mukan's blog

つれづれなるままに ひぐらしPCにむかいて

深掘りの起点(1)なぜ教師用指導書に頼るか

2023-06-15 11:23:05 | 日記
 小学校教師を退職して十年以上になる知人から「ボランティア通信」というのが送られて来た。間もなく後期高齢者になろうというのに、地元の小学校に足を運んで週に何日かのボランティア助っ人をしている。御苦労なことだ。
「今回、ここに書くのは、10年以上も現場から離れていた者として、この時間差と教師のありようの違いと感想」
 と、記述の意図を前置きしている。
 小学校教師をしている教え子に請われて助っ人に入った教室の様子を切り取る。教師の思い違い、児童の戸惑いが浮かんでくる。さらりと読める。読んだ後で、何だか違和感が残る。何だろう。
 ボランティアという教室における立ち位置が「出過ぎたことをしては嫌がられるかもしれないと慎重」と一歩退いたものになることは、よくわかる。担任のお株を奪っては、ボランティアではなく《TT(チーム・ティーティング)》になる。だから慣れてきてもTTの「ような感じ」にとどめる。
《若い教師が多い。……指導書通りに授業をしようとしている……。指導書は結構レベルが高いから子どものレベルと違うし、子どもの実態も指導書とは違う》
 と、「若さ」が原因のように記している。ん? そこで終わるの? と私の中のワタシが呟く。それではちょっと切り口が浅いではないか。私には「教師用指導書」に頼る教師の気持ちがよくわかる。教師としての権威を持ちたいのだ。この教師は(たぶん)文科省の教育課程が指示するような「知的」な内実を身に備えたいと思っているに違いない。それを「若い」とみるのは、年期を経た教師経験者。文科省のいう「知的なこと」は教育行政の考えた子どもに培いたい能力の断片、ほんの一部。現場で子どもと接していれば、人間的な全力量が教師に必要とされていると感じ取ってきているからだ。この次元でボランティアの元教師は、「若い教師」を見損なっている。
 小中学校で教えた経験はないが、小学算数の加減乗除から「植木算」「つるかめ算」あたりまでを120段階に刻んでプリントを用意し、定時制高校の教室で教えたことはある。読み書きや算数にまるで手も足も出ない生徒が多数いることに気づいて、全教科の教師が週に一時間、一クラスに二人ずつ付いて特別授業をやった。そのときは、算術に習い慣れることをゲーム風にやっていたけであった。でもどうして「植木算」「つるかめ算」なんてやるの? 一次方程式とか二次方程式でできるじゃんと、一人の生徒が質問を向けてきたことがあった。一瞬、それぞれ皆別々のプリントを手がけていた生徒が手を止めて、問われた教師である私を見た(ように思った)。
「だってお前さんたちが親になったとき、子どもに教えてっていわれてわかんなかったらみっともないじゃないか」
 と応じて、生徒は頷いた。と別の一人が、
「だったら中学校のも教えてよ」
 と茶化すように言った。
「おっ、自分の胸に手を当てて考えてごらん。中学生になったら、頼んでも親に聞いては来ないよ」
 と笑いをとってやり過ごしたことがあった。
 だが別の場で「因数分解なんて要らないのに何でやるの」と問われたとき、どう応えようかとちょっと思って、おおよそ次のような二つのことを話した。
(1)日常生活の中で因数分解のような作業を、人はしている。TVドラマを観ても、画面がテンポ良く変わりながら、ああ、連続の犯罪が行われていると受け止めている。これって因数分解のようなものよ。ゴチャゴチャとした事態に巻き込まれたときに、要素に分けて解きほぐして、片付けたいことは何、判っていないのは何と何。変わるかもしれないことは何、と分けるでしょ。それと同じよ。
(2)因数分解は、分ける(総合する)勘を養う。アタマで考えるんじゃない。身に覚えさせる。それが習慣を作る。そのために繰り返し練習する。何に役立つかはワカラナイが、そうした習慣が人の暮らしをつくってきた。
 高校生だからこの程度で判ってくれたが、話ながら実は(文系畑を歩いてきた)わたし自身がなぜだろうと考えながら応えていたことを印象深く覚えている。いま思うと、私の話したことより、そうだねえと受けて考えながら話したことが、説得力の源になったんじゃないかと思う。そういう感性において彼らは、鋭いものを持っていたからだ。
 話を元に戻す。
 このボランティア教師が若い教師を見損なっているというのは、なぜ彼または彼女が「教師用指導書」通りに教えようとしているのかに、思いが及んでいないことだ。若い所為であったとしても、ではこの老ボランティア教師は(若い頃に)教師用指導書に代わる何を頼みにしたのであろうか。それを語っていないからだ。
「教師用指導書」があることを私が知ったのは、高校教師になって22年目に全日制の高校へ転勤してからであった。いつであったか「地理」が必修になり、教科内教師の持ち授業時間の配分から週に2単位×4クラスだったかを教えることになった。後の半分のクラスは当時群馬大学の地理学の大学院生であった方が非常勤講師としてきてくれた。新年度の持ち授業が決まるのは3月。転退出で地理専門の教師が来ないことになってから、私は「教師用指導書」を用いて1年間どんな授業をするか勉強することになった。
 外の人が聞くとほとんど呆れるであろうが、「社会科」の教師は一度も地理学を学んでいなくとも、「地理」を教えなくてはならない。この時私は、「地理」には気候区分ということに関してはまことに合理的な体系があるが、その他のことに関しては「地図」「地形」「海」「山」「暮らし」「特産」など、分類学のように並列的な事象羅列であり、どのように「体系」づけて物語をつくっていいかワカラナイと感じた。
 そこで気候区分については教科書の体系を取り入れて物語を一つにするが、その余のことは、人の暮らしを軸にして、地図、地形、海と山という風に組み立て、ちょうどソ連が崩壊して流動する地政学的な要素を組み込みながら、1年間を組み立てたことがあった。非常勤講師の専門家がいろいろと相談に乗ってくれたことも懐かしく思い出す。
 何でこんなに鮮明に覚えているか。その後地理専門の専任教師が来て、地理を教えることから解放されたが、実はこの年に私がもった生徒たちから3人も「地理学」を勉強したいと受験希望する生徒が出たのであった。気候区分の話が刺激的であったとそのうちの一人が「動機」を聞かせてくれたときは、「やったね」と思ったものだ。
 おやおや今日は、もう時間がなくなった。これからお出かけ。(つづく)