mukan's blog

つれづれなるままに ひぐらしPCにむかいて

全体像が浮かび上がる

2022-09-30 09:36:20 | 日記
 混沌の海を夢で見た。眼下に広がっているのではない。天空にも横にも足下にも、見渡す所全部が混沌の海だとわかっている。つい先ほど会った人や聞いた話のイメージが、忽ち遠ざかり姿がぼやけていく。なにもかもが遠景へと溶け込んでいく。その感覚は、電波望遠鏡が解析した45億年前のビッグバンの光が今どき届いているって感じ。時間軸が空間に変わって間近に見えているのかな。むろん平坦な宇宙を見ているのとは違う。凸凹がう~んと近づいたり遠ざかったりしていて、ああこれはワタシの経験を表しているのだと、これもなぜかわかっている。それも、ある種の懐かしさを伴っていたり匂いが漂っていたりする。つまりワタシの心が思い起こしていることが全体として絵になって動いているのだと感じている。
 目が覚めて、なんだあれは? と思い起こす。ひょっとするとワタシが経験するリアルの断片が、全体として身の裡に総合されていって、セカイをかたちづくるイメージとなって表出しているのかなと思う。もしこれを「乳海攪拌」というヒンドゥの物語りに当て嵌めると、経験はひと度ボンヤリとしたイメージとして心裡に落とし込まれて全体に溶け合い、混沌の海となる。それを再び想起域に戻すときには攪拌された乳海から(その時の意味合いの籠もった)綱で曳きずり出して来なくてはならない。つまり、混沌の海へ日々経験を落とし込み、また日々そこから(主体のその時の必要に応じた意味合いの籠もった)ある筋道(という断片)に沿った言葉を取り出すということが繰り返されている。
 一つ思い出した。福岡伸一という生物学者が子どものとき、芋虫が蝶になる前の蛹になった中を覗いてみたいと解剖してみたら、中はドロドロの液体だったと話していた。そうなんだ、それと同じで、経験というのは体験のままで保存されているのではなく、一旦ワタシの胸中でそれまでの全経験と溶け合ってドロドロの混沌の海となり、蛹が孵るときのモチーフはワカラナイが殻を破っておおよそ違う蝶になって立ち現れる。それと同じことが、ヒトの体験と経験とその再生のメカニズムに於いて繰り返されているんだ。そう思った。
 普遍とか特殊というのが、そのセカイに於いてどういう意味合いを持つのかも、繙いてみることがあるかもしれないが、それ以前に、この混沌の海と、個人的体験と人類史的経験の積み重ねによる堆積とがどういう関係にあるのかも分からないが、深い所で絡み合ってワタシに出現していることだけは実感できる。それが今のワタシを支えていることも確かに感じ、そう感じている私を素直にありがたいと思っている。何に感謝しているのだかワカラナイ。八百万の神かもしれない。大自然という、わが身を包み来たったありとあらゆるコトゴトと、幸運に恵まれたという偶然の計らいに包摂されて今ここにいる。そのことをありがたいことだと思っている。


儀礼的な付き合いの断捨離

2022-09-29 08:55:45 | 日記
 こんなことがあった。ある機会に私が本を上梓し、知り合いに「近況報告」として恵贈した。約半数の皆さんから、電話、ハガキ、eメールなどでいろいろな返事を頂き、旧交を温める方もいれば、おや、こんなに元気にこんなことをしてるんだという近況返信もあった。
 ただ一人だけ、何かの機会に顔を合わしたとき(受領の返事をしなかったことをまずいと思ったのか)「メール出したんだけど」と、妙なことを言った。何だこの人は? とまず思い、「メールは来てないよ」と返事をしてそのままになった。なぜこの人は着飾るんだろう。返事をしないならしないで一向に構わない。だって送りつけること自体、全く私の勝手。
 ヤツはこんな本を出したんだと思ってそのままにする人もいるだろう。もらったことを忘れてしまう人もいるだろう。そもそも直ぐに読めるような本ではない。なにしろ400字詰めで1800枚くらいあった。読み通すだけでも根気が要る。途中で投げ出しても不思議ではない。著作を恵贈されたのに感想を加えて返信したら、「あなたに贈ったのは間違いだったかもしれない」とそれへの返事が来て、以後気まずくなった友人もいた。返信しないのも、それはそれで一つの返事の仕方だと私は受けとっている。でも、「メール送った」って、どうして取り繕うのか。
 その一人が返信しないちょっとした心当たりは、私の方にあった。本を恵贈する半年くらい前、彼が講師を務めた「会」があった。生憎私は別様があって顔出しできなかったのだが、彼から講演について感想を聞かせてくれと、小学生の子ども指導に関する実践内容を添付したメールが送られてきた。えっ、どうして? と私は思った。私は子ども指導に関して何か批評する立場に立ったこともない。ま、彼は褒めてもらいたいんだろうと思ったから、返事をしないで放っておいた。もしこれが気に障ったのなら、彼は私の本の恵贈を無視すればいい。にもかかわらず、態々嘘をつくことはないだろうに。もっとも、そのようにして、まだ心残りはみせておくってことも、ないわけではない。だが私は、そういう儀礼的なお付き合いは、儀礼的な関係だけにとどめて、少しずつでも気づいたときに「断捨離」していこうと思った。
 それもあって、それ以降私が毎月発行している小冊子を、その一人には贈っていない。コロナの襲来もあって付き合いが途切れたのがいい潮になったのかどうかはワカラナイが、以後すっかり関係は切れてしまい、そういう友人がいたことも忘れていた。
 ところが私の小冊子の好読者である古い友人がいる。好読者かどうかは私が勝手に決めたことで、その古い友人からするとメンドクサイ奴やなあ、毎月送って来やがってと煩わしく思っているかもしれない。当方は近況報告のつもりだが、受けとる方からすると、半世紀以上も付き合ってきた年寄りが、毎月「近況」なんて知らせ合うかよと思っているに違いないとは、思う。だが古い友人は、知らぬ顔ができない性質のエクリチュールのお方。ならばコチラもと思っているかどうかワカラナイが、毎月長文の手書きの返事をくれる。それが面白く、了解を得て、毎月小冊子に載せては送っている。白山羊さんと黒山羊さんの手紙のやりとりと私はおもってきたが、古い友人は共に半世紀近く関わってきた(小冊子を受けとっている)共通の友人も、この遣り取りに加わってほしい。ついてはこの小冊子の一部を「間借り」させてもらえないかというようになり、私は喜んで場所を提供しようという運びになった。
 となると冒頭の一人にも送らなければならない。いまさら改めて送るってのもヘンだなあと思う。そこで、もう1年半前にもなる、その一人が言った「eメール」宛に、小冊子をpdfに変換して一度送ってみた。むろん何の返信もなかったが、次の号も同様に送ったところ、そのメール・アドレスには送れませんと、メール管理サイトから「お知らせ」があった。つまりその一人もまた私との遣り取りは断捨離したわけだ。結構。これで私も、一つ始末したとおもっているが、古い友人からすると折角間借りしたのに、どうしてどなたからも応答がないのと、訝しむハガキが今月号の返事として届いた。
 さて、どうしようか。儀礼的なお付き合いになってしまっているなら、それは断捨離しても、一向に構わない。イヤそうなっていなくとも、何かの事情があってコイツとは断捨離しようという人がいても可笑しくない。この事態をどう受け止め、どう対応すればいいか。一つわが身を振り返る課題をもらっている。


罪の意識と天罰

2022-09-28 15:33:44 | 日記
 図書館の書架で読み応えのありそうな厚い本を手に取った。宮部みゆき『黒武御神火御殿』(毎日新聞出版、2019年)。570頁の読み応えと言うよりも、この作家の視線の行方に読み応えを感じている。
「三島屋変調百物語六之続」という副題がこの作品の前段があることを示しているが、それを読まずとも、短編中編のそれ自体で「物語り」がまとまっている。ここに収録されているのは4話。そのうち表題の「物語り」が300頁以上を占める。
 それを読みながら「罪の意識と天罰」って何だろうと考えていた。
「罪」というのを「神の教えに叛く」と考える唯一神信仰の人たちは、身の内側からの(自然的なー本能的な)衝動との闘いという「関係設定」の上で、「罪」と向き合う。このとき「神の教え」という絶対的な基軸は、身の外から差し向けられたものであるにも拘わらず「信仰」を介在させて内化され、あたかもわが身の裡にわが身を見つめる目を育てている。何をするにせよ、わが身の裡の「神」が見ているという自問自答が、己の生き方を対象として見つめ内発的に身を正す契機となる。「やがて裁きの日が来る」ことに身を引き締めるというのは、その審判に「脅えて」今の振る舞いを正していくのであろうか。「脅える」という、(ダンテの神曲に描かれている煉獄のような、あるいはボッシュの絵が示すような地獄図に投げ込まれるという)世界が(永遠に)待ち構えるという自意識は、永遠の魂の平安を想定していなければ、発生しない。「神と私」という「絶対的存在vs一個の人」という関係に於いて成立する信仰であり、罪であり罰である。
 だが、多神教の「罪」は、我が儘にー自己中心的に振る舞いが、世俗の周囲に及ぼす及ぼす「迷惑」によって発生してくる。つまりそもそもが集団的というか、社会的な関係に身をおいて思考されいるから、世俗の集団が、その個人の振る舞いをどう受け止めるかによって「罪」も浮遊する。
 いつであったか30年ほど前に「なぜ人を殺してはいけないんですか」とTVの討論番組の見学者である青年が問うて、それ以降暫くの間世の中のいろんな立場の人たちが応えて、ああでもないこうでもないと騒がしかったが、そう言えばあの時「あなたは(なぜ)殺したいのですか?」と問う人がいなかったように、今思う。つまり「人を殺すなかれと神が曰うているから」で片づいていたことを、神なき時代に人の言葉で説明しようとするから、嘘っぽくなったり、「そう問うこと自体が許されないこと」と(因果応報とか共同体の保持を理屈として繰り出して、中途半端に)禁忌と言ってみたり、「お前を殺してやろうか」と腕をあげたりして決着がつかなかったことがあった。あの応答者たちは、たぶん、西欧的な「汝殺す勿れ」を当然のこととして応答しようとしたからじゃないか。
 多神教の社会では、一個のヒトの「罪」も絶対性を持って提示されない。ケースバイケースというと定めようがないように思えるが、誰がどんな状況の下でどのように振る舞ったかが遊動的に判断される。行為者とそれを受け止める周囲の人たちの寛容と苛烈の間が「関係的に」動く。もしそれを行為者の身の裡の意識として求めると「恥ずかしい/恥ずかしくない」というのが、「罪」の意識に取って代わる。戦後ひところ《日本には罪の文化がなく恥の文化である》とするルース・ベネディクトの指摘は、無責任の体系に通じる「遅れた文化・日本」の象徴的言葉として取り沙汰された。だがはたしてそれは、「後れている文化なのか」と、宮部みゆきは問い返しているようであった。
 こういう根柢的な問いが、「天罰」という形であったり、三途を川を渡る7・7、49日までの間に奪衣婆の洗礼を受けたり、閻魔様の前に引き出されて審判を受ける物語りにして受け継がれて来た。そうした俗信の天罰噺の一つとして提示しながら、その行間に一神教と多神教の違いを浮かび上がらせ、人の声に応えようとせぬ絶対神に対照させて、多神教の利他的振る舞いを、侍が町人や商人を護らないで何の存在理由があるかと(これまた罪深き何かを抱えている)お武家さまが身を捨てて血路を開き、自己処罰的に振る舞う。つまり天罰が天命のように置かれた状況に応じて自然に降りてくる。この物語り展開に、幅の広い迷惑な人たちの受け入れや罪人への容赦が組み込まれていて、ああ江戸の庶民のお話だなあと懐かしく読み進めるのであった。
 今の人たちは、こういう噺に共振するような素地をもっているのかな。


ジパングの「国葬」

2022-09-27 05:38:04 | 日記
 今日は安倍元首相の「国葬」が予定されています。メディアにもよりますがその論調には、岸田現首相の采配間違いで行われることになった気配が濃厚です。エリザベス女王の「国葬」との対比もあるでしょうから、アベさんには気の毒であったという気分もないわけではありませんが、前者に感じられる求心性と違って後者が未だ生々しく湛えるセクト性が日々の報道の中にくっきりと浮かんでいます。
 セクト性というのは、党派性のことです。アベさんや共に政権を支えたスガさんの自派閥性の強さは、人事権という裏技を存分に駆使したことばかりでなく、表向きの説明をしないとか着飾ったまんま啖呵を切って、それに合わせて諸記録を書き直させるという荒技に及んで、天として恥じない傲岸さが際立ちました。
 それが、両政権通じて9年もありましたから、後を襲ったキシダ政権の「謙虚、試行錯誤」ぶりに好感さえ持ったというのが、1年前のことでした。でもそれも、自民党という政権党の内部的力の均衡がもたらしたものだとさめざめとみることになったのが、7月の選挙以降のことでしたね。アベさんの死が、たとえば東京オリンピックの贈収賄事件の摘発にも及んでいるんだなあと岡目八目は感嘆しています。
 しかし、アベさん暗殺の素因の発端となった旧統一教会のあしらいについても、自民党は「今後関係を断ち切る」といっただけで、具体的には何の手をうつ気配もありません。それどころか、旧統一教会とアベさんの関係が詳しく報道されればされるほど、ただ単なる選挙応援というだけでなく、統一教会の日本での発足から、骨がらみの関係であったことが鮮明になっています。しかもそれが、先述の「裏技」「荒技」同様、アベさん側としては表面化しないように心配りをしていたことも、合わせて伝えられています。今回の銃撃犯が何処までそれを承知していたのかわかりませんが、アベ銃撃は旧統一教会を銃撃するのと同様の「的を射たこと」だったと思われてきます。「戦後政治の闇」を一つ引っぺがしたのです。
 しかし世の中は、アベ暗殺と旧統一教会とを切り離して、安倍元首相の功績をたたえて「国葬」を静かに見守ることへ向かっています。聞く所によると今日の「報道」は「国葬」の武道館内部だけにしてその外は報道しないと「局上部からのお達し」が為されているそうです。何だかロシアのプーチン政権とメディアの関係を思い起こさせます。
 あるいはまた、「いつまで旧統一教会のことばかりを報道してるんだ。もっと他の緊急重要なことがあるじゃないか」と、報道機関への批判が行われたり、「ま、しばらくは仕方がないですね。そのうち皆さんの関心が遠くなりますよ」と呟く声も聞こえてきます。
 つまり今回のアベ銃撃を不運なデキゴトとして葬り去りたい「国葬気分」なんでしょうか。山際というセトギワの大臣も、側杖を食ったような心持ちのようです。つまり、今回事件を日本の現代政治のおおきなデキゴトとして「反省」しようって気持ちは、何処にもないと思われます。
 いや政治家は、それでいいかもしれません。けど私ら庶民は、どうなのよと自問が投げかけられます。
 税金を使っているとか、国葬手続きが立法府の審議を経ていないとか批判するのは、国政の内側から見た統治者の遣り取りです。むしろ、G7の首脳は一人も来ないと何処かのメディアが指摘したときに、いやそれは、日本がすでに(もう何十年か前から)先進国から脱落していることを知らないからだとクールに解説する言葉の方が、切実に響きます。
 何より目下、円安が進行し、1ドル100円ほどという感覚が5割増しで暗算する時代になってきています。これまでのように中国や東南アジア生産の方が安くできるというのではなく、日本産の方が明らかに安くしかも安全で品質保証という時代に変わってきたのですね。今の日本の暮らしは、30年以上も前のバブル時代の遺産を食い潰してきている、いわば「幻想の先進国」なのだと突きつけられています。
 キシダさんが国連総会で演説をしたといっても、「言わせてあげるわ」というほどのものであったと伝わってきます。これは、宰相の器が大きいとか小さいとかいうモンダイではなく、日本の国際的立場が、その程度のものだったんですよと、白日の下にさらされているってことですね。
 さてそれを私は、どう受け止めているか。自答しなくてはなりません。
 実はすでに日本の没落ははじまっていて、元の世界の、2,3位を争う先進国に復活することを狙うよりは、ポルトガルのように(国際社会において)ひっそりと暮らす国になるのが相応しいと、いつか書いたことがあります。
 はて、いつだったろうとブログ記事の古いのを検索したら、ありました。2020年4月21日「季節の移ろいの社会的距離感」において、
《いずれ日本も、ポルトガルのように昔日の栄光をすっかり忘れて、しかしのんびりと東の海の果てにあるジパングとして暮らしていけるといいなあ。 私たちの時代が異形であったのだ、と。》
 と、いかにも老爺らしい筆致で記しています。コロナウィルス禍がはじまった頃でしたね。思えばそれ以降、日本ばかりでなく各国とも、随意鎖国のような状態が続いていました。だから余計に「ジパング」イメージが際立っていたのでしょうが、騒々しい国際社会から取り残されたようになって、片田舎に身を潜めるようにして静かに日々を過ごす。そういうのを好ましく感じるのは、なぜなんだろうと、次の自答が心裡に生まれ来ます。


対位法ではなく世界の心身一如

2022-09-26 16:39:40 | 日記
 一昨日の「バグの自意識」を読み直していて、西欧とアジアの自然観・宗教観を対位法的に推し進めるだけでは「浄/不浄」の感覚、あるいは自然・神の「慈愛/苛烈」の現れを受容する感性は語れない、と思った。じゃあ、どう考えればいいのか。
 対位法の根柢には、「普遍/特殊」の二分法がある。自然の感受を、「明暗:善悪:真偽:正邪/聖邪:美醜」として対位法を取るのが西欧風だとすると、自然を「混沌の海」と見て、そこから「明暗:善悪:真偽:正邪/聖邪:美醜」を曳きだして表現するのがアジア風と考えている(この西欧とアジアの二極も対位法であるが)。
 このアジア風が価値相対主義であると批判される。「明暗:善悪:真偽:正邪/聖邪:美醜」が(混沌から真理を曳き出す)人によって異なるとみると、科学的に究明される真理が否定されるとみえるからだ。だが、ニュートン力学は真理だったのか? アインシュタインの相対性原理は真理だったのか? と自問すると、「ある限定を伴った範囲」での仮説ではなかったかと自答が浮かび上がる。その「ある限定を伴った範囲」というのは、その「真理」を認知しているのは誰かと問えば、答えがわかる。
 この後のお話しは、門前の小僧である私が、一知半解どころか全く論理的に理解した話ではなく、世情に出回っている専門家の境内からの遣り取りを門前から小耳に挟んだイメージとして聞いて頂きたい。シュレーディンガーの猫というパラドクスの思考実験に対してアインシュタインが(量子論は)まだ過渡的段階にあるのではないかと批判したことからはじまったというボーアとアインシュタインとの論争において、アインシュタインが「人間定数」という仮説を提示し、すでにそれはアインシュタインの間違いであったとされているという話が思い浮んだ。
 門前の小僧の私がどういう専門家かもわからぬまま、耳にしたことをわが胸中にイメージしたことだから、本当に市井の老爺が俚諺を受けとるような感覚でしかない。だが、アインシュタインの「人間定数」という着想が(どういう趣旨でこの言葉が使われているかは知らないが)、量子論の電子の動きを(何処に所在するかワカラナイ)と語ることとそれを認知することとの差異を示していると理解した。つまり、シュレーディンガーの猫が生きているか死んでいるかを(誰が見ても検証できるように)認識するということは、ブラックボックスをも見通せる神の目を持つことを前提としている。だが電子の動きを、例えばカメラに収めるとしても、その瞬間の画像にとどめられた位置しか特定できないという限定性を「人間」はもっている。ひょっとするとアインシュタインはそのことを「人間定数」と表現したのではないかと、すでに論破されて捨て去られた「人間定数」という言葉を惜しむ気持ちがこみ上げてきている。
 誰が見ても検証できるという「科学的真理」は神の目ならばという前提があり、(誰という)人間が認知するという認識主体を組み込めば「真理」というのは、その先に広がる「闇/無明」を示すものでもあって、つまり遍く真理であるという「普遍」は実体的には存在しないといっていいのではないか。限りなく「真理」に近づくことはあっても、「真理」に触ることはできない。その「真理に近づこう」というモメントが、市井の民から見ると美しいのであって、「真理」そのものを手に入れることができると思う所から、「人間定数」を外れた妄想の世界に陥るのではないか。
 普遍を探求する科学者や哲学者は、本質に迫るといって自らの論理的な道筋を正当化するが、その「本質」ってなんだ? 現実に現れるのは「現象」であって本質ではないとでもいうのだろうか。枝葉を余計なバグとして捨象して幹を摑むことを意味しているのであろうが、枝葉を捨象された樹木はもはや樹木とは言えないように、「本質」を探求する科学者や哲学者は、捨象する「余計なもの/バグ」が樹木に於いてどのような不可欠の一部として存在しているかを、ロゴスの展開に於ける筋道の必要性に照らして始末してしまう。そのとき、ロゴスの展開に於ける筋道の必要性というアルゴリズムが前提にしている限定性に気づかないことがある。生物学者でもある福岡伸一は「視野狭窄」と呼んでいるが、誠実な論理的哲学を身に備えた人でさえ、そうした迷妄の霧の中を歩いていると思うケースもある。
 科学や哲学の方法に於いてモノゴトの分節化は重要な扉を開く。それが極限まで分業化されているのが現代の知的世界の状況である。後にそれが総合的に(枝葉も幹も樹木の全体に於いて)樹木として、あるいは樹木を取り囲む環境として、さらには、相互の生態的な循環としてとらえたときにこそ、(その主体が行っている)探求の意味合いが取りこぼされることなく組み込まれてとらえられると言える。科学や哲学は、その両端への往還をつねに繰り返しながら少しずつすすめていくものなのだろうが、分節化の先端が余りに遠くへ専門化され分業化しているが故に、もはや還る道筋を辿ることを考えさえしなくなった。とどのつまり、門前の小僧である市井の民が、専門家の口にする俚諺を耳にしてわが身に引き寄せ、総合的にセカイとして見て取ろうとしているばかりなのだ。
 持って回った言い方をしているが、こう譬えるとわかってもらえるかもしれない。世界は、総体としては混沌の海である。そこに於ける現象はことごとくが、諸要素の総合的な関わりの結果であるとみるのは、すでに諸要素に分節化して探求がすすめられている状況を反映している。その中に流れる法則性をつかみ取ろうと分節化をすすめて探求していく知的な営みが、各方面に分節化し毛細血管のように些末に及んだ結果、それらの子細を総合科学論として鳥瞰する分野も出来し、更にその専門領域を市井の民にもわかりやすく解説す啓蒙書が出回るようになり、TVの発達によって「目に見えるように解説する」ことが一般化して私たちにも届くようになった。私たちは自らの経験的な思索がどれほどに科学的な探求と見合っているのを照らし合わせる機会となっている。と同時に、わが身の感性や感覚、思索という言葉が、どう形づくられどう変容し、今どのような問題を抱えているか、わが身を対象としてとらえ直すことに繋がっている。逆に言うと私たち市井の民は、専門家たちの研究や探求を「日常生活批判」として受け止めて、参照点としている。あたかも、世界の頭脳の知的営み(の紹介されたもの)が、ワタシの人生そのものに向けて放たれたメッセージとして受け止めている。
 ユングという精神分析医が「集合的無意識」といったろうか、人類の社会集団が長年の過程で積み重ねてきた感性や感覚や様々な価値観まで、身の習いとして躰の奥深くに沈潜させて堆積してきた知恵の数々。わが身もその恩恵に浴して、まさしく量子論にいう電子のように、いつ何処に如何様に存在するかは不確定なこととして、しかし見て取るときは間違いなく位置を占めている現実存在であるデキゴトとして実在していることを、実感している。