mukan's blog

つれづれなるままに ひぐらしPCにむかいて

類は友を呼ぶ

2023-06-04 09:27:23 | 日記
 米中の対立やロシアーウクライナの戦争をみていて、表題のような俚諺を思い出した。トランプ米大統領の登場以来、建前が化けの皮を剥がされてタテマエとなり、本音を剥き出しにしてなんの恥ずかしさも感じない言説が横行するようになった。そのために、国際政治とはほぼ無縁と思っていた私たち庶民も、自分の使ってきた/いる言葉の一つひとつを、どういう意味で使っているのかを振り返ってみなければならなくなった。
 法ってなあに? 条約ってなあに? それの拘束力って、何を根拠にしているの? アメリカ・バイデン政権と中国・習近平政府の使っている「人権」「国際法」「民族」という言葉も、意味するところが違ってるんじゃないの? 
 とすると、その両者の違いって、それぞれ何を根拠にしているのかまで明らかにしなければならない。もちろん双方がそこまで遡って自らの言説を説明するわけではない。結論的な「意志」だけが表明され、あとは闇の中に置かれたまま。でもそれを読み取ることができるかどうかが「信頼」の源になっていると感じる。誰が誰を信頼するのかって? もちろんワタシが考察している対象を信頼するかどうかだ。それがアメリカという国であったり、中国いう国であったり、バイデンとか習近平とかプーチンという指導者だったりするのだが、たぶん、それらの国々の分析官や交渉担当者も互いに相手の言動を受け取って、その真意を読み取るのにどレほどの信頼性を置くかにも、影響していると思う。つまり「読めるか/読めないか」を恒に常に検証して、「信頼感」を増減させて相対している。肝心なのは、読み取るのはつねにワタシの側の「信頼感」に基づいており、読み取られる側の文法はブラックボックスという常態のもとにある。要するにわからないのだ。
 国際関係の主役である国民国家は、そもそも利害を核にして関係を取り結んでいる。それに加えて暴力装置の発動が「政治の延長」だと考えられていた時代には、利害が対立するとすぐ戦争になった。それが第一次大戦(WWⅠ)で総力戦となり、西欧は懲りたはずだったのに、その(戦勝国の総取りという)始末の悪さが遠因となってWWⅡが起こり、再び悲惨な体験を繰り返した。その反省が国際連合であったというのも実は「敗戦国の物語」であって、その実、戦勝・連合国の利益優先システムであった。
 それでも、冷戦時代には東西の「正義」が対立し争った。東西を主導する米ソが「自国利害を最優先」と口にすることはなく、一応普遍的な利益を看板に掲げて言説を紡いでいた。国際連合がその言説の舞台としての「場」を保ってもいた。
 その東西冷戦が終結しアメリカの一強時代かという1990年代には、パックス・アメリカーナの「帝国」が誕生しているのかと思われた。このとき世界にはアメリカン・スタンダード渡渉された「正義」が大手を振ってまかり通っていたが、そこには力づくでいうことを聞かせる裏技も併用されていたのであった。世界の警察官と称して圧倒的なアメリカの軍事力の世界展開を背景にしていた。「正義」はダブルスタンダードの謀略と力技に裏付けられていたのであった。  
 それが崩れ始めた。21世紀に入り、中国の台頭に伴ってアメリカの正義の裏側が顕になってきた。建前はタテマエとなり、本音が前面に剥き出しになった。アメリカとしては、いずれ中国の経済的な発展に伴って「自由と民主主義」に移行すると思っていたのかもしれない。あるいはただ単に、高度消費社会・アメリカに追随する外ない安い製品を提供する「世界の工場」であり続けると考えていたのかもしれない。
 だが中国は、明らかにアメリカと異なった「正義」を振りかざすようになった。そう主張できるようになったからと冷静な分析官はいうかもしれない。ワタシがみていると、中国の主張は、一筋縄ではくくれない。あるときは国連の土台とする戦後秩序に乗っかって「正義」を振りかざす。それは、アメリカの横暴に怒りをためてきた国々の気分に支持されてそれなりの「類/仲間」を集める。またあるときは、何千年の歴史を紐解いて「権利」を主張し、暴力装置を背景に海上に基地を建設して既成事実化する。それへの「支持」を集めるために経済支援を背景にした援助や融資、インフラ整備を餌にした「仲間集め」をする。
 そこへ割り込んだのがコロナウイルスであった。り、トランプは、お粗末にも中国を貶めればアメリカが正しくなるとばかりに「チャイナ・ウイルス」と呼ばわりをして、コロナウイルスと正面から対峙することをぼかしてしまった。中国は中国で、否定すればイノセントになるとばかりに「アメリカ軍の謀略」を喧伝して、人類として向き合うべきチャンスを自ら放棄し、トランプのお粗末次元に乗ってしまった。みていられないよと、市井の老爺の床屋政談はあきれたのだが、これは現在の国際協調がその程度の薄氷であったことを明らかに示すものとなった。
 こうした世界の情勢は、市井の庶民に「世界」は私たちの考えているルールや常識とは違った規範で動いているんじゃないかと考えさせるようになった。コロナという大自然の脅威を相手にしていても、どこかに国の悪意を相手にしていると錯誤してか、国際的に協働するべき取り組みをなげうって、自国中心主義で乗り切ろうとしてきた。バカだなあ、お粗末だなあと思っていたら、今度はロシアが、ホントにバカなことをしでかした。トランプで前触れがあったから驚きはしなかったが、国民国家の単位でフェイクのなんのとやり始めると、こんなにも簡単に人の世界は壊れると言うか、操作されてしまうんだと、情報化社会とかグローバリズムということを、疑うようになった。
 類は友を呼ぶ。今世界は友達作りの真っ最中です。欧米先進諸国とロシア・中国・インドとグローバルサウスと、それらのどこにも含まれるかどうかもわからない中小の国々が仲間集めをしている。だがどこにも、大自然と対峙しているという人類史的視線が見受けられなくなった。温暖化という環境問題もどこかへ遠ざかってしまった。国際協調は、それぞれのグループのご都合に合わせた多数派工作の看板だけとなり、もはや見向きもされなくなっている。国民国家の直截的利害とその損得計算だけが権力単位のモチベーションになっている。
 ここが、ワタシたち庶民の「関係センス」と異なる。私たちは「類は友を呼ぶ」というとき、私の振る舞い方が関わる人たちに伝わり、いずれ集団の気風をつくると。だからより良き関係をつくりなしていこうと考えて振る舞おうと自戒してきた。国民国家の世界は(どいつもこいつも)これとは違う気風で動いている。そう感じる。
 これは私がワタシの抱いている言葉や感性や感覚を疑うことであった。こうして今、改めて戦後史という概ね私の辿ってきた人生の集積である我が身のことごとくを、一つひとつ意識して捉え直そうとしはじめたわけです。