水無田気流『「居場所」のない男、「時間」がない女』(日本経済出版社、2015年)を読む。タイトルからすると、かつて流行りの心理学ものにみえるが、著者は1970年生まれの社会学者。私の子どもの年齢である。ジェンダーの問題や家族の問題に取り組んできている。タイトルは、売らんかなの編集者がつけたものであろう。地味な社会学的な考察がつづいて飽きかけたころ、「第3部 時空のゆがみを超えるために」にたどり着いた。「第1章 不寛容な日本の私」が「ベビーカー論争」をめぐって面白い視点を提起している。
最初の「ベビーカー論争」は1973年にあったそうだが、このときは、電車などにベビーカーを持ち込むことは禁止になっていたそうだ。ところが、バリアフリー化推進や子育て応援を背景に、1999年に公共交通機関にベビーカーを折りたたまずに持ち込むことができるようになった。しかし社会の「視線は厳しい」と水無田気流は、2012年に産経新聞を起点にはじまった「ベビーカー論争」に焦点を当てる。当時72歳の西舘好子が「公共心が欠けている」と子育てママを非難する。それに対して27歳の日菜あこが「応戦」しているのをとりあげて「この問題は、母親像をめぐる世代間ギャップ」と水無田はみる。その上で社会学的見地からの分析的視覚の論評として、澁谷知美の「子どもを生んですみませんと思わせる社会」を取り上げ、「都市の商業地域は実質的に子どもを大きく排除する構図を持っていた」と解析して、「公共性の概念」の曖昧さと、そこから生じる誤解と軋轢を示すものだと論じている。
水無田気流は、《そもそも「公共性」とは、誰もが利用可能という「公開性」と、皆が同じルールを共有すべしという「共通性」、これら相矛盾する原理を内包する概念である》と前置きして、《……ルールをはみ出す身体的条件を有する者は、公開性のもとに利用しても、共通性の観点から排除の憂き目に遭う。さらに交通弱者の中でもベビーカー使用者がことさら批判されるのは、現在の日本で子育て中の親は「弱者と認定されない弱者」であるという事実による》と、妊娠・出産・子育ては当人や保護者の責任の下に管理されるべきとの見解が社会的に覆っているから(社会的な保護の対象には含めていない)と解析している。
ふと思い出すのだが、エマニュエル・トッドが『「ドイツ帝国」が世界を破滅させる――日本人への警告』のなかでドイツを〈(自己利益を優先して)ユーロのいいとこどりをしている〉と批判して、フランス人は「普遍」的に考えるから、それができないと指摘していた。つまり「普遍理念」を骨の髄に叩き込んでいるフランス人は、移民であっても「普遍的な権利」をもっているとまず受け止めるというのだ。さしずめ日本人は、「状況倫理」的にものを考えるから、自分の都合で邪魔になるものをすぐに排除してしまう、というのであろう。水無田気流も、《多くの人は、理念は寛容なつもりで、その実感情は不寛容なのである》と、愚痴をこぼしている。これはしかし、近代的な知意識人にもふつうにみられる姿ではなかろうか。
《……公共性や寛容性が個人のマナーや道徳心の問題に落とし込まれ、小競り合いを繰り返しているような社会の体質を改善しなければ……》いつまでたっても、方向は見えてこないとして、次の章で「これを解決するための方法」を検討している。
彼女が検討しているのが「オランダモデル」である。90年代初頭のオランダで行われて「オランダの奇跡」と呼ばれた「革新的な労働制度改革」である。
1)労働側が賃金抑制に合意、
2)使用者側が雇用の拡大と時短を行う、
3)減税の推進と社会保障の大幅見直し、
この3点の合意が成立した。
全体像をひと言で言えば、「ワーク・シェアリング」が実現したのだ。日本でもバブルがはじけ、失業の増加が社会問題になっていた90年代前半のころ、ほぼ同じような内容の「ワーク・シェアリング」を私も「提案」したが、一笑に付された思い出がある。「人の欲望に箍ははめられない。時短をすれば、ダブル・ワークをするようになる」というのであった。どうしてオランダでは「奇跡」が起こったのか。水無田気流は「合意形成を容易にした背景」として「オランダ独特の柱状化社会」を取り上げている。
《……70年代までのオランダの社会は、大きくプロテスタント、カトリックの宗派別、社会主義、リベラルの政治信条別、計4つの「柱状(=社会集団)」に分かれて国家を形成してきた。どの集団もそれぞれが、教育機関、労働組合、社会福祉、スポーツや文化団体、政党、新聞、放送局、小売店などの組織を内包している》
これらの4つの社会集団が、利害の集約機関としても機能しているし、協議に際しても代表機関的な社会組織として機能している、といえるそうだ。つまり水無田気流は「危機を可視化する文化」がオランダにあると見たわけである(その後の変化はだいぶあるようだが)。その通りであろう。だが、これを知っただけで、ああ、日本ではだめだと分かる。中央集権的に(オランダの8倍ほどの多数の人々が)長い歴史過程を組んできた末に、(交換過程に押されるようにして)個々人がアトム的に存在するようになっている日本社会では、意思集約の小集団が地方行政においてさえも機能しないと思える。
《現代の日本社会は「時間」に弱い。すぐに効果の出るもの、最適化したものを最も善きものとして考え、それ以外を非効率、無駄と判断してしまう。だが人はいつかは年をとり、身体も無理が利かなくなっていく。》
と、「危機状況」にあることを訴えているのだが、これもまた、理念的というか、道徳的な訴えに終わっているように思える。「自然史過程の不可逆性」と昨日、記した。それさえも、何十年かを視野に入れて見通すことができるようになれば、くぐり抜けたケースがあるとオランダの奇跡を汲みとることが出来そうだ。希望を失うことはない、ぼちぼちやっていこう、と。