみなして笑い飛ばすことをなさいませぬように。


リアルとフェイクのハイブリッド

2021-06-29 14:59:43 | 日記

 カート・アンダーセン『ファンタジーランド』の「第6部 「ファンタジーランド」はどこへ向かうのか?(1980年代から現在、そして未来へ)」を取り上げよう。
 アンダーセンが本書を執筆していた(20年も前)ころの「予感」がトランプ大統領の登場によって証明された。そのことを誇っていい章なのだが、ずいぶんと控えめである。それは、「ファンタジーランド」化がすすむことに同意しかねる思いが、逡巡させているようだ。
 その一つに、気になる事実が記されていた。

 《1990年代国連軍がアメリカを乗っ取るのではないかとの不安が高まり広がったため、例えばインディアナ州運輸局は、高速道路標識の使用年数を管理する方法を変えざるを得なくなった。インディアナの住民たちが、標識裏の色付きの点は、迫りくる国連武装外国人を道案内するための暗号だと信じるようになったからだ。》

 なぜ「気にな」ったのか。ちょうど上記の年代に、日本の高名な哲学者が、自衛隊の1/3を「国連軍」に預けて、国際秩序の維持に貢献するという趣旨の提案をしていたからだ。日本の主権と異なる決定をすることが十分多いと考えられる「国連軍」に自衛隊を預けるという能天気な発想は、上記のアメリカの「幻想」を知っての上だったのだろうか。「国連軍」を編成することになっても、決してアメリカ軍の指揮権を移譲することはしないアメリカの姿勢を知っていれば、「主権」というのがどのような性格とどのような限界をもっているかわかりそうなものである。つまり、高名な日本の哲学者でさえ、「国連軍」にたいしてナイーブなセンスしか持っていない。それをインディアナ州の住民が教えていると思った。
                                            *
 1980~1990年代を通じて、マス・メディアやその後に広まることになったインターネットを通じて、ヒステリーや陰謀論、フュージョン・パラノイアと言われる人たちが出現し、それらの情報が世の中の空気を換えていく。UFO論者がメディアに登場することが多くなり、アレックス・ジョーンズと言われるタレントが「幻想」をまき散らして、アメリカの大衆文化と社会的風潮を動かしてきたことが、トランプ現象に結実していると、読み取れるのである。

 《1970年代以降、実際の陰謀が突如として暴かれるようになったことによって、アメリカ人は過剰反応し、悪いことはすべて何らかの陰謀によって意図された結果だと考えるようになった。皮肉なことに、そのせいでごくまれに存在する現実の陰謀を暴いてつぶすことが難しくなった。ニュースやインターネット・メディアはかつてないほどの陰謀論に溢れ、そのために身動きが取れなくなっている。あらゆる空想のノイズが、たまに現れる信号をかき消す。例えば、先の(2016)アメリカ大統領選挙へのロシア政府の介入だ。それが進行しているときには、ほとんど注意が払われていなかった。2016年の半ばには、多くの突拍子もない憶測の一つに過ぎないと思われていたのだ。》

 ファンタジックな物語が蔓延ることによって、もはや何が「事実」であり、なにが「フェイク」かと吟味することすらばかばかしくなって、あらゆるコトが相対化される。とどのつまり、自分の信じたいことを信じる。自分が信じることしか信じなくなる。それが「ふつうになる」。
 それはトランプという右派だけに起こったことではない。上記にあげたアレックス・ジョーンズは左派の論客として登場してきたが、メディアで重用されているうちに右派も左派もなくなり、フュージョン・パラノイアとして面白がられた人物のようだ。不動産業を営み、かつタレントであったトランプもその一人であったと言える。

 《1990年代以降、タガが外れたアメリカの右派は、タガが外れた左派よりもはるかに大きくなり、つよい影響力を持つようになった。それに加えて右派は、かつてない権力を握っている。大人でしらふの左派が、仲間たちとつながりをそれなりに保っているのに対して、地に足の着いた右派は、空想に耽りがちな熱狂的信者をコントロールできなくなった。これはなぜなのか?》

 末尾の自問は、「宗教、共和党を夢想家が乗っ取った」という同義反復的「事実」を提示して終わっている。

 《進化論を信じている共和党員は…2008年に3/4だったのが、2012年には1/3を占めるようになり、「2012年(には)ジェブ・ブッシュ一人だけだった」》
 《「共和党員の2/3がキリスト教を国家宗教にすることを支持する」「アメリカ人の大多数がアメリカはすでにキリスト教国家として成立している」と信じている》

 と、キリスト教国家・アメリカの誕生をみている。
 もちろん、いかなる宗教にも加担してはいけないと記された連邦憲法を掲げておいて、ファンタジックに進行する現実を(あきれ顔ではないかとおもえるように)書き留めている。イスラム原理主義と対比して言えば、(世俗イスラム主義に傾く)エルドアンの統治する「トルコに近いか」と、宗教と国家の関係を位置づけている。
 それと同時に、「無神論」者としての自分自身を俎上に上げ、国民の2割程度を占めると書き留めているが、それに関して、私が抱いた疑問を一つ上げておく。
 というのは、アンダーセンは、無神論を不可知論と同列において、神の存在を認めるかどうかがモンダイとしながら、自然に対する敬意とか畏怖の念とかを別物として扱っている。えっ、と思った。私も、無神論者だと言われても、だからどうってことを感じないものではあるが、自然に対する敬意とか畏怖という心情が、実は「(八百万の神に対する)信仰心」なのではないかと考えてきたからだ。アンダーセンは(たぶん)それは宗教ではない(アニミズムだ)というのかもしれないが、いくら原始的とはいえ、神道や仏教の信じる「神々」というのは、自然信仰そのものである。日本人は無宗教と言われては(無神論者の)私も、ちょっと違うんじゃないのと、彼の宗教観の狭さに戸惑いを覚える。自然観ではアンダーセンに共感するが、それって、「信仰心=宗教心のベース」と認めないと、次のドーキンスのような発言になってしまうと思うのだ。
 もう一つ、リチャード・ドーキンスとJ・トールキンの「幻想」をめぐる所感の違いがとりあげられていることに触れよう。
 ドーキンスは、「子どもにおとぎ話を読んで聞かせるのは、自然を越えたものがあるという世界観を植えつける」と批判する。対してトールキンは、《「幻想は」人間の自然な活動です。理性を破壊することはなく、侮辱するものでもない。……理性が鋭く明確であればあるほど、良質な幻想が生まれる》と力説する。
 ドーキンスの主張は、物理的外部自然が屹立し、「幻想世界」という人の思念・妄想の世界は、それを超越する存在とみなしているようだ。果たしてそうか。思念・想念・妄念もヒトのクセとみてとれば、自然存在の在り様にほかならない。むしろ、それを超越的とみなす前提には唯一神的創世論が置かれていて、人間の優越主義的な自然観にとらわれている。トールキンの「良質な幻想が生まれる」という言いぶりには、また、贔屓の引き倒しのような偏りを感じるが、まだトールキンの「幻想」に流れる自然観のほうが、わが身に近しいと感じる。

 ともあれアメリカは、ファンタジーな物語りに取り囲まれて、社会全体が変わってしまっているようだ。ゲームやドラマ、映画などはファンタジーばかりだ。そこへバーチャル・リアリティがインターネットと共にやってきた。コロナ禍では、リモート会議、テレ・ワークも広がり、現実の仕事なのかバーチャルなのか、仕事の中身によっては、わからなくなる。
 それとともに私が心配するのは、こうしたものが満ち溢れた社会に育つ子どもたちは、どこからどこまでが現実で、どこからがヒトの幻想の世界かを見極められなくなるんじゃないかということ。孫が「サバイバルゲーム」に夢中になっていたころ、ばあちゃんは、銃を扱い人を殺すことに熱中する孫の振る舞い(の暴力性)を心配していた。それはひょっとすると、アンダーセンが描く、アメリカの「ミルシム・イベント」に延長上に起きた事件を想定していたろうか。
 アメリカでは、塗料付き弾丸を込めたエアソフトガンで撃ち合うゲームにはじまり、「ミルシム・イベント」へと発展してきたという。「ミリタリー・シミュレーション・イベント」のことだ。
 ある若い青年、エリック・フレインはペンシルベニア東部の田舎で、ユーゴ内戦の模倣ゲームに興じていたが、その延長上で、本物のAKー47(自動小銃)をもってスナイパーとなり、州の本物の警察官二人を待ち伏せして攻撃、殺害、以後逮捕されるまで、7週間も生き延びたという。「マジすげえ」ゲームだった、と本人が述懐していたそうだが、こうなると、模倣ゲームはもはや現実の関係を飛び越して、現実を幻想世界に引きずり込む事態になっていると思われる。
 その若者の(模倣における)、内心の跳躍が危なっかしい。
 現実はすでに、ものがたりと混在しはじめ、どちらが先か、もはやわからなくなりはじめた。ディズニー化するアメリカと前回指摘した。ディズニーは、フロリダにディズニー・セレブレーション地区を設けて、不動産開発もしている。そこはディズニーランドと現実のハイブリッドであり、ディズニーセレブレーションに住むことを念願として親子で移住してくる人たちが絶えない。設えられた物語世界を現実のものとして人生を築く人たちは、それを見に来る人たちとの相乗作用もあって、夢から覚めることはない。すっかりファンタジーランドの住人と化している。私たちの孫の世代が、現実を取り違えて、そのような世界に生きることを望むようになるんじゃないかと、私は心配する。
 あるTV番組の中、小さな(幼稚園年中組の?)子どもが「将来何になりたい?」とインタビュアーに聞かれたとき、「***」と応えて、何を言ったのだかわからなかったことがあった。ハリーポッターに登場するキャラクターの一人だと解説があり、知らない世界が広がっていることを実感した。子どものことと言えばそれで済む話ではあるが、大きくなり、ディズニーランドが現実社会になっていたとき、大人が口を挟む余地はあるのだろうか。
 トランプの嘘について、次のようなコメントがついていた。
 事実検証組織・ポリティファクトがトランプの400の発言を検証したところ、50%が完全な間違い、20%がほぼ誤りだった。一日平均4つの「誤解を招く主張」を発信していた。そして「公然とした嘘でも、聞くものからすると、あらゆることを疑うという価値相対主義を身につける。」
 それは、ファンタージランドを一層強固にさせ、目覚める端緒がみつからなくなると、アンダーセンは結論的に言及する。リアルとフェイクのハイブリッドが世に満ち満ちる。情報化社会の故なのだろうか。


「新規なものに適応」がメンドクサイ

2021-06-28 09:19:56 | 日記

 PCの「緊急事態宣言」に備えようと、後継機PCの物色に足を運んだ。今使っているノートパソコンは重い。持ち運びには不便だ。後継機は、たびにもって行けるものにしたいと「欲」が出る。
 いろんなメーカーのPCが並ぶ店頭をみて回る。ちょっと変わったのが、あった。OSの外のソフトが、クラウドに置かれている。機器本体の仕様はより単純。したがって安い。ソフトの更新も、ウィルス対策も、クラウドの方を通じて行われる。たぶん、保存とかの量によって料金がかかるシステムなのだろうが、こちらは「文書」と「写真」以外、保存するものもない。これくらいでいいじゃないか。そう思って、その新規なPCを手に入れた。
 ただ、もち運びとなると、WIFIがそばに必要。スマホにその機能を搭載するのは無料でできると分かって、3月にやってもらっている。そのときスマホショップのお兄さんが「そういうPCを買ったときに接続の仕方のセット模してあげますから」と言っていたのを思い出して、スマホショップへ持ち込み訊ねる。簡単に、操作の仕方がわかり、接続して帰ってきた。
 さてそれから、セットアップの方法へ移る。ところが、簡単な「説明書」にはない「項目」が現れる。アカウントを聞いてくる。スマホのアカウントを同じでいいかどうか迷ったが、同じものを入れる。パスワードも同様だ。ところがそうやると、クラウドからソフトを入れる「項目」がスキップされてしまって、次の項目へと移って行ってしまった。さあ、どうしたらいいか。問い合わせるには、QRコードを読んでスマホから問い合わせるるーとはある。でも、それしかないのか。
 ここで、作業は中断した。
 かつてなら…と思う。どこで行き詰っているか。段階を踏んで一つひとつ見分けて、行き詰っているところで、さらに細かく手順を踏んでいない部分を見極めることをしたか。「次へ」やってみて、行き詰ったら「戻る」操作がPCならばできる。だが新機種は、スタートアップするまでのモニター画面のどこにも、「戻る」らしきものがない。購入した店では「操作についての相談にいつでも応じる」と案内があった。そこへ行ってみて、尋ねてみるか。それが中断の「理由」。
 今使っているPCは「宣言」であって、まだ「緊急事態」ではないという感触があるからか。不要不急ということもあるかもしれない。ずいぶんあきらめが早くなった。
 新しい、つまり新規な機種に関して、自分でやろうという「根気」がつづかない。養老孟なら「バカの壁」というであろう。「高齢の壁」である。保守的になるというよりも、新規なものを受け容れて、それに対応する変化をわが身に施す気力がわかない。メンドクサイのだね。ああ、これが年々亢進して来ると、あれもこれもメンドクサクなって、体が動かなくなってしまう。そんな感じがする。
 でもまあ、これからまた、購入した店舗に相談しに行く。店舗のお兄さんの言葉をばねにして、何処まで使えるように危機を飼い慣らすのか、やってみる。そういうふうに、一つひとつの所作を、自分で解決して進めるよりも、他の人の助けを借りて歩一歩と積み上げるようになるのだなあと、わが身をみて覆いに感じ入っているところである。


宗教的熱狂の振れ幅と「哲学」の組みこみ方

2021-06-27 06:55:14 | 日記

 カート・アンダーセン『ファンタジーランド』の「第5章 拡大するファンタジーランド(1980年代から20世紀末まで)」は、表示する年代の宗教を軸にして変容・急進化するアメリカの精神世界を解析していて、刺激的である。キリスト教やユダヤ教の宗派の変わりようも、宗教というよりは人の精神が活動・集散する「舞台」という趣。バイブルやコーランを読んでわかったつもりになっていたキリスト教観は、ほぼ役に立たない。バイブルにかかれていることが、どのような象徴的なことかという理解も、旧習のカトリックやユダヤ教の方がはるかに近代科学合理性を組みこんでいるのに対して、プロテスタントは原理主義的なバイブル理解に固執して「狂信化」している。
 アンダーセンの記述で面白いのは、そういった宗教指導者の「狂信化」にドライブをかけているのが、受け手である大衆の狂熱ということだが、信仰というよりは、ただ単に何かに思いをぶつけ、狂熱のなかに憤懣をぶちまけたい精神世界の代償作用のようにみえる。それをアンダーセンは、「魔術」とか「ニューエイジ運動」とかと並べてキリスト教という人々の共有する文化的共通性としての「信仰」と受けとめているようだ。
 たとえば、近代的合理性に対するカトリックやユダヤ教とプロテスタントの対照的な違いに関して、次のように解析する。ローマ法王の一元管理の元にあるカトリック(の信仰)や高学歴者が多いユダヤ教の受け容れている合理性と、プロテスタントの学歴的、社会的不遇さの受け容れている「魔術性」とを比較するようにして解析している。つまり、今年初めのトランプ派の議会襲撃なども、政治党派が「魔術化」しているというわけだ。
 それは逆に、陰謀論を信じる基盤にもなる。ことにエリート層の、トランプ現象に対する冷笑や嘲笑は、システムにおいて優位に位置するエリート層の「陰謀」を明かしだてるものとさえ受け止められ、ヒラリー・クリントンの敗北につながった。さらにそれは、科学技術に対する疑問視にも広がり、ワクチンに対する不信にも結びついている。まさしく「ファンタジーランド」と化しているアメリカである。
 アンダーセンは、その行きつくところが「何でもありの世界」であり「最大の関心事は人生を楽しく過ごすこと」と人々の受け止められている、と解析する。この、末尾の部分だけをみると、日本も同じだと思わないではいられない。ただこうした部分だけをとって全体を推し量ることをすると、「分断」は一向に解消しない。つまり、「冷笑・嘲笑」するのと同じ轍を踏む。
「最大の関心事は人生を楽しく過ごすこと」という一言についても、どのような文脈に位置づけてそれを見て取るかによって、社会の風潮の流れを的確につかむか、外してしまうかが分かれる。つまり、もっと次元を深めてその言葉をとらえ返さなければ、表面的な解釈しかできない。
 たとえば、個々人の趣味嗜好に基づいて「人生を楽しく過ごす」としても、その趣味嗜好が、どこまで自然と人の拠り集う社会性とを視野に収めて活かされているかによって、「過ごし方」は違ってしまう。そういう趣味嗜好の広がりと深まりを吟味しながら、社会現象は解析していかなければならないが、言うまでもなく私たち一人一人のもっているネットワークは、それほど「哲学的」ではない。広がりや深まりを探るには、やはりメディアの質的な取材力量に拠るところが大きい。チャットやユーチューブというインターネットの「情報源」では、狭く、小さく、深掘りするような傾きばかりがいや増しに増し、その狭い世界での窮屈な言葉のやりとりで満たされてしまって、好みや憎悪が(つまり分断が)広がり深まるように見える。アメリカの強熱する「魔術」のようなものだ。
 その社会的な風潮の空間を掬い取るだけの社会的運動がどうやったら起こせるか。政治家たちには、そういうことを真剣に考えてもらいたい。
 私たち市井の庶民は、とどのつまり身の回りのコトゴトを「人生を楽しく過ごす」ことに傾けるしかない。ただひとつ、それが「人生を」広げ、深めることに通じているかと自問自答する。そういう「哲学的」なモチーフを組みこむことしかないと思うのだが、どうだろう。


コロナウィルスの声を聴け

2021-06-26 07:30:55 | 日記

 緊急事態宣言の解除を嗤うかのように感染者数が増え始め、五輪実施に挑戦するように、コロナウィルスの勢いは、増している。とうとう都知事も(都議選がらみかもしれないが)ダウンしてしまった。「人流を抑えて」と都知事はいうが、そもそも東京が人流を抑えるような成り立ちをしていない。人が密集しすぎている。そこへ踏み込まない限り、いくら都知事が「人流を止めて」と呼びかけても、当面の弥縫策を訴えているだけになる。聴いてる方は、現実的ではないと受け止める。為政者には、到達目標を提示して、そこへ至る道筋に具体的な手当てをすることが期待されているのに、目前の(漠然とした)対応を促すだけでは、現実性があるとは感じられないからだ。
 昨日(6/25)どこのTV番組であったか、「ワクチン接種の世界の様子」を放送していた。ベルギーだかオランダだったか、感染状況の変化と「規制」の強弱を3段階に分け、営業やイベントや振る舞いの必要を一覧表にして市民に配ることをしていた。一枚のペーパーにびっしりとその段階表が記されている。そう言えば日本も、似たような施策を行っているはずだが、TVの画面でそれをみるだけで、市民に配られるようなかたちになっていない。まずそこに、行政と市民との「齟齬」がある。行政の自信の無さとも言えるし、「朝令暮改」の布石とも受け取れる。事実4段階のステージも、「感染状況」から「重症者数」へ指標を移して厚い面の皮を曝している。
 自信のなさというのは、たぶん、行政の策定段階に応じて提示する施策の次元が異なることを意識していないからではないか。中央政府がすべてを取り仕切って、地方政府の採るべき施策の一つひとつまで統制しているというセンスが、すでにして、このコロナウィルスに対応するにはふさわしくないのではないか。そのレエベルの違いを意識していないから、都と中央政府の「齟齬」も、政治党派的対立にしかならない。
 地方政府の方にも、中央からの手当・指示がないことのせいにして、施策の進行を滞らせている姿が垣間見える。むろん行政システムの改善されるべき点が改められる必要もあるが、そもそもそのシステムを疑ってかかる姿勢が(中央の側にも地方の側にも)見当たらない。とどのつまり、不毛な責任の押し付け合いが表面化するばかりなのだ
 たとえば政府は、居酒屋の営業を展開するのに「山梨方式」を見出して得意げに吹聴していたが、それとても、山梨の人口とそれに見合った数の居酒屋だからこそ、「山梨方式」が成立するのだ。東京でやろうとしても、居酒屋の数が多すぎて、コロナ対策をしているかどうかチェックするなんてことも、何人人がいても足りなくなる。机上の空論なら、簡単に口にできるが、それを実施するとなると、手間暇と動かせる人の絶対数とを考えただけで、無理だとわかる。
 加えて、山梨ならばまだ、県知事の呼びかけや市町の首長が何を心配して「山梨方式」を取り入れようとしているかわかるくらいのコミュニティ性を、人々がもっている。その程度の気遣いが働く人間関係が日常のたたずまいに残っている。だが東京では、例えば神田の神保町や猿楽町、小川町の小さな居酒屋を考えてみてよ。常連さんだけでならまだしも、ほかの店が閉まっているからちょいとごめんよと入ってくる一見さんがいかに多いことか。その人たちに気遣いを求めても、読み取る空気が違う。端から期待できない。都会って、そういうつくりになってるんだよ。それを「山梨方式」って一緒にしても、うまくいくはずがない。
 地方政府も、中央政府からそれが提示されると、そのまま実施しようとしてすぐに暗礁に乗り上げる。手が足りないのだ。それは実施するまでもなく地元の居酒屋の実態を見ていれば、すぐにわかること。だのに、地方から「無茶を言うなよ」と声が上がることもない。手が足りないと(地方政府の責任とは言えないと)事実が明らかになったところで、取り組みは終わっている。どこを向いて仕事をしているのだと、現場を取り仕切ってきたものとしては、思う。
 それのどこが目詰まりしているかを、中央政府も地方政府も、その両者の間を取り持つ「関係」を論題として改善していこうと手を付ける方法が、存在しない。
 つまりここは、あの手この手を打っても構わず広がっていくコロナウィルスの、気随気ままの在り様に耳を傾けて、最初から出直すくらいの覚悟をもって都市設計からやり直した方がいい。いや、そうしなければ、根本からの解決策には向かわないと、素人論議ながら、私は考えるのだが、行政の関係者たちは、それは学者が提起してくれなければと考えているのだろうか、わがモンダイではないと言わんばかりに、知らぬ顔の半兵衛なのだ。それが市民からすると、もどかしい。「自助」の扶けにもならない情報公開では、「公助」も「共助」も、関係づけようがないのである。
 コロナウィルスへの対応をいろいろと聞くけれども、マスクと三密用心くらいしか自己防衛の仕方がわからない。行政の人たちもどう対応していいのかわからないのだろうとは思うが、それにしても、クラスター探しのやり方が通用しない感染状況になっても、他の感染経路を探り当てる方策も提起できないというのは、どういうことだろうと、無策ぶりに呆れている。感染症への対応戦略をどなたが描いて指揮しているのか、わからない。
 こう考えてくると、日本には、行政的にモノゴトをすすめていくものの考え方の経路(つまり、哲学)が、意識されていないのかもしれない。ことごとく、行き当たりばったり、いつも当面の仕事ばかりが思い浮かんで、その先が具体化していく段階で何がどう必要であり、何をどう進めておく必要があるかを考える視野が、ほんの一週間先のことにしか届いていない。一カ月先にはどういう事態になっているから何をどう策定する必要があるか、半年先には何が予想されるか、一年先はどうか、五年先にはなにがどうなっているか、そう考えて、施策というものは練るものではないか。
 そのとき結局、視界に収まっているのが、選挙だとか、派閥の力関係だとか、世論の動向という表面的な数値の移り変わりだけに焦点が合い、そのそこに流れている「事態」の推移が真剣に検討されていない。そんな感じが、行政全体に行きわたっているように思えて、がっかりしているのである。
 コロナウィルスの声を聴け、人類史に位置づけてと、大上段に構えたくなっているのだ。