mukan's blog

つれづれなるままに ひぐらしPCにむかいて

触れないことの親密さ

2023-06-06 12:58:11 | 日記
 健康診断を受けた。胃の内視鏡検査は、何度やっても慣れない。初めての頃に比べ今の医師は上手だと思う。口からではなく鼻からというのも、検査の負担が楽になった理由かもしれない。それでも、違和感はなかなかのものだ。内視鏡が挿入されている間ずうっと看護師が背中を擦ってくれる。その感触が和らげるのか、そちらの触る感触が気になって食道を通る内視鏡の感触を忘れるのかわからないが、ずいぶんそれで検査が軽く感じられている。触る、触れるというのは、随分大きなコミュニケーションである。
 コロナ禍で三密が警戒され、ハグしたり握手したりするのが挨拶の欧米人と違う日本人の生活習慣が話題になった。どうしてそういう違いが生じたのだろうとまでは、考えなかった。
 今朝(6/6)の朝日新聞の企画記事「いま 触れること」にある板垣明美さんという文化人類学者のコメントが目を引いた。「繊細な行為 関係を豊かに」と題された記事の中で板垣さんはマレーシアのサラームという挨拶を紹介している。
《…互いの手のひらに触れた後、その手を自分の胸にあてる…あいさつ》。
《東西からの文明十字路で、言語も多様(なマレーシアでは)、ひととの関係に緊張感がある中で、「あなたを攻撃するつもりはない」と示し、短時間で打ち解けるためにこうした触れ合う所作が発達したのではないでしょうか》
 と考察している。なるほど、言葉が通じない人の間のコミュニケーションは、動作、振る舞いだ。おおよそそれで6割は意思疎通できると、アフリカに入っていた人類学のどなたかが言っていたなあ。ことばの通じないもの同士が向き合うときの最初の動作が挨拶である。その最初の意思表示が敵意はないということを示すことだというのも、考えるとわかる。私たち日本列島に暮らすものは、いつしかそれを忘れて意思疎通にそれほどの苦労をすることなく、いわば仲間内の群れで暮らすことに慣れてしまった。緊張しなくていいというのは、居心地がいい。
 日本の場合は。文明の十字路ではなく、文明の吹き溜まりだ。追われるか逃げるか漂流の果てか、いずれにせよたどり着いたときには力尽きかけていたのではなかろうか。争って場を占拠するよりは、ひっそりと身を隠すようにして仲間内で生きていくので精一杯だったのではなかったかと推察する。
 板垣さんは「人に触れることの繊細さを実感した」と社交ダンスの研究の際に、リトアニア人の世界チャンピオンと踊った体験を「これまでにない丁寧な接触」と述べている。《私が体を起こす動きと支えてくる手のひらの動きがぴったりと合う》と、身が感じた驚きを伝えている。身の動きの作法とか振る舞いに繊細な日頃の習慣が、知らない人たちとともに暮らす中で育まれていることを指している。ということは逆に、お辞儀とか敬語といった身の接触から一歩引いた儀礼作法は、場における立ち位置とか言葉に込められた意味合いに繊細な感性を育てたのか。
「日本で日常の身体接触の文化が乏しいのは、長時間労働も関係するかもしれません」と 記事は、あらぬ方向へ逸れてしまい、コロナ禍の三密が一層非接触文化の現状をすすめたことを憂えているようにまとめている。だが、身体接触の繊細さを異質文明の十字路とは違った方向で作り上げてきた日本の「不器用さ」が、引っ込み思案でシャイ、慎ましやかでひとより一歩引いて物事を考え振る舞う気質を育んだのだとしたら、身体接触の文化が「関係を豊かに」したと羨ましがるのは、ちょっと早計ではないか。どういう場で、どのように「関係を豊かにした」かを問うてみれば、近代社会にはそぐわない日本の人たちの立ち居振る舞いも、違った地平で再評価することができるのじゃないか。ちらっと、そんな気がした。