mukan's blog

つれづれなるままに ひぐらしPCにむかいて

今日は秋分の日、そして、満月

2018-09-23 17:29:34 | 日記
 
 森絵都『みかづき』(集英社、2016年)を読む。どうしてこの本を手に取ることになったのかは、わからない。何ヶ月か前に図書館に「予約」をし、それが届いたからなのだが、なぜこの本を予約したのかは、覚えていない。何ヶ月か前に何かの本か雑誌を見ていて、この本のことを書いた記事を目にしたのだったか。
 
 子どもの教育と、彼らの通う学習塾のことに取材した小説である。文科省がどんなに「ゆとり教育」を掲げようと、学習指導要領を子細に書き上げようと、学校教育が学習において取りこぼしていく児童・生徒の多いのは、変わらない。「取りこぼしていく」というのが、学校卒業後に待ち構える「受検」の関門を上手くくぐることができるかどうかを意味していることも、いつの時代にも変わらない。だから最近、「AIに負けるわよ」という声の合間から、エリート教育などとは言わないが、MARCHレベルまで到達して開発をやめた東ロボ君の開発を先導していた東大教授が、そもそも若い人たちの「読み書きの仕方がなっていないじゃないの」と声高に叱っているのが、目につき、面白い。国中が「勉強、勉強」と子どもたちの尻を叩いていても、(有名校への進学とか将来の職業とか出世とか考える以前に)人として一番肝心の「読み書き」がちゃんとできていないわよと叫んでいる。この声が私には、人が生きるのに必要な「読み書きの仕方」って、デジタル世界に合わせたそれでいいの? と皮肉っているように思える。
 
 森絵都が描くのは、敗戦後から21世紀に入るころまでの文部省の教育改革とは別個に社会に進行してきた学習塾の担い手たちの気概と変遷である。そして、一億総中流という時代を経ても捨て置かれてきた子どもたちの存在に目を向ける人たちが問いかける、教育の原点である。上澄みをなぞるような状況描写のなかに、ポツンポツンと文字が読めるとはどういうことか、自分の想いを伝えることができるとはどういう意味を持つかという「(人にとって言葉を手に入れる)原点」が浮かび上がる部分があり、胸を衝かれる。ただ、そこに深入りすることなく、センチメントな感懐に集約する。主題を担う登場人物が自分の著書の出版記念会で以下のような述懐をする。
 
《どんな時代の(教育を論じる)どんな書き手も、統制の教育事情を一様に悲観している……読んでも読んでも否定的な声しか聞かれないのに……辟易したけれども……常に何かが欠けている三日月。教育も自分と同様、そのようなものであるかもしれない。欠けている自覚があればこそ、人は満ちよう、満ちようと研鑽を積むのかもしれない……》
 
 「人格の形成」だとか「市民を育てる」だとか「国民教育」というテーマはどこかに消えてしまって、ただただ「学力の向上」ということに(大人たちが)どう応えるかが、この小説の焦点となっている。そのために、大人の善意性を疑わない子どもとの関係が主旋律を奏でる。文筆を生業とする森絵都という方が「読み書きの仕方」の、存在論的な意味に気づかないはずがないと私はおもうが、その「さわり」をちらりとみせるだけで踏み込まない。そこへ踏み込まないと、「ゆとり教育」へも「生きる力」への批判にかすりもしない。たぶんその「原点」に踏み込まない限り、教育格差さえも単なる奇特なボランティアとして「美談」に終わる。
 
 学校vs塾という(森絵都の設定した)構図が狭すぎたからなのか、文部省との絡みまで登場させながら、上滑りしてしまいましたね。やはり人物の存在論的な根っこに足をつけていなくてはいけないんじゃないですかね。ことに子どもの教育を取り上げるのであれば。
 
 今日は満月。秋分の日。陰暦の八月十五日の月とみれば仲秋の名月。そんな日に、「みかづき」を読むなんて、なんというめぐりあわせ。「欠けている自分」と「みかづき」重ね合わせるロマンティシズムも、不可能性の上に可能性を探求するというところ組み込めば、少しは重松清の作品のように、胸に響くものになったであろうに。森絵都さん、おきばりやす。
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AI評価の大きなブレ幅は何を意味するのか

2018-09-22 15:09:10 | 日記
 
 AIとビッグデータに関する報道がどこにでも見られるようになった。いずれも将来像を気に掛けているのだが、いますでに結婚相手の組み合わせを持ち掛けたりして、相性がいいと良くないというこにまで「介入」している。もちろんそれを受け容れる人がいるから成り立っているのだが、神様のお告げのようにAIのご推奨を受け容れるのは、そのご推奨がブラックボックスだからなのだろうか。
 
 キャシー・オニール『あなたを支配し、社会を破壊する、AI・ビッグデータの罠』(インターシフト、2018年)は、集めるデータ、それを処理するアルゴリズム、その提示する評価を「利用する場面」のいずれにも、人間の価値観や恣意が組み込まれている。だがそれがどのようなことを意味するかは、ブラックボックスとなって公にされないから、それを使う側の利便性とか効率性とかに(結果的に)資する限り、使い続けられる。これって、大丈夫なのかと、誰か疑いを挟まないのだろうか。そのようにして「設計」された社会的アーキテクチャーに、私たち大衆は身をあわせて暮らしている。その適応がいつしか人間の感性や感覚や価値観を換える。オニールは、そういう疑問を持つ目をもっている。だが、AIに関する楽観的な未来像は、オニールの懸念にお構いなしに、暴走を始めているように思えてならない。
 
 2018年8月16日の朝日新聞の「文化・文芸」欄に、「夏の集中講座――意識の移植」という記事が載った。東大准教授の脳科学者・渡辺正峰さんが「機械にも意識が宿る日が来る」と述べている。脳の神経回路を模した機械をつくることができれば、意識が宿るはずだ、として、次のように言う。
 
「人間らしく振る舞う機械は既に存在します。見た目だけでなく動作や受け答えまでまるで人と変わらない機械もできるでしょう」
 
 ただそれが「他人と同じことができる時点で機械に意識は宿る」ということに、渡辺は留保をつける。つまりそれはあくまでも「らしく」振る舞うだけとみているようだ。だが彼は、「自分の脳を機械につなぎ、自身の主観をもって機械の意識を味わう」ことはできるとみている。機械の体験を感じとる、ということのようだ。
 
 渡辺は「マッドサイエンティストと呼ばれてもある意味仕方ない」として「倫理的な問題で仮に先進国では許されなくても、こうした技術を活用しようとする国は出てくるでしょう」と(ご自分を棚に上げて)述懐する。まいったねえ、暴走する方々が、「仕方がない」と言ってては、歯止めも何もできるわけがない。たとえば、いつか記した東ロボの制作を断念した新井紀子が、AIに追い越される心配をする暇があったら、子どもたちの読解力をMARCH以上に引き上げることを考えなさいよと言い募っているかと思えば、渡辺のようにケロリとマッドサイエンティストの出現を予想する。そしてAIのアルゴリズムというのは、ビッグデータともども、読み取り方が解き明かされないままに、暴走を始めている、というわけだ。
 
 大阪大学の石黒浩教授が「百年後の人間は無機物になっている」という。それが、案外、ほんとうになっていたりするのかねえ。
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「悪」の凡庸さ

2018-09-21 09:19:09 | 日記
 
 仲正昌樹『悪と全体主義』(NHK出版新書、2018年)を読んでいて、昨日観た映画『検察側の罪人』で感じたことが、より鮮明になる感触を得ました。「ハンナ・アーレントから考える」と副題された本書で、仲正は「エルサレムのアイヒマン」を読み解いて「悪の凡庸さ」についてこう記しています。
 
《アーレントが見たアイヒマンは、自らが「法」と定めたヒトラーの意向に従っただけの、平凡な官僚でした。たまたま与えられた仕事を熱心にこなしていたにすぎず、そこには特筆すべき残忍さも、狂気も、ユダヤ人に対する滾(たぎ)るような憎しみもなかったのです。》
 
 上記の記述を「悪の凡庸さ」と受け止めるには、二つの媒介項をおかねばなりません。
 一つは、ヒトラーは、それまでの世界で最も民主的と評されたワイマール憲法下のドイツで、合法的に誕生した政権であり、かれが絶対権力をもつ総統になったのも、全く合法的だったこと。つまり、遵法精神の旺盛なアイヒマンが従うと定めた「ヒトラーの意向」は、まさに当時のドイツの「法」だったことです。
 もう一つは、アイヒマンがカントの哲学に心酔していたという事実です。と同時に、カントの哲学はハンナ・アーレントの堅固な拠り所でもありました。仲正正樹はカントの「定言命令」を説明して、《市民たちが理性的に合意し受け容れた「法」にしたがうことこそが、市民にとっての自由なのです》と述べている。そして、「法」に規定されているから従うというのではなく、その「法」の精神に則って、「法」の規定以上にその精神に実現に尽力することこそ、市民の義務だと(カントを信奉する)アイヒマンは受けとめていたということです。
 
 つまり、上述の二つの項目を受け容れると、もっとも誠実な市民像が浮かび上がります。またそれは、私たちの日常とほぼ重なってきます。だからこそ、アーレントが「エルサレムのアイヒマン」を発表したとき、喧々囂々たる非難が湧き起り、アーレントは「親しい友人を失った」とも記しているそうです。仲正はその中核に、「自分もユダヤ人の大量虐殺を実行するのと同じ凡庸さをもっている」と畏れたからだと指摘しています。アーレントは、ナチスを憎む(アイヒマンを不法に拉致しエルサレムで裁こうとする)ユダヤ人の思考構造がナチス(の裏返しにすぎない)同様だとみてとったようでしたが、これが被害に遭って収まりのつかない当時のユダヤ人の心情を逆なでしたようでした。
 
 『検察側の罪人』を観ているときの私の胸中に湧き起る(犯罪者への)嫌悪感、近代法的な「時効」という罪科免責の制度では収めがたい嫌悪感の始末感情を(アーレントに)言い当てられたようでしたが、といって、検察側の罪人に共感している私自身を難詰する気持ちは、一向に湧き起ってきませんでした。つまり、私の自然は、ビクともしなかったのです。そうだ、そうですよ。私もアイヒマンですとは、さすがに思いませんでしたが、近代法に守られた「犯罪者」が偶然起こった高齢者ドライバーのひどい運転に巻き込まれてしまうのを、留飲を下げるように観ている私を、じつに諄々と受け止めていたのでした。
 
 凡庸なる「わたし」と、それを感じている「わたし」がせめぎ合っている。それを悪いことではないと思っているのが、今の私なのです。
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世界の違い

2018-09-21 06:02:21 | 日記
 
まるごとの存在を直感する生物的核

  今日(9/20)の朝日新聞「折々のことば」に戸井田道三のことばが取り上げられている。 《わたしには「生きがいを求める」というのがどうもうさんくさい気がします。いのち......
 

 一年前の記述をすっかり忘れていることに気づく。いや、何をいまさらとも思うが、あらためて読み返して、そうか、そうだよねと、2017年fjtmukanに同調している。それにしても、と思うのだが、鷲田が謂う「一つのいのちがここにあること自体が、他のいのちとの共生による一つの達成である」を、「できなくたっていいんだ にんげんだもの」とあいだみつおのようにいってしまうと、まったく違ってしまう。あいだみつおの「せりふ」は、戸井田が謂う「生きがいを求める」思考線上におかれている。つまり、価値的に戸井田がこぼした「うさんくさい気がします」という批評を、あいだは受け入れなければならない。鷲田の「……他のいのちとの共生による一つの達成である」の次元を見失っている。

 こうした次元の違いを感知しないやりとりを、近ごろ感ずることが多い。彼の人の言っていることに違和感を感じて言葉を発しても、受け付けてくれない。私は鷲田次元で言葉を紡いでいても、彼の人はあいだのように受け止めて、さらに言葉をつづける。私自身は、もうそれで、ことばをつづける気持ちを失う。そんなことが、けっこう多くて、私の「表現」の拙さを思い知らされている。

 人間観といってしまうと、なんだかそれも「ちがうよなあ」と身の裡のどこかがぶつぶつ言っているから、もっと子細に踏み込まなければならないのかもしれないが、魂と身体とか、自然観とアイデンティティとか、そんなことのどこかから始めるのは、途方もないことのように思えるし、たぶんその、彼の人の抱懐する「世界」と交錯するのはムリ、と感じられるほど「世界の違い」が横たわっているように思われる。

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何が何に立ち向かっているのか――おまえは誰か

2018-09-19 20:44:42 | 日記
 
 監督・脚本:原田眞人『検察側の罪人』を観た。エンターテインメントを謳いながら、これだけのモンダイをぶち込んで展開してみせるかと思うほど、盛りだくさん。切りとり方によっていかようにも読み取ることのできる仕掛けに、世の中と人間をみる厚みに感心しながら、楽しんだ。と同時に、ああおもしろかった、で終わらない残渣が心裡に残る。それは、「罪人」というのが、じつはおまえではないのかと問うているように思えたからだ。
 
 検察と言えば、当然のように世の正義を体現して振る舞う集団なのだが、国会で嘘八百を述べ、それを正当化する文書類の書き換えを命じたお役人の頂点を、起訴もできない検察の現実をみると、正義などあるものかという方が、真っ当に思える。ところが「殺すときは他人に頼まぬ」と台詞を吐く「検察側の罪人」が視線の先においているのは、法的な罰の起点にある倫理的な非法(生き方に背くこと)の、犯した罪は消えないという「事実」。さらにその視界の先には、兵士たちの置かれている状況を一顧だにせず強行したインパール作戦の亡霊たちが見えており、翻って、今の政治の向かう方向への批判も込められる。それに対して、法的な「正義」を貫こうとする「アウトサイダー」という妙な構図が、映画全体の舞台回しをつとめる。
 
 検察の法的(状況的)「正義」、その前提にある社会的倫理的「正義」、さらにそれをも批判しつつ「近代法的正義」を貫こうとする「正義」、それを笑い飛ばす「悪」の哄笑、それに天罰を加えるかのような「事故」をみていて留飲を下げる観客の「正義」、その脇を、いかにも天罰を仕組んだかのように胸を張るネオナチのような陰謀論者の「正義」の存在と、いろいろな「正義」のありようを並び立てて見せて、観ているもの感性を揺さぶる。
 
 画面を観ていると、真偽とは別に、観客の私は、関係者の振る舞いと言葉という見た目で罪の見立てをし、内心ですでに判決を下している。それを画面の展開は裏切る。裏切られるたびに観客は、「検察側の罪人」に共感し、画面にのめり込む。そして映画が終わったとき、わが身の裡に立ちあがる「罪人」としての自覚に、驚かされるという仕掛けである。
 
 エンタメとして、まず、面白かった。それっきりにしてしまえば、映画館を出たときに、すっかり気分を洗い流して、晴れやかな青空の下を歩くことができる。だが、内心に残響がのこるとき、生きている時代とその社会を何層にも重ねて絡まり合う人間の関係と、そこを生きぬくことそのものがインパール作戦のように累々たる白骨を積み重ね、踏み越えてここに立つ「わが身」に気づく。
 
 検察官の安らぎを覚える場所、別荘が、じつは観客である私たちであり、その庭を掘り返せば、白骨が埋まっていると残響は伝えているようであった。
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