mukan's blog

つれづれなるままに ひぐらしPCにむかいて

八十路意欲の衣替え

2023-06-20 06:09:31 | 日記
 久々の晴れが続く。そうだ、山へ行こうとお目当ての山を決めた。4、5時間の歩行だから朝早く出る必要もない。PCをチェックしていたら、返却期限が明日の本があることに気づいた。そうそう、これは面白そうと予約をして借りたはいいが外の本がいっぱいあって手がつけれれなかった。
 返す前にどんな本かざっとみておこうと読み始めた。『戦後思想の到達点』(NHK出版)。これが面白い。寝床に持ち込んで読み続けた。朝になって、山へ行くよりもこの本を読む方が先だなと思って、山行きを中止、本を読み終わって返却することにした。
 今朝になって、山への意欲が変わってきていると思った。これまでは、行くと決めたら前日から準備をし弁当や水を用意し、さかさかとで掛けていた。それなのに、これはなんだ? わが身の裡で意欲の世代交代が起こっているのかと思うような、異変である。
 来月、梅雨明けには久しぶりの日本百名山を計画している。本州のまだ登っていない百名山が二つあるうちの一つ、笠ヶ岳だ。歩程もゆっくりとり、新穂高温泉から2泊3日を掛けて経巡る。一日目の標高差1200m、2日目は600m、3日目の笠新道の降り標高差が1800mあって三大バカ尾根の一つとされている。歩行時間はだいたい6時間くらいとみているが、こんな異変をかかえていては、果たして登り切れるかどうか不安になる。
 遭難事故から2年、4時間くらいの山は歩けるようになった。だが、この意欲の代わりようには気づかなかった。いつでも行こうと思えば行けると思っていたのに、躰が書斎向きに代わってきているのか。意欲の衣替えだな、これは。
 街中は歩いている。4時間くらい、この暑い中をふらふらと散歩する。これはこれで、足元から躰に響くずんずんというリズムが体内の浄化をしている血潮の流れる音のように感じられ、心地よい。だが街中を歩くのと山を歩くのとではまるで使う力が違う。なにより筋力が要る。加えて呼吸がしっかりと整わなければならない。標高の高さも侮れない。そういう不安が、湧いてきた。こんな気分は70代にはなかった。
 八十路の意欲の衣替え、か。梅雨明けまであとひと月。それまでにトレーニングをするとしても、書斎向き意欲が勝っていては、筋力をつけるほどのことは期待できない。心して登らねばならないってことか。参ったなあ。


深掘りの起点(5)ヒトの現存在をみる視線

2023-06-19 10:17:06 | 日記
「人生まるごと空間」である教室の子どもたちに対して、教育行政がとっている方針は産業社会に適応する能力の育成という限定された機能的空間=学校という位置付けである(と前回の末尾で述べた)。その齟齬が「勉強/学習と理解」に現れているのが「ボランティア通信」の描く教室の風景であった。それを「息苦しい」というのは、すでにそれを経過し終わった後付けの言説である。子どもたち当人は、「それが人生まるごと」と受け止めているから(基本的には)適応するしかない。黙ってノートをとっていれば(取り敢えず)教師や親から文句は言われないし、学校ってこういうものなのだと思っているうちにある日突然「成績」という評価として降りかかってきて驚くというわけだ。「何だ半分ほどの子どもは分かっていない」という事態は、教師の側からみた齟齬の現れである。
 もう十年も前になるが、認知症に関して記述した「続々・おそろしい話」で、イヴァン・イリイチに触れたことがある。この方は、人が学校教育を通じて限定的につくり上げられていることを批判し、半世紀以上も前に「脱学校化」を提唱した。その源になる彼の指摘を紹介した。少し長いが、前のブログサイトが閉鎖されたためにこの文章はもう読めなくなっているので、その部分だけ改めて掲載する。
   *
★ エピメテウス的人間になれ
 ひとつは、イヴァン・イリイチです。この人の人となりは、ちょっと措いておきますが、プエルトリコなど中南米を中心にカトリックの司祭として貧しい人々の救援救済に力を尽くした人です。そのイリイチを追ったデイヴィッド・ケイリー編『イバン・イリイチ 生きる意味』高島和哉訳/藤原書店、2005年)では、イリイチが現代世界に二通りの人間がいると指摘したことに触れています。プロメテウスと彼の弟エピメテウスです。
 二人ともギリシャ神話に登場する兄弟。エピメテウスは、ヘシオドスやギリシャ後期の著述家たちによって、うすのろという評判を付与されています。対してプロメテウスは、神々の特権物を強奪することによって、応報の女神ネメシスを呼びよせた、つまり自ら世界を切り開いてゆく人間です。
《イリイチは以下のように記している。「古代の人びとは、運命・自然・環境に挑むことはできるが、そのためには危険に身をさらさなければならないことを知っていた…)現代の人びとはそれ以上のことをおこなっている。かれは自分の抱くイメージに即して世界をつくり、まったく人為的な環境を築き上げようとする。だが、その後かれは、そうすることが可能なのは、つねに自分自身をその世界に適合するようにつくりかえるという条件においてのみであるということに気づくのである」。》
 つまり現代の人間は、つねに自らをつくりかえることにおいて「世界に適合」しようとしなければ、生きていけない、それがプロメテウスだというのです。言われてみれば、経済の復活とか景気の振興をGDPに託して云々している私たちの姿は、間違いなくプロメテウスであり、その「世界に適合」するようにつくりかえる一端を担っているのが「学校教育」です。とすると、エピメテウス的存在とは、学校において不適合であり、逸脱をしてついにはドロップアウトするような存在を意味しています。
 そう位置づけておいてイリイチは、プロメテウスは「人々の期待」に沿うように生きるのに対して、エピメテウスはパンドラと結婚して)「希望」を抱いて生きる人を象徴している、とみてとります。そうしてそこに、近代の人間社会が陥ってもはや抜け出しがたく泥沼への道程を踏み出していることを救済する「希望」を見出したいとイリイチは考えています。近代のシステムにがんじがらめになっている事態を離脱し、[自然存在]としての人間の姿に、「希望」を見出したいと願っているように思えます。
 カトリック教会の系列に身を置いたことから人生をスタートさせたイリイチらしく、人間が生きるとはどういうことかを視界に収めて時代批判をしているのです。このエピメテウスの姿は先に述べた「認知症者当人」に重なるように思えてなりません。(2013/7/30)
  *
 十年前は認知症者当人を取り出している。だが現在の子どももまた、エピテテウス的に生きる道を閉ざされてプロメテウス的に生きる道筋に誘導されているというわけである。でも、人類文化の伝承という視点を組み込むなら、プロメテウスばかりでなくエピメテウスも暮らしを立てていかねばならない。読み書き算を知らないで生きていくわけにはいかない。今の社会状況が与件になって、それだけで子どもたちの生きる道筋は方向付けられてしまう。つまり、ある小学校の教室に見る「子どもたちの知/血的理解」の問題が、社会構造や気風と分かちがたく結びついているから、簡単に「脱学校」といって済ますわけにも行かない。その社会的根柢に「教え子教師」の困惑も「ボランティア老教師」の戸惑いも、ひと度足をつけてから、現場の実情にまで還ってこなければならないのだ。
 このときエピメテウスかプロメテウスかという二者択一にしてしまうと、たぶん遣り取りは現実論か理想論かという選択の様相を呈して、行き詰まってしまう。だが、たとえばこれまでに教育改革論を例にとれば、「ゆとり教育」として提起され(すでに間違っていたとして廃棄され)た方策を改めて検証して組み直せば、その中に「人生まるごと」を組み込める要素があると、直感的にワタシは感じている。あるいは橋爪大三郎が提起した教育改革論を思い出す。午前中だけ基礎的なこと(読み書き算)を教え、午後は自在に子どもたちが学び過ごす時間とするというモノであったと記憶している。それは、子どもたちの現在(実存空間)としての学校と大人社会の側が期待する将来(適応の教育)とを折衷することのように響いていたが、そこにもうひとつ便宜的な方策を組み込めば、面白い学校空間が生まれるとワタシは経験的に思っている。それが前回触れた「成績評価をしない」教室である。それは、親や大人社会の側がそれぞれの子どもを唯一無二の存在としてみるために、順位序列を放棄することである。
 順位序列というのは、人を全体の数の中に位置づけることである。それは、数として数えることができる要素で、実存在を限定することにほかならない。集団の中の個人という位置付けだ。唯一無二の存在としてみるとは単独者としてみること。比較も順位序列も全く関係なく、人それ自体の存在をみる視線が、子どもたちの成長空間にもっとも必要とおもわれるからだ。それは同時に、親や大人社会の子どもをみる視線に、現実存在としての人の姿を取り戻す作用をする。順位序列は、それの必要なときに必要なところで限定して取り扱うという自制を求めることでもある。
 こうしたことについて言葉を交わすステージを、親や大人社会はもっているだろうか。「当事者研究」というような真摯な議論として遣り取りする場面を、一体どれほどの親や大人がもっているかと考えると、何とも心許ない思いが湧いてくる。
 そんなことを夢想するのは、やはり八十路の老爺になったからではないかと思ってもいる。


深掘りの起点(4)文化伝承の原点

2023-06-18 08:51:43 | 日記
 子どもを教育することに関する社会の共通軸を「人類史文化の伝承」とひとまず措定しておこう。取り敢えずこう言えば、いろんな思惑を包括できる。
 だがこの伝承がどう行われているかに思いを致すと、どこでだれがだれになぜどう「伝」し/どう「承」けとっているかによって、大きな違いが生じてくる。ヒトの文化の伝承はモノの受け渡しのようにはいかないからだ。
 まず、何が受け渡されているか。文化という目に見えないもの。身のこなしや作法、振る舞いになっている関係の取り結び方など。習慣や習俗となっていて、教える側も身の無意識に沈んでいるようなこと。職人の親方は、その昔、技を盗めといったようだが、教える側も意識していないこととともに伝えることが必須になる。親が子に伝えることも粗方が、このようなことだ。
 ヒトのDNAはチンパンジーと98%は同じだといわれているが、ヒトも同様、98%は身が備えている与件として受け渡されている。その上の文化の伝承だが、これまた習俗・習慣によって無意識化されて伝えられている。そこでは、意志して言葉で伝えること以上に、感性や感覚、好みや傾き、なにより生きていく意欲の源が受け継がれている。
 ちょうど脳内の情報伝達が神経細胞の軸索から出力し樹状突起で受けとるときのシナプス(隙間)を教室としてイメージするとわかりやすい。情報伝達物質はシナプス(空間)を跳躍してレセプターと呼ばれる細胞に達し伝えられていく。このときの「跳躍」は、送り手と受け手の「関係」とシナプスのオーラを反映する。送り手の思うように受けてくれるかどうかは、分からない。情報伝達物質の濃淡を生むばかりでなく、送り手側の無意識も含め、それに対する受け手の好悪も反映して送受信される。何がどう伝わるかは、一概に言えない。ただ、情報伝達物質に、送り手の意志だけでなく無意識も含まれることは、忘れてはならない。
 現場教師からすると、まずここで生じるズレに直面する。教師の繰り出す「教えたいこと」は、場の空気と受けとる態勢ができているかどうかというシナプスを跳躍しなければならない。「先生のいうことをノートにとって」という「しつけ」が行き届いていると、「教えたいこと」はそっちのけにして懸命にノートをとるが、何も「教えたいこと」は届いていないという結果を招く。その子どもの様子に教師が気づくためには、教壇に立つワタシは児童にとって何者なのかを、恒につねに意識するしかない。
  *
 先日、TV番組で「中学教師の加重労働」が話題になっていた。萩生田元文科大臣と橋下徹元大阪市長がコメンテータとして出演し、部活動も担任仕事も生活指導も教師の仕事から切り離して、教科指導の専門家とするのが一番いいと意見が一致していた。橋下徹は元市長としての経験からであろう、聖職者だと現場教師が勘違いしていると指摘していた。
 その思い違いをなくして教科指導の専門家として(教科毎に分業して)取り組めるように学校現場の仕組みを調えようと提唱していた。そりゃあそれが上手く運べば一番いいかもしれない。これは学校教育を「学力養成」に限定している考えている。だが現実には、子どもの生活をまるごとかかえて、人類文化の継承を(アタマで考える)知的な領域だけでなく(無意識が受け継いでいる)身の振る舞い方をも伝承している。社会が多様化するにつれて子どもたちの身のこなしもさまざまとなり、それだけ齟齬しぶつかり合うことが頻出する。親も子どもも地域社会もその変容について行けず、あたふたしている。
 それもあって、学校の態勢を分業的に変えるだけでは決定的に不足である。社会全体の学校や教育や教師に対する見方が変わらなければならない。橋本や萩生田が提案するような(生活指導を担当するカウンセラーを配置することや保護者からの申し立てを引き受ける部署をつくって分業する)ことがなぜできないか。ことに小学校の児童にとっては(その心身形成の段階からして)学校が生活のまるごとの場面だからだ。それに応じて教師もまるごとの関わりが求められている。それが、現場教師が自らの仕事を聖職と思い込む根拠になっている。分業化すれば、間違いなく進学高校にみるように教師は教科の専門職になっていく。だが1/3ほどの学校では、教室秩序が維持できなくなる。それを小学校でやるとなると、たぶんもっとひどい情況が生まれるであろう。
 レセプターはまるごとの存在として学校に現れている。でも送り手は断片の専門家として教壇に立つとしたら、これはたぶん、児童の所作・振る舞いが集約点を失って拡散されてしまうからだ。集約点とはシナプス、「教えたいこと」の授受をしている場、教室の空気である。生活指導には別してスクールカウンセラーが取り組むというとき、教師や同級生や親や大人たちの無意識の立ち居振る舞いが醸し出すシナプスが、まるごと(やはり無意識にレセプターに受け容れられて)かたちづくってきた要素が、掻き回される。それはそれで混沌が生じるから、たぶん、ますます「教えること」も拡散する憂き目に遭う。
  *
 それはそれで教室の空気を拡散すると同時に開放的にするから、学校を窮屈と感じている生徒たちにはいいかもしれない。学校を「勉強するところ」と考えないで、毎日「人類文化の」何かに触れて人と交流する子どもの社会と考えれば、成績評価から解き放たれた生活空間としての組み立て方も生まれる。社会的には、学力とか将来役立つ能力の育成といった目的的な使命感で満たされて、子どもも教師も息が詰まりそうになっている。たぶん資本家社会的市場経済を生き抜いていかなければならないという人生の位置付けが、教育の社会通念として席捲してきたのであろう。しかしそれを、人類文化伝承のまるごと生活空間と位置づけて学校教育を設計することができれば、少なくとも息苦しさを取り払うことはできるであろう。
 だが、そうした視線を親や大人や社会や為政者が持てるか。経済成長を株価の高騰に照準を合わせて云々している現状をみると、いや、難しいなあと溜息が出るのである。


深掘りの起点(3)教える/学ぶの壮大なすれ違い

2023-06-17 09:19:23 | 日記
 老元教師の「ボランティア通信」を読んで「深掘り」が必要と私が考えた直接のきっかけは、次のような記述があったからだ。


(教師用指導書通りに教えて、分からない子がたくさんいたことに関し)もっと滑稽(!)だったのは、その分からない子たちを前の席に移動させ、説明を始めたのだった。こんなにも分かっていないのであれば、再度、全員に説明すべきだと思うが、そうはしなかった。このように、オーノー! と思うような指導(?)が、目につく。


 何だ、この老教師も分かってないじゃないか。その分からない子たちだけに再説明をしようと、全員に再説明をしようと、「ただ写しているだけ……それが勉強だと思っている」子どもたちに、どういう違いが生まれるというのか。つまり子どもがワカラナイのは教え子教師の教え方の拙さが原因という次元で見ている限り、この大きなすれ違いはいつまで経っても解消できない。ボランティア教師はこう続ける。


しかし、指摘する時間がないこともあるし、何より担任を傷つけないように言わなければならないと考えると、即アドバイスするというわけにはいかない。悩めるところではある。


 ボランティア教師は(たぶん)自分なら乗り越えられる事態だと思っている。「悩めるところ」は、教え子かを傷つけるかどうか。きっとこのボランティア教師は「いい人」なんだね。現場でいい人であっても構わないが、それをエクリチュールで対象化するときには、自分にも厳しく「事態」を見極めなければならないのではないか。
 何を見極めるのか。この「ボランティア通信」で描かれている事態は、教室の指導でなぜ学力の落差が生じるのか、であろう。むろんそれが、文科省の指導要領と現場児童(教師用指導書と現場教師の指導)のズレといっても構わないが、何がズレているか。文科省のそれは、学力という能力の機能的な育成だけを視野に入れている。だが子ども(あるいはその保護者/社会)は、環境のすべてを受けとり(受け渡し)、いつ知らず選別し、自らの感性や感覚、イメージや思考、判断力や実行力をまるごと身に刻んでいる。その過程で世の中とか世界といった環境に底流している脈絡を身のすべてを動員して自分流に作り上げているのだ。もし学校教育ということで大人が外から投げ込んでいるのが何かと、言葉になる部分だけをごく極単純化して言うと「世界の文法」をセレクトして教えている。ちょうど英文法を日本人が学ぶようなものだ。自国語であれば(文法として)ほとんど意識することなく日本語を使うことはできる。だが外国語として英語を学ぶときには、先ず文法を学んで身につける方が汎用性がある。今の話す英語と違い、昔風の読み書く英語を学んだ世代は受け止めている。それと同じだ。
 このズレが、教育意思側と学ぶ子どもの間には、端からある。前者はエッセンスであり、後者は全体である。当然前者は骨組みだらけ。後者は猥雑なコトゴトがすべてつまっている混沌。エッセンスは混沌を切り分ける骨格の初歩を取り出したもの。断片。子どもは身の回りの猥雑な混沌を切り分けて、ワカルことが求められている。
 そのプロセスは、混沌の海から綱引きをしてモノゴトを引き出しているヒンドゥーの教えのように、ボンヤリとしたイメージであり、教育方法論でも取り上げられてはいない。方法論的には、繰り返し巻き返し習熟させる方法が論題とされはするが、これはいわば「洗脳の方法論」。統治的な視線による教育論である。
 ヒトが生きることを自律的に身に備える技を身につけることについて実際は、現場教師の経験的な自己省察を梃子にして子どもと向き合うかたちで現実化している。だから現場教師がどれだけ自らの身に刻まれた文化的堆積を意識化してみつめ、その固有性を一般化して眼前の子どもたちに向けて繰り出す具体アクションとするか。その自己対象化という無意識の意識化が、現場教師論としては展開される必要があろう(と私は思う)。人との関係の取り結び方であり、所作、振る舞いの作法である。ことに小学校の低学年においては、一つの共通する振る舞い方のパターンを躾けることが第一優先になる。それは単純に、論理的に整合性が保てるかどうかではなく、子どもたちの置かれた情況によって多様で多彩であり、一筋縄ではいかない。教師と児童という二元一次方程式ではなく、世界のシステムと構造と階級階層谷歴史的蓄積が絡んで、三元二次方程式どころか、多元多次方程式を解くように、全人類史が絡んでくる。
 子どもの側からみるだけでも、なぜそんなことを勉強しなくてはならないのという疑問に始まり、モノゴトを分節化する蓋然性というか、必然性、必要性にはじまり、脈絡構成の蓄積経路と手順手管を身につけながら「世界の脈絡」を自分のものにしていくのだ。
 このボランティア教師は助っ人に入った教室のことを、


これは2年生のことだったが、1年生で習ったことを前提に説明していたのだ。しかし、多くの子が忘れていた。それを考慮に入れないでやったから、子どもの頭は?、?、?の状態だった


 と記している。つまり、教える側は(子どもの)アタマに投げ入れたと思っていても、子どもは身に刻まれていないことを簡単に忘れる。これは、学ぶ側は心身一如であっても教える側の知的枠組が、理知性を優位に立て意志(アタマ)が人(カラダ)をコントロールしているしコントロールできると(心身を分離して)序列をつけて考えている結果である。この理知性を優位に立てるところに、現今社会を生きていく道筋が作用して、ますます社会的に有用な理知性の育成へと大人の価値観は傾きを強める。こうして、子どもたちに降りかかる「洗脳の風」は、感性や感覚、価値観に至るまで、すっかりこの世的に染められて、ヒトとしてのあらまほしき姿を忘れているんじゃないかと、もうすっかり彼岸が見え始めた老爺は思っているのである。(つづく)


深掘りの起点(2)子どもと向き合う教師の立脚点

2023-06-16 11:13:43 | 日記
 教え子の教師が「教師用指導書」通りに教えようとしている教室の様子を、次のように記している。


指導書に書いていることを全部やろうとするから、時間も足りない。説明だけで一時間が終わってしまうことさえある。当然、うまくいかない。子どもたちは、まあ従順なので、言われたとおりにノートに写す。これはよくしつけられているなあと感心するが、それが学力向上につながっているとは思えない。ただ写しているだけ。子どももそれが勉強することだと思っているのだろう。質問はしないし、担任は質問を促すこともしない。


 ここに二つの疑問と一つの調和点が浮かぶ。
(1)なぜこの教師は、教室の子どもの様子に気遣わず、「指導書に書いていることを全部やろうとする」のか?
(2)なぜ子どもたちは「ただ写しているだけ。それが勉強することだと思っている」のか?
(3)上記が「子どもたちが従順」「よくしつけられている」ことで齟齬しない。
 三元連立方程式を解くようなものだ。教室が「平和な均衡状態」にあるということは、「解」が見つかっていることを表している。
 三元というのは、上記の三点がどの視点からみつめた事態かを考えると「主体」が解ける。(1)は教育行政の視点であり、たとえばその当事者である文科大臣は、親御さんの期待に応えていると考えているであろう。(2)は子どもの状態。「主体」としては、まさしく「それが勉強」なのだ。(3)は経験を蓄えた教師の視線。こちらも(1)とは別様の親の期待に応えている。それが学校なのだ。
 ボランティア教師が上記の状態を問題と見るには、上記三点について批判がなされなければならない。何を起点にして、この事態の起因に迫っているのだろうか。


その状態が一気に崩れることがある。……担任の教え方は間違っていない。しかし、分かっていない子が多い! どういうことなんだ? ……答えは簡単。これは2年生のことだったが、1年生で習ったことを前提に説明していたのだ。しかし、多くの子が忘れていた。それを考慮に入れないでやったから

 要するに「教師が子どもの状態に気づいていない」ことに主因があると展開している。その次元で切り取ればその通りの「解」が得られるであろう。現場の教師はいろいろな殻を着せられている。窮屈と感じたりおかしいと思っても、目前のコトに適応せざるを得ないから、まずは、ワタシの教え方が悪いのかと思案する(と思う)。
 だが退職してボランティアをしている老教師がそれと同じように状態を受け止めてどうするよ。現場の事態に臨んで、取り敢えず「解」を求めるには、遅れている子どもたちに目を配って対処するほかない。それが現場のアクションである。だが、その事態を文章にして表現するのであれば、その一人の教師の人柄とか能力の問題で片付けてどうするよ。いや、もし人柄とか能力の問題というのなら、なぜそのように限定するのかを述べてからでなければならないし、私なら、それは教員養成でどうしているのかとか、採用で篩うことのできるコトなのかと、思案は深みへ入っていく。それが、この「教え子教師」の抱えているモンダイを社会的次元において考えること。そうして初めてワタシも当事者として思案するモンダイになると思っている。
 話を元に戻す。
 まず(1)のようにこの教師が振る舞うのは、一つは彼自身の「知的権威」が「教師用指導書」に備えわっている「知識」と重なっている(とおもっている)からである。それは彼の思い違いではなく、教育行政の推進者たちの思う所であり、おおむね社会の共通認識になっている到達点である。
 でも、このボランティア教師が現場の事実として指摘するように半数近くが理解していない。こどもたちは(2)のように受け止めているからである。学校というのは、先生の言うことを聞いて、ノートをとって静かに過ごす所、とでもいうように。これは子どもが思い違いをしているのではない。学校の日常が身に刻んでいるのが、これだからだ。子どもたちはアタマよりもカラダで覚える。と言うか、先ずは触れて体験する。それがどういうことを意味しているかは、彼らの身の裡でそれぞれに文脈というか、文法というか、脈絡を組み立てては壊し組み立てては壊して、つねに組み立て途上にあるといえる。たぶん親や教師が無意識に振る舞っている部分まで全部子どもらは体験して組立を図るから、ずいぶんな勘違いをしていることも起こる。
 例えば、こんな話があった。二人目の弟孫は、興味関心がそちこちに移り飛び跳ねるお兄ちゃんと違って慎重であり、教わったことをきちんと一つひとつ始末していく。宿題もテキパキと片付けるし、忘れ物もしない。母親も、兄弟だのにずいぶんな違いがあるもんだと弟のことは感心し安心してみていた。その弟孫が夏休みに爺婆のところへ来て長逗留し、婆が宿題をみてやることになった。夏休みになって十日ばかりなのに、もうほとんど終わってしまっていた。中を開いてみて婆は驚いた。問題文とはまるで頓珍漢な答えで空欄はすっかり埋まっていたからである。
「これって、なあに?」
 と問う婆に、
「うん? うめろって書いてるからうめたんだよ」
 回答欄にある接続詞を適切に埋める問題であったか。前後の文脈に関係なく、まさしくテキトーに埋めただけであった。その後の夏休みは、婆がひとページずつ見て問いかけ、孫はふ~んと言いながら、はじめて宿題の面倒さが判ったように取り組んだことがあった。そんなものなのだ、子どもっていうのは。
 現場の教師がそれを知らないはずがない。じゃあなぜその「教え子の教師」は「教師用指導書」の通りにやろうとしたのか。せめてそこに言及しないでは現場報告の甲斐がない。
 私の推論。教え子教師は、そうせよと「命じられている」からである。
 1990年代から2000年代にかけてであったと思うが、国旗国歌に関して文科省が法で定め、現場に指示して口パクまで規制しようとした。そのとき、教育行政当局は現場の教師は行政当局の命令を聞くべき伝声管のような存在とみなされ、扱われた。現場に身を置いていた私のような古いタイプの教員は、そんなわけないじゃないかと耳を貸さなかった。国旗国歌が法的に規定されていないのは、そうするのが「自然(じねん)」と思う(尊崇の)心持ちがあってそう振る舞うのであって、法に規制しているからそうしろというのは却って国旗国歌の価値を貶めると思っていた。
 いや国旗国歌というコトだからそのように外から規制が掛かっても、たいした害はなかった(と私は思っていた)。それが学習指導要領や教科書を使うことや「年間計画書」通りに授業を進行させることが文書でチェックされ、「報告書」が求められ、反省を記述して翌学期の計画を再提出するという(行政当局の管理手法の)仕組みは、「命令」通りに運んでいるかどうかを管理職がチェックして教師をコントロールするものである。
 東京都がそうした方針を打ち出し、埼玉県もそれに倣って現場を「調え」たはじめたのが21世紀に入った頃であった。私はもう定年間近であったから、直にかかわること以外にはそれほど口出ししなかったが、例えば職員室で教頭が現場教師と遣り取りをしているのを聞いて、嗤ったことがあった。書道の教師の夏休み中の研修に「美術展」が入っているのを目に留め、「書道と美術は関係ないだろう。書き直して」と言ったこと。呆れてものが言えない思った。あるいは社会科の教師が西田哲学の関連書を読むと記していたら、「書名」と「(読んだ)頁数」「その要旨」も書いてくださいと訂正を要求したこともあった。この教頭さんの見識を嗤ったわけでもあったが、それ以上にこういうことに細々と指図がましく「管理せよ」と指示している教育行政は、もうすっかり教師をお上の伝声管と見なしている。そこには子どもの教育を任せているという信頼は、ない。もう二十年も前のことだが、その「災厄」がこの「教え子教師」に体現されてきていると思った。
 ボランティア老教師は、そこまで掘り下げてこそ「ボランティア通信」を出す意味があるんじゃないか。(つづく)