mukan's blog

つれづれなるままに ひぐらしPCにむかいて

季節の進行が早い

2018-03-30 18:05:48 | 日記
 
 サクラソウが咲いていると聞いて、今朝、田島ヶ原のサクラソウ自生地へ行った。例年なら4月の初旬に咲き始め、20日ころにサクラソウ祭りとなるのに、今年はサクラソウがすっかり咲いて、ノウルシが覆い隠さんばかりになっている。サクラソウ自生地の案内ボランティアもはじまっていて、今日はボランティア希望者への説明会を開くという。陽ざしはいっぱいだが、一昨日のように暑くはない。長袖シャツにウィンドブレーカを羽織るとちょうどいい。秋ヶ瀬公園のサクラも、もう散りはじめていて地面も桜色に染まっている。サクラと芝生の緑と自生地のノウルシの黄色を含んだ若い緑は、春爛漫という言葉を思い起こさせる。季節の進行が今年は早い。1時間ばかり公園を散策して、帰ってきた。
 
 明日のSeminarの用意がある。2013年4月から五年間続けてきたSeminarは、今年の一月に30回を重ねた。明日は総まとめの集まりになる。三人の講師が、この五年間と自らの、ここを過ぎてからの五年とを重ね合わせて話を聞かせてくれる。事務局を務めた私は、五年分のSeminarの講師とお題とそのキャッチコピーを一覧にする。A4版の用紙に12ページになった。登場した講師は15人。それぞれご自分の関心事を「お題」にして話をする。野球の話しから戦後の建築デザインの移り変わりも取り上げられた。「色の話」もあれば、第九を歌おうというのもあった。なかにはバイオリンの演奏を織り交ぜて、「音楽よもやま話」をしてくれた方もいる。宇宙論やミクロの世界の話しも、どこかで今の私たちの日常と響き合う個所をもっていて、強くひきつけられる。つまり、去年4月から今日までの間に後期高齢者になってしまった人たちの、70歳代の五年間の30日分が、ここに凝縮されている。このように時間を過ごしたことがどんな意味を持ったかと、昔の私なら考えたであろう。だが今は、そんなことはどうでもよい。意味はそれぞれの人の胸中に問うてもらうしかない。場を設営したものとしては、その瞬間瞬間の「思索の旅」が、あるいは「感性の移ろいの旅」が面白かったかどうか。そういう意味で私は、一回一回をできるだけ丁寧に、「Seminarのご報告」というかたちでまとめてきたことが、わが身を振り返る記録になった。だがこれが(まとめてみてはいないが)たぶん、400字詰めの原稿用紙に直したら1000枚を超えるであろう。Seminarをスタートさせるときは、五年間やって、そのあとでまとめて一冊の本にでもしようと、Seminarを提案した友人のHくんと考えていた。だが、それも今は、まとめたければ私がまとめ、私の記録として製本する。そんな程度のことだと、思う。
 
 以後のSeminarはどうするのか。じつは、五年経ってみると、病や家庭の事情などで、顔を出せない人が何人か出来した。ともかく五年間やり通したのだから止めてもいいと思っていたのだが、つづけようとHくんも言うし、会場を手配してくれているSさんも「頑張るから」と継続を希望している。私自身、行き詰まりを感じているわけではない。講師やお題がなくなれば、私がいくらでも提出できるという気分にもなっている。そういうこともあって、「第二期Seminar」としてやることにした。第二期の最初は、私が「人間とは何か」をお題としてやる。第二回はHくんが私と天皇制」と題してやることにしている。ま、ま、こんなものよ。年寄りの「かんけい」ってものは。
 
 あっという間だったよ、五年というのは。次の五年の間に、彼岸にまで行っちゃうんじゃないかとさらに早い時節の進行を思っている。

陽気に歩く初夏の春山

2018-03-29 15:14:38 | 日記
 
 昨日(3/28)は山の会の月例山行。一週間前の21日に設定されていたが、雪の予報に延期していた。延期して正解であったことは、三頭山での遭難騒ぎをみるとわかる。昨日は抜けるような青空。気温も24℃になる予報。上野原駅は、目下改修中、来週の初めから新しい駅前広場が完成するとあって、いつもバス停で山案内するオジサンも「時間があるならぜひ、あちらを観てきなさい」と、強い勧誘。行ってみると、二十メートル以上下方にまだユンボが土を均している。でもこれができると、これまでの狭い北口のバス停の混雑は一挙に解消する。南口の通勤客も、車で送ってもらう必要はなくなり、広場から駅舎までのエレベータに乗ってらくちん。だがこれだけの費用を支出するのは、上野原市にすると、ずいぶん苦労したのではないかと、バスで傍らを通過しながら話しが弾む。
 
 わずか三日ほどで一挙に春がすすんだ。電車の窓から眺める下界はサクラの花が満開。だが一歩バスで山間に入ると、春ははじまったばかりという風情。秋山郷という大きな集落が、秋山川に沿って東から西へと伸びている。バスはカントリークラブや温泉郷があることを紹介しながら、ゆっくりと走る。ところどころで後からついてくる乗用車を先へ行かせる。道幅は狭い。明るい陽ざしが差し込んで、緑と枯れ木の入り混じった山肌が春の兆しを感じさせる。
 
 大地(おおち)はしずかな里山。標識は小学校の所在地を示しているが、児童数はいるのだろうかと口にすると、山の会の人たちが自分の子どものころの小学校に、1時間ちかくかけて歩いて通ったことや、その小学校が今はもう統廃合されて、子どもたちはバスで通っていることを話す。えっ、あなたの故郷はどこ? と話しは広がる。飯能というごく近くの村であったり、石巻という遠方であったりする。話は震災へと転がり、脚は転がることなく、山へと入っていく。歩き始め、9時15分。標高500メートル。
 
 キャンプ場の間を抜けて、さが沢沿いに奥へとすすむ。道は舗装されているが、石や小枝が落ち、雨に流されてきたのであろうスギの枯葉が固まって堆積している。ミソサザイの声がかしましく響く。林道と別れ沢沿いにショートカットする道が、昭文社の地図には破線で、国土地理院の地図には登山道の表示線で記されている。そちらへ分け入る。21日に降った雪はすっかり消え、でも人が歩いた形跡はなく、荒れている。沢の右岸を辿る地理院地図の登山道はなく、左岸を上へとたどる踏み跡はそこそこしっかりしている。しかしそれも、上の方にガードレールが見えたあたりで途絶え、傾斜の急な斜面を力づくで登って、林道に出る。急にカッと陽ざしが差し込むようになった。初夏だねこれは、とkwrさんは心地よさそうにつぶやく。振り返ると、大地峠トンネルの上を通る甚の函山へ上る稜線がくっきりと見える。紫の花をつけたスミレがそちこちに咲いている。
 
 さらに大きな舗装林道に突き当たり、大地峠トンネルの方へ向かう。トンネルは閉鎖されている。冬の間だけなのだろうか。それともこの舗装林道は使われていないのだろうか。トンネル脇からの急登を、先頭のkwrさんは休まず上る。ジグザグの道だが、すぐに「旧大地峠」の標識にたどり着く。10時25分。コースタイムより15分も早い。右へすすむと甚の函山を経て大地へ下る。直進すると、高柄山を経て上野原駅や四方津駅へ降りるルートになる。私たちは左へすすみ、矢平山へ向かう。このルートが地理院地図には記されていない。踏み跡はしっかりしているから、迷うことはないが、いわゆる「登山地図」と地理院地図との違いは、何とかならないものだろうかと、いつも思う。山名表示も、地理院地図は昔のまんま。ほとんど小さなピークの名は記載されていない。
 
 矢平山の山頂860mに着く。今日の最高標点だ。歩きはじめて1時間半。「富士山が見える」と誰かが声を上げ、見ると左の方、丹沢山の山並みの向こうに白い富士山のすがたが葉を落とした木々の間に浮かぶ。昔のガイドブックには「矢平山の山頂は見晴らしがいい」と書いてあったが、書き記した時期より30年も経ってみれば、木が大きく育ち、「展望台」は樹林のなかになる。春先の、木々が葉をつける前だからこうして眺望を得たのだ。
 
 この山頂からは急傾斜の下降になる。ところどころロープが張ってある。それにつかまりながら下っていると、70年輩と思しき方が上ってくる。地元の人なのだろうか。歩きなれた風情でゆっくりと登ってくる。「お元気ですね」と声をかけると、「いや、まあ」と照れ笑いをしてすれ違った。「mrさんが来ていると叱られるところだね」と、珍しく今日不参加の「登山家」の方の名を口にする。と「いや彼女は、強いですよ。どこかの駅の雑踏を歩いたとき、人をかき分けるようにしてさかさかと先へ行ってしまうんですもの。追いつけませんでした」とmsさんが加える。mrさんが腰痛で手術をするか腹筋背筋を鍛えるか迫られているとkwmさんが彼女の近況を説明する。古希を過ぎて年女の彼女の身体歴は、後に続く世代にとっては他人事ではない。
 
 大きく降り再び上って、丸ツヅク山763mに到達する。山名の表示は、ちいさなトタンの板に手書きで標高と一緒に書き付け、木に縛り付けている。丸く大きな山頂からの下り道は、踏み跡をたどる。乾いていて、急な斜面だが歩きやすい。11時半、寺下峠。この先を上がったところでお昼にしましょうと、もう一息の頑張りを促す。kwrさんは少しくたびれてきたのだろうか。傾斜は急だが、足場は悪くない。15分上がったところで「舟山818m」に着く。ちょうど歩きはじめて2時間半。お昼にする。富士山はも応見えない。北も南も、低いところには雲がかかっている。
 
 30分ほどを過ごし、腰を上げる。ここからは稜線伝いなのでmsさんが先導すればいいかと思っていたが、何だか遠慮している。お昼を食べてすぐではペースがつくれないと思っているのだろうか。私が先頭を歩く。相変わらず葉の落ちた木立が続くが、富士山はもう見えない。ヤマザクラだろうか、白い花をつけて楚々としている。鳥屋(トヤ)山に30分ほどで到着。msさんが先導する。けっこうなペースだ。黄色い花をつけた木が枯れ木の間に際立つ。アブラチャンだとどなたかが言う。細野山838mの標識が木立に紐で結び付けられている。お昼を過ぎて歩きはじめてちょうど1時間ほど経っている。「あと10分くらいですか?」とmsさんが口にする。歩くペースは落ちていないが、疲れてきたのだろうか。今度はkwmさんが先行する。彼女のペースはさらに早い。ほんとうに10分で立野峠の標識に出逢う。
 
 この標識は新しく、立派だ。直進すれば倉岳山、左へ行けば「←浜沢40分」とある。上野原市の西の端の無生野まではあと一つのバス停があるところだ。その先は都留市になる。私たちは右へ向かう。「倉岳山水場10分→」「梁川駅1時間10分→」。落ち葉の降りつもってふかふかとしている、歩きやすい道だ。くねくねと曲折しながら標高を下げる。kwrさんが二番手でついて行く。おいおいそう急ぐなよと思うが、私も疲れてきているのだろうか。私の前をmsさんがやはり調子よく降っている。倉岳山水場には、立派な立札が建てられ、位置などの説明と地図をつけ、「富士北麓・東部地域振興局・大月林務環境部」と掲出責任部署名を記している。kwrさんが「大月市になると急に表示が立派になったね」と上野原市との違いを口にする。「あの、南口の整備をやってるから、とても山案内の啓示にまで手が回らないんじゃないの」と応じる。
 
 月尾根沢に沿って降る。何回か沢を渡り、また渡り返す。msさんはときどき歩を止めて、花をのぞき込む。ネコノメソウがある。ハコベの仲間だろうか、小さい白い花をつけているのもある。先頭のkwmさんが立ち止まってしまった。カタクリが咲いている。カメラを構えている。と、その先に幾輪も咲いている。咲き始めというよりも、十分咲いて爛漫という風情だ。快適に下り唐栗橋が見えるあたりでマムシグサの仲間が二輪首をもたげているのが見事であった。14時27分、舗装道路に降りたつ。梁川の駅までの道路沿いには五分咲きくらいの桜が何本も彩を添える。振り返ると、矢平山と、今日歩いた舟山から細野山への稜線がしっかりと見える。いい山だったねえとkwrさんが言い、、まるで初夏の山だったねと付け加える。道端に青紫の輪郭のくっきりした花が咲いている。あとで聞いてみるとツルニチニチソウという外来種だそうだ。
 
 梁川の駅に着いたのは14時45分。今日の行動時間は、ちょうど5時間半。30分のお昼タイムを除くと5時間の歩行。コースタイムは5時間15分だから、高齢者の山歩きとしては上出来だ。駅下のお店でビールを買い、ホームで電車を待つ間に乾杯をした。素敵な初夏の春山であった。

人間とは何か?

2018-03-27 11:43:07 | 日記
 
 今月の「ささらほうさら」の月例会(3/15)は、4人もの人が欠席。骨を折ったり親族の葬儀があったりと、この年になれば思わぬことが出来する。ま、仕方がないよねと済ませればいいが、今回の欠席者のなかに「講師」が含まれていた。前々日になって急遽、「何かやってよ」と依頼が来た。さて何にしようと、溜めおいた「資料」を浚うが、いまひとつピンとこない。ならば今私自身が考えつつある「もんだい」を皆さんに考えてもらおうと提示したテーマが「人間とは何か?」であった。
 
 これまでも何度か「人間とは何か?」と考えたことはあった。だがそれは、ほとんど「動物」との対比であった。「ヒトとして生まれ人間に育つ」という教育の目的を語るときとか、「人間中心主義/ヒューマニズム」のエゴセントリックなモンダイをとりだしてきた。これは人間を特権化して考えると同時に、自然観の違いを浮き彫りにしてきた。もっと先へ論題を延ばせば、欧米と日本との大きな違いを考えることにもなった。
 
 だが今回は違う。AIというデジタル装置の急進展によって2045年には世界の大転換(シンギュラリティ)が起こると予測されている。そのロボット工学の専門家が自分に似せたアンドロイドをつくり(今の段階で)8割方じぶんの(言説的な)代替ができるという状況を背景に「千年後の人間は無機物になるのではないか」と「予言」していることを発端としている。
 
 この専門家・石黒浩(大阪大学教授)は「人間は動物+技術でしょ。いきなりアンドロイドになるというよりも、苦難からの解放と永遠の生命を図る考えかたが、AIの進展によって身体のさまざまな部品を代替できるようになり、千年も経てば有機物から無機物へと変貌を遂げるのではないか」と「予言」して、「あなたはどう考えますか」と(ロボット工学に関心を持つ)学生さんに問いかけている。学生さんたちは(何か変だ)とは思うものの、石黒教授の「人間は動物+技術でしょ」という前提に違和感を感じつつも、有機物である人間が、千年後とは言え無機物になるというのは「解せない」と思っているようであった。
 
 石黒教授の前提をどう受け止めたらいいのか。動物と人間の違いを石黒は「+技術」に置く。つまり、「+技術」という点において、人間は動物と別れ、能力の延長としての飛翔を遂げ、アンドロイド化への道をひた走っているという見立てだ。千年後という時間設定の立論は、途中で舵取りの方向が変わるかもしれないという可能性を含むから、なかなか面白い問題提起だと言える。私はすでにこのブログの先月のそちこちでこの問題には答えて、「有機物でいたい」と記している。だが、それは有機物と無機物という対比のモンダイではなく、ある種の自然観を前提にした「人間概念」の洗い直しを求めているように見える。
 
 「人間概念の洗い直し」とは、どういうことか。
 
 「ヒトとして生まれ人間になる」というのは、動物として誕生し、教育を受け文化を身につけることによって人間になるという、予後の教育の必要性を説く言説の出発点におかれた概念である。だがこれは、動物=生来的に(生き方が)本能に書き込まれていることを指している。ところが人間も、言葉を用いて集団的に生活圏を築き、大自然の資源を争って取り合いながら暮らしを立てているという意味では、動物と変わらない。その延長上に、思いもよらぬ自然の改変が可能になり、それ(自らのつくりだしたAIという無機物)によって脅かされはじめるところに至った。そういうことではないか。
 
 石黒教授のいうように、有機物と無機物という対比をすれば、千年後に「永遠の生命を手に入れて」無機物となることは、有機的生命体としての人類の絶滅である。でも、無機物になっても、人智の究極的な創造物としてそれに希望を託すと考えれば、人類史の弁証法的発展ととらえることもできる。思わぬ有機的人類史の最期を迎えるわけだが、未来ヘーゲルはこれを、昇華した絶対精神の実現と言祝ぐかもしれない。
 
 面白い。そうした次元を変えた「人間論」ができるようになるとは、思いもよらなかった。しかも、眼前の有機物である樹木がまだ生きている間にそうした世界が出来するなんて、神もなかなか味なことをやるものだ。人類は滅び、有機的生命体としての動物たちは生きのびる。新しい無機物人類は、資源を求めて火星や木星にフロンティア開拓を始める。地球はまるごと動物園になり、無機物人類は「何が面白いんかね」と言いながら、博物館としての地球を宇宙歴史遺産として保存するという時代がやってくるかもしれない。その中に一カ所「有機的生命体・旧人類」という区画が設けられているかもしれないが、そこで「人間」になる教育なんて行われているのだろうか。猿の惑星以上に、動物化した人類が生息するように仕向けられているかもしれないね、「新人類」によって。

わたしは保守化したのか?

2018-03-26 17:01:30 | 日記
 
 先日大学時代のサークル仲間と会う機会があった。鳥取や浜松からも駆けつけ、なかには卒業以来52年ぶりという人もいた。私より一つ年上の方が仕事から身を引いてボランティアをしている公園を散策し、夕方になって会食をした。1960年代の前半、サークル時代にわりと親密に過ごした(近い)世代の人たちだったせいで、近況もうちとけて話しが弾んだ。私のなかでは半世紀以上の時空が溶け合って眼前に浮かんでくるようであった。皆、古稀を超えている。
 
 今年喜寿を迎えるOさんは、若いころから悪い片方の目がほとんど見えなくなっているのに、国会へのデモに行っていると話す。貧者の一灯を掲げ続けるという風情の彼は、若いころから弱い者の味方をする気質を持ち、理系の専門家ということもあってか単純素朴こそ真理に近いを旨とする性分をもっていた。学生のころ半年ばかり彼と下宿をともにしたこともあって、数年に一度くらいのペースで顔を合わせてはいたから、飄々として衰えない彼の気力に私は安堵を覚えていた。
 
 Bさんは私と同期。日本の歴史を専門とし、仕事をリタイヤして以来、旧家の古文書を読み解く研究会を持ち、その会報を年に4回ほど刊行していると、最近号をくれた。57号である。その冊子の編集スタイルと言い、体裁と言い、学生の頃のサークル活動の様子を彷彿とさせる。もちろん当時は活版印刷であり、彼の手ずからなるはガリ刷りであったが、パソコンに置き換えて相も変わらずだなとうれしくなる。それとともに、彼の風貌も、後期高齢者の顔から若いころのそれへと変わってくるように思うのは、私の脳内幻想が時計を巻き戻しているようであった。
 
 Mkさんは長く新聞記者というマスメディアに努め、退職後に老人ホームなどの創設と経営に携わっていたが、それもやめて今は緑地公園のボランティアをしている。やはり今年喜寿を迎える。彼の案内してくれた古民家の一番古いのが、1687年の建築という。いまから350年も昔のもの。修復修築という手を入れてはあるが、今のように築後50年もすれば立て直しというのと違って、古材を使えるだけ使う。その(精神の)響きが私たちの育ったころ身につけた感性にマッチする。彼は「江戸の空気に触れている」と感懐を話していたが、そう言えば私たちの成人した1960年代初頭にはまだ、江戸の風景がそこここに残っていた。高度経済成長期に一挙に、風景が変わっていったと国土地理院の編年の地図を用いて記していた本もあった。私たちの体そのものが江戸の気風を受け継いでいる。そんなことを考えながら、Mさんの一歩引いて物事を見つめる気配に、若いころとの一貫性を感じて、ひとって変わらないものだと思ったりした。
 
 Mrさんは浜松から駆けつけた。私の三年後輩。実に52年ぶりの再開である。芸術学科にいた彼が卒業後に自動車のデザインをしていたというのは初耳であった。彼が入会したとき、サークルで私と同期のMrtとが激しく議論していて驚いたという。私はすっかり忘れていたのを思い出した。そうだ、当時私は「文化状況論」に夢中になり、農業化学を専攻していたMrtは当時興隆していたサイバネティクス論を政治論に結びつけて意気軒昂であった。何をどう論じ合っていたか、おぼろげな印象しか残っていないが、もし当時の論議をきちんと採録して残していれば、今の私との距離を測るのに役に立ったかもしれない。Mrtは50歳代の半ばに脳梗塞を患い、しかし見事に復帰して教壇に立っていると、復活した本人から聞いた。そうして十年余を経て亡くなったと彼の連れ合いから知らせを受け取ったのではなかったか。もうぼんやりと鬼籍の彼方に溶け込みはじめている。
 
 鳥取からやってきたHさんは2年後輩。土壌と農学の研究者。大学の修士課程を終えさらに何年も就職口がなく、付属高校の非常勤講師をして口を糊していた。そして30歳で大学に仕事を得て鳥取に移り住んでもう43年になるか。メキシコに学生を連れて行って「実習」を行うのが楽しかったと話す。現地集合・現地解散でやると、学生たちの変わりようが目に見えてきて、これほど意味のある「実習」はないと感じたそうだ。だが、もし途中で事故でもあったらだれが責任をとるのだと親が詰め寄って、その後は教師が引率するようになったと笑う。そのHさんのセンスこそ、60年代の私たちの年代が共有していた「自律の精神」ではなかったかと私は思いながら聞いた。
 
 近況を話し始める前であったろうか、Kさんが「まだしていない人もいるでしょうから」と署名用紙を回し始めた。「憲法九条を守る」と銘打っている。新聞の全面広告へのカンパもしてほしいという。一番最初に近況を話したOさんの前だったように、それから三日たって今想いうかべている。あまり皆さんに違和感がなかったので私はつい、「九条にしても、半世紀前と同じ心もちで守るというのとは違う深まりをしていないと、おかしいのではないか。大澤真幸や柄谷行人らの国際関係への提案などをどう考えているのだろうか」と、誰にともなく質したくなった。私は「身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ」という覚悟という、存在論的な哲学的根拠に脚を届かせているかを聞いて見たかった。しかし一年先輩の、ジャーナリストであったMさんが大澤真幸の名前を初耳のように聞いているのをみて、私の問いが場違いだと感じて、話しをそこで止めた。Oさんの話は、だからその問いに対する彼の応えのように感じられ、それはそれで確かな彼の立ち位置を感じさせたのであった。
 
 というのは、最期のほうでKさんが「皆さん保守化したというか、右傾化したというか、変わってしまって」と近況を話したので、ああこれは、先ほどの私の発言に対する彼女なりの応え方なんだと受け止めたからだ。Kさんは米文学の研究者として大学で教鞭をとり、人とのかかわりを大事にして過ごしてきた方。Hさんと同じく2年後輩。その当時の女性たちと今でもときどき会うネットワークを持っている。彼女に言わせると、「九条を護る」という言葉に違和感を覚えるのは、「保守化したか、右傾化した」のである。そうか、私は保守化したのか。右傾化したのか。そう考えると、そうかなあと自問自答が、内心にあぶくのように浮かび上がってくる。
 
 60年代はみな左翼であったと田原総一郎もいっているが、(当時)知的であるとは左翼を意味したと私は常々考えてきた。Kさんはその枠組みを(今でも)保持しながら、保守化した、右傾化したと言っているのだろうか。私の思索内部では、とっくに左翼―右翼という構図も、保守―革新という対立も、左傾化―右傾化という絵柄も揮発してしまった。「にんげん」や「しゃかい」に対する認識が深まり、そこに「じぶん」を位置づけることが明確に行われるにつれ、「じぶん」の輪郭が描き出されてくる。それとともに、「せかい」が浮き彫りになる。と同時に、「せかい」の向こうに無明の闇が広がっているように見える。もちろん「無無明尽」といように、無明をわかりつくすということもないとわかる(ように直感する)。そのように「じぶん」の輪郭が描きとれるとは、「じぶん」(のよって立つ根拠)が明らかになるにつれ、ますます闇が深くなることを、「保守化」というのであろうか。「右傾化」とは自らへの視線を持った思考の先にある概念とは、とうてい思えない。Kさんのいうのは、政治的次元の賛否の対立構図に限定しての、慨嘆なのであろう。
 
 でもそれは、私たちが若いころから志してきたことなのか? 先ほど私は、Mrtとの論議のときに「文化状況論」に関心を傾けていたといった。サイバネティクス論を政治論と結びつけるMrtの人間論に、操作的な人間像を感じとっていたからではないかと、いまなら言葉を紡ぐことができる。もちろん当時は、そのような発想も表現も持つことがなかったから、Mrtとの論争は、謂うならば私の「じぶん」との戦いの切歯扼腕が表出したものにほかならなかった(と未熟な当時の己を思う)。
 
 せっかく半世紀ぶりにあって、歩み来たりし距離の違いを照らし出してみるというのも面白いと感じているが、同時に、昔のまゝに社会や政治の構図をとらえて「じぶん」を位置づけているのでは、歳をとった意味がないではないかと問いかけたくなったりする。そんな「文化との戦い」を感じたひとときでした。

早春の道志山塊

2018-03-25 10:27:57 | 日記
 
 降り立った上野原駅は登山客でごった返していた。土曜日だ。駅舎を出会たところの狭い広場は各所へ向かうバスが四台も止まっている。60年配の男性が登山者にどこへ登るのかねと訊ね、地図を手渡して山の様子を話しながら、バスを指し示す。乗客を乗せてつぎつぎとバスが出発すると、間もなく、次のバスがやってくる。私が乗るのは上野原市秋山郷の先へ向かう。中央線の東西に走る線路の南側、道志村の南に峰を連ねる丹沢山塊との間にある、標高1000メートルに満たない山並みに登ろうというのである。この山並みを道志山塊と呼んでいいのかどうか、正確には知らないが、西へ行くと三つ岳につながる。たくさんの登山客を集めている中央線の北側は「高尾・陣馬」。人気の領域である。それに比して南側の道志山塊は、静かなたたずまいを残している。無生野行きのバスに乗ったのもわずか五人。私と一組の、合計3人がリュックを背負っている。
 
 バスは大型。道はどんどん狭くなり、ところによってはバス一台が道一杯になって通る。と思うと、二車線になる。たぶん地域の事情と行政の都合がまだら模様の道路にしてしまったのであろう。奥に行っても、民家がずいぶんある。遠方の山が枯れ木の間に雪をためているのがわかる。まだ解けていないのだ。キブシが垂れ下がって春を告げる。街では桜が満開と浮かれているが、こちらはやっとウメが咲きそろいモモやハナモモが花をつけている。ちょうど40分乗って大地に着く。標高は約500メートル。 
 
 降りて気づいた。今日は私の記録装置、カメラを忘れてきた。このルート、じつは21日に登る予定にしていたが、天気が荒れるというので一週間先に延ばした。その21日に大雪になった。三頭山では遭難騒ぎもあった。その翌日から気温は上がったが、果たして山はどうなっているのか、気になって下見に来たというわけだ。9時15分、歩きはじめる。さがざわキャンプ場を抜けて舗装林道を上る。舗装が切れるあたりで沢に沿って上る破線のルートが昭文社地図には記されている。国土地理院の地図ではルートが途切れている。大雪のせいかどうかはわからないが、沢沿いのルートは、踏みこみ場所もわからないほど荒れている。でも下見だからと、そちらへ踏み込む。灌木が倒れ、道を塞ぐ。かろうじて人が歩いたと思われる形跡を探してすすむ。積もった雪が邪魔をして沢へ滑り落ちそうになる。上の方に林道のガードレールが見えてくる。でもそちらに上がる踏み跡らしきものはない。急な斜面を強引に登る。上について考えたが、(たぶん)それが正解であった。それ以外に道路に上がる場所はなかった。
 
 林道が舗装された立派な舗装車道と合流する。大地峠トンネルの方へ向かう。トンネルは閉鎖されている。その脇から旧大地峠への急な上りがある。10分ほどで旧大地峠に着く。大地を出てからちょうど、昭文社のコースタイムほどかかっている。東の高柄山へ向かうルートと西の矢平山へ向かうルートの分岐にあたる。すぐ近くの甚の函山は大地トンネルの上のピークだ。西へ向かう。快適な上り。ところどころ雪は残るが、足場も悪くない。20分で矢平山860mに着く。どこかで見たガイドブックには「展望が良い」と書かれていたが、枯れ木越しに見る丹沢山塊の山々は「良い」というほどではない。山頂の木々が大きく育ってしまったのだろうか。雪が山頂を覆う。溶けてぐずぐずになっている。こちらに来る踏み跡は昨日のものだろうか。ここからの下りがなかなか急峻。ロープを張ってある。斜面に雪は残っておらず、降りに危なっかしさはない。標高差で100メートルほど下り、また登る。丸ツヅク山763メートルの山頂の雪は矢平山よりももっと多く、踏み跡は残っていない。どうしてなのだろうか。後で分かったが、この山頂をエスケープする巻道があった。丸ツヅク山はちょうど小高く盛り上がっていて、踏み跡がない上に雪が積もっているから、どちらの方へ向かうかわからない。これが急な斜面。赤いテープがちらりと見えたので、それを辿る。少し下ったところから、ルートらしい雪の積もり具合がみえ、ほどなく巻道の合流点に出逢う。
 
 下の方から50年配の男が二人登ってくる。どちらへ? 高柄山を経て上野原までと先頭の男が応じる。梁川駅から? と尋ねると鳥沢駅からだという。とすると、倉岳山を経てきている。これは早い。彼のルートはたぶん十時間ほどのコースではないだろうか。すごいですねと言うと、にこりと笑う。いかにも山が好きだという顔つきが滲み出ている。後ろの男はハアハアと息切れしそうで、声も出さない。今日出会ったのは、この一組の外は8名の団体さんだけ。静かな山だ。
 
 寺下峠に着く。地図のコースタイムより30分ばかり早い。じつは私にとってひと月ぶりの山。二月の山行以来、デスクワークと香港の旅とがあって、山から遠ざかっている。はたして5時間55分歩けるか、心配していた。もしくたびれるようなら、この寺下峠から下山するエスケープルートを辿ろうと考えていた。だがこの調子ならまだ大丈夫だ。立野峠へ向かう斜面を登る。舟山818メートルについて時刻をみると、11時45分。お昼だ。平らな山頂の雪はまばら。陽ざしのあるところに腰を下ろして、お昼を開ける。風はないが、肌寒い。雨着の上を出して羽織る。
 
 再び歩きはじめたのは12時ちょうど。麓の村のお昼を告げるチャイムが鳴っていたので、時計を見た。表湖800メートルの稜線を快適に歩く。急な斜面はない。立野峠に13時10分。出発してから4時間ほど。あと1時間余で駅に着く。そう思ったが、雪が残る谷筋の道は滑りやすく手ごわい。ただ、道は緩やかに谷筋に沿って降る快適な下り。ときどき沢を渡る。ストックを持っているので、石を伝ってひょいひょいとすすむ。水は多い。雨のせいか、雪解けのせいか。コースタイム50分のところを53分かかる。下半分は雪もなかったのに。でもまあ、このくらいなら、久々の山だから許してやろうと、思う。駅に着いたのは14時17分。コースタイムより3分早かっただけ。出発してから5時間2分。早春の気配が色濃く残る道志山塊であった。