mukan's blog

つれづれなるままに ひぐらしPCにむかいて

現実をどう見るか

2021-11-30 09:06:06 | 日記

 今日(11/30)の朝日新聞「取材後記」は《放置する政治家「資格」疑う》と見出しをつけて、憲法の規定を守ろうとしない内閣への苛立ちを、次のように記している。
 帝国憲法改正委員会審議中の1946年、《憲法担当大臣であった金森徳次郎の答弁は明快だった。政府や国会で活動する人は「政治道徳の根拠ともなるべき人々」であり、制裁規定をおくまでのことはない、と。……しかし現在のこの国の政治家たちの姿を見ると、金森の見通しは実に甘かったというほかない》という。
 臨時国会の召集を求められたのに、「憲法の規定に反して」それに応じないことを元最高裁判事の言葉を援用して非難しているのだが、それはそれでいいとしても、どうして「資格を疑う」という言葉になるのかが、よくわからない。金森徳次郎がいうように「政治道徳の根拠となるべき人々」が政治家の資格を有するというのなら、何処にその規定があるのかきっちりと明示しておかねばならない。75年も前の単なる「担当大臣」の答弁である。それを国会議員の「資格」とみるからには、金森もまた、その根拠を明示しておかねばならない。と同時に、それを引用して改めて国会議員の「資格」を論じるのなら、この論者(編集委員・豊秀一)もまた、改めてその根拠を明らかにしなければ、「実に甘かったというほかない」といわれてしまうよ。
 何が問題か。発言者の発言の裏側には、その方の理念とか観念とか思い込みとかそれまでに歩んできた総過程の文化が横たわっている。その一端だけをご都合主義的に採用して、ご自分の主張を展開するのは、これまた単なる「非難」であって、現実認識としても共有されないし、論理的な展開の足がかりにもならない。
 では、どちらが「現実」に近いか。あきらかに「資格」を疑われる政治家の存在が現実的である。金森徳次郎の思い描いた「政治道徳の根拠となるべき人々」とは、国会が規定する法律が政治道徳の根拠となり、いずれは国民道徳の規範となることを期待したのであろう。よく、タテマエとホンネと対比されるが、現実的な方がホンネ。とすると実際に生きている庶民大衆は、どちらに重きを置いて身の裡に取り込み生きていく指針とするか。言わずともわかろう。
 国家が法律で決めたものが、どういうあしらいを受けるかを、日々国民は、世の中のいろんな出来事を見つめながら、注視しているともいえる。だから国会議員がみっともないことをして言い訳をしたり、文書を改竄したり、変な言葉の用法を閣議決定して宰相を擁護したりすると、そうかそういうことかと国民の「世界観」を手直しして、生きていくのに役立てる。それらの積み重ねが、庶民大衆の「情報・認識・行動指針」となって、集団的無意識として社会を覆うようになる。金森が甘かったというよりも、ホンネを見極めて法をつくらねば、抜け道を探ってザル法にしてしまうと人間認識が、欠けていたのだ。性善説だとよく言われるが、そうではない。人間を性悪説で決めつけるのも、一方的である。そういう見極めではなく、人の日常的な振る舞いと、外からの「規制」がどのような「かんけい」で動いているかを見極めて、そのときどきに最適な対応策を講じなければ、憲法ばかりでなく法律もまた、ただのお飾りに堕してしまう。
 今や政治がそのようなお飾りに過ぎないと思えるのは、庶民大衆の見誤りなのだろうか。


第二期・第14回seminarご報告(1)ジェンダーは文化の棚卸し

2021-11-29 15:20:33 | 日記

 今回の講師はミドリさん。「ジェンダーについて考えてみましょう」とタイトルを振ったA4版5頁のプリントを用意。その1ページ目に10項目に亘る今日の話題の表題が掲げられ、今日のステップを示して、途中で脱線しないように全体像を示している。
(1)ジェンダーとは?
(2)ジェンダー・ギャップとは?
(3)ジェンダーレス、ジェンダーフリー、ジェンダーバイアス
(4)LGBTQ+
(5)日本史の中の性差
(6)SDGs*ジェンダーの平等を実現しよう。
(7)性的マイノリティの人たち NY Pride parade
(8)レディーファースト
(9)天皇制とジェンダー
(10)宗教とジェンダー
(11)MY conclusion

 生物学的な「性/sex」に、社会的・文化的な「性差」が加えられて「ジェンダー/性的役割」が生まれてくると話しが始まる。
 インドの女児の(故に)堕胎された数を1994年~2014年の統計を示して例示する。インドではダウリと呼ぶ(女児の)結婚時の持参金が負担となって、男児の出生が歓迎され、女児が忌避されている実態を取り上げる。中国でも一人っ子政策が行われていたときには同じような事態が起きていたから、男系のイエ制度、職業・資産の相続がなぜ行われるようになったのかが問われていると、私自身の関心へ心持ちは向かいかける。
  話を聞いていて、身の裡にふつふつと疑問が湧いてくるのを感じる。なんだろう、この「わからなさ」の違和感は? 「生物学的な性」と「社会的・文化的な性的役割の区別/性差」とは、「ジェンダーの平等を実現しよう」いう言葉でくくれるほど単純なことなのだろうか。いや、別様にいえば、そこでいう「平等」ってなんだ?
                                      *
 私はまず、J・M・クッツェー『モラルの話』を思い出した。ノーベル文学賞作家の小説だ。う~んと唸るような所収短編のひとつが「犬」。
 通りかかる彼女に激しく吠え掛かる「猛犬」。勤めの往き帰りに、毎日二度、吠え掛かる。ジャーマン・シェパードかロットワイラーの大型犬。恐怖の色を浮かべる人に吠え掛かって支配欲を満足させているのか、あるいは、雄犬が雌人を見分けて支配欲を満たそうとしているのかと、彼女の想念は広まる。行き着いた先にアウグスティヌスが登場する。
 アウグスティヌスは、我々が堕落した生き物であるもっとも明らかな証拠は、みずからの身体の運動を制御できない事実にあると言っているそうだ。
「とりわけ男は自分の一物の動きを制御する能力がない。一物はまるでそれ自身の意志に憑依されたように動く。あるいは遊離した意志に憑依されたように動くのかもしれない」
 彼女はじぶんの「屈辱的な恐怖の臭い」を出さないために自制力をもてるか、と自分を励ます。だが、今日も駄目だ。そこで彼女は勇をふるって「猛犬注意」と張り紙を出している家の玄関の扉を叩いて、「なんとかしてくれ」と頼む。出てきた老夫婦は「いい番犬です」と言って取り合わない。
 以上のような話。私は「女性」の生来的な「恐怖」と受けとっている。
「かんけい」によって生じていることを「身体制御」という実体に持ち込んで「堕落した生き物」と規定するアウグスティヌスを「いい番犬」と名づけているようにも読み取れる。
何でこれを思い出したのか。私もアウグスティヌス同様に「堕落した生き物」と自己認識するからだ。
 もう一つの、どこかで見た詩へと連想が飛んだ。家へ帰って拾ってみたら、次のような断片だった。誰かがどこかで引用していたペルシャの詩人シーラーズのサアディの作品。
    アーダム(キリスト教のアダム)の息子たちは、一つの体の手であり足であり、
    彼らは同じ精髄からつくられている。
    どれか一つの部分が痛みに苦しむと、
    ほかの部分も辛い緊張にさいなまれる。
    人々の苦しみに無頓着なあなたは、
    人の名に値しない。
 神の創造物である人間が、互いの共感性をどこかへ置き忘れて、「人を殺すのはなぜいけないのですか」と問う若者を生み出し、それに応えられないで立ち往生する大人の一人だとわが身を見つめ直す。ここも、わが身に覚えのあることを、訴えがなければ痛みとして感知しないセンスが、ベースを為している。
 ジェンダーの問題は、身に染みこんで刻まれてきている社会的気配だから、改めて考えてみないとわからない。
 しかも、社会的・文化的な性差が、自然発生的に形づくられてきたとすると、生物学的な性と切り離せない合理性があったはずだ。それを、「古い性差別観念だ」と切り捨ててしまえるのか。私たちが身を以て(社会的、集団的に)たどってきた道を、現代の合理性の観念で切り棄てることはできるのか。そんな思いがふつふつと湧き起こってきたのだった。
 seminarの開催案内に記した「まえふり」があったから、先のオリンピック・パラリンピックの組織委員会の森喜朗会長の「女性蔑視」発言を、会長を辞任するほどのことかとみている私の書いた一節がミドリさんの俎上に上った。ミドリさんは非難するでもなく、淡々と私の発言を取り上げ、あたかも森喜朗と同じ「古い時代のオジさん」と見ているようなあしらいであった。ちょっとそこへ立ち寄ってみようか。
 森発言を私は、下手なジョークと受け止めていた。というのも、誰であったか脳科学者が(ラジオで)、子どもの男兄弟というのは序列秩序が安定していると心理的にも関係が安定すると話し、それに対して女姉妹というのは、いつもあなたが中心ですよといわれていることで関係が安定すると言っていたことを思い出していた。そのとき私は、ふ~んそんなものかと、私の身に覚えのない女姉妹の心もちを推察して聞き流してたのだが、これも森喜朗と同じ女性蔑視発言なのだろうか。
「一人(女性が)発言すると私も発言しないではいられないというふうに女性は発言する(ので会議が長引く)」という趣旨の森発言は、会長という彼の立場からすると、どんなことをそこで言っておこうとおくまいと決定事態が変わりはしないのに、言わいでなるものかと発言するのを皮肉ったのだろうか。ま、その程度の森流合理性があったろうかと感知したわけであった。
 だから、同席した他の委員も(森会長の功績に照らしてか?)咎めなかったのかもしれない。それがメディアに取り上げられ、森喜朗は何が問題なのかわからない風情で「謝罪」し収まったかにみえたのに、外国人特派員がそれを報道し、海外メディアが大きく報道して騒ぎになり、海外では(それではオリンピックに参加しない)とまで言うアスリートもいて、会長辞任にまで発展した。でもこの辞任劇の何処に、「女性蔑視」解消に関する日本の文化的な進展があったろうか。言われてみれば「女性蔑視」であったという追認はあったろうが、昔の古いセンスのオジさんの発言に何を目くじら立ててんのよと笑い飛ばすくらいが、日本のフェミニストの受け止め方ではなかったろうか。
 いや、欧米メディアの「女性蔑視」を過剰反応といいたいのではない。そうではなくて、相変わらず日本のメディアも、組織委員会も、海外欧米からの圧力に弱かっただけじゃないのかと、自己の文化センスに定見のない政治家やメディアの現在を思ったのであった。
 ジェンダー・ギャップを取り上げるとき、男女間の社会的な役割意識をギャップと言っているのか。それとも欧米と日本の文化的な差異の大きさが「ギャップ」といっているのか。この両者を取り上げる必要があろう。そしてさらに、欧米と日本の文化的な差異を、一つの基準で「ジェンダーギャップ/性差別」として論じるのは、いかにグローバル化の時代とは言え、文化の多様性に差し支えが生じるのではないか。
「ジェンダーギャップ指数」が日本は、アンゴラに次いで120位と言われても、男言葉/女言葉があったり敬語が三層(尊敬語、謙譲語、丁寧語)に入り組む日本語と単純明快で機能性に富んだ英語とが比較されて「女性の地位が低い」といわれているようで、それって、何を女性尊重と言っているのかさえわからなくなる。
 いやそもそも「女性尊重」って言葉さえ、「女性を(保護する対象として)軽視する」発言と捉えられかねない風情さえ漂う。私の身に染みこんだ文化とともに潜在している「性差」を一つひとつ拾い上げて、考えてみるしかないか。まるで私が経てきた文化の総棚卸しみたいだと、改めて思っている。


seminar実施しました

2021-11-28 09:06:59 | 日記

 昨日(11/27)、36会seminarを実施しました。新橋の「ももてなし家」は、9月よりもさらに人が集まっており、一階の店内を見て回るのは夕方の電車の中よりも混雑していました。それがいいことかどうかわかりませんが、確実に「人流」は恢復しています。
 seminarにいつも顔を出す「常連」が、全員そろうことになっていました。
 開会の30分ほど前から集まり初め、てんでにおしゃべりが始まります。2ヶ月ぶりの方もいれば、4ヶ月ぶりという方もいます。seminarがある毎に映画を見てからやってくるというフミノさんにも、1月のseminar後の新年会にバイオリンの演奏を披露してもらうことになりました。新年会は、幹事役のミヤケさんが実施を決め、後日皆さんに案内を出すことにしています。
 9月に入院していたマンちゃんもお内儀と一緒にやって来ることになっていましたが、まだ顔を見せていません。いつも連絡を取っているミスズさんが、皆さんに聞かれて、どうしたんだろうと心配しています。電話をしたら、まだ家に居ました。2時から開始と思っていたといい、家を出てくることになりました。
 1時間ほど遅れて二人がやってきました。マンちゃんは、歩くのもおぼつかない風情ですが、皆さんの顔を見るためにやってきたと口にします。会食になって、他の皆さんと同じものを注文し、生ビールも少しずつ飲んでいましたから、ずいぶん恢復しています。ちょっと咳き込んだりしますが、フジワラのトシさんと話し込んでいましたし、店番にも午後から顔を出して、片付けもお内儀としているとのこと。数え傘寿の壁に挑んでいる最中という感じですね。
 さてseminarは、ミドリさんを講師にして「ジェンだーって何? 日本人はジェンダー・ギャップを埋められるか?」をお題にして始まりました。事務局の「次第」には、次のように「まえせつ」が書かれています。
《生物学的な「性別sex」に対して、人間は社会的にも、文化的にもいろいろな衣装を着せてきました。男らしさ、女らしさ、男の役割、女の役割という衣装。それが「ジェンダー/gender」です。
 文化的にいえば、男言葉、女言葉があります。服装もそうです。立ち居振る舞いに至っては、男女の優劣が如実に現れます。三歩下がって男を立てるという大和撫子の理想型も、文化的につくられていった素養です。
 制度的にいえば、男系/女系という職業・資産の継承権の系譜も問題になります。家計の財布をだれが握っているかというのも(社会的に)男女が影響しているとすると、それもジェンダーです。イエ制度や夫婦同姓か別姓かも、関係してきます。
 それが男と女の関係となると、もっといろいろな既成観念がかぶせられて、私たちの感じ方や考え方を支配している言えます。その齟齬から来る軋みを、ジェンダー・ギャップと呼んでいます。齟齬は取り払うことができるのでしょうか。
 でも、どのような場面でどのようなモンダイをめぐって取り交わされるかによって、齟齬の質も範囲も広がっていきます。先のオリンピック・パラリンピック組織委員会の森喜朗会長の発言も、そうでした。また、子育てをどうして女がやらなくてはならないのか。イクメンという言葉も起ち上がりました。男と女の生理的違いがもたらす社会的、文化的な差異は、しかし、時と場合によって、身のこなしとして私たちはくぐり抜けてきました。時代的な文化の流動・変化によって、かつては何でもなかったことが、大きく問題になってきています。世相の変化です。
 他方で今の私たちは、歳を重ねてきたことによって、ジェンダー・ギャップよりも、フィジカル・ギャップの方が暮らしに大きく作用するようになりました。同時に、古いままのジェンダー・ギャップを身につけていて、どうしてあの程度の発言で森会長が辞任することになるのか。ちょっとわからなくなっていましたね。国内的には一時収まったかに見えた発言の波及でしたのに、、国際的な非難が轟轟と響き渡るように伝えられ、国際世論に押されて会長辞任となったのですが、そのインターナショナル・ギャップがどうして生じたのか。それが副題の「日本人はジェンダーギャップを埋められるか?」という問いになっているのかもしれません。彼女の経験豊富なアメリカ文化との対比が縦横にめぐらされて、面白い切り口になると期待しています。》 
  さあ、どうなったか。そのご報告は、また改めてすることにしましょう。
 seminar後の会食は、「アルコール解禁」とあって、勢いづいたのはミヤケさん。ハイボールから初め、岡山・宮下酒造の地ビール「独歩」、同じく宮下酒造の「極聖・雄町・大吟醸」と飲む順番を考えて注文し、ハイボールの届くまで、手をつけずに待っているという律儀さでした。マンちゃんの恢復を祝って乾杯し、まず何より再びこうして顔を合わせることができるのを言祝いでいる気配に満ちていました。


多様性を認めるだけでは落ち着かない

2021-11-27 08:18:00 | 日記

 今日(11/27)の朝日新聞の「悩みのるつぼ」は、「何にでも執着する自分がいやになります」という10代の女性、大学生の相談。ドラマをみても自分の好みに合わないとすぐに見捨てる。それが高評価を得ていると知ると、自分が非難されているような気がして気に入らない。苛立つ。自分が好きな作品のときは、自分とその作品との境界が曖昧になり、それに対する世間の評価を自分への評価と受けとってしまう。批判されると傷ついてしまう、という相談。
 それに対して美輪明宏は「他人の感想なんて千差万別。割り切るしかありません。人間にはいろんな価値観があるのは当然です」と応じて、見出しも《哲学を学び、多様性を認めましょう》とまとめている。
 だが、そうか?
 多様性を認めるというのが「人生いろいろ」という他者承認だとすると、この相談者の「自己嫌悪」は少しも片付かない。「世間の高評価」を受け容れられないのは、「自分の評価」が相対化されないからだ。では、自信たっぷりなのかというと、そうではない。はたして「自分の評価」は正しいのかと不安になっている。つまりこの相談者は、自分(の評価)を世界に位置づけることができないことに苛立っているのだ。
 となると道筋はひとつ。なぜ、自分はこの作品を気に食わないのか、どうして私は、こちらの作品がいいと思っているのか、そう問いを立てて自問自答して、自画像を描いていくしかない。他の人たちとか世間の評価は、自画像を描くときに踏み台になる媒介物だ。彼ら、彼女ら(評論家)は、何処をどう見て評価しているのか、その点を自分はどうして認められないのか。
 かつて西欧では、趣味と色合いは批評の対象にしてはならないという(紳士淑女の)世間相場があったそうだ。それをぶち壊したのが、フランスの社会学者・ピエール・ブルデューだとどこかで読んだ覚えがある。ブルデューは、趣味も色合いに対する好みも、生育歴中の環境によって埋め込まれ、無意識の自分の好みとして沈潜している社会的な継承性を持っていることと見て取った(『ディスタンクシオン』)。
 つまり相談者の感性や感覚、あるいは好みの傾き、ときには思考の傾きも、無意識のうちに育まれ、あるいは習い性となって無意識層に沈潜している社会的な関係の結晶なのだ。だから、自画像を描くというのは、自らの感性や感覚、好みの根拠を自らに問いただし、意識層に浮かび上がらせることに他ならない。そうしたときにはじめて、自分の選好がどういう社会的な継承性の産物であるかをみてとり、相対化することができる。
 多様性を認めるというのは、(好みやセンスは)人それぞれよということなのだが、そう言って終わりにすると、「関わりの糸口」は断たれてしまう。糸口をつなぐのは、それぞれが背負っている社会性を、我がことと対照させて位置づけていくことだ。一つにまとめる必要があるのは、その好みやセンスによって共有している場が決定されてしまうときだが、ふだんの暮らしの中でそれは、そう多くはない。
 じゃあ、関係ないって済ませてしまえるんじゃないか。そうなんだ。我関せず焉と感知しないのが社会的な作法になっていたりするから、社会的な振る舞いとしては知らぬ顔の半兵衛を決め込むのがいい場合もないわけではない。だが、自画像を描くというのであれば、我関する縁と考えて、自分の身の内の共振する部分を拾い出してみることも、面白い振る舞いとなる。
 これが哲学するってことだと、私は考えている。美輪明宏は、「哲学を学べ」といっているが、哲学者の哲学した結果を勉強しても、よほど通暁しないと自分との接点を見いだすことはできない。それよりは、自ら哲学することだ。世間の評価と照らし合わせて自分の評価を際立たせ、その根拠を問うとき、自ずから社会の規範や常識のベースになっている感性や感覚が身の内から湧き起こり、その根拠へと迫ってくる。
 おっ、これだと一度つかんでも、しばらくすると、それもまた(そうかな?)という自問自答に包まれることもある。それでいいのだと思う。「自分」ということ自体が、一つに固定的に捉えられることではなく、行雲流水の如くつねに移り変わっている。そういう移り変わりをものともしない自画像が描き出されたとき、だれが何と言おうと、あるいは何も言わなくとも、私は「わたし」だという動態的確信を手に入れることができる。


石油の備蓄放出だって?

2021-11-26 08:02:07 | 日記

 ガソリンの値段が上がっていることは、車に乗っていれば、ピリピリと感じる。でも、温暖化を防止する手立てを講ずるには、最適な環境ではないか、とも思う。つまり、ガソリンや石油製品が値上がりする。それらの利用を(やむを得ずであれ)控える。石油の採掘元のOPECは、産出量を減らして値を上げ、国家の財産の失くなるのをできるだけ先延ばししたいのだから、温暖化防止とちょうど見合っているじゃないか。
 そう言えば思い出したが、1970年代のオイルショックの頃は、「このまま石油を使い続ければ、(石油は)あと何年持つか」を数値で出していた。30年で枯渇するといっていたが、それから50年経っても同じ騒ぎをしている。石油の値が上がったことで、採算の合わないとみていた採掘が行われるようになったと理解していた。また、それでも石油がとれなくなったときを考え、シェールガスという新手の化石燃料を作り出してきたのだった。
 半世紀前と違うのは、温暖化防止=CO₂削減=化石燃料の使用をやめようという要素が加わったからだ。それを主導しているのはヨーロッパ。フランスは原子力にドイツは再生エネルギーに舵を切っている。
 だが、後発の中国やロシア、インドなどは、欧米の先進国がCOPを通じて温暖化防止=CO₂削減=化石燃料の使用をやめようというのは、先進国の身勝手。自分たちは先に存分に化石燃料を使っておいて、あとから追いかけている国に使うなというのは、勝手すぎるじゃないかと批判している。それをCOPの会議では、先進国が化石燃料からの転換を図る技術を後発の途上国に無償で提供しろと(先進国に)迫ったが、まとまらなかった。
 先進国でも、トランプのように「温暖化の危機」はフェイクだとCOPからの離脱を掲げたりしたから、ますます先行きは不透明になっていた。バイデンが登場して、息を吹き返し、どうやら次の一歩へ踏み出そうとしている矢先、石油の値上げがやってきたというわけだ。バイデンが呼びかけて、備蓄分を放出しようと呼びかけ、日本も追随することになった。しかしそれも、バイデンのアメリカ中間選挙向けの弥縫策と揶揄される程度の効果しかあるまいと、各地のエコノミストは冷笑している。
 そりゃあそうだ。OPECに対抗して石油を放出するくらいなら、イランに対する経済制裁を解除すれば、イランは石油を輸出するし、OPECも減産=値上げをやっていることができなくなる。これは以前、第二次オイルショックの時に打った手と同じ、そのときも大産油国イランが貢献している。
 逆にCOPの立場に立つと、OPECの減産=値上げは、国際会議の合意に苦労するより先立つべき政策である。むろん石油を止めても石炭がある、天然ガスがあるから、そう簡単に世界全部がCO₂削減に向かうわけではないが、自動車や航空機、船舶という最大の輸送手段の削減に、これほど有効な手はないと。だが欧米も工業諸国も、そうは動かない。
 そう考えていて一つ思いつくこと。庶民大衆は、ガソリンが高くて手が届かなくなると、車を捨てる。電車やバウに切り替える。自転車に乗る。歩く。遠出をしなくなる。つまり、「状況」に適応するしか、生きていく方途はない。それはたぶん、あちらへ行きたいこちらで遊びたいという心裡の「欲望」を押さえることへ向かう。
「欲望を止めろ」というのではない。これまでの、お金を使う商業主義的誘惑に向かう「欲望」から、自らの体を使って移動し、気候気温に適応し、興味関心を満たす方途を探り、そのための環境(たとえば図書館とか映画館とか演劇場とか博物館など)を整えていく「欲望」に切り替えていく。商業主義的消費から自律的な遊びへと向かう文化的な転換を図るのが、一番賢明ではないか。
 つまりこうも言えようか。バイデン政権を初め、各国の政治指導者が採る政策は、商工業第一主義の資本家社会的な暮らし方への誘惑であり、私たちの日々の暮らしを堅くそれに結びつける方策ばかりに満ちている、と。私たち庶民大衆は、その誘惑からぼちぼち離脱して、自らの心裡を満たす暮らし方を真剣に考える時が来ているのではないか。
 そう考えてみると、石油のことはほんの一つの発端だったとわかる。コロナウィルスがそもそも、私たちの反省を迫っていたことは、資本家社会的な(商業主義的な)物量と宣伝の溢れる生活ではなく、静かに佇まいを整え、ときどき内心を見つめながら、人と人との関係を穏やかに保っていく暮らし方ではなかったか。
 ガソリンが高くなっても、困ることはない。庶民大衆の暮らし方の知恵は、どうあっても生きていく力を持っている。あの戦争までやって、なおいま、こうやって生きてきているのだから。