mukan's blog

つれづれなるままに ひぐらしPCにむかいて

自分のことばを手に入れる人生

2017-11-30 08:25:42 | 日記
 
 宮下奈都『窓の向こうのガーシュイン』(集英社、2012年)を、旅の往き帰りに読んだ。人の輪郭を描かせたら、この人ほど心裡に沁みとおるように言葉を紡ぎだして、揺蕩う様子を浮き彫りにできる作家を、私は知らない。彼女の作品を、ここのところ何冊か読んで私は、そう思うようになった。ちょうど私が、AIに関心をもって本を読んでいたこともあって、AIと人間との違いは何だろうと、心裡に疑問符を持ち続けていた。それもあって、宮下奈都の作品の描く人間イメージがもっとも的確だと思ったのだ。AIとの対比では、作家ご自身としては褒められたように思わないかもしれないが。
 
 今回のシチュエーションは、未熟児。両親の貧困ゆえに知恵遅れのままとなった(と思われる)一人の少女が、世の中の白眼視のなかで、しかし、それをどう位置付けていいかわからないままに大人の女性に成長していく。そうして、世間の主たる流れから離れて(いると自覚して)生きていきながら、人との関係の中に自らを発見し、世の中に位置づいていく「核心」を手に入れる物語り。自らの境遇を嘆くでもなく、かといって他者を謗ってわが身の安心を定位するでもなく、いつも(世の中の)中心からはずれていることを意識しながら、しかし、きちんとわが身をとらえる言葉を紡ぎ続けて、他者との関係の中に浮かび上がらせていく。
 
 表題の「ガーシュイン」は、ジョージ・ガーシュインの「サマータイム」。五十年以上前に口にしたことのある私の好きな歌のひとつ。〈さあ~ま たあ~いむ〉というエラ・フィッツジェラルドの声が前頭葉に響いてくる。
 
 夏が来て、暮らしは楽
 魚が跳ね、綿花は高く背を伸ばす
 あんたのお父さんはお金持ち、お母さんは美人
 だからさ、よしよし、泣くんじゃないよ
 
 これがじつは幸せな境遇を歌った歌ではなく、黒人の、悲哀に満ちた境遇のなかで歌われている子守歌という「反転」を、宮下奈都は上手に掬い取って、フィナーレのわが輪郭に描きこんでいく。それがまた、人が生きることの核心に触れていて、見事である。
 
 そのストーリーはさておいて、私は宮下奈都の人間観が、これまでにない人間イメージを描き出していると考えている。人が言葉によって世界を描き出すこと。それはすなわち、日々の関係の中に言葉を紡ぎだして、自らの輪郭を描きとること。そのとき、世の中の価値や規範や大多数の評価をものともせずに、自らの人生を読み取っていく言葉を手に入れること。そう宮下奈都は浮かび上がらせる。 

 私たちは人を真似て(順接的か逆説的かは別として)生長していく。その最たるものが言葉だ。だが「真似」から脱して「自分のことばを手に入れる」ことに、自律するころから悩み、呻吟する。そのとき、世の中の規範や価値や評判とは別に自らの心裡に醸し出されてくる「ことば」を発見することが生きている感触と直結しているとき、生きる力を手に入れていることになる。教えられることではなく、教えることの出来るものでもない。まさに実存する関係の発露として見出すことだ。
 
 どうあっても、YES-NOのアルゴリズムに背骨を支えられているAIなんぞに適うワザではない。そう感じとっただけで、充実した読後感に浸っている。

お伊勢Seminar (3)七五さんの奏上をする

2017-11-29 15:37:57 | 日記
 
 11月28日。薄暗いうちに目が覚めた。カーテン越しに外を見ていた一人が「星が見えるよ」という。窓の正面に黒々と稜線をみせているのが、内宮の背にしている山。その右、東の方の空が少し明るくなってそちらから陽が昇るとわかる。
 
 朝食を済ませ、準正装をして内宮に向かう。正装に準ずる服装として、ジャケットはだめ背広上下にネクタイと、事前に案内役から知らせがあった。女性もそれに準じて「リクルートスーツのような……」と例示があり、まさか後期高齢者がリクルートスーツなんてねと不評であった。また、「退職したときに背広は始末してしまった。礼服しかないけど、まさか燕尾服をもっていくほどじゃないだろ」と慌てふためく人もいた。未だ現役自営業の一人は「昔の背広を引っ張りだしたら、腰回りがだぶだぶ、結局直してもらった」とぼやいていた。服が合わないというより、わが身の変貌が大きいと慨嘆していたのだ。
 
 内宮に入る手前の宇治橋に立つと、正面から朝陽が差している。鳥居に入る手前に、外宮同様、由緒書きが掲示してある。「天照大神は皇室の氏神であり……歴代天皇が崇敬しておられます」とある。だがこれまでにお参りした天皇は二人、持統天皇と明治天皇だけだという。「崇敬」にしては足が遠のいているのではないか。しかも、持統天皇は天照大神の鎮座することにした「初発の天皇」というから仕方がないとして、あとは明治天皇までないとすると、むしろ明治天皇の方に「何かがあった」と考える方が真っ当だ。明治以降の天皇制を薩長政府が最大限に利用したと言われていることから推察すると、天皇制国家(近代)日本を再生しようとお伊勢さんをも動員したと考えた方がいいのかもしれない。由緒書きの「私たちの総氏神でもあります」というのが、語るに落ちる。国民国家に氏神様が必要なのか、と。
 
 宇治橋を渡って五十鈴川を越える。外宮でも火除橋を渡って川を越えた。外宮も内宮も「彼岸」とされていることからすると、さしづめ三途の川ということか。五十鈴川の橋のたもとには桜が白い花をつけている。四季桜と聞いた。十月桜とか冬桜と言われるのと同じであろうか。冬のような寒さのあとの小春日和に誘われて花開いた風情が、この三途の川にもあるのか。そう思うと、地獄か天国かはどちらでもいいが、四季はあってほしいなと思った。
 
 橋を渡り右へ曲がる。大きく開けた両側の木々はきちんと整えられ、まるでイギリス庭園のようにみえる。右側の広葉樹が色づき赤と黄色と常緑の緑が交雑し、陽ざしを受けて美しい。山でみる紅葉とひときわ違って、人手が入り整えられているように思える。いやむしろ、それが過ぎて、「かたじけなさに涙あふるる」と思う感懐が湧いてこない。西行のころの伊勢内宮はどうだったのだろうと、思いが古に飛ぶ。
 
 火除橋を渡って第一鳥居をくぐる。道なりに進むと五十鈴川へ下ってしまう。ここが御手洗場だという。対岸の紅葉が、陽ざしを受けてひときわ際立つ。手を洗うのを忘れて見取れる。先へすすむと第二鳥居をくぐる。その先にお神札授与所があるところで、Oくんがわたしに「玉串料」と「お神楽初穂料」と「三六会」の名を記した熨斗袋を手渡す。代表にしてあると聞いていたから、回り込んで「受付所」で所用事項を書き込み、熨斗袋を収め、その収納証明のカードを二通いただく。ひとつは正宮で渡し、あとのひとつは戻ってきて、神楽殿に入るときに提示する。
 
 正宮に向かうときの針葉樹が森をなす参道に朝靄が立ち、そこへ朝陽が差し込んで幻想的な雰囲気を醸す。この清冽さと幻想的な深遠さに「かたじけなさ」を感じたのかもしれないと、澄んでいくような心持を味わいながら、歩を進める。行き止まりに蕃がありその裏に御贄調舎(おにえちょうしゃ)がある。ここで調理をして蕃の表側の(いまは遷宮前の跡地になっている)正宮に運ぶ次第だ。いま正宮は左へ移ってそちらの石段から上がるようになっている。
 
 正宮に入る。「特別拝観」のチケットを渡すと、二十歳代半ばと思われる痩せぎすの神官が案内して、コートや手荷物を片隅の置台にまとめて、玉垣の途切れたところに横二列に並ぶよう指示する。そのとき私は、神官から小さい声で「今度お越しになるときは、黒い靴をご用意ください」と注意を受けた。背広にネクタイは悪くなかったのだが、靴が軽い山靴だったせいだろう。これは帰りの電車の中で、皆さんにからかわれた。じゃあ、草鞋ならいいのかなどと言ってはみたが、昔の庶民はどうしたのだろうとあらぬ方に気持ちが動いた。伊勢神宮も、近代の習わしをパターン化して、すっかり伝統にしちゃってるなと可笑しかった。それはさておき、その後に、正宮内陣の左側を回って御正殿の前に進み、代表の私だけが白い石の上に立って向かい、他の人たちは黒い石の上に立って横二列に並ぶ。そして代表の二礼二拍手一礼に合わせて皆さんも拝礼をしてくださいと、神官が伝え、そのように拝礼をした。そのとき、背筋を伸ばし、一つひとつの所作にメリハリをつけて行うようにしたのは、やはり内宮の醸し出した空気のせいだろうかと、思った。
 
 内宮の拝礼を終わって表参道から、高床式の御稲御倉(みしねのみくら)や外幣殿(げへいでん)脇を通って正宮の裏側に回り、荒祭宮に向かう。荒魂(あらみたま)を祀ってあるから、いうならば元気をもらいたい人はお参りをというわけだ。「なにをお願いした?」と言葉が交わされる。そういえば、内宮の拝礼のときに私は何も考えていなかった。ものの本を読むと、「なにも願わないのが清浄なこころです」とあった。穢れを落とし、「彼岸」に擬せられたところで「浄化」することが祈りであり、拝礼だというのは、素直にわかる気がする。神様から恩恵を被るのは「願う」ことによって施されるものではなく、「自然(じねん)」に浴することだと考える方が、好ましい。つまり人と神とが「願い」を聞く/聞かないというコミュニケーションを図ることなどできるはずもなく、現世利益というのは「自然」の幸運に浴することを感謝することでしかない。自然(しぜん)との向き合い方は、いつもそうしてきたのだと、私の身の裡のアニミズムがうごうごしている。
 
 来年初孫が生まれることになったhmdくんとkmkさんが「無事の出産」を願ったというので、案内役のIさんが、その二人をあとで、内宮の内側にある子安神社へ案内することになった。そこは木華咲耶姫(このはなさくやひめ)を祀っていて安産の神様だと言われている。
 
 ひとわたり経めぐってから神楽殿に行く。靴を脱いで奥へと上がる。待合所では伊勢神宮を紹介するビデオをやっており、遷宮のことや稲を育てていること、御饌を捧げる儀式など、ちょっと来ただけでは見ることの出来ない習俗を見せてもらった。聞けば二十年ごとの遷宮は62回目になるという。4年前に終わったばかりだのに、もう木曾の山奥で次の遷宮に必要な樹木の選定が行われはじめているそうだ。そうして8年前から本格的に作業が始められ、何とその総費用は550億円もかかるそうだ。これは、観光業も含めて一大産業というべきであって、伊勢市ばかりか近在の市町村にとってはお伊勢さんを欠いては(おそらく)何も考えられないのではなかろうか。元バンカーのOくんは直近の伊勢市の百五銀行などの銀行口座には何百億というお金が振り込まれてくると話していた。
 
 神楽殿に参内する。前半分が一段高い板敷の拝礼祭壇の間、後ろ半分が広い畳の間で、私たちは後ろの畳の上に、やはり横二列に座る。これはお寺などの拝礼と同じだが、祭壇に何にもないところが神宮のすばらしいところだ。御饌を置く木製の台があるだけ。基本は空っぽ。これは偶像崇拝を禁ずるイスラムの信仰心に通じるところがある。神というのは(人には)みえない。見えないことに思いを致すというのが信仰心の第一歩だとすると、偶像崇拝はすでにその初歩から人の原罪を抜け出さない宣言のように思えるのであろう。神道に「原罪」という感覚があるのかどうか知らないが、人間には必ずと言っていいほどついて廻る「クセ」がある。ものを考え、理屈をつけ、目的や意図や目標を定めないと落ち着かないという「クセ」は、人間らしさとか、道徳とかいう「しばり」を堅持するかたちで、重荷を私たちに背負わせている。そういう次元で考えれば、神道の空っぽさは、好ましく思われる。
 
 神楽がはじまる。神に奉納するのであるから、私たちはひたすら拝礼するばかり。両サイドに二人ずつ笙・篳篥(ひちりき)の奏者。その脇にやはり二人ずつの巫女。そこへ御饌を運ぶ巫女が二人、裏方の巫女が一人と、祝詞をあげる神官が一人登場する。約三十分間、御饌を捧げ、祝詞をあげ、舞を踊り、御饌を下げるまでの一つひとつの振る舞いが、ていねいに、厳かに執り行われた。いうまでもなく私たち「三六会」の名も読み上げられて奉納されたが、何よりも、笙・篳篥の演奏と巫女さんの、ほんとうに祈りを形にしたような単純質朴な踊りとが、空っぽの祭壇に似つかわしく、いい感じであった。あとで「七五三の奏上と同じだよ」と誰かが話していて、そういえば私たちは、ちょうど「七五」の後期高齢者。七五さんの奏上に間違いない、とおもったものであった。
 
 そうそう、お伊勢さんには何人の神職がいるの? と誰かが聞いていた。約二千人ほどいるという。それだけの人が日々、1300年間の間、古式にのっとった儀式的振舞いを、木を擦り合わせて火を熾すことからすべて行い続けているというのは、それだけで無形文化財ものだと思うが、世界遺産にもなっていないし、無形文化財にもなっていない。やはり皇室の氏神という肩書が邪魔をしているのだろうか。それを支える財政もどうなっているのか興味は湧くが、詮索はしない。
 
 帰りながら、人出が多くなっていることに気づいた。宇治橋の向こうからやってくる人の数は、朝の比ではない。神宮会館に戻って、正装をきちんとしていた人は着替えをする。荷物を預かってくれるから、お昼を済ませてまたここに立ち戻ることにして、おかげ町とかおはらい横丁という、門宮町のにぎやかな土産物などの町歩きに出かけた。
 
 お昼もここで済ませることにしている。案内役のIさんは「お昼があるので、ものを食べないでください」と念を押す。皆さん素直にうなずいている、と思ったら大間違い。すぐそばの「赤福本店」というのに入って、早速お茶にしている。おはらい横丁というのが、古い町並みを残した造り。神宮道場というのがあるかと思えば、その向かいには立派な漆喰塗りの壁がある。「あれ、これ五線壁だよ」とstさんがつぶやく。「なに、それ」と私。「壁に何本かの線が引いてあって、それが家格を表すのよ」とstさん。あとで分かったが、お寺ではなく「祭主職舎」。伊勢神宮の神官のお家であった。格式があるわけだ。
 
 先へ歩くが、どこもここも食べ物屋ばかり。土産物屋が目立たなくなってしまうほどだ。そこへ御客が並んで待っている。私たちもぶらついているうちに「かわあげ」と銘打った油っこそうなつまみをみて、ビールにいいねと話していたら、なんとその店の奥にテーブルを置いて、生ビールを提供している。ではでは、と分け入って一角を占め、鶏肉の皮をあげたものをつまみにする。これが油っ気が軽くて、うまい。お昼のことを気にしながら、でも、ま、これくらいはと話しながら一杯やった。
 
 お昼の食事処を越えて、内宮の方へ向かう。何軒かの土産屋とは違う酒屋がある。mykくんが「そういえば昨日のザクという酒はうまかった」と話しになる。ザクというのは「作」と書く。その読み方が珍しかったので私も覚えている。ある酒屋に首を突っ込んで「ザクはあります?」と尋ねる。その酒屋の主人は奥の方から首をもたげて、「あれはね、少ししかつくらないから手に入らない」という。ではと失礼しようと思ったら、そのご主人はつづけて「オバマさんが呑んだのはね、4合瓶で一万六千円もするのよ」と加える。要するに私たち庶民が口にするものではないということらしい。ははあと丁重にお礼を言って引き上げた。ところが、もう一つ別の酒屋の奥の壁に「作」と書いた紙が貼ってある。mykくんはいなかったがstさんが一緒に店にはいってみると純米大吟醸が2500円余と、ほぼほぼの値段。私もstさんも一本を手に入れた。オバマさんとは違っても、純米大吟醸ならうまいに違いないと思ったわけ。これは後の新幹線の中で、口を開けた。昨日呑んだのよりさらにうまく、mykくんと別れるまでの酒宴となった次第だ。
 
 お昼は伊勢名物の「てこね寿司」を用意してくれていた。二階の座敷でずらりと食卓を囲む。hmdくんが時間をかけてだが、ゆっくりと全部食べた。甘みに負けた人たちは食べ残していたようだが、考えてみると、ただそれだけでも食べ残して不思議でないほどの「てこね寿司」ではあった。
 
 三度神宮会館に戻り、荷物を受け取り、早い時間の列車にチケットを変更して早めに帰るわと半数ほどがタクシーに乗った。残りはIさんが時間が来るまでもう少し案内しましょうと、別行動をとる。伊勢神宮工作舎という、遷宮や修理などのいわば工房へ案内してくれる。ひっそりとして人気を感じなかったから、外から見るだけにした。脇の公園駐車場は銀杏の並木が黄葉してきれいだ。そこから神宮美術館が所蔵する人間国宝の絵を見せてくれるというので、そちらに向かった。静かな森の中。入口の脇には倭姫命を祀った宮がある。向かいには博物館もある。中に入ったら残念なことに、友禅染の和服デザインの展示会。たぶん名のある作家の作品なのであろう、見ているだけで目が洗われるような気品が漂う。でも絵は明日からの展示というので、Iさんはずいぶん落胆したようであった。
 
 その後、伊勢市駅に行く。ホームで待っていると、先に帰ったはずの人たちが階段を降りてくる。チケットのチェンジができなかったようで、近くの喫茶店でおしゃべりをしていたという。そのとき、こういう旅をまたしようという話が出て、岡山のsnmさんが企画立案してくれるということになった。彼女はその説明のために、来年のSeminarに出てきてもいいと、張り切っている。これだけ元気なら、来年は十分大丈夫だ。こうして、お伊勢参りは終わった。近鉄名古屋出来で別れ、三々五々、東京へ岡山へと帰っていった。
 
 いや、「七五さん記念」とも言える、面白いお伊勢参りになった。

お伊勢Seminar (2)神より、まず暮らし

2017-11-29 09:29:51 | 日記
 
 瀧原宮から外宮へは40kmほどの距離。伊勢自動車道を走りった。移動中に雨がぽつりぽつりと落ちてきて、案内役のIさんはトイレ休憩を入れてスーパーマーケットに立ち寄り、ビニール傘を何本か購入した。一本108円。誰かが「傘を買うと雨は止むんよ」と声をあげる。外宮に着いて表参道の火除橋を渡るころには雨は上がっていた。
 
 火除橋の手前に「豊受大神宮(外宮)」の由緒書きが掲出してある。祭神は豊受大御神。「丹波の国から天照大神のお食事をつかさどる御饌都神(みけつかみ)としてお迎えした」とある。内宮に天照大神が鎮座してから五百年後という。外宮の正宮の一番奥の外側に「御饌殿」という小さな食糧庫もあり、遷宮前の敷地ならそのすぐそばに忌火屋殿(いみびやでん)という調理をする場所が置かれている。別の解説本をみると「1300年にわたって毎日朝夕の二度、神饌をたてまつってきた」とある。田を耕し、灌漑を施し、稲を育てて収穫し、魚介を得、手ずから火を熾して調理し、提供するというのは、まさに私たちが暮らしを保つ振舞い。のちに内宮のビデオで見たが、火を熾すのもライターやマッチを使うのではなく、木を擦り合わせて火をつけるという始原にさかのぼったやり方を踏襲している。それを絶やさず行ってきたというのは、この豊受大御神こそが私たちの暮らしの文化を受け継ぐ象徴的な存在であったと言える。つまり、それまで神話の世界にとどまっていた天照大神が、豊受大御神を招き入れることによって、民草との象徴的な関係を意識するようになったと、私は受け止めた。それまでは、まったくの神々のお話し。つまり、8世紀の初め、天武・持統朝に記紀神話が成立したことを裏付ける。ここから後の神宮の話が私たちとかかわりを持つのだと得心した。
 
 伊勢神宮は外宮から(内宮へと)お参りするというのが、「謎」のひとつとされていた。これがご正道だというのは、つまり、私たち民草の暮らしの象徴に祈りを捧げてから、神の世界へ祈りを捧げよという順路。それは、祈りというものが何を基本に据えているかを示している。神より、まず、暮らしなのだ。
 
 森を抜けるように砂利を踏んですすんで二の鳥居をくぐると、煌々と明るく照明のついた「お神札授与所」があり「古札受付」と表示をしている。日本銀行券でもいいのかしらとジョークを口にしている。そういえば日本銀行券が全能の神のような扱いを受けている高度消費社会だと、邪念が浮かぶ。鳥居の支柱に負けないくらい太い杉の木が何本もあるなかに、正宮が置かれている。その入口の正面には、大きな板塀の目隠しがしつらえられている。

「なに、これ?」
「蕃(ばん)といいます。この後ろで神に捧げる御饌を整えるのですが、それをお見せしないようにしてる」

 とIさんが説明してくれる。なるほど。近頃は、対面キッチンとか透明調理ではないが、調理しているところを見せて、パフォーマンスとしている。お見せするところではないという「つつましさ」がいつの間にか消えて、パフォーマンスにするというのは、やはり庶民の世界のことかと、昔日の、文字通り奥ゆかしい習わしに、懐かしさを覚える。
 
 外宮の正宮正面には白い御簾がかかっている。向こうを見通せるほど薄くはない。風ではためいてくれないと、御正殿をみることは叶わない。脇によって塀越しに奥を覗くと、御正殿の手前に(玉垣と呼ばれる)いくつかの門塀があり、千木と鰹木しか見えない。千木が垂直に尖っているのは、なるほど平であった瀧原宮の千木と違う。こちらは男神というわけだ。なぜ豊受大御神という女神の社が男神かは「謎」のままだが、考えてみれば、私たちの暮らしでも、暮らしの諸事雑多をこなすことの出来ない男が偉そうにタテマエ面をして、暮らしは女たちが切りまわしているのだから、「謎」などと騒ぐことはない。わが胸に手を当てて考えてみろってことか。
 
 お神札授与所に戻り北御門鳥居の方へ向かう。授与所の梁の角に金具が張り付けてある。誰かが菊のご紋じゃないんだと驚いたような声をあげた。授与所で尋ねると菊ではないという。「後づけだよ、菊は」と、これまた誰か。いつから(菊になった)か知らないが、今の時点から神話が再生され、つくられていく瀬悦断面を切断面を見たような気がした。九条殿というのがないをどうしているところか知らないが、後ろに鬱蒼とした森を背負っているのが印象的であった。鳥居を抜け裏参道から外に出てマイクロバスに乗って、神宮会館に向かった。今日の宿泊所だ。
 
 神宮会館は内宮の近く、おかげ横丁の出口と通り一つ隔てたところにある。修学旅行の宿所にもなるような造り。まあ今回の私たちのお伊勢参りも高齢者修学旅行のようなものだ。そう思っていたら、夕食も広い食事処にテーブルごとの割り振り、とても「近況報告」を交える場所ではなかった。結局食後、十畳ほどの一部屋に集まり寝そべって「近況報告」をすることになった。昔の話も飛び出してなかなか面白い人生を歩んだのだなと興味深く聴いたが、子細はいかにも同窓生の内輪話であるから、ご披露するわけにはいかない。狭い寝床も、頭と足を互い違いにするようにして熟睡した。過ごすほどお酒を飲めなくなっているのが、幸いしていると、いつも後になって思う。(つづく)

お伊勢Seminar (1)彼岸から此岸をみる瀧原宮

2017-11-28 20:37:13 | 日記
 
 26日から昨日までの一泊二日、コーディネートしてくれたのはoくん。彼の後輩で、現在神宮ガイドをしているIさんが現地案内を細かく気遣ってしてくれました。今年三月にoくんが「お伊勢さんの不思議」と題するSeminarで、外宮や内宮、瀧原の宮や倭姫のことなど、概略を解説してくれていましたから、ずいぶんと踏み込んでみることができたと思っています。その上、出発2週間前になってtkくんから『伊勢の曙光』というミステリーが、記紀神話をはじめ伊勢神宮の「謎」について詳しい史料を読み解いていて「参考になる」「読むことをお勧め」ときたからそれも読んで、30個の「謎」を抱えて伊勢に足を運んだわけです。この本を読んで私が抱えた「謎」を事前に案内役のIさんに書き送りました。彼は「伊勢市の図書館に、この本があったので借り受けて読みます」と返信をくれていました。
 
 名古屋で乗り換え、近鉄特急に乗って近鉄松坂駅に向かいます。背の低い建物が切れることなく続く車窓の風景が田圃に代わるころ山が目に入り、1時間ちょっとなのに、ずいぶん名古屋から南へ入り込んだように感じました。東京と岡山からの参加予定の全員が顔をそろえ、Iさんと案内助手の女性とマイクロバスが出迎えてくれ、まずはお昼を食べるところへ向かいました。宮川の畔の茶畑の中にポツンと建つ古民家、「鄙茅(ひなかや)」。お茶の花の名残がまだ咲いていました。古民家と見えたのは外側だけ。中は改装され、すっかり質朴だが豪奢という面白い造りになっています。コーディネータ役のoくんは田舎料理と言っていたが、懐石風に手の込んだ品々を一品ずつ給仕してくれて、その都度解説がつきます。ビールとウーロン茶で乾杯し、挨拶を交わし、もうすぐに何年もの無沙汰を跳び越えてしまうような気配に包まれています。運転手も案内助手も話に加わり、うちとけて、このあとの参拝に期待が募ります。
 
 まず、瀧原の宮に立ち寄りました。倭姫命が伊勢に定める前に天照大神をここに祀ったことから、内宮の別宮とされ、天照大神の荒魂が祀られていると聞いていました。でも「あらみたま」ってなに? と私の「疑問符」がついていました。Iさんの話では、四つの魂があり、荒魂は「元気がいい活発な魂」だとか。天照大神が、それまでのアマ・テルという自動詞からアマ・テラスという他動詞へ変身しようとするアグレッシヴな様子だった時の御座所というわけか。入口の鳥居の脇には黄色のカエデが大きく枝を張りだし、その奥は針葉樹がうっそうと茂って薄暗く、玉砂利を敷いた参道がつづいています。参道の右側には川が流れていて、そちらで御手洗をしていたようであったが、いまは縄を張り巡らして、入り込まないようにしています。参道を塞ぐように大木が気ままに伸びています。樹齢が300年から700年の間になろうというのであろう。幹の下の方に竹矢来を巻き付けて縄で締まっています。虫がつかないように冬越しの準備をしているのでしょうか。
 
 hmdくんが参道の端っこの際石を踏むようにしてゆっくり歩くのを、kmkさんが「危ないが……」と気遣って声をかけます。「なに、この方が歩きやすい」と平然としています。hmdくんはひと月ほど前、大腸炎で四日ほど入院して体重が落ちてしまい、41kgになったと言っていましたから、見るからに心配になります。「いや、食べなきゃ回復しないと一所懸命食べて5kgは戻った」と話していますが、それでも46kg。骨皮筋衛門になっています。
 
 急に開けた場所に出ました。遷宮まで、古い社が立っていたところ。隣に社を建てて神を移し、後に裸の土の上に玉砂利よりは大きい丸っこい石を運んできて覆い、次の遷宮の年まで保つのだそうだ。その石も、中央に白い石が布かれて伸び、それを両側から包むように黒っぽい石が敷き詰められている。白い方が神の通る道、黒い方が人の通る道となっているそうだ。この石も、神宮の人や参拝の人たちが運んできて敷き詰めていくというのだが、この伊勢に別宮だけでも125社あるとかいうから、それら全部に、そのような手当てをするのは、並大抵のことではない。そんなことを考えながら、その奥へすすむ。
 
 瀧原宮と瀧原竝宮があり、そのさらに奥に若宮神社というのもあります。それぞれがどういう関係にあるのかまでは聞かなかったが、2013年の式年遷宮で移されているせいか、ほんとうに簡素。さっぱりとした佇まいに、ちょっと拍子抜けするくらいであった。アプローチの、参道の両側が深々とした森を思わせるのに、あっけらかんと開けた社の様子は、「かたじけなさに涙あふるる」と感触はなかった。
 
 狛犬がない。そのことを聞くと、もともとは榊をそなえつけて結界としたとう。つまり、榊が厄払いの役を果たし、それがのちにほかの処では狛犬に変わったようだ。それが秩父神社ではオオカミになっているというから、土地土地の習俗が取り入れられて神社の様式も変わるようですね。
 
 帰り道に気づいたのだが、うす暗い参道から入口の鳥居(の外)をみると、明るく開けて、紅葉がひときわ美しい。そうか、彼岸という死者の世界から現世という此岸に帰ってくると、この明るさが迎えてくれるんだと思う。やはり神社というのは、現世利益をモットーとする新興ではないかと、改めて思った次第です。(つづく)

高田崇史『伊勢の曙光』に関する追記

2017-11-25 14:44:24 | 日記
 
 ひとつ大事なことを落としていました。『伊勢の曙光の』QEDとして高田は「自動詞と他動詞」と「喝破」しています。これは「アマテル」が「アマテラス」になったことを指していると私は読み取りました。つまり、自動詞アマテルが他動詞アマテラスになったということは、照らされる存在が明確に意識されるようになったことを意味します。部族的な集団における君臨なら、崇神のように始祖神・アマテルというだけで十分でした。だが、他の氏族や土着の豪族、加えて稲作などに従事する民草を照らされる存在と視野に入れると、「天皇が支配する正統性」を必要としたのです。天武・持統朝に成し遂げようとしたのが、班田収授法(つまり稲作)を基本とする律令制度の確立でした。神々(の末裔として)の天皇の正統性とは二点考えられます。
 
 ひとつは「豊葦原瑞穂の国」の始原という位置づけです。米づくりの始原を示すこととして伊勢神宮は、御饌の祭礼を日々欠かさず1300年も続けてきたと言えます。それも、単に米を神に捧げるというだけでなく、稲を育て(森を育てて)灌漑を施し収穫し、火を熾し、魚介を漁りし、さらにまた、布を織り、社殿を20年ごとに作り替えるようにして技術を伝承する仕組みまで、つまり暮らしのことごとくをすべて自分たちの手で執り行うことをしめして、「正統性」を屹立してきたのです。
 
 もうひとつは、死者への祈りです。伊勢神宮は彼岸を顕現しているものだと、言われます。藤原不比等が編纂に尽力したとされる記紀神話は、神々を彼岸において祀ることで、畏れ敬うかたちをとりました。また祭神を女神とすることによって、現実の支配に力を揮う男たちを祭主として祀る側に位置づけ、死者の世界と切り離しました。天皇は代替わりのときに寝床を死者とともにする儀式も行うといいます。この結果、神々の末裔としての天皇は祀られる側におかれ続けて文化的存在となり、中臣=藤原氏が現実世界を切り回す立場、すなわち実権を手に入れたとは言えますまいか。その後天皇親政に近い試みは後鳥羽院政や後醍醐親政など数えるほどしかなく、事実上、君側の司官(あるいは将軍や執権など)の実権支配がつづき、天皇は象徴的存在となっていたのは、ご存知の通りです。
 
 自動詞から他動詞への推移は、じつはギリシャ語における中動態の蒸発と「能動態ー受動態」の時代への推移と同様、大きな「自然観―人間観」の転換をともなっています。國分功一郎『中動態の世界』(医学書院、2017年)が面白い展開をして「意志と責任」がヨーロッパ哲学において、どう扱われてきたかを論じています。それと重ねて考えてみると、丸山真男が論じた「であることとすること」(日本の思想)のさらに一歩先へ踏み込めそうな気がしています。