mukan's blog

つれづれなるままに ひぐらしPCにむかいて

五里霧中、街中で迷子になる快適な鳴神山

2019-10-31 10:27:24 | 日記
 
 昨日(10/30)の濃霧はすさまじかった。100m先がぼんやりと見えるだけ。車の速度も控えめである。今日の山の会一行の半数は、浦和駅で落ち合って車で向かい、登山口で落ち合うアクセス行程。ところが出発してすぐに、車のnaviは何度も「左へ曲がります」と声をあげて、あらぬ方向を指し示す。「おいおい、東北道はそっちじゃないよ」と嗤いながら、勝手知ったる浦和ICへ踏み込む。
 
 ところが、東北道に入ってすぐ、車線全部が車で埋まって止まっている。なんと、濃霧で久喜インターと佐野インターのあいだが閉鎖されていると「交通情報」。でもこうなってしまっては、仕方がない。ゆるゆるとすすむのにしたがう。別ルートの関越道をとった車はどうなったろうと、同乗のメンバーが電話を入れる。今、嵐山だと言い、やがて寄居だ、あと10キロで目的地だよという。そちらは? ええっと、こっちは浦和インターを入ってすぐの所、とこちらの状況を知らせる。岩槻に近づくと、岩槻インターから向こうは通行止めであると表示が出ている。インターの出口に押し掛けた車も、その先の北へ向かう一般道が渋滞していて、動いていないことがわかる。naviはとっくにこの情報を承知して関越道の方へ行けと示していたのだ。「おいおい、そっちじゃないよ」と言われていたのは、私の方なんだね。
 
 車の動きがいいのは大宮へ戻る路線。そちらから圏央道へ向かおうと、渋滞を背に一般道へ出る。白岡久喜ICへは、やはり渋滞している。桶川のインターが加納と北本と二つあるが、naviに出ない。上尾方面へ向かおうととりあえず川越方面に車をすすめる。五里霧中で街中で迷子になっているみたいであった。ここで同乗者が上尾に住んでいたことが幸いした。「あっ、その先、左、そうそう」とnaviの役、上尾市内を走る。ここまでで、出発してから2時間。もう笑うしかない。と、別動隊から「いま登山口に着いた」と電話が入る。そこで「吾妻山に登って、登山口まで下りてきてください。その頃には私たちも、そこへ着けると思います」と返事。縦走は省略することを決めた。
 
 北本桶川インターから圏央道を経て関越道を走り、北関東道で太田薮塚ICで降りて、桐生市の吾妻公園へ着いたのは、10時15分。kwmさんとkwrさんが山頂から降りて来たのはその10分後。山頂はたくさんの地元の人たちでにぎわい、皆さん散歩をするように、この山に登っているみたいという。じっさい、下山してきた二人連れが「気を付けて」と私たちに挨拶して帰途につく。あるいは、車でやってきた高齢者が「お先に」と言って、登山道へ踏み込んでいく。「いや、面白かったよ。岩場があってね。男坂が2つもあったよ」とkwrさんがmrさんに話をしている。「桐生の街が眼下に見えてね、いい山だった」と、これもkwrさん。
 
 2台の車で鳴神山の駒形登山口に向かう。11時5分、登り始める。kwrさんは疲れをみせず、ゆっくりした歩度で先頭を務める。台風に押し流された流木、崩れた崖が大きく道を塞ぎ、その一部を片付けて傍らに歩けるように踏み跡がつけられている。登山道に斜面に沿うようにちょっとした大きさの石が斜めに並んでいる。大水がつくった造形のように見える。沢の水は多いが、もう濁っていない。
 
 あまり手入れのされていないスギ林を左に、右に沢音を聞きながらのぼる。大きな岩が現れ、ごろた石を踏みながら沢床を歩いているようになる。と、また、スギの林が現れ、緩やかに標高をあげていく。上から降りてきた人を見ると、一週間前下見に来たとき、台風で傷んだこの道の整備をしていた方だ。向こうさんも私を憶えていたようで、「ああ、今日皆さんをご案内ですか」と挨拶を交わす。そうか、今日も上まで上って登山道を見ている。まるで山守のようだ。少し後で降りてきたペアが先を歩いている人たちに「女性は山を歩くと若返るから」と言葉を交わしている。私の顔を見ると「山頂の山小屋があるの、知ってます? ぜひ覗いてください」という。この人たちも、鳴神山の愛好者らしい。
 
 kwrさんは本当に時計で計ったようにコースタイムで歩く。50分歩いた「水場」に切り株の椅子があり、そこでお昼をとる。11時55分。汗もかかない。空気が乾きすぎてもいない。風もない。日が当たっていないが、心地よい。自分の輪郭を意識することなく、いまあるここに溶け込むようにほぐれてしまっているのが、好ましいのか。そんなことを考えている。
 水場から先が急登になる。と言っても、道はジグザグに切ってあったり、階段状にしつらえてあるから、難儀は感じない。やはり大きな岩場を回り込むと、上空が明るくなり落葉広葉樹のあいだから青空が見える。そろそろ肩の稜線に出るようだ。先頭を歩いていたkwrさんが「上からみると、紅葉しているのがよく見えるね」と声を上げる。黄色に変わっていた木の葉に加えて、茶色の木の葉が日差しに照らされて緑の木々の間に輝く。ところどころに緑のネットで囲んだ区域がある。レンゲショウマやカッコソウなどを保護しているとある。シカの食害に悩まされているようだ。山頂部には「アカヤシオを護るために」、何本もの木の幹にナイロンテープを巻いて、食べられないように手を入れていた。
 
 これもコースタイムで、稜線の方に着く。「山小屋」が目に飛び込む。3坪くらいの掘っ立て小屋。戸を開けて中を除くと、「祝 なるかみ小舎完成 2017年7月 雷神山を愛する会」と記した横断幕が壁に張られてあり、中央のテーブルには「桐生タイムス」という新聞が置かれている。その記事の一面には、「シカの食害深刻化/鳴神山のカッコソウ/愛する会が保護地にネット」とある。山小屋とは言うが、この保護のために登ってくる人たちの拠点なんだ。登ってくるときに出会った人たちは、この会の人たちなのだ。台風で荒れた道を整備するのは、いわば「おまけ」。ご苦労様です。
 
 鳴神山が雷神山と同じだとわかる。雷=神・鳴=鳴神=山なのだ。そう言えば、双耳峰のそれぞれにある山頂の鳥居には「雷神神社」とあった。地元の人たちは雷神を祀っているようだ。ふと思ったが、今日は風神の出番ではなかったのかもしれない。風神が出ていれば、濃霧の街中で迷子になることもなかった。
 
 鳴神山の主峰・桐生岳の山頂には木のベンチが6脚ほどあり、中央に、鳥居と3つの祠と(まだ緑が新しい感じの)榊様の葉が供えてある。12時55分。これも見事にコースタイム。kwrさんの歩度に感心する。気づけば、空にはうろこ雲とすじ雲の中間のような、薄く刷いたような高い雲が広がっていた。ベンチに座り日向ぼっこ。北の山々がよく見渡せる。赤城山が間近だ。遠方に、男体山、日光白根山、皇海山、袈裟丸山。その脇にあるのは武尊山だろう。西の方は、陽ざしに照り映えて見えないが、山頂の標識によれば、浅間山も富士山も見えるらしい。あの、ずうっと向こうのはなんだろう」とkwrさん。会津駒ケ岳か燧ケ岳か。そうやって山を見ながら、そこを歩いたことを思い出しながらボーっとしているのは、なんと心地よいのだろう。
 
 「そろそろ行きますか」というkwrさんの声に促されて気づくと、もう30分もぼんやりしていた。下山を開始する。下りにかかると、傾斜が急であったことに気づく。下りが苦手というmrさんも順調に下っている。ごろた石の岩場のところで、先頭のkwrさんがふと立ち止まる。「こんなところ上ったっけ」と、道を間違えたのではないかと思案している。うしろから「間違いないよ、登ったよ」と声をかける。吾妻山を往復したkwrさんが、くたびれてきているのだろう。濃霧組は、この山の往復だけだから、まだまだ元気が残っている。14時30分。これまたちょうどコースタイムで下っている。
 
 ここでお別れして、2台の車に分乗して帰途につく。北関東道へ出るまでが、ちょっとややこしかったが、5時前に浦和駅に無事帰着。いつもそう思うが、山から無事に帰り着くごとに、今日もラッキーだったと感じる。風神にこそ出会わなかったが、街中で迷子になりながら、なんとか雷神にお目にかかることもできた。何と幸いなこと、と。

親の歩みを記す自伝

2019-10-30 05:08:29 | 日記
 
 今日(10/29)雨のなか、神保町まで出かけてアニメ映画を見てきた。ちょっとした自己の精神の成育史を辿るような気分であった。このアニメ映画『エセルとアーネスト――ふたりの物語』は、レイモンド・ブリックスの原作。絵本「スノーマン」の作者が、自分の両親の半生を絵にして物語った。
 
 「ふつうを懸命に生きた」とチラシに書き込む。第二次大戦前のイギリスで結婚した労働者階級の青年アーネストと上流階級のメイドをしていた育ちの良い娘エセルが家庭をもち、子をなし、ドイツとの戦争を潜り抜け、戦後を迎えたが暮らしは楽にならず、子は育って上級学校へ進学するものの(母親の期待を裏切って)絵描きとなり、大学の美術教師となっていく。この夫婦の階級意識の違いが(社会関係の中で)浮き彫りになり、子どもへの期待でも差異が露わになり、あるいは息子の結婚に際して規範感覚のずれが表面化するというふうに、ごく普通の庶民の、ごく日常の暮らしにおける振る舞いと言葉遣いの中に、イギリス社会が直面しているモンダイが描き出されていく。両親の生涯を振り返ってみることによって、原作者・レイモンド・ブリックスの生育った時代が浮かび上がる。
 
 思うに、私より7,8歳年上のレイモンドの両親アーネストとエセルは、明治生まれの私の両親とほぼ同じ時代を生きていたのであろう。5年前、私の母親が亡くなったことを機に、書き残した遺品(書き付け)を整理しながら、父や母の生きてきた航跡を、時代の流れとともに振り返り、兄弟とその配偶者らとともに語り合って、一周忌に祈念誌を出した。その編集の折に私の内奥に湧き起っていた感懐は、これは親の物語というだけでなく、私たち子どもに引き継がれた文化的航跡の話であり(それを私たちが意識的に編集したことは)、まさに私たち自身の自伝だということであった。
 
 時代の出来事というと政治や国際関係や社会的に大きな事件などを指すように、ふだんは思っている。だが、レイモンドの描き出す両親の物語に陰影をつけているのは、文字通り日々の暮らしにみることのできる何気ない振る舞いであり、ことばのやりとりであり、そこに生まれた感触である。そこにこそ、レイモンドが両親から受け継いだ文化的な遺産があり、それがじつは、人類史的な営みのもっとも核心的な「生活」だということである。そう受けとめることによって私は、わがコトとしてこの映画を味わうことができた。
 
 もし政治や国際関係にかかわる人がこの映画を見るのであれば、ぜひとも忘れないでほしいことがある。それは、ここに描かれたエセルとアーネストの「暮らし」を護ることこそ、「公共の福祉」と呼ばれるものだということである。レイモンド・ブリックスのその願いが、イギリスばかりでなく、いまや世界中の人類にもたらされることを祈りたい。

際だったデータ分析の手法

2019-10-29 08:25:50 | 日記
 
 先月来、「コミュニティの消失」を考えてきた。また10/9の本欄で、「原点に還れない「惧れ」」と題して、少子化のモンダイや団塊世代と若者世代の格差の拡大にふれてきた。目に止まったので手に取って読んだのが、吉川徹『日本の分断――切り離される非大卒の若者たち』(光文社新書、2018年)。驚いたのは、データ分析の手法。なるほど、社会学者は、こうやって時代の特徴を浮かび上がらせるんだと感嘆している。
 
 子細は省くが、吉川は日本の将来像を描き出したいと考えている。簡略にいうと、団塊の世代以上がこの世から退出したときに、日本の社会はどうなるのかと、問題提起をする。この提起自体が、面白い。吉川がそう考えているかどうかは、じつは明確な言葉になってはいないが、私は高齢世代の数の多さや既得権、あるいはその世代が必要とする医療や介護のモンダイが今の現役世代の足を引っ張っているとはみてきた。だから、団塊の世代に代表される高齢世代が退出すれば、人口の急減にともなって限界集落の様相も変わるし、インフラの縮減も可能になる。そのあたりまでは見当がつくが、それは将来像というには漠然とし過ぎていると感じていた。吉川は、その将来像に迫るために、二つの社会調査のデータを分析して、現在の若者が引き摺るであろうモンダイを描き出し、面白い将来像をとりだしている。
 
 日本の社会学者は十年毎に大規模な社会学調査をおこなっているという。2015年には「第7回SSM調査と、第1回SSP調査という、たいへん信頼性の高い大規模学術調査のデータ」を持っているそうだ。そのデータ分析をするときに、私たちがあいまいなままに使っている「世代」を規定する。つまり、団塊世代とか現役世代というのを生年で明確に区切る。吉川のいう「現役世代」は2015年の時点で60歳未満の世代。そのうちの「壮年」とは1955(昭和30)年生まれから、1994(平成6)年生まれまでの40歳、50歳代。それに対する「若年」は1995(平成7)年生まれから2014(平成26)年生まれまでの、20歳、30歳代。
 
 この区切りが私には、わがコトのように感じられる。つまり、壮年世代と若年世代の境目に私の子どもたちが位置しているし、壮年世代の子ども世代(若年世代の少し下)に私の孫たちが位置しているからだ。この感触は、じつはたいへん大切だと、私は思っている。つまり、わが子(世代)や孫(世代)に迷惑をかけるわけにはいかないから、彼らのために何がしかの不自由を凌ぐ(と提起される)ことなら、引き受けてもいいと思うからだ。政府の施策に欠けているのは、この感触を持たせるに足る文脈をもたないことではないかと思う。
 
 さて、現役世代を明快に区切った吉川は、その世代の「格差」がどのような構成をもっているかに踏み込む。そして、「学歴」による格差がいわゆる「学校歴」によること以上に決定的であることを突き止め、「生年(壮年か若年か)」と「男/女」と「学歴(大卒か非大卒か)」に分節化し対比して、その差異を読み取り、そこに「非可逆性」を加味して「格差」の将来像を描き出している。吉川自身は、価値的な(固定的)序列をつけていないから、余計にその将来像は、私たちの来し方と子や孫の行く末を示していて得心させ、関心を惹くにじゅうぶんであった。吉川は三つの指標の交差する8パターンの「格差」をとりだしたのちに、8パターンの組み合わさった「世帯」を4パターンに絞り、さらに「格差」と現役世代の抱える「困難」の将来像を浮き彫りにするのであるが、それはまた後日に触れることにしよう。
 
 吉川の専門は「軽量社会学」と紹介されている。数値的に明快にされることに「まやかし」を感じていた私は、しかし、なるほど分節化するというのはこういうことかと感じ入っている。と同時に、社会学は、現状を変更しようという「欲望」を持っていないと感じた。それはまるで、庶民でしかない「わたし」たちが非力であることと立ち位置を同じうしていると感じさせ、好感をもたせるのかもしれないと思った。

地道に探索する関係に生まれるスクープ

2019-10-28 09:34:26 | 日記
 
 人と人との関係がものごとを新たな局面へ導いていくものの見方を動態的という。「あの人はこんな人」「この方はこういう人」と思い込むのは人の常だが、そういう概念的なものの見方が固着すると「偏見」になり、固定観念となる。それはとても息苦しい(と私は思う)。でも最近、「ワタシって、これこれこういうヒトだから」という自己表現が、若い人たちの間で流行っている。それはつまり、その若い人がとらえがたい「自分」というものをどこかにつなぎとめておきたいという願望の現れと感じる。どこにつなぎとめているのかって? ほかの人々の観念に滑りこませたいとでも言おうか。私のような年寄りは、もはや人にどのように思われているかはどうでもいいし、自分がどういう人間であるかは、呆れるほど感じさせてもらっているから、いまさら「自分」の正体をつかみたいという不安も湧き起らない。でも、動態的に人の関係を見るという視点は、大切にしたいと思っている。
 
 もう少し踏み込む。動態的に人の関係をみるというのは、人は(つまり自分も)変わるということだ。他人との出会いでは、見かけ、ことばつき、振る舞い、その他もろもろのものを通して、「印象」がかたちづくられる。いやな奴だと思うこともあれば、好ましく感じる場合もある。自分の受け止めた印象が「偏見」かもしれないと気づくことが、まず第一歩だ。「偏見」というのは「公正・公平」にみていないという気分が自身の内部に湧き起ることを意味する。たいてい自分は、不公正・不公平に人や世界を見ているとは思っていないから、自分の印象を偏見とは思っていないのだ。だがひょっとして「わたし」の見方は傾いているだろうかと内省が働けば、「偏見」が起ちあがる。奴に対するいやな印象はなぜなのか、好ましく感じている根拠は何にあるのかと、自分の感性を吟味することからはじまって「偏見」が解きほぐされていく。その契機になるのは、同僚であったり、友人であったり、思わぬ出来事がつくりだす事件であったりする。
 
 今野敏『アンカー』(集英社、2017年)は、上記の動態的とらえ方をうまく構成した小説である。TV局のプロデューサーと取材記者と番組の出演スタッフの「かんけい」を俎上に上げて、この著者お得意の事件に取り組む警察官を介在させ、事件解決の糸口へいたる警察官の歩一歩とそれにアクセスする取材記者の働きかけと、そのスクープを番組に組み込んで放送する人の動きが、見事に動態的に構成され、表現されている。この作家の持ち味なのだが、捜査や取材における探索が地道に行われ積み重ねられていく。その振舞いに私はいつも敬意を表さないではいられないが、その地道な探索が「関係」の中で事件の真相究明につながったり、取材記者のスクープになったりする。読み物として読むとするすると読みすすめて、ああ面白かったと終わることだが、こういう運びになる職場というのは、果たしてどのくらいあるのだろうか。近ごろ報道される出来事にまつわる会社や役所(や企業や行政現場)というのは硬直して「関係」の流動性が感じられない。旧態然としている。
 
 しかし、ときどき報道で「シェアオフィス」などに集ってフリートーキングをしている若い人たちがそれぞれが独立事業者として自在にやり取りしていたり、そういう起業希望者をサポートしたりするためのセッションが行われていて、「関係のコミュニティ」がかたちづくられていく様子がうかがわれる。ああこれも、動態的な関係なのだと、私は好ましく思っている。新しい芽は間違いなく芽生えている。旧態然とした関係がろそろ時代から退出して、新しい動態的関係の社会関係が広まるようになれば、多様でありながら「偏見」から自在な関係が大勢を占めるようになるかもしれない。そうなると、好き/嫌い、敵/味方、内/外を内包してはいるが、そういう価値的なものの見方をひとまず脇において、それらを包み込んだ協同的な流動的社会がやってきているような気がする。

つれづれなるままに

2019-10-27 08:08:00 | 日記
 
☆ 洗脳とプロパガンダと規範の伝承をどう区別するか
 
 今野敏『マインド』を読む。この作家らしく、犯罪モノ。物語は単純明快で、精神分析医や心理療法士がかかわって、クライアントの抑圧している蓋を取り去って出来する事件を素材にしていて、意外性がない。あまりに簡単に他人の内面を解放する名人芸的催眠療法によって……というのが、いかにも作り物臭い。だが読みながら、洗脳とプロパガンダと規範の伝承をどう区別してとらえることができるだろうかと考えていた。
 
 意図して「思い」を刷り込むという点では、上記三者の違いはない。精神科医や心理療法の専門家たちには、ちゃんと区別する概念があるのであろう。だが私たちヒトは、小さいころから環境の教えるところを身に吸収し、周囲の遣う言葉を身に備えて意を表明し、コミュニケーションをとる。ところが、自由な社会に生まれ育ったら「規範の伝承」であるが、北朝鮮のような外からの圧政下に生まれ育ったら「洗脳」だという区別をどこでしているのだろうか。あるいは、かつてのナチスをイメージするとわかりやすいが、嘘も百回繰り返せば本当になるという「プロパガンダ」が身に沁みこんで、社会が一方向に走り出すのは、「規範の伝承」とどう違うのか。それがわからない。
 
 言うまでもなく、刷り込む「思い」が「思う」主体の外部から意図的になされるのか、育まれる環境によって自然に身に備わるのかと言えば、直観的にはわからなくもないが、「意図的」と「自然に」との違いがどこに視点を置いてそう言えるかも、わからない。さらに「思い」の備わり方をその主体の外部から(の主体が)みているのかどうかを考えに入れると、どれもこれも、同じように思えるのだ。
 
☆ 「行間の恨み」って、何よ
 
 先日(10/23)のこのブログ。李御寧『「縮み」志向の日本人』に触れて《この本は日本の国や文化にたいする奥深い恨みを行間に秘めながら、日本文化を出汁にして「東洋には(日本以前に)韓国あり」と謳わんとしているものであった》と記した。その「行間の恨み」って何よ、と批判が寄せられた。疑問を持った方には、その本を読んでもらいたいが、数多ある「日本人論」を著者は、東洋に位置づけてみれば韓国にもみられること、「日本人の特性」というのは自己中心的すぎると、批判している。
 
 本書が1982年に出版されたことを考え合わせると、ちょうどジャパン・アズ・ナンバーワンと言われていた時代である。世界のトップを走っていた主軸産業である自動車でもアメリカを追い越した最先進国の話であった。しかし李は、日本の文化の先輩国は韓国なのだよと言いたい気持ちを抑えて、自己中心的な「日本人論」に浮かれている日本を戒めたいという動機を、隠しきれていない。それを「行間の恨み」と名づけた。李が意識しているかどうかはわからないが、日本のように先進国争いをする次元にない韓国に切歯扼腕して、日本に浮かれるなよと諭しているのだと思うと、彼のこの著書に掛けた「恨み」は、哀しい。つい先日韓国はWTOに対して「途上国」を返上したと報じられた。李さんはどういう思いでそれを耳にしただろうか。
 
 どなたも自己中心的に発想し、自己中心的に語りたがる。そういう癖を持っていることを自戒せよと読むのなら、特段とりあげることもない。得てして「日本人論」にはそういう傾きがあるし、ことに近頃のマス・メディアは、外から見る日本(人)の特長に焦点を当てたり、自画自賛的に「日本人の活躍」を報じたりする傾向が目につく。たぶんこれは、日本(人)の立つ位置が不安定になり、自己像を描きがたくなっている不安が反映されている。つまり、何を鏡としてみるかによって不安は醸し出される。バブル時代の自己像を鏡にして凋落する日本を意識させられるとき、少しでも良きことを拾い出して自分を励ましているのかもしれない。他を謗って自己像を確保するよりは、少しはましかなと思いはするが、やがて哀しきは、同じである。