mukan's blog

つれづれなるままに ひぐらしPCにむかいて

21世紀2合目の2月の自粛

2021-02-28 11:08:04 | 日記

 早いものだ。もう2月が終わる。今月は埼玉県内の山、三座をうろついた。うち二座は同行者がいた。ありがたいことだ。三座とも、軽いハイキング。春模様の暖かい陽ざしの中を、気持ちよく歩く。アプローチに車をつかうのが2時間以内というので考えると、三峰口の先まで足を延ばすのはムツカシイ。すると、たいていの山は二度目、三度目ということになる。そういうわけで、「奥武蔵・秩父」の地図を傍らにおいて、さて来週は何処へ行こうかと思案する。ま、これも楽しみのうちだし、幸か不幸か、むかし登ったルートはほぼ忘れているし、季節も違うだろうし、歩いている途中の関心の向け方も変わってくるから、新鮮さは変わらずについてくる。
 山には(健康上の理由で)登れない私の友人が、「(今登る山の)テーマは何?」尋ねたことがある。そうか、日本百名山踏破とか、二百名山とか、山梨百名山とか、栃木百名山とか、群馬百名山というのも、それぞれの県の観光協会か何かが設定しているようだから、それを制覇するっていうのも、テーマになるかもしれない(埼玉百名山というのは、なぜか、ネット検索をしても、ない)。ただ単に、目標設定を社会的な評判に基づいて行おうとする気分にすぎない。もちろん社会的評判は、それなりに踏破することの困難さなどの評価がついていたりする。つまり外的な価値づけに、わが身を合わせて「○○百名山を踏破した」とか「○○山を何百回登った」という上着を被りたいのかもしれない。しかし後期高齢者になっては、そんな外套は、もう、いらない。
 そういう山歩きを「ピークハンター」と名づけたりもする。しかしそれは、たいてい蔑称というか、山歩きの邪道だと私は受け止めている。次元を変えて、山歩きをする衝動の本筋をみると、山歩きそのものがある種の「瞑想」気分に誘うところにある。それが、病みつきになって、ついつい毎週のように登らないと落ち着かない気分が湧いてくる。別様にいえば、生活習慣病である。この心の習慣が、齢をとってみると、健康であることと結びついていてご推奨ってことになり、「お元気ですね」と周りもちやほやするから、ますます調子に乗って家を出ていくってことになる。ああそうか、周りの目がわが身の在り様を定めてくれるというのも、外套のようなものか。
 例えば三浦雄一郎さん。80歳でエベレストに挑戦したときには、いろんな評価が飛び交った。そのお歳でチャレンジ精神が凄いというのもあれば、援助・介助の人たちがずいぶんいて、お金も掛けている。あれは迷惑登山だと批判的な声もあった。いいじゃないか、あれがあの人の山歩きなんだよと、批判的な意見を言う山友に、私は私見を述べたこともあった。だが最近、井戸端週刊誌の見出しに、「三浦雄一郎91歳でエベレストに意欲」とあったのを目にしたとき、ああ、この人はエベレスト病に取付かれて、山歩きの本質が見えなくなっていると思った。つまり外套に気をとられて、自身の内側の声を聴きとれないのだ。というか、自分の内側まで外套が覆ってしまっていると言おうか。ま、それほどにヒトというのは、外套に目をくらまされやすいとも言えようか。
 散歩のように毎日歩くには、山里に本拠を置いておくのがよいが、そうは自在に暮らせない。おのずと、山に入らない日は、住宅街をうろつくしかなくなる。ところがさいたま市の場合、関東平野のほぼ真ん中。高低差はせいぜい20メートルもあればいい方だ。そこへもってきて、いたるところが舗装され、階段が整備され、橋が掛けられて、歩くのに障りにならないように「社会的整備」がなされている。道路管理者が、事故が起こらないように、障碍者が通行するのに不自由がないようにと至れり尽くせりの手当てをするから、足元に気を集中し、地面の起伏や傾き、木の根や岩のごつごつが体の傾きを支えるのに、どう作用するか、そこを通過するわが体の重心移動がどう運びつつあるか、そういうことに夢中になるあまり、「瞑想」が起こることが、ない。つまり平地の住宅街を歩くのは、いかに長時間歩いても、山歩きとは次元が違う。それほどに、現代の都市生活はヒトを手名付けて体を根底から変えてしまっていっている。
 いや、ヒトがそう変わることを良いとか悪いとか言っているのではない。だが、山歩きの「瞑想気分」を平地の街歩きで味わおうということはできない。そう言いたいのだが、かといって山さとに引っ越すほど暮らし方を変える元気がない。私が味わえなかった暮らし方を、山さと暮らしの方々は日々味わっているのだと、うらやむばかりである。
 21世紀の2合目がはじまって二月が過ぎた。2月というのが、この後何回私にあるのかわからないが、果たして3合目までたどり着けるかどうか。カミサンは「外套も着てみると悪くないわよ」と、日本百名山を8つほど残す私を、けしかけている。私の体力が、残る百名山に適応できるかどうか推し測っているのかもしれない。自粛ばかりではなくなれば、コロナ感染に用心して、県外へ出かけてみたいという気分にもなっている。ぼちぼち、今年の4月から11月ころまでの山計画でもたてるか。


関わりにおいて密、交わりにおいて疎

2021-02-27 11:21:28 | 日記

 映画「ボヘミアン・ラプソディ」が再上映されているというので、観に行った。1年半ほど前上映館は、人で一杯であった。その少し後、私の高校の同期生が「私の人生に寄り添ってくれたメロディ」と題したSeminarの掉尾を飾る話しとして「ボヘミアンラプソディの秘密」を供した。Mama just killed a manにはじまる原曲の歌詞を紹介し、フレディの身を置いた境遇に思いを馳せ、詩句の語りを人類の終焉と重ね合わせて受取り、「自分が自分を殺す歌だ」と解説を加えてから、自らヴァイオリンを弾いて聴かせてくれた。再上映館は、ドルビーシステムを整えている館であった。文字通り「自分が自分を殺す歌」の響きをはらわたに沁みるように(空席の多いなかで)、全身で感じてきた。フレディがピアノの前に座り、いくつか鍵を叩いてから、Mama just killed a manと声を放ったとき、思わず涙がこぼれて止まらなくなっていた。
 映画そのものはロックバンド・クイーンの物語なのだが、収録した曲の音はすべてクイーンの演奏をつかっていると評判であった。その音が、己の人生を謳いあげること一筋に生きた(私たちより4歳若い)男の人生として、「寄り添っている」ように感じたのは、同時代を生きたという感触なのであろうか、その(揺れ動きも含めて)ひたすらな一筋に、わが人生を重ねてみているからなのか。重ねていると言っても、私たちはごく平凡な市井の民として年を経てきたから、フレディの在り様そのものは、わが人生の反照ともいえるものであったが。
 音というのが、身に直に響いて伝えてくるものを強く感じている。ことばにすることをためらうほどの、密度をもってわが内腑に落ちていく。
 そしていま、似たような響きを伝える小説を読み終わった。青山文平『跳ぶ男』(文藝春秋、2019年)。音ではない。言葉を紡いだ作品だが、内腑に落ちていく密度が、同じように濃厚であり、私の現在に接着して、かつ、批判的である。
 音ではないが、能舞台における所作・振る舞いをことばできっちりと分けていく。その綿密さと子細に届く視線が、読み手の姿勢をきりりと引き締める。そんな思いが生まれて来る小説であった。
《定まった型から外れる所作をすれば、それは能ではなくなる。初めから終いまで、能役者は型をつないで舞い切る。能に、「興に乗じて」はない。》
 そのように5歳のころから教わってきた男が15歳から17歳になるまでのお話しであるが、死を覚悟して自らが育った「くに」の先々を切り拓く物語である。この男も、フレディ同様に、能一筋に生き、そこに自らの人生のすべてを投入する。その見切りと漂わせる佇まいの峻烈さが、わが身の現在に批判的に立ち現れるのである。
 能というのが、死者と現世とをつなぐ展開をすることはよく知られている。お面をかぶるというのも演者の個体から雑味を取り去る仕掛けの一つという。それも、役者の勝手を許さない所作のカマエやハコビの子細を読みすすめると、ふだん歩いている己の歩き方がどこまで地面との緊張感を保っているかを問われていると思えて、手に汗がにじむ。
 かほどの厳しく己を御してきたか。いや、そういう、程度のモンダイではない。彼の人のように己自身を見つめて来たかという次元の違いを突き付けられていると感じる。もちろん舞台となっている時代の大きな差異もあろう。人が生きるという、ただそれだけのことに、これほどの厳しい舞台設定を考えたことがあるか。そう思うだけで、ちゃらんぽらんに生きて来たわが身が、いかに人類史のごくごく一部だけをかじってきたにすぎないか、感じられる。
 ま、この齢になってそう気づいただけでも、良しとするかという慰めしかことばにならない。青山文平の紡ぎだした言葉の、鮮烈に印象に残ったことば。「関わりにおいて密、交わりにおいて疎」。このことばの、彼岸からみた此岸への批判的な味わいを、心にとどめておきたいと思った。


軍事政権は武家政権

2021-02-26 20:05:18 | 日記

 ミャンマーのクーデターを、軍事政権側は「クーデターではない」と言っているそうだ。合法的な手続きを踏んでいると説明し、「クーデター」と報道するメディアの記者を逮捕しているという。なんだ、これは? 
 ふと、思い当たったのは、彼らは武家政権のイメージを引きずっているのだ、ということ。考えてみれば、タイもそうだ。王政ということもあるが、軍部が政治を司るってセンスは、そういえば歴史過程の一つとして、つい75年ほど前まで日本も経験してきたことであった。現代中国の共産党独裁だって、軍を所有・掌握しているのは共産党という独裁権力だ。でもこれは、軍部が政治を司っているわけではないから、武家政権とは異なる。
 こうも言えようか。国家として社会を統一する過程は、暴力装置を背景にしていなくてはならない。なぜ、暴力装置が政治を司ることが可能なのか?
 社会の統一というのは、有無を言わさないことだからではないか。そもそも統一ということ自体が、本来ばらばらであるものをひとつにまとめる「暴力的」なことにほかならない。有無を言わせぬということは、「統治」の意味や目的という「理屈」を許さない。ダメなものはダメというのと同じ、原初的な「定理」だからである。そのような「定理」を定理たらしめているのは、暴力的な力である。
 だが「定理」が暴力だけに基盤を置くと考えるのは、いかにも訝しい。それでは「統一」ではなくて「征服」・「平定」にすぎない。つまり「統一という定理」には、人の社会の結束には、暴力支配に対する恐怖だけではない、(社会を構成する人々の)集団性の情念が大いに作用しているからだ。しかもそれが、集団の構成員にも十分感知されているからにほかならない。だから、暴力的に強い(だけの)ものが支配することを「正統/正当」とはみなさず、神による信託とか、血統の正統性とか、法治の支配とか、多数の支持による民主的代議制という物語を作り出す必要があったのである。
 この物語の推移を生成的に、歴史的にたどってみると、暴力性を後背に押しやり、道義や法や文化的な統治の理由が前面に押し出されてきていることがわかる。部族や氏族という近縁者による社会的関係を、見知らぬ者にとってもそれなりに関係を取り結ぶことができる、集団性の情念のなかの公平性とか公正性がうかびあがってきたとも言える。近代的な法の支配とか、選挙を通じての民衆の支持を得た政権が(後景に退いた暴力性を)掌握する文民統治へ向かってきた。つまり、近代法の支配というのは、歴史的な所産としては、力のあるものが思うままに力を揮う統治権力を規制する「法」というベクトルを意味していたのである。
 つい去年まで日本国家の統治をしていた「安倍政権」を想い起してもらうとわかりやすいが、彼の政権では、「法」を「人民が従うべき規範」と上から下への「規制」と切り換えた。国家権力を規制する「法の支配」を排除してしまった。こうして、歴史的正統性を、かなぐり捨てたのであった。
 むろん、そのような仕儀に相成ったのは、世界最強国のトランプ的振舞いが寄与している。というか、それと同様の、#ミー・トゥー精神がもたらしたものと言える。だからトランプに先んじているのだが、恥ずかしげもなくそれが横行するのは、やはり国際的な剥き出しの利権優先精神が露わになってからであったといえる。
 ミャンマーは、武家政権のセンスを強く残している。欧米的な、あるいは第二次大戦後的な民主主義の流れに震撼しながら、崩壊していく武家政権を何とか立て直そうと、クーデターを起こしたといえる。だがそれは、ミャンマーという国が、「鎖国」的な閉鎖性を保ち続けていなければ、持続しえない国家体制だといえる。
 江戸は遠くないのである。


春らしい散歩道――顔振峠と越上山

2021-02-25 09:38:53 | 日記

 日高町の日和田山から北の横瀬町丸山へ連なる山並みの中央部運にある顔振峠を抜ける足慣らしに行きませんかと、山の会の人たちに声を掛けた。緊急事態宣言下、県知事が県境を越えないでと呼びかけているのに応えて、今年初めから週1の山歩きを県内に絞って歩いている。東吾野駅に車をおいて、ユガテを経て稜線に上がり、一本杉峠、越上山、顔振峠、傘杉峠、関八州見晴台を経て西吾野駅に下るルートを歩く予定にしていた。東吾野駅の駐車場は、「事前予約制」。前日に電話を入れればいいだろうと思っていたら、「休日・祭日は受け付けていません」というのにぶつかってしまった。2/23は去年から休日になってしまったのを、すっかり忘れていたのだ。他の参加者はいないから、歩くコースを変えた。
 そこで昨日(2/24)は、黒山三滝から傘杉峠に登り稜線を南へ向かう。顔振峠から越上山を経て、一本杉峠から鼻曲山に近寄ってから黒山の方へ下山するという周回コースに変えた。東吾野からの行程を知った山の会のkwmさんが最近歩いたコースとして紹介してくれたのだ。4時間25分の行程。
 朝陽の差し込まない黒山三滝入口の越生町営無料駐車場には、1台車が止まっていただけ。8時半、歩き始める。黒山三滝は観光地。古くからの食堂などが軒を連ねる。ヤマメやイワナの養殖もしているのか、「三滝へ行く前に予約して帰りに焼き上がりを召し上がれ」と手書きの看板が据えられている。滝の水量は少なくはない。雪があるわけでもないのに、この水は何処から来ているのだろう。
 登山道に入るところに「この先崩落個所があるので入山しないでください。越生町産業観光課」の掲示を吊るした紐が張ってある。えっ? じゃあどこを通ればいいんだと、見廻すが他に通る道はない。お役所仕事だ。こうやって注意書きをしてあるんだから、事故があっても町には責任はありませんよと言い訳をしている。こういうことをやるから、人々はますます行政を信用しなくなる。もし書くなら「崩落個所があります。修理ができていません。自己責任で注意して入山してください」とでも書けばいい。
 実際、沢を何回か渡り返す箇所が何カ所か荒れてはいる。通れないほどではない。一カ所、沢の上の方の左岸が崩れて、ここは通行不能になっている。古いルートが左岸にあったのかもしれない。しかし今は右岸に踏み跡がしっかりついている。ハシゴも掛けてあるから、おととしの台風のせいというよりも、もっと前の崩落かもしれない。
 意外だったのは、1時間で傘杉峠にでたこと。コースタイムでは2時間のはず。どうしたことだ。南北に走る舗装車道に、ゴミ収集車がやってくる。傍らの看板には「大火に悩まされた江戸へ木材を供給するため造林を行い、江戸の西の方の川から運ばれてくるので西川材と呼ばれた」と説明している。そう言えば今、青梅や足利で山火事が燃え盛っているんじゃなかったか。
 すぐに舗装車道を離れて、山道に入る。いかにも奥武蔵の山道らしく、岩と木の根が剥き出しになって凸凹している。標高622m地点に着く。地点表示はない。スマホのGPSがポイントを示している。今日の標高最高地点だ。5分ほどでまた、舗装車道に出る。道の脇下に立派な建物がある。洋食のレストランらしい。「本日休業」と道路に掲示板が置いてある。おっ、富士山が見える。手前の奥多摩の山並みの向こうから、でえだらぼっちのように頭を出して、陽ざしに輝いている。そうか、今日は風が強いからきれいに見えるんだ。
 大きな桜の木が3本、斜面に並び、花を咲かせている。いまが満開と言ってもいいような綻びようだ。日当たりのいい南西斜面だからか。わが家のご近所にある公園のカワヅザクラほど色が濃くない。早いねえと目を道下に転ずると、白梅がこれも勢いがよい。前方の家の壁には「平九郎茶屋」と大書してある。ああ、ここが、今流行りの「渋沢栄一」と縁のあった渋沢平九郎由来の茶屋か。顔振峠だ。10時。
 茶屋の女将が店の前を掃除している。なんでも150年前頃に飯能戦争と呼ばれる幕府軍の残党と薩長軍との衝突があり、幕府軍の渋沢平九郎が逃げてきて、ここの茶屋で一休みしたという話。へえ、その頃からここで茶屋をやってたの? と訊くと、私より少し年上に見える女将は、この地の生まれ育ち。高祖母に当たるのであろうか、おばあちゃんが、この平九郎さんと言葉を交わし、この前の道を下って黒川で自刃した。それで、そのころから誰いうともなく「平九郎茶屋」って呼ぶようになった。そう、TVのひとがきてね、大騒ぎでした。ええ、ええ、この幟旗は平九郎さんゆかりの方がつくってくださったんですよ、と笑う。黒川へ抜ける峠道も荒れててね、治してくれと頼んできたけど、ほら、この車道があるからと構ってもらえなかったと、残念そうであった。いかに、江戸へ供給する材木の切り出しで人の往来が多かったかを思わせる。「賊軍」の侍の名を冠するのを公にするには、だいぶ年月が経たねばならなかったであろうに。だがいま、茶屋の前には新しい立派な石碑が茶屋の女将の名で建てられ、渋沢平九郎の関わる「飯能戦争」のことが記されている。一挙に名士になっちゃった平九郎さん。NHKの大河ドラマが、日陰から引き出してくれたってわけだ。
 この先で、コープのデリバリーをしている車が止まっていて、高台上の家から発泡スチロールの荷物の空き箱を担いで降りてきた若い人がいた。「こんなところへも配達するの?」と声をかけると、「ハイ、週に1回ですけど、配達しています」と応えてくれた。たいへんだねえ、ご苦労様。
 10分ほど先で車道と分かれ、山道に入る。杉林が手入れされて続き、木漏れ日が差し込んで心地よい。「天神社」と表示した小さな祠の先に、大きな社がある。観ると枕木は5本、千木の先端は垂直に断ち切られ、ちょうど伊勢神宮の外宮の趣。「諏訪大神」と扁額に記す正面にまわると拝殿の脇に「参拝なさる時はマスクを着用してください」と掲示してある。いかにもコロナ禍の神社だ。私は裏手から境内に入り込んだ格好だね。拝殿から石段を下って鳥居をくぐると、広い広場があり、その階のところから、山道へまた入る。
 小さな板に「ここは500m、スカイツリーは634m。今日は見えるかな」と書いてある。おや、ここから見えるのかと杉の林の、ずうっと向こうに目をやる。おお、見える、見える。新宿の林立する高層ビルの左の方に、より高く、すっくと細身をみせているのはスカイツリーだ。ここは風当たりがないが、風が強くて良かったねえと、青梅・足利の山火事のことを忘れて喜ぶ。
 ユガテへの道と分かれて越上山566mに向かう。大きな岩が積み重なるルートを越えると、山頂。木々に囲まれ展望はない。抜ける道もない。引き返す。ふたたびユガテへの道をたどる。このルートから一本杉峠への道がメイン踏路に記されていない。地理院地図の屈曲の分岐点に注意しながらすすむと、標識がおいてあった。「鼻曲山」は地図にあるが、「桂木観音」がどこにあるのかわからない。下山地の「笹郷」への分岐がわかるかどうか心配であった。一本杉は大きな木であったが、手入れはされておらず、樹の下の方の枝がにょきにょきと自己主張している。
 一本杉から10分ほどで「←黒川・鼻曲山↑・一本杉峠→」の表示看板があった。鼻曲山はルートの北に位置している。その山が見えるところまでいってみようと脚を延ばす。「これより先 岩場危険」と表示看板があり、大きな岩が立ち塞がる。面白そうな道だ。岩の向こうへ乗越してみる。さらに岩が積み重なる細い尾根がつづき、まったく眺望はない。引き返していると、一人登山者がやってくる。聞くと鼻曲山から向こうへ抜けるという。私が笹郷へ下ろうと思っていると話すと、分岐があって、その先沢に沿って降るが、道が不明瞭だから気を付けてという。地元の人か。この地のことをよく知っている様子だ。
 先ほどの分岐に戻り、下りにかかる。なるほど、草が繁茂し、折れた木の小枝が踏路を塞ぎ、歩きにくい。だが、5分も行くと舗装林道に出た。地図ではこの先、舗装林道を歩くほかに道はない。ストックをたたみ、人も車も通らない静かな林道を下る。やがて顔振峠から下ってくる車道に合流し、黒川へ向かう。「木曾の合掌造り100m先左」と書いた木柱があった。なるほどそれらしき建物が、少し下ったところにある。さらに途中に「渋沢平九郎自決の地」と、これまた新しい石柱が建つ。傍らに平九郎の系図を書き記した吊り書きが添えてある。これもNHK効果か。
 12時25分、出発点の駐車場に着く。トイレの脇に看板があるのに気づいた。「渋沢平九郎」と表題をつけたそれには、「飯能戦争」のこと、「彰義隊から分かれた振武軍の副将・渋沢平九郎」とあり、渋沢栄一の養子であったと書き添えている。「環境省・埼玉県」という掲示責任の記載が、ちょっと妙な感じがするが、これも、NHK効果なのかどうか。
 今日のコース・タイムは4時間25分。鼻曲山ルートへの寄り道に往復20分ほど費やしたから、それを差し引くと、3時間40分ほどで歩いている。冷えこむと言われながら、ウィンドブレーカーのいらない山行、まさに春らしい散歩道を歩いた。お昼は車の中で済ませて、そそくさと帰った。2時には家についていた。


オープン・ガバメントという希望

2021-02-24 06:27:01 | 日記

 コロナウィルス対策で見事な対応をしている台湾は、面積でいうと九州より少し広いくらいの大きさ。人口は東京都の人口より1000万人多い、2300万人余。人口密度は東京の10分の1くらいというコンパクトな国である。
 目下、「中国の一部」という中国政府のタテマエによって、国際的に孤立を強いられている。WHOからも締め出されているにもかかわらず、コロナウィルス対応を、世界に先んじて実施し、着実に成果を上げている。その台湾で、35歳のIT大臣が誕生したというニュースが流れて2年。その方を紹介する本が、去年、出版された。
 アイリス・チュウ、鄭仲嵐『Au オードリー・タン――天才IT相7つの顔』(文藝春秋、2020年)は新鮮な響きを持っていた。35歳のIT相として評判が立った「唐鳳/オードリー・タン/Au」、学歴は中卒である。台湾の名門高校から「招聘」されたのに、高校にはいかないと決めた。ジャーナリストの父、科学者の母に育てられ、台湾の学校では陰湿なイジメに合い苦労するが、親について行きドイツの中学校に通う。彼の優れた才能が評価されて台湾の高名な高校に「招聘」される。だが彼は自らが育ったコミュニティを視界に入れている。台湾の学校を変えようと決意して、単身、台湾へ帰国。高校へ行くことをやめ、ITを通じてネットワークを駆使し、才能あふれる人たちとの関係を構築する。
 同時に、社会問題をITを通じて解きほぐしコミュニケーション・ネットワークを築き、人々の知恵を結集するシステムをつくりあげる。天才というにふさわしい活動場面を、十代の時から次々とかたちづくり、社会的存在として台湾ばかりか世界的に知られるようになっていく。なるほど、彼ならば学歴無用と言っても何の不思議もないとよくわかる。
 と同時に、彼が身の裡に感じる(世間との)「違和感」を突き止めていくと自分は「女」だと思い当たる。それをカミングアウトすることによって、「この人」(彼/彼女)自身の実存的安定は確保され、いっそう才能を社会的に役立てていく場面に身を置く。
 台湾の大きな出来事であった2014年の「ひまわり学生運動」にもかかわって、学生たちの活動が収斂して政策的に提言していけるようなシステムを整えることをしている。それが、知る人ぞ知るかたちで周知されて、蔡英文政権でIT相に任ぜられたのであった。新鮮な響きをもたらしたのは、この人の振る舞いである。
 IT相って何をするのか。任されている仕事は、「オープン・ガバメント、ソーシアル・エンタープライズ、青年コミュニティ」とされている。「オープン・ガバメント」についてこの人は、こう説明する。
《データの透明性を確保し、一般の人々の参与を促し、政策をトレース可能とし、各人を対話に導く》
 と。この短いコメントを見ただけで、日本の政治がここ十年近くのあいだぬらりくらりとことを隠蔽し、行政組織から社会展開まで誤魔化しを続けてきたことに、思い当たる。
 苦情を訴える市民がいた場合、その市民を招いて、問題を一緒に洗い出す「協働会議」を開く。言葉のやりとりがクリエイティブに行われるように、AUは取り計らい、協働するメンバーにもそのような技法とITのシステムを使えるように整える。政府の各担当部門は、その専門性を生かして参加者の一角を担う。
 この人自身は、なにがしかの政策を価値的に打ち建てたいと願っているわけではない。人々が共同して政治に参画し、手を携えて提言をし、修正を施し、身をもって仕事をする「かんけい」を構築したいと考えている。つまり、「民主的な社会への移行と深化」こそがこの人の願いであって、そのためにはITソフトも自由利用できる設定にして、誰かれ構わず算入して修正を加え、使い勝手が良いように改編していくことも推奨している。面白い。
 そもそも、上記に引用したIT相の仕事の説明だけでも、現下の日本の政府の問題点を、根底的に指摘している。つまり、このようなことを実践する若い人を登用する現政権の前向きの姿勢こそ、情報化社会がもたらす最良の「民主主義」である。そういう意味で、蔡英文政権が取り組んだコロナウィルス対策が功を奏したのは、十分に説得力がある。大陸中国の(香港やウィグル族や台湾への)強圧的な脅迫と締め付けが、人々の結集を後押しをしているのも、面白い現実だ。
 気に入ったのはこの人・Auが、「道家思想や保守的な無政府主義を信条としている」と公言していること。台湾は自由であると宣言しているのだ。その上での「オープン・ガバメント」。つまり、新しい時代の「民主主義」のかたち、「くにのかたち」を示している。聞いているだけでワクワクする。魅了される。
 30代という若い人たちが自ら政策や社会インフラのを整える方策について提言し、修正を施し、自分たちの力で切り回していくかたちにこそ、市民参加の新しいコミュニティの連帯が育まれていく。そのような希望を託すに値する試みが、すでに台湾でスタートしているのだ。
 日本の1/5ほどの規模の人口だが、日本を大きく5つのブロックに分けて考えてもいい。あるいは、全国区で、5つの自治的な関係を構築する道を考えるのでもいい。出遅れたIT化を推し進め、市民参加の自由な共同社会を再構築しようではないか。そんな檄が、若い人たちに届けばいいなと、思った。