mukan's blog

つれづれなるままに ひぐらしPCにむかいて

奥多摩湖から歩く三頭山~御前山

2015-10-31 15:36:48 | 日記

 東京の西の端、青梅線の終点・奥多摩駅からバスに乗って40分、標高をぐいと上げると小河内ダムの堰堤にたどり着く。そこに注ぎ込む丹波川や小菅川などいくつもの沢と川の水を湛えて、巨大な湖・奥多摩湖が、東西に延びている。水源になる山は、その南北両側と西奥に拡がり伸びて、北は秩父、南は神奈川、西は山梨と接する。山域地図では「奥多摩」と一括しているが、登山口は四通八達していて、どこから登るかによって印象は異なっている。

 

 昨日は、自身の力量チェックのためにそちらへ足を延ばした。奥多摩湖の北東岸から南を見ると1500m級の山並みが急激に立ち上がり、屹立している。そこへ南西端の陣屋から登りはじめ、北東端の駐車場まで降りてくるというコース。最高標高差は1050mだが、稜線は1000mまで下って1400mまで登るというアップダウンを必要とする。8時間を超えるルート。

 

 奥多摩湖の紅葉は11月中旬。まだ早い。だが、標高500mから登りはじめ、1500m余、8時間のコースのどこが紅葉しているか、これも愉しみではあった。カラッとした気候、寒くもなく暑くもないという山歩きには願ってもない季節。これに行くと、週に3山登ることになるから、たしかに過剰ではある。それが、体力チェックにもなると考えた。

 

 5時に家を出る。高速を走ってアプローチするのだが、ラジオのニュースを聞いていて青梅ICで降りるのをうっかり通り過ぎてしまった。次の日の出ICで降りて、奥多摩へ向かう。あとで考えると、それが実は幸いした。青梅ICで降りると青梅市内をかなり走る。ところが日の出ICで降りると早朝ということもあって車の少ないところを抜け、奥多摩湖から流れ出ている多摩川の右岸道路を奥多摩駅の先まで貫けることができる。帰りに左岸沿いに青梅へ向かったが、バスは通るトラックは走る、工事中であったりして渋滞し、倍近い時間を食ってしまった。

 

 7時前に奥多摩湖東駐車場に車を置く。ひやりとするが、長袖シャツ一枚で不都合はない。手袋をして、積んできた自転車に乗って奥多摩湖の西南端の陣屋の登山口に向かう。8kmほどだから20分もあればつくだろうと思っていたのが、30分もかかってしまった。登山口に自転車を置いて歩き始める。7時35分。ムロクボ尾根はいきなりの急登。ストックを出し滑りそうな体を支えて歩一歩と持ち上げる。牛歩である。それが30分続き標高差300m上がっている。このペースだとコースタイム1時間半のところを1時間で登ってしまう勢いだ。いいじゃないか。

 

 馬の背のような稜線になったかと思うと、再び、三度、急斜面になる。ムロクボ尾根の最後の部分は、落ち葉もあって滑り落ちそうな砂地の傾斜を、岩や木につかまるようにして這い上がる。斜度は45度くらいあるのではなかろうか。その途中、さび付いた標識にマジックで「ツネ泣坂」と書いてあった。「泣かないで歩こう」と昔子どもに言ったことがあったが、ほんとうに普通名詞になるほどの坂なのだ。それを抜け出るとヌカザス尾根に合流する。国土地理院の地図では「ヌカザス山1175m」とあったが、案内表示板は「ツネ泣峠」と記してある。「←三頭山 ヌカザス山→」と表示がある。ヌカザス山はもう少し合流した尾根を下ったところのようだ。歩き始めてから1時間半。コースタイム通りだ。歩くペースと高度の関係は、やはり1時間400mほど。まあ、まずまずのペースだ。

 

 そこからは緩やかな稜線を上る。標高1200mから1400mほどの間のブナや各種のカエデ、コシアブラなどが紅葉・黄葉している。1500m近くになると紅葉は終わっていて、広葉樹の葉もすっかり落ちている。入小沢の峰という時間のチェックポイントを見過ごしてしまった。気づいたのは「入小沢の峰0.2→」という表示を見つけたとき。見晴らしは利かない。木々が林立しているからでもあるが、薄い雲が遠景を覆い、雲量8の天頂だけが青空に明るい。汗ばんでいるが、寒くはない。風もない。歩きながら(珍しいことに)お腹が空いたと思った。

 

 三頭山は西峰、中央峰、東峰の三つのピークをもつ。中央峰の手前にテーブル付きのベンチがしつらえられてある。東峰の先に展望台がつくられている。そこのベンチに座って、とん汁とパンを食べる。10時15分、ここまでもほぼコースタイム。今日初めて山で会う人が登ってくる。「三頭山の山頂はどこですか」と聞く。三頭山の南側には「都民の森」の駐車場があり、ここを通るルートがハイキングコースになっている。ここから40分の鞘口峠までは、何人もの人たちとすれ違った。この標高差400mのコース上の何カ所かに「←山岳耐久レース 東京都山岳連盟」の標示が掲出されている。一般ルートを避けて登山マラソンのコースが設けられているのであろう。私も「耐久レース」のコースを歩く。以後、この表示は私が歩くコースの先々につけられていた。

 

 鞘口峠を過ぎると、また人と出会うことはなくなった。4、50mの高低差を登ったり下ったりしながらの稜線歩きが続く。風張峠付近に、「山岳耐久レース 40km地点」と表示がある。この山中が40kmということとなると、このレースは100kmほどあるのだろうか。風張峠を過ぎてしばらく進むと舗装した2車線の道路に出くわす。檜原村の数馬から奥多摩湖に抜ける、かつての有料道路。それがこの山稜を乗っ越すところが、月夜見山の脇であった。11時50分。汗もかいていないし風もないのに、なぜか体が冷えるような気がして、ザックから軽い羽毛服を出して羽織る。ベンチでカップラーメンにお湯を注ぎ、2回目の昼食にしていると、女性の2人連れが上がってきて、向かいのベンチに腰掛ける。彼女たちもお昼にするようだ。「どちらから?」と聞く。「奥多摩湖から」というと、若い人が市販の地図を広げて「どこの登山口? どちらへ?」と、このあたりに詳しい様子。説明すると「ずいぶんロングコース、健脚なんですね」という。お返しに「あなたがたは?」と尋ねると、中年の方が「じつは目を悪くして、久しぶりなんです、山は」と応える。「でもご一緒してくれる方がいて、いいじゃないですか」と若い人をみる。「いえね、無理を言ってついてきてもらったんです」とまた中年の人。若い人はにこにこと笑っている。軽アイゼンがどうのこうのと言っているから、冬場の積雪期にも来たことがあるのだろう。結構なことだ、こうして歩けるのだから。

 

 お先にと挨拶をして、後半の3時間半に取りかかる。12時5分。ここのところで、惣岳山に2時前につけなければ御前山の往復は止めようと判断する。歩行タイムはほぼコースタイムで来ているのだが、お昼を食べる時間がよけいにかかっている。いつもなら、その時間も含めてコースタイムで歩けるのに、どうしたことだ、今日は。


                                                                                        
 いったん道路に出て駐車場を横切って、再び登山道に入る。小河内峠まではまた、小さなアップダウンの稜線歩き。稜線の突出部に差し掛かると「山岳耐久レース →」が、巻き道への経路を案内する。小河内峠を過ぎてから徐々に高度が上がり、この向こうが惣岳山と思われるところで、「山岳耐久レース 御前山 →」と、また巻き道の案内がある。ひょっとして惣岳山を経ないで御前山へ向かう巻き道ではないかと思う。山頂部へ向かう道の踏み跡は、落ち葉が降り積もって薄くなっているが、間違いなく、ある。そちらへ踏み込む。あまり歩かれていない。急斜面の登り、加えて滑りやすい。道なき道を歩くようにしてピークへ出てみると、「← 御前山 小河内峠→」の方向表示板があるだけ。なんてこった。ただの小ピークなのだ。降って再び巻き道からの登山道と合流し、急な上りを登ると惣岳山の山頂であった。2時5分。時間をオーバーしている。御前山はすぐ近くに頂をみせている。だが空一面に雲が広がり、遠望も利かない。

 

 下山にかかる。2時10分。湖までの標高差は800m余。1時間半の行程である。急な斜面を滑らないように気をつけて、石に足を掛けながら下る。落ち葉が降り積もり、その下が見えない。ふかふかしていながらときどき石を踏みつけ、捻挫しそうになる。まっすぐな長い斜面は、とっとっとと駆けるように降る。ストックがバランスを保つのに利いている。大ブナ尾根と名がついているが、ブナがあるのは上の方だけ。中断から下はスギの林。それも手入れがあまりできていないから、暗いし、下草も生えていない。枝打ちもしていないようで、細いスギがひょろひょろと可哀想だ。東京都水道局と標柱が立っている。水源涵養林なのだろうが、ならばほんとうにブナの林にしてスギを切り払わなければならない。尾根の西斜面は落葉広葉樹林ばかりで、陽ざしを少し受けて明るく、少しばかり紅葉もしている。東側がまるでダメなスギ林。ひょっとしたら所有者が違うのかもしれない。土地所有権を何とかしなければ、水源涵養だって出来まいに、と思いながら下る。

 

 1時間で標高600mを下っている。あと標高で200m、奥多摩湖が陽ざしを受けてきらきらと湖面を輝かせているのが、木々の間から見える。この最後の200mが、無茶苦茶きつかった。ツネ泣坂を思い出した。あちらは滑り易そうな砂利が多かったが、こちらは岩がごろごろと積み重なって急傾斜をなしている。「バス停 →」の標示をたどると、ほどなく小河内ダムの大堰堤に出た。車も通れる広い堰堤の上を渡って車を置いた駐車場に行く。15時40分。歩き始めてから8時間5分。結局、昼食の35分で、御前山往復が出来なかったというわけ。

 

 まず最初に、自転車で走る時間とその疲労を計算に入れていなかったこと。筋肉が弱くなり、登りの速度が思うように運ばなくなっていること、三日前の2山歩きの疲れが、やはり取れていないこと。総じて、齢相応に力が落ちていることを思い知らされた。雑誌に載っていたコースタイムがひょっとしたら標準からずれていたのかもしれないが、そのように自分をかばうよりも、力の落ちたことを自覚した方が、今後の山歩きには意味が大きいと、懸命に言い聞かせているところだ。


硬軟使い分けか? 「上に政策あれば、下に対策あり」

2015-10-29 18:19:13 | 日記

 今朝(10/29)の朝日新聞で「辺野古 硬軟使い分け」と見出しをうって、米軍基地移設に関する政府の対応を取り上げている。「おやっ」と思ったのは、「硬軟使い分け」という言い方。硬の方は、翁長県知事の「辺野古埋め立て承認取り消し」に対して国土交通大臣の「取り消しの効力を一時的に止める決定」「代執行手続きに入ること」を指している。軟の方は、「沖縄振興などを名目に……辺野古周辺3地区の代表を官邸に招き県や市を通さず、振興費を直接3地区に交付する方針」を指している。

 

 だが、これらは、ほんとうに硬軟なのだろうか。

 

 前者の方は、政府のお手盛り強硬策である。政府と県との対立関係において国土交通大臣は第三者機関ではない。それがあたかも第三者機関のような立場をとって、県知事の決定を「取り消す」命令を出す。これをお手盛りと言わないで、なにがお手盛りであろうか。出来レースというか、楽屋落ちというか、これを法的公正さと考えているとしたら、噴飯ものである。

 

 法を遵守するということには二つの要素が必要である。一つは、「法の趣旨」を踏まえていること、もう一つは手続きを踏まえていること、である。そのどちらが欠けても法の遵守とは言わない。まして国家権力の中枢に求められる「法の遵守」は、いっそう厳しいものでなければならない。なぜなら、国家権力はリバイアサン(魔物)だからである。「法治国家」とは、国民が法を守る社会/国家のことをいうのではない。国家が法を守る国家/社会のことをいうのだ。

 

 中国に対する(日本国民の)忌避感が強いのは、あの国の国家権力自体が自らを「法治」していないからである。国家は人民の「前衛」を体現し「善」を遂行していると自己規定している。それを保障する根拠も、その横暴を掣肘する「ちから」も、どこにも見当たらない。当然それを受けて民は、いかに権力者の恣意をかいくぐってすり抜けるかに腐心する。それが生きる知恵というものである。中国では、やっと「法治主義」ということを示して見せようとしているが、それは「法に照らして(不正を)処断する」ということであって、何を不正とするかがいまだに権力者の恣意に拠っているのだから、真に受けること自体が笑止の沙汰である。まして国際関係において(南沙諸島の領有権のように)力づくのごり押しをしているのを見れば、好感をもって見ることができないのは、言うまでもない。

 

 ところが私見では、日本は戦後ながらく、押しつけとは言え理想主義的な民主主義が信じられてきた。むろんそれに違う社会事象や国政の出来事はあまたあったが、それを多くの人たちは「遅れている近代/旧時代の悪弊」と受け取った。多くの人たちというのは「庶民」のこと。それは、人性(ひとさが)としてあり得ることとみることによって(寛容の精神に転轍され)、鷹揚に、緩やかにでも是正していければと、希望を持ち続けてきた。

 

 ところがいつのころからか、是か非か、YESかNOか、ことの正邪を明らかにするという潔癖症に世の中が覆われるようになってきた。私見では、「受益者負担」ということばが世の中に横行するようになった(高度経済成長がひと段落した)頃ではなかったか。つまり、高速道路を走る車の利用者が「便益」を受けるのであれば、その「利用者」が負担するという発想は、じつは(遍く)高速道路を利用する物流の最終購買者も「便益」を受けているにもかかわらず、トラックの利用者がすべて「便益」を享受していると切り分けてしまうようになった。昔風のことばでいえば、「せちがらく」なった。それは、人と人とが何がしかの紐帯によって互いに恩恵を被っているという社会関係の結びつきを(経済的便益という一つのモーメントで)切り分けてしまって、個人と個人が一つひとつの「便益」を「計算する」格好になってしまったのである。

 

 たぶんその社会関係の切り分け方が生み出した想念が(ひと世代を経て身体性に浸潤し)、昨年あたりから国家権力の政治の世界に臆面もなく登場しはじめた。「憲法違反」をものともしない「閣議決定」、今年に入ってからの「安保法制」の暴走ぶり。つまり、社会そのものが、「中国化」しているんじゃないかと思うくらい、己を顧みない権力者の振る舞いがみられる。「経済、経済、経済」「景気回復、株価上昇、輸出増大」という掛け声は、つましく日々を送る民の頭上を空しく通り過ぎる。雇用拡大も賃金上昇も、どこの話かと思うほど日常の肌感覚にそぐわない。それが庶民に反映して、人々の身を護る気配が社会に沁み込んでくる。

 

 朝日新聞の記事がなぜ、「沖縄振興などを名目に……辺野古周辺3地区の代表を官邸に招き県や市を通さず、振興費を直接3地区に交付する方針」を「軟の方」としているのか、私には理解できない。辺野古周辺の3地区の人々が、「振興費」に心動かされる「自分たちの地方行政の意思」を裏切るとでも思っているのだろうか。それとも、今の政府の方針に味方する人たちだけが(国民の税金を使うにふさわしい)と「仲間意識」を露呈させているだけなのだろうか。これほど「地方の自治」を馬鹿にした話はない。政府は、3地区を直轄地とみなしているのかもしれないが、天領じゃあるまいし、これほど横暴なやり方はない。「振興費」は「飴」などではない。行政体系の無視であると批判しなければならない暴挙だと私は思う。

 

 こんなことが、中央行政のやり方でも当然視され、批判的に見るべき報道機関がそれを等閑視するのであれば、まことに琉球が独立の旗を掲げるようになっても、(本土国民には)文句を言う筋合いがなくなる。沖縄が腹を立てるだけではない。ほかの地方行政組織も、いま、中央と地方の関係を上下関係に見立ててコトを運ぶやり方に異議申し立てをしなければ、庶民はいずれ、中央政府の言説に一顧だにしなくなる。

 

 「上に政策あれば、下に対策あり」という中国の古来の知恵が、入用になる日本になるのかもしれない。安倍さん皮肉なことですね、あなたの差配の下でそうなるなんて。


守門岳・浅草岳(2)

2015-10-28 10:09:34 | 日記

 浅草岳山麓の宿の夕方、歩いて5分ほどのところにあるムジナ沢登山口を見ておくことにした。朝早く歩き始めると、まだ暗くてわかりにくいと思ったからだ。見ておいてよかった。広い2車線の舗装林道からほんのちょっと逸れるように細い道を下ると沢を渡る古い橋があり、その先に「登山口」と駐車場があった。早朝だと見過ごして上へ行ってしまうかもしれない。5時半ころだというのに、すっかり暗い。ふと振り返ると、山の端から上がる月が煌々と明るく、やがてその姿をすべて現す。満月だ(あとで帰宅して調べてみると14日の月であった)。月が明るいだけ余計に山の稜線が黒く迫り、急な傾斜を思わせる。往復7時間か。今日の守門岳と同じコースタイム、これくらいに負けるようでは年だなあと思いながら、宿へ戻る。

 

 夕食を済ませ、早朝6時前に出立すると伝え、朝食をおにぎりにしてもらう。部屋に戻り、持ってきた本を読んでいるうちに眠くなり(たぶん)8時前に寝入っていた。夜中、蛍光灯の明るさに目が覚め、灯りを消して眠りにつき、一度目が覚めたのは4時。まだ早い。5時になって起きだす。部屋の前にお湯の入ったポットとおにぎりの包みがお盆に載せておかれてある。お茶を入れ、カップラーメンにお湯を注ぎ、残りのお湯をテルモスに入れてザックに詰める。まずゆっくり焙じ茶を頂く。やわらかい口当たりのふくらみが胃袋の目覚ましにちょうど良い。ラーメンのキムチ味が背筋を起ち上げる。

 

 用意をして出発したのは6時前。空はすでに明るく、雲一つない。だがムジナ沢には向かわず、舗装林道の先へと車を走らす。実は地図を子細に見ていると、5kmほど先にネズモチ平の登山口があり、さらにその先にサクラソネ登山口もある。つまり、ムジナ沢からサクラソネまでの山の下半分が省略できる。往復すると3時間半ほど短縮になる。2車線の舗装路が1車線になり、舗装が傷んだ簡易舗装に代わり、砂利道になる先に驚くほど広い駐車場があった。トイレと事務所の一緒になった建物も置かれている。その先の林道は、車が通れないようにゲートが設けられている。浅草岳はまだ陽ざしを受けず黒いまんま。ただ大きな稜線がくっきりと聳え立ち、その一部がぴょいと高く飛び出した嘉平与ボッチと名づけられた地点が際立って見える。

 

 歩き始める。6時10分。標高900m。今日は685mの標高差。昨日は1050mだったから、400mほど楽だ。10分ほど登ったところで林道と分かれ、薄暗い登山路に踏み込む。守門岳と同じくここも、水はけが悪いぬかるみと石を伝い歩く。幾度か沢を渡り、渡り返す。脚を水につけるほどではなく、大きな岩の上を伝いながらの渡渉。傾斜が急になり、崖を登るところも何度か出てくる。いつしかぬかるみはなくなり、すべりやすい斜面の崩れかけたトラバースになる。振り向くと木間越しに、昨日登った守門岳の三つの峰とそれに連なる山々が朝陽を受けて赤焼けてみえる。木々の紅葉はすでに終わり、葉の枯れ落ちたブナの木立が林立する。まだ葉をつけているカエデやツツジも、すっかり縮こまっている。1時間歩いて標高を見ると1300mを超える。いいペースだ。高みにみえていた嘉平与ボッチもすぐ近くになった。大きな稜線も間近に迫る。と、東側の、山頂に続く稜線から陽が差し登ってくる。黒っぽい稜線のスカイラインの一角が赤みを増し、やがて丸みを帯びた形が木々の枝を通しておおきくなり、一挙に世界を明るみに引き出す。

 

 前岳の分岐に着いたのは7時55分、コースタイム2時間のところを1時間35分で登った。近頃はコースタイムと競う気持ちは持っていない。若いころは2/3とか1/2との時間と、コースタイムと競っていた。だが今は、自分の歩行力量の尺度、疲れ具合の目安になるから、比較はしている。まだまだ力が落ちていないというより、私は上りに強い、下りになるとペースが落ちると、自分の歩行力量を見積もっている。昨日の疲れは出ていない。

 

 前岳のところからはじめて、浅草岳の山頂部が見える。山体が大きい。頂が突出してみえるわけではないのだ。前岳から山頂までの間は湿原のようになっており、木道がつけられている。昨日降ったとみられる雪が消え残り、日陰の木道を白く染めている。木道のなかには傾いでいるものもあり、うっかりすると滑り落ちてしまいそうになる。ストックで止めようとするが、ストックの先のゴム部がつるりとすべり流れて、身体を止められない。木道の端っこに足をかけて滑り落ちないように先へすすむ。南東部が開けたところに来ると、会津駒ケ岳、尾瀬の山並み、越後三山、巻機山・谷川岳につながる山々などなどが鮮明に山の姿を現す。

 

  と、私のケイタイが鳴りはじめた。カミサンから「無事に下山したのか」とメールが入った。そうだ、昨日下山メールが送れなかったんだ。忘れていた。「ごめん、無事。宿は圏外だった。いま浅草岳山頂」と言い訳を添えて返信する。山頂部に来たから通じたのか。8時5分。食事にするには早すぎる。下山するには、この日差しと見晴しは、もったいない。北へ眼をやると、越後平野が広がる。相変わらず日本海は雲に溶け込んでわからない。南の眼下は、広く低い雲に覆われて雲海をなす。その隅の方に、田子倉湖が垣間見える。空の雲と青を映し、湖面と雲との見分けが難しい。

 

 8時半に下山を始める。前岳の分岐からサクラソネに向かう。標高1050mほどまでの稜線の下り。林道の登山口まで1時間半。そのまま突っ切れば、昨日泊まったムジナ沢登山口に下るが、今日はそこから林道伝いにぐるりと山腹を回ってネズモチ平の駐車場に戻る。嘉平与ボッチへの上り下りは木の階段がしつらえられていて、山が崩れないように配慮している。ボッチを越えたところで、ネズモチ平が見晴らせるところに出た。私のオレンジ色の車はすぐにわかる。ほかに5台の車が止まっている。この人たちは私の後を登っているのであろう。下山路は歩きやすい。岩を下るところはほとんどない。2,3カ所崩れそうなところを通るが注意していれば危なくはない。

 

 まもなく林道というところで、登ってくる若い人に出逢った。ネズモチ平に車を置いて来たという。9時55分、サクラソネ登山口につく。ほぼコースタイム。やはり下りに時間をかけている。かつてここまで入れたのであろう、林道の終点は駐車場のように広くなっている。ムジナ沢への下山路の標識もしっかりある。ストックを仕舞い、てくてくと歩く。下から2人連れが声高に話しながらやってくる。挨拶してすれ違う。10時、この時間から登ってくる山なんだ。

 

 10時15分に駐車場につく。車は9台に増えている。長岡ナンバー、新潟ナンバーが何台かずつ、八戸ナンバーが1台あった。おにぎりを出してお昼にする。おいしい。さすが魚沼産コシヒカリってことか。柿が一個、デザートにだろう添えてある。でも丸ごとに噛みつくのは、ちょっと(入れ歯に)はばかられる。手持ちの蜜柑を食べて柿は持ち帰ることにした。無事帰宅。快適な越後の名山であった。


守門岳・浅草岳(1)

2015-10-27 20:14:37 | 日記

 昨日から新潟・魚沼市の2山に登ってきた。守門岳と浅草岳。いずれも豪雪地帯の1500mを超える山、11月になると雪が降る。この時期が、今年最後になると思って出張った。

 

 じつははじめ、守門岳を登るつもりで予定をたてた。ガイドブックにある温泉宿に電話したら、「現在使われておりません」のコール。インターネットで調べてみたら、「今年3月に閉館」とあった。ほかの宿を調べていたら、「守門岳と浅草岳の登山に」と惹句がある。「越後三山」の市販地図にもその二つの山が一枚になって添付されている。そうか近場にあるのなら2山登る方が、それは面白い。そう考えて、昨日5時に家を出て、守門岳の登山口にまず、駆け付けた。

 

 山間に分け入る道は、地図を見る限り細々としていてわかりにくい。大雑把に国土地理院地図にある「十二神社」の住所をnaviに入力してアプローチする。その途次の道路標識に「守門岳登山口→」の案内標識が出ている。道は工事中とかで「落石の危険あり」と看板。現場事務所もあり、道路の通行整理をしている人も何人かいた。だが難なく、予定していた二口駐車場に車を止め、歩き始める。と、上から降りてきた40歳代の人が「auのケイタイをお持ちですか?」と聞く。「ん?……」「いやじつは、車を側溝に落としちゃって……電話を掛けたいのだけれども、docomoは通じないんです」という。ケイタイを貸して電話を掛けるが、向こうが出ない。そりゃそうだよ、まだ、8時半ころだ。出勤していないんじゃないか。「どうしよう」と困っている。道路工事をしていた現場事務所に行けば、知恵があるかもしれないねというと、「行ってみます」とそちらへ向かって降りて行った。

 

 私が上の登山口への林道を歩いて行っていると、ダンプが下から来て追い越していった。かの40歳代を助手席に乗せている。良かった。これなら、びゅ~んと引っ張り出してくれるだろう。さらに歩いているとダンプが降ってくる。片付いたのだ、と思った。ところが、登山口を入った先に車が左の車輪を両輪、側溝に落としている。後ろから件の40歳代とダンプの運転手2人が来て、「こりゃ、ムツカシイね」と話している。ダンプが入らないのだ。さらに、引っ張ると、車体全体がさらに左へ動いて、木々にも接触してひどく傷ついてしまう、とすこぶる論理的に話す。JAFを呼んで釣り上げてもらう方が、傷もつかないしいいと思う、と。40歳代氏はそうすることにしたようだ。気の毒に。山歩きの一日が、車救出の一日になるに違いない。

 

 登山路は水が溜まっていたりして、歩きにくい。守門岳は水を溜めこんでいるようだ。ブナ林になる。なるほど、水が蓄えられるわけだ。コースタイム通りの時間で保久礼(ほきゅうれい)小屋につく。みると林道がすぐ近くにまできている。この先の駐車場に車を止めてここから登り降る人が多いようだ。先の40歳代氏も、ここまで来ようとして道を間違えたのかもしれない。

 

 案内標識はわりと丁寧に作られていて、行程時間が記されている。それが私の歩度にちょうど合っているようだ。紅葉が良かったのは、このあたりまで。ほとんど木の葉は枯れ落ちて冬の様子を呈している。キビタキ小屋付近を通過するときに60代の男性が「早いですね」と私を見ていう。「えっ?」「いや、貴方を追い越してきたから……」というが、(追い越された覚えがないから)よく呑み込めなかった。彼は林道を歩いているときの私を車の中から見かけたらしい。さらに上で、単独行の男性に追いついた。大岳まで行くという地元の人。「若い頃みたいに歩けない」という78歳。それでも私に追い越されまいと、さかさかと登る。途中の水場があるところで、3人の人たちを追い越した(この人たちにはあとで出会うことになる)。

 

 守門岳という名の山は、じつはない。この大岳、青雲岳、袴岳の三山を総称して守門岳と言っているようだ。地理院地図も総称らしく、連なりの全体にかかるように大きな文字で記している。この大岳から北の方がよく見える。78歳氏が佐渡も見えると話すが、遠くは雲がかかって見晴らせない。

 

 ここもほぼコースタイム。私の歩行能力が落ちているのだろうか。それとも、この地図のコースタイムが速いのだろうか。大岳から青雲岳と袴岳が一望できる。だが、その両山の切れ落ちた北側は、南から吹く風に吹きはらわれる雲に埋め尽くされて、見ることができない。北アルプスの富山側と長野側の稜線を見ているようである。大岳からはいったん降って登り返す。今日の私の下山路になる「二口分岐」は目立たない背の高い笹に囲まれている。そこから青雲岳へは稜線歩き。袴岳の肩のように湿原が広がっていて、見晴らしもよい。袴岳はひときわ高い。1537m。ちょうど若者が一人下山にかかるところであった。保久礼駐車場へ戻るという。ちょうど12時。少し強い風を避けるため、羽毛服を着込んで、お昼にする。温かいラーメンが元気につながる。陽が当たりはじめた。先ほど通過した青雲岳の湿原に、あとから来た人たちがいる。先ほど山頂ですれ違った若者が、その手前を歩いている。

 

 山頂の石の山名表示板は、飯豊山から尾瀬の山々、谷川岳まで記している。新潟県の三条市の方は良く見えるが、日本海までは見晴らせない。西の方を見るが、雲が張り出して明日登る予定の浅草岳はまったく見ることができない。山頂付近には融け残った雪が笹原の間にみえる。昨日降ったものだろうか。

 

 下山にかかる。ほどなく明るく開けた青雲岳に差し掛かる。先ほどの3人が木製のテーブルを囲んでお昼を食べている。60歳代男、50歳代女、30歳代男の3人。同じ職場の人たちだろうか。もうここから引き返すという。「えっ、もったいない。10分ほどで行けるのに」と私がいうと、「地元です、何度も来てますから」と。後続の人たちは来ていない。

 

 二口分岐から下山にかかる。長い尾根を降り、伝い歩いて車を止めた駐車場に戻るのに、2時間。歩いていて、足元が危ういと感じた。足場が悪いというよりも、疲れが出てきて、私の足元がおぼつかないのだ。こうしたことを気にしていないと、滑ったり転んだりして、大きな事故になってしまう。振り返ると、いま歩いた守門岳の一番手前の山腹が見事に紅葉している。うむ、これがいいのだと、カメラのシャッターを押した。

 

 そこから今日の宿、大白川の音松荘に向かう。その途次に、車を荷台に乗せたキャリア車が方向転換をしていた。ひょっとしたら、今朝の側溝に落ちた車じゃないか。とりあえずは良かったね、と思う。下山の報告メールもしなくてはならなかったが、宿についてからで良かろうと、車を走らせた。ところが、宿についてメールを入れると「送信不能」という。みると「圏外」である。浅草岳の麓なのだが、辺境なのだね。昔の登山基地の宿らしく、楚々としたたたずまい。温泉であった。実はすぐ隣の大きな「国民宿舎」に宿泊を申し込んだら、一人だと知って、断られてしまった。なんてことだ。そちらはひっそり閑としている。(つづく)


環境庁ができたことで「自分探し」がはじまった

2015-10-25 15:18:34 | 日記

 昨日は月例の「勉強会」。岩村暢子と養老孟の対談「現代人の日常には、現実がない」を読んだ(『日本のリアル』PHP新書、2012年)。岩村暢子は食卓の調査から家族の変化や文化の伝承の仕方の変化をまとめあげた社会調査の研究者。10/5のこのブログでも、簡略に触れた。

 

 面白かったのは岩村暢子が、

 

 《1985年前後から後に生まれた世代を……「ミーフェチ世代」と呼んで、「私」に対する「フェティシズム」が濃厚》

 

 と指摘し、

 

 《「私が大好き」で「私」に関心が高い。お気に入りの写真やマスコット、音楽や香りなどを身の周りに集め、持ち歩いたりして、自分の内的世界の心地よさにこだわるのに、外界や他者にはあまり関心を持たないという特徴もある》

 

 と描き出す。それに対して養老孟が《環境省ができたことで、「自己」が政府公認になった》と妙なことを言い出す。

 

 《本来、環境とは「自分の周り」のことであり、もっと正しく言えば「自分そのもの」なんです》

 

 と養老は解説して、「私」が分節化して取り出されたことを現代的な特徴だと、話しを根底から立ち上げる。つまり、「環境」を取り出して「保護する」というふうに「私の世界」から「環境」を分節化したことによって、(その裏側で)「自己」も確固たるものとして取り出され実体化される(と無意識界でなされる)ようになったと見て取っている。面白い。

 

 振り返ってみると、環境庁が設置されたのが1971年の高度経済成長の最中(環境省になったのは2001年)。水俣病やイタイイタイ病、東京湾の奇形の魚が話題になっていたころだ。その後着実に「環境」は改善され、たしかに生活は豊かになった。「中流意識」が日本を覆ったのもこの時代。この時期に青年時代を過ごした人たちの子どもが「1985年前後から後に生まれた世代」になる。「環境」が人間の手によって保護されなければならないのと同様に、「自己」も意志的に求めなければ得られないものという観念が無意識に沈潜したのであろうか。山や川という「自然」を「ふるさと」として自らの身体性の一角と肯定的に受け止めてきた私たちの世代と異なり、意志的に求め、保護的に応対しなければ「アイデンティティ」も形成できないと考えるようになったと言えようか。

 

 それが「自分探し」の起源だという分け取り方をして、岩村暢子は、次のようにと、引き取る。

 

 《自分の個性や自分らしさを大切にするようにと、家庭でも学校でも言われて育ってきたんです。そして、「自分らしさ」「自己」は周りとのかんけい抜きで見いだせると思っているし、私らしく生きることが自己実現だと思って、悩んでいるんです》

 

 この一節を読んでいるとき、なぜか私は、安倍首相のことを指していると、直感的に受け止めていた。むろん彼は、世代的には「1985年前後生まれ」の親の世代である。だが彼の、他人の話を聞かない態度、自分の主張を好意的に受け容れる人たち(だけ)とつるむ「お友達」センスは、岩村の指摘する「(私らしく生きる)自己実現」の姿ではなかろうか。

 

 《現代においては日常が変質してしまったのでしょう。僕らが育ってきた時代には、まだ日常がありました。「現実」という言い方をしていましたが、結局のところ人間は現実の中で生きていくのだということがはっきりしていたのです。》

 

 と、養老は「日常」の変質を説く。高度消費社会というのが、いわば「毎日がお祭り」になり、人々の欲望をくすぐり、贈与互酬に代わって商品交換へと舵を切ってきた。マスメディアなども日常よりは「非日常」の方が売れるとあって、いっそうそれを加速してきた。その結果が、10/9のこのブログで記した《「一億総活躍」という余計なお坊ちゃんセンス》に実を結んでいる。

 

 養老のこの指摘は、「現実」の方が変質したと言いかえることもできる。「1985年前後生まれ」の人たちにとっての「リアル」というのは「お祭り」のことだ。「リア充」はしたがって、日々お祭りのようなイベントに包まれて充実していることを意味しようか。となると、こっぽりと「日常性」の細々としたことが「余計なこと」として「かぶさってきて」しまう。そのような日常性に追われるのは「つまらない人生」であり、他人との「かんけい」に心を砕くのは「面倒なこと」でしかない、となるのか。「恋愛したいと思わない」「結婚したいと思わない」若者が4割に上ると、どこかのメディアが喧伝していたが、これもそうした(御身第一「ミーフェチ世代」)傾向の表出と言えようか。

 

 それにしても「ミーフェチ」の若い人たちは、シンドイのではなかろうか。坦々と歩くがごとくに「現実」の「些事」は連なっている。それらの多くが商品化されて金銭で解決できるようになっているとは言え、そうそうおカネばかりを使っていては、(よほど恵まれた人でなければ)やっていけない。雇用の方も厳しくなっている。私たち「ご老人」のように「観念」して「現実を受け入れる」ためには、まず己が「つまらない人間である」という根底的な地点に思いを致し、そのあとに「存在それ自体のために存在する」ことへと歩を進めるしかないのではないか。それに何がしかの「リア充」を感じとりたければ、埴谷雄高のように「妄想」によって世界の行く末を案じるか、第一次産業の生産現場に身を置いて「自然」と格闘することが何よりだと思うが、どうだろう。