mukan's blog

つれづれなるままに ひぐらしPCにむかいて

哲学的な思索の届く地平

2018-09-30 19:50:22 | 日記
 
なぜ「愛」を語るのか

  コルム・トビーン『ブラックウォーター灯台船』(伊藤範子訳、松籟社、2017年)を読む。幼いころに亡くなった父、その父を看病するために力を注いだ母、その間、預けられた祖父母の......
 

  かほどに硬質な「存在」を一年前に感じていたのだと、知った。もしこれを読んでいたら、「道徳教育」を嗤ったに違いない。

 育ちがよいということは、ひょっとすると、存在の根柢ともいうべきところに出くわさないで育つことかもしれない、と思った。「道徳教育」をお題にした講師の、育ちの良さを知っているからだ。私が夜の学校の教師を長く務めたというのは、私にとっては、この上ない回心の好機を得たようであった。おかれた境遇によって、哲学的な思索の届く地平まで変わるのか。

 人間というのは、面白い存在だと、改めて思った。

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道徳は教育できるのか(1)180度違う立ち位置

2018-09-30 17:20:11 | 日記
 
 昨日(9/29)は、第3回目の第二期Seminarの日。講師はtkさん。お題は「後期高齢者からの子供の道徳教育に関わる提言のとりまとめ」。なんともつまらないタイトルにみえる。
 
 どうしてこの人が? と最初は思った。リタイアして、油絵を描きながら悠々自適している自由人、と彼のことを思っていたからだ。いつだったか、第一期Seminarを取りまとめようという話しが出たとき、「そんなもの取りまとめても、誰も見やしないよ。ムダ、ムダ」と端然としていた彼が、なんでこんなことをと、耳を疑ったね。いやじつは、私ばかりではない。いつもtkさんに、コブラに対するマングースのように噛みついていると評判で仲良しのmdrさんまでが、「年くってボケが来たか」と揶揄するほど驚いていた。「ま、現役の仕事では散々悪いことをしてきたから、罪滅ぼしじゃない?」と私は感想を挟んで、でもどんな話になるのだろう。何しろtkさんは東大法学部の卒。いわば日本の法制の土台をつくっている本拠地で学んでいる(勉強する学生であったかどうかは知らないが)。金沢大学で教える仲正正樹も「東大法学部だけは、他の法学部と違うんだ」と、一段高いところにいて、ものごとの真偽正邪を決定する国家的審判官の位置に立っている気負った人たちと決めつけている。
 
 tkさんは、大まじめであった。彼が枕を振って問題提起をし、参加者からいろんな意見を出してもらって、それを事務局のあんたが取りまとめてよ、と進行をしていった。えっ、おれがまとめるの、と思ったから、いまもこうして大真面目に記しているのだ。
 
 枕はこうだ。日大アメフト部の非道タックル問題の、当の選手がいつのまにか善良な学生になって、監督やコーチがやり玉に挙がっているが、いくら指示や命令を受けたとはいえ、そもそも自分が出場したいがために非道なタックルをやってしまったんだから、彼が責めを負うべきだ。メディアも指示命令した監督コーチにだけ責任があるように取り扱っている。これは子どもに「道徳教育」をきちんと施さないできたからだ。そもそも道徳というのは、法で規制しているから良い・悪いというのではなく、内心の発露として善悪を判断して行うことである。その淵源は教育勅語にあるとばかりに、『教育勅語の真実』という本を借用する。明治以降の日本の組み立てが欧化一本やりであったのを憂えた明治天皇が、皇祖高宗以来の麗しき徳を讃えて民草がそれを守り育てていくことを謳っている。それを、大戦の過ちがあったにせよ、占領軍の命令によって放り棄ててきたことが、今の道徳の退廃を招いていると言いたいようであった。教育勅語のさらに淵源には「江戸しぐさ」が綿々とつながっている、と道徳の教科書を通覧して話を繰り出した。
 
 tkさんがそういう道徳観を持っているというのはわかったが、それに同意を求められても、私の現実感覚や規範観念とまったく火花が散らない。どこか別世界の物語を聞いているように思える。ひとつ気づいたこと。それは、tkさんの問題提起の仕方が演繹的であり、帰納的でないことであった。演繹的というのは、彼自身が「かくあるべし」という道徳観念のモデルを抱いていて、それを子どもたちの世界に実現するのに、学校教育のなすべきことがある、道徳の教科書は良いことを書いている、教師たちは「道徳教育」をするべきだと展開する。だがその主張が私には、「だから、なに」と響く。私の現実感覚と交錯しないのだ。
 
 振り返ってみれば、私が学生のころは、演繹的にものごとを考えていた。いま思うと、私だけでなく、世界が右も左も、それぞれ勝手に「典型」や「正義」を想定して、そこを出発点にして議論を積み重ねる。人間はかくあるべし、世界はこうなることが正しい、教育はこうなされるべきだ、と考えていた学生時代は、世界はこう構築されるべきだと、気づかず正義を前提にしていた。だから意見を交わすというのは、それぞれが言いたいことを勝手がってに言い立てるに尽きた。意見を交わすことによって話の次元が変わり、相互に入れ込んで話が発展するというのは、気の合った仲間内でしか見られなかったと言える。たいていは、より知的な力をもったものが、そうでないものを啓蒙するような調子であった。それが勤め始めて十年ほど経って、帰納的にものごとを観ていることに気づいた。そもそも学校教育はこうであったとか、生徒はこうふるまうべきだとか、教師は本来こうあるべきだと謂う発想では、学校現場でやっていけなかったからだ。生徒が受け付けない。教師を教師とも思わない生徒が、いっぱいいた。その生徒たちと言葉を交わし、教室という場をつくりあげ、授業を行うことができるようにするために、いろいろと手を尽くさなければならなかった。
 
 そのとき、荒れる生徒たちの背景にある生育歴や家庭環境や小中学校時代を経て培ってきた学校への不信感や教師への反抗心を、この現場で受け止めて落ち着かせていくために、何をしたらいいか。そればかりを思案して、教師の仕事をしていた。貧困もある。親に見放されるようにして捨て置かれた子どもたちの「いらだち」や「反抗・反発」もある。結局受け入れてくれたのが、テキヤグループや暴力団だったというグルーピングもある。それらが入り混じって学校という場で突出する暴力事件やいじめ、非行、ときに犯罪は、道徳的であるとかないなどという言葉の次元では収まりきらないほど、苛烈であり、悲惨であった。
 
 学校の秩序を維持し、生徒が落ち着いて教室にいることができるようにするためには何をどうするべきか。時代は高度経済成長から、オイルショックを経て安定成長へ向かう時期であり、中学卒の金の卵は一挙に消え失せて、成績不良と性向不良の子どもたちが全日制高校から締め出されて定時制へやってくる。そういう時代の変化に、知的力量で勝負するつもりの(古いタイプの)教師たちでは太刀打ちできない。生徒を押さえつけるに役立つ教師の力量自体が、年年歳歳問われるようであり、磨かれていった。
 
 つまり、道徳を教育するという高みから教え諭す視線では、教師の人間的力量が、容易に生徒に見抜かれて虚仮にされてしまう。しかも彼らは、日ごろ仕事をもっている労働者であるから、時によっては、教師よりも実際的技量や人間的力量が高い生徒がいる。他の生徒たちを引き付ける魅力も、格段に上の人格を持っている者もいる。つまり、社会一般の多様な人がいる中で、ただ教壇の高みに立っているから教師でございという顔をしていても、まるで教師として通用しない。それを身をもって教えてきたのが、夜の学校であった。つまり、私の人間観や社会観、世界観をがらりと、百八十度転換させたのが、夜の学校現場であり、生徒たちだったのであった。
 
 言葉で教えることも必要だが、それは時と所を得て、適切に発せられたときにはじめて生徒たちの場に受け容れられ、その主導権が取れたときにかろうじて、教室の規範を教師が提示することができる。その「受け入れられる」感触は、ただ単に言葉ではなく、日常の振る舞いをふくめた「わたし」の全存在だ。私の感性も感覚も、立ち居振る舞いの儀礼的ありようも、要するに生徒を人として遇する向き合い方の「文化」そのものが、どのようにしてか生徒に受容される。教育するというよりも、気づいてみれば、薫陶を施す結果になっていたというのが、じっさいであった。道徳教育をするなんて言葉は、頭をちらりともかすめなかった。(つづく)
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「気づく、後で知る」から、混沌の〈せかい〉へ

2018-09-28 09:14:40 | 日記
 
 今日(9/28)の朝日新聞に、鷲田清一が紹介している「折々のことば」。
 
 《大切なものが近くにあってもそれに気づくのはずっと後、ということが私には往々にしてある。 鴻池朋子》
 
 そして鷲田はこう続ける。
 
《美術家は随想「河原にて、また会いましょう」(『司修のえものがたり』所収)にそう綴る。いえいえ、みんなきっとそうなんです。気づいたときはも応取り返しがつかない。その分余計にこたえる。あなたが後で知ったその大切なものは、だから、あとに生きる人たちに確と伝えておかねばならない。……》
 
 このブログもそうだが、あとで気づくどころか、今だって気づいていないことを記しているように、私は思っている。ブログのプロバイダから送られてくる「一年前の記事」を読み返していて、ときどきそう思う。気づくことってのは、「バカだなあ、オレって」ということもあれば、「へえ、そんなことを言ったっけ」と感心することもある。そうして私は、どうしてそうバカなのか、どうしてそう感心するようなことなのか、と一年の径庭をものともせず、思案する。すると、16年前に始めたこのブログのPC保存版の冒頭に記している歌、「あいみての のちのこころにくらぶれば むかしはものを おもわざりけり」を、思い出す。
 
 いつだったか、名の知れた大商社で勤め上げた友人が「そんなことを書き置いたって誰も読みゃあしないよ」と、投げつけるように吐いた言葉を思い出す。そのときは、「そうか、こいつは自分で自分を発見するような文法を持っていないんだな」と思っただけであった。だが後で考えてみると、そうだったから彼は、へこたれもせず大商社で勤め上げることができたのかもしれないと、思い返した。それは同時に、私自身の、世間の波風にさほど強く曝されず、出世だの競争だのとほぼ無縁で過ごすことができた「世界」を相対化してみることでもあった。そう考えてみると、人は置かれた境遇というか、環境によって、感性もものの考えかたも大きく規定されてしまって、しかもそのことに気づかない。そうか、それを「鏡の背面」と精神科学者は呼び、「世の初めから隠されたこと」と哲学者は呼んでいるのかと、思いはどんどん広がっていく。それが面白い。
 
 実際には、どうしてそれが面白いのかと考えないでもない。たぶんそこに踏み込むと、私自身の存在をつくってきた径庭の全境遇が起ち現れ、それは同時に、私が感じてきた「環境」であり、私が見てきた「世界」の歴史であり、私の観念の世界がかすってきた、ありとあらゆること――わかることもわからないことも、一知半解のことも誤解していること――をふくめて、全てが立ち現れる。あとから知るとか、気づくという次元でもなく、当人、当事者には決してわからないことまで、混沌とひとつになってわが身の根柢の方に揺蕩っている〈せかい〉。その深淵がある感触を、ほのかに感じさせる。それが、堪らないのだ。
 
 鷲田はそれを「あとに生きる人たちに確と伝えておかねばならない」というが、それは彼が、知識人として大学の総長までつとめ、生きてきたことがかたちづくった「癖」であろう。それはそれで構わない。私は、もっとエゴイスティックだ。「あとに生きる人たち」に伝えても、結局後に生きる人たちが自ら「知る」か「気づく」かしなければ、混沌の〈せかい〉にふれる感触すら感じられないであろう。ま、せいぜいわが子どもや孫たちが、こんなご先祖さんがいたんだと、一知半解したり誤解したりして、じつは私の知らない〈わたし〉を抱懐しつつ、違和感を感じてくれたら、面白いかなと思っているばかりである。
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いかにも、の奥久慈男体山

2018-09-27 10:24:01 | 日記
 
 昨日(9/26)奥久慈の山へ足を運んだ。どうして? と問われると、毛無山から話しはじめなければならない。じつは当初、この日、山の会の毛無山山行を予定していた。一週間前に「天気予報」をみると「雨、降水確率80%」。ところが翌日の27日は「晴、降水確率10%」とあるから、一日ずらしてもいいかどうか、参加者に問い合わせる。むろんそれでよいとの返答。四日前あらためて「予報」を観たら、なんと木曜日は悪く水曜日のほうが良くなっている。天気の変化が早まっているのだ。こんなに目まぐるしく変わる天気も、珍しい。台風のせいもあるのだろうか。もう一度参加者に問い合わせ、元の水曜日に実施することで了解をもらい、三日前にレンタカーの予約を済ませた。夕方「予報」を観ると、水曜日も悪くなっている。参ったなあと思いつつ、その様子を参加者に知らせると、「わざわざ雨の中へ出向くことはない。中止にしよう」と声が上がり、毛無山は中止にしたのだった。だが私の腹の虫というか、山への虫は収まらない。西がダメなら東はどうかと覗いて見たのが、奥久慈の天気。これがなんと「曇り、降水確率20% 、降水量0mm」とある。関東一円は雨の中、行くしかないと思った。
 
 朝6時前、雨の中、車で出る。奥久慈は茨城県の北部に位置する。福島県の郡山と水戸を結んで、久慈川に沿って南北に走る水郡線の東西に沿うように峰を連ねる地域。埼玉からはアクセスがとても不便だが、車で走ると2時間ほどで寄りつける。高速の常磐道を北上する。雨はやまない。雨着を着て歩くようになるかと心配していたが、西金駅の駐車場に車を置くときには、雨は上がっている。近頃の天気予報は、直近になると正確だと思う。
 
 湯沢川に沿って北東に伸びる林道を奥へ詰める。二車線が一車線になり、民家も見えなくなる。地理院地図では途中で林道とわかれ、沢沿いに延びる登山道が記されている。その入口辺りに舗装路が別れていたので、そこへ踏み込む。ところが15分ほど登ると、大きな民家に突き当たって、行き止まり。抜ける登山道を探すが、蜘蛛の巣だらけでどこにも通じていない。仕方なく引き返し、車道をさらに奥へ登る。途中で祠の掃除をしている方がいたので、登山道のことを聞く。「ああ、昔はあったな。今は草が覆って歩けないやね。男体山ならこっちだよ」と車道の先を指さす。車道がヘアピンカーブを描くところで、脇にそれ、大円地へ向かう。トイレが設えられ、登山届のボックスが置いてある。何台か車も止められる。「大円地そば」と大書している民家の脇を抜け、山道に入る。標識はしっかりしている。すぐに二股に道が分かれ、どちらも「男体山」と書き、左へ行けば「健脚」右へ「一般」と添えている。「健脚」は直登のようだ。そちらへ踏み込む。標高差450mくらい。
 
 徐々に急斜面になり、岩を踏んで登るようになる。鎖がつけてあるから技術的にはむつかしくない。岩も削ったように若干階段状になっている。だが雨に濡れて滑りやすい。私の登山靴も四年も使い古したせいか、底が擦り減っているとみえる。「上級」ではなく「健脚」としているわけが分かる。男体山と名づけられた所以が分かるような気がした。1時間5分ほどで、稜線に出る。そこから5分も登れば男体山の山頂、653m。若い男が二人、先客がいた。ガスストーブをつけて、コーヒーを淹れようとしている。「車道を歩いてましたね」という。彼らは車で大円地まで入り、「健脚」を歩いて来たそうだ。
 
 地元の方?  いい山ですね。
 ええ、那珂から。でも初めてですよ、ここ。
 いやすごい上りでしたね。「健脚」を降るのはごめんですね。「一般」を降ります。
 それにしても、速いかったですね。おいくつですか? ええっ、私の父と同じだ。
 月居山まで縦走ですか。6時間くらいかかるでしょう? 気を付けて。
 
 山頂からの見晴らしは、西側だけが開けている。大円地も見下ろせる。たぶん向こうの、大きな川が久慈川だろう。西金駅の方もみえているに違いない。大部分は緑に覆われた山地。これが奥久慈か。筑波山のずうっと北側に位置して、さらに北辺には八溝山という名の知れた山をおいて、福島県に至る。
 
 月居山へ向かう。地図で見ると、ここから月居山までは標高400mほどの稜線伝い。地理院地図にはあるが、地元発行の「ハイキング」コースには載っていない。途中、分岐の標識はしっかりついている。「長福分岐」は、上小川駅から登るルート。こちらの方が、早くから山道に入るのでいいかもしれないと思っていたが、「縦走」という響きに勝てず、月居山のルートを採った。これが、笹が大きく伸びて道を覆うほど。足場は、あいかわらず岩が多く、気が抜けない。定本への分岐から2時間10分と、私のみたYAMAPの行程表は記しているが、どこまでがその時間なのかがわからない。落葉広葉樹が生い茂って見晴らしは利かない。樹々の間から見えるのは奥深い山並みばかり。自分の歩いている地点がわからない。GPSは樹林の中だと衛星と交信できないのか、動かないままだ。見晴らしのいいところに来ると、ポイントを教えてくれるが、くたびれてきて閉口した。ようやく「第二展望台」に来る。「展望台・後山」とガイドブックにあった地点には、山名表示はない。月居山にしても、月居城址の標識がある地点から「←月居山」とあるだけ。小高いそこに上がると、測量に使ったのであろうか、標石が置かれているが、山名表示がない。あれっ、間違えたかなと道を探す。はっきり板踏み跡のルートは下っている。それを辿ると、峠のようなところに来て、「←袋田の滝・袋田駅→」と別れる。城の由来も記してある。
 
 「袋田駅→」への道をたどると、15分ほどで、賑やかな土産物屋や旅館街のあるところに出た。えっ? 間違えたかな。GPSをみると、私が下っていると思った地点とは違う。でも分岐はなかったし、どこで道を間違えたろうと、不思議であった。待てば、バスが出ていると分かったが、駅まで30分くらいというので、歩く。袋田の滝を見る観光客が、バスを連ねてきている。だがシーズンはまだ先のようで、客引きも暇そうにしている。
 
 駅に着く。電車は2時間に一本くらい。私はちょうどその中ほどに来たから1時間以上待たねばならない。タクシーが止まっているから、12月に山の会の人たちを案内したときに袋田の滝近くから西金駅までいくらくらいかかるかと聞いた。すぐに4000円くらいと答えてから、何かを算段しているのか、だんだん吊り上げる。5000円くらいかなというあたりで、すっかり観光客にすれたタクシー運転手の顔がのぞいた。
 
 電車に揺られながら窓外に流れる奥久慈の山並みは、凸凹が大きくて、あんなところを歩いたかしらというほど、大変な山にみえた。たどり着く先が平凡な観光地では、面白くない。冬に備えて、もう一度ルートを考え直さなくちゃならないと、思った。
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手ごたえのない空なしさが残る

2018-09-25 18:53:16 | 日記
 
 半藤一利『歴史と戦争』(幻冬舎新書、2018年)が図書館から届いた。昭和五年生まれの人に私は、親しみを感じる。同じ午年ということもある。昭吾と名づけられた知人は、進駐軍相手に覚えたべらんめえ英語を駆使して敗戦後の日本復興を担い、しかしその体に沁みついた戦争体験を片時も忘れることのできない目を、政治や社会にむけている。そのひたすらさに敬服しているからだ。
 
 半藤一利も、その一人。歴史学というよりも、日本の敗れた戦争がどのように始められ、どのように進められ、いかに敗れ、にもかかわらずその当事者たちは、その後をどう生きているかと、執拗に追いかけて記してきた。おやまた書いたのかねと思って、図書館に「予約」した。
 
 また書いた、のではなかった。幻冬舎の編集者が半藤をよく知る別の(やはり)編集者に依頼して、彼の著書から選び出した「箴言集」であった。幕末から敗戦までの日本の流れを飛び石を踏むように辿っている。それを読むのは、まるで日本近代史を鳥瞰する視線を得たような気になる。そして何とも、読みごたえというか、手ごたえのない空白が胸中に残るような感触が湧いている。なんだろう、この空しさは。
 
 半藤が、戦後生き残った将校たちに取材して聞いている言葉が記されている。だが一様に口を閉ざして語らぬか、意気軒昂に日本防衛論をまくしたてる辻政信らの全く反省の色もない様子が筆致で描き止められ、「なるほど、この雄弁をもって作戦化をリードしたのかと合点し、大いに納得するところがあった」と記す。私は、ノモンハンの作戦を強行した辻政信とそれを許容し、のちに現場指揮官に責任を負わせて知らぬ存ぜぬを通した関東軍の将校たちを想い起した。
 
 ゲラ刷りをみせられたとき半藤は「……ひっくり返った。なぜなら……わたし自身をいやというほどみせられたからである」とあとがきに記す。「一所懸命に生きてきたこのながいわが生涯を、あらためて生き直す感を味わわされた」と感じたそうだ。そして、こうまとめる。
 
「あえて付け加えれば、わたくしをふくめて戦時下に生を受けた日本人はだれもが一生をフィクションの中で生きてきたといえるのではなかろうか。万世一系の天皇は神であり、日本民族は世界一優秀であり、この国の使命は世界史を新しく書き換えることにあった。日本軍は無敵であり、天にまします神はかならず大日本帝国を救い給うのである。このゆるぎないフィクションの上に、いくつもの小さなフィクションを重ねてみたところで、それを虚構とは考えられないのではなかったか。そんな日本をもう一度つくってはいけない、それが本書の結論、と今はそう考えている。」
 
 読後に感じた虚無感は、この本に感じたというよりも、この本に書かれ置かれた日本近代史に登場する政治家や軍人たちに感じた空しさだったように思う。思えば、司馬遼太郎が日本のエリートたちをモデルに幕末から日露戦争までを描き出すことはできたが、その後の日本の歩みを、ついに「物語り」にすることができなかったのは、そこに崇敬に値する生き方をしている姿を認めることができなかったからだ。つまり、日本のエリートは、昭和二十年の敗戦で終わったのだ。
 
 ではその後の日本は、誰がリードしているのか。敗戦に導いた元エリートたちやその衣鉢を継ぐ人たちが、反省のないままその席についているのか。とすると、その人たちを推しだしている民草もまた、反省をしていないのか。反省のないまま、次元を変えた競争場面の経済一本やりで、欧米の先輩国を見よう見まねで追いつき追い越せをやってきたかもしれない。何にも変わっていない。
 
 近頃の、繰り返し「日本人・大坂なおみ、全米オープンで優勝」を持ち上げる報道やアジア大会で金メダルがいくつと誇らしげな場面を観ると、やはり世界一(アジア一)優秀な日本人像にすがりたいのであろうか。そんなことを、思う。外にモデルを求めて、わが身を写していこうとするのをやめて、いい加減目を覚ませよと、幕末の志士たちも含めて「反省」を求めたくなる。いうまでもなく、司馬遼太郎にも。
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