mukan's blog

つれづれなるままに ひぐらしPCにむかいて

外に写す妄念を振り払うやり方

2019-06-29 16:30:48 | 日記
 
 作家というのは、取り上げたいテーマを横糸に、物語りの展開を縦糸にして、作品を書き上げる。もしテーマが前面に出てしまうと、まとまりのないエッセイを読むようになって、下手な論文にも及ばなくなる。ストーリーが急ぎ足になると、骨組みの構図ばかりが浮き彫りになって、薄っぺらな粗筋のスケッチを読むようになる。その両者がうまくかみ合うと、登場人物たちが独り歩きするようになって、読むものの胸の裡に広がる情景が起ちあがり、ひとや社会に対する深い奥行きが感じられて、ずっしりと響く読後感が残響を残す。
 
 いま読み終わった、宮部みゆき『おまえさん【上】(下)』(講談社文庫、2011年)は、まさに、そのような作品である。上下2巻で1200ページもある。だが描き出される物語は、ストーリー展開を急ぐでもなく、江戸の町民の日常を揺蕩うように描き出しながら、でも間違いなく歩一歩と進展する。
 
 標題の「おまえさん」に反して、宮部がテーマとして取り上げたい主人公は「女たち」である。女たちの胸中に去来する妄念であったり、執着であったり、愛憎であったりの思いが、人と人との絡まりにつれて揺れ動く。「男は莫迦だ。女は嫉妬だ」という悋気から解き放たれて、心たしかに暮らすには、どうするのか。それを宮部は、この作品の全編を通じて描き出している。
 
 「おまえさん」という言葉を発する女たちの、身を置いている安定感を支えているのは、何か。連れ合いが居ようと居るまいと、女たちの暮らしのたたずまいの確かさは、生業に従事し、人の面倒を見、日々の為すべきことを丹念に取り計らう振る舞いにある。それをおろそかにすると、妄念に振り回され、執着に道を誤り、愛憎に切歯扼腕することになる。
 
 江戸という舞台がいっそう「かんけい」の事態を明白にする。出自や身分、仕事や男女の違いによって「断念」しなくてはならない壁は、いくらでも目に見える。妄念や執着が行き当たる壁もまた、目に見えてそそり立つ。それは裏を返すと、今の時代に見えなくなっている分だけ、人の抱える妄念の振り払いどころが、わからなくなっているとも読める。
 
 面白いことに、この作品に登場する男たちに、しっかり者の女たちは頼りがいを求めていない。宮部が「おまえさん」と、好ましい響きを湛えて呼ぶ男がどのような人物かをとりだしてみると、何とも剽げた、一見頼りがいのない、ちゃらんぽらんの、遊び人風情か、律義に、坦々と、為すべき事を運ぶ職人や商売人である。つまり人が生きることの基本を押さえてさえいれば、わりと男っていい加減に生きているのよ、と見極め、女が抑えるべきところをしっかりと押さえて、食べ物をつくり、始末をしてやりなさい。そうすれば男たちが、そこそこ世の中を転がしていくもんだよと、宮部はみてとっている。
 
 いま大真面目にそういうことを言うと、ジェンダーだと非難の声が上がるに違いない。江戸という舞台だから許されている向きはあろう。だが、時代をこえて、男と女が織りなす世の中と見てみると、向き不向きをふくめて、男と女のあいだの傾きの違いを感じないわけにはいかない。女のことを語るのに「おまえさん」という男を経由し、介添えさせて表現するという手管にこそ、たんなるジェンダーモンダイに落とし込まない宮部の「腕」があるようにおもったのだが、どうだろうか。

社会的孤立と独立不羈の狭間

2019-06-28 17:39:45 | 日記
 図書館で週刊誌に目を通し、月刊誌をパラパラと読み散らして何日か経つと、どこで何を読んだかわからなくなるが、忘れられないモノゴトが、ぼんやりしている時にふと、思い浮かぶ。  TVをみていたら、しばらく前に登校のバス待ちの児童生徒に斬りかかって自らも首を切って自裁した「ひきこもり男」に、何年も言葉を交わさなかった伯父が「そろそろ自立したら」と手紙を書いたのが引き金になったのではないかと報道していた。55歳にもなって伯父からそのような「最後通牒」を突き付けられた「ひきこもり男」は、(とうとうその日が来たか)と肚を括ったのかもしれない。  思い浮かんだモノゴトというのは、40代の女性の「孤独死」を扱った記事であった。その記事の中で話をしていたのは「特殊清掃業者」。自殺や死後何日も経って発見された部屋を清掃する業者なのだろう。孤独死したその女性は、しかし、引きこもりでもなく貧困でもなく、一千万円を超える預貯金をもち、自立して仕事をしていたという。家を事業所としてネットで仕事を引き受け、着実に稼いでいた有能な方だったとらしい。  ところが死亡して発見されて清掃業者が入って分かったことは、インスタント食品の器が部屋中に散乱して、足の踏み場もなかったこと。満足に食事らしい食事もせず、ただただ仕事に熱中して稼ぎに稼ぎ、マンションの風呂場で倒れた。水が抜けていたために遺体が溶け崩れて、その臭いが排水パイプを通って下階の住人に異変を知らせ、発見に至ったというもの(であったか、正確なことは忘れてしまったが、この後の記述に触りはない)。  その記事を読んだとき、ああこれは、いつだったか朝日新聞が二度にわたって掲載した「ある研究者の死」と同じだと思った。二度の記事というのは、「(4/18)の朝日新聞社会面の記事」とその続報(5/21の夕刊)ともいうべき「ある研究者の死・その後 彼女は役に立ちたがっていた」である。記者は東京科学医療部の肩書を持つ小宮山亮磨氏の記名がある。上記二つの記事については、本欄4/19の「生きていくということ」と5/22「「役に立ちたい」は浮ついた自尊感情である」で取り上げているので、そちらを参照してもらいたい。  同じというのは、孤独死の女性も、自分の熱中する仕事にかまけて、自らの身体の面倒をみなかった。研究者の女性も、優れた研究に舞い上がってか(親が世話をするに任せていたからか)、自分が経済的に独り立ちすることを失念して暮らしてきた結果、極まったのではなかったか。とすると、この二人は、冒頭に掲げた「ひきこもり男」と同じく、「そろそろ自立したら」という声が聞こえてきたときには、もう八方塞がりだった。  つまり彼らの行き詰まりは、社会的孤立というよりは、社会的な依存が極まった地点で発生している。豊かな社会が生み出した人生モデルが、生み出した生き方を、三つのパターンで示している。極まるのは、自分の身を自分で賄う地平だ。  「ひきこもり男」は仕事をしないで、55歳まで生きてくることができた。ここへきて「自立したら」と最後通牒を突き付けられ、そのこと自体に反抗しなかったのは、突きつけた相手が伯父であり、当人は世話になって来たことを忸怩たるものと受け止めていたのであろう。  自死した研究者は、経済的に自立(依存?)しようとして結婚を考え、夫の世話をしなければならない現実に直面して離婚し、行き詰った。親の世話になるまいという自立への思いはあったのであろうが、経済的なよりどころとだけ考えて結婚されたのでは、ご亭主も敵わない。  そして孤独死の女性。個人事業主としてネットワーキングをこなしていたとなれば、仕事については時代の寵児的存在であったろう。だが、自分の身体のことを気遣うという最低限のケアをロスしたために、死ぬ破目になった。孤立していたからといえば、状況的にはそうだが、根源的には、わが身を自ら世話するということを失念していたからだ。  つまり、上記の三人は、豊かになった社会日本だからこそ存在することのできた生き方であった。それは、社会的孤立というよりも、どんな時代にも通じる人が生きる基本形を、身に着けなかったがためである。優秀な才能とか、優れた業績とか、驚くほどの稼ぎといって、社会的なおだてに乗って、資本家社会の交換経済にすっかりおんぶにだっこだったのではないか。  独立不羈の生き方が基本的に備えなければならない、身を保つ業や技を、子に伝えることを親の世代が交換経済の中で忘れてしまったとも言い換えることができる。社会的孤立というのなら、親の世代は、子ども世代に何を伝えているのかを、あらためて検討し直し、その伝える軸のなかに、わが身を自ら保つ以外にだれも面倒を見てはくれないと「独立不羈」の精神を書き込むほかないのではないか。そう思った。

納得できる矛盾――上州武尊山

2019-06-27 11:20:34 | 日記
 
 昨日(6/26)、今週最後の晴日というので、上州武尊山へ行った。朝6時に東浦和駅で一人拾い、関越道の高坂SAでkwrさんたちと待ち合わせ。予定通りの時刻に落ちあい、1台の車に乗って水上ICを降り、大穴スキー場あたりで湯桧曽川を渡って武尊神社へ向かう。武尊神社というのが、沼田の川場の方にもあって、naviに出ない。kwrさんは事前にアナログ地図を調べてきてくれていて、kwmさんがnavi役を務める。
 
 武尊神社手前の駐車場には、すでに10台ほどの車が駐車している。すぐそばに裏見の滝という観光名所があるから、全部が山へ向かったわけではないだろうが、結構な台数だ。9時7分に出発。ヒノキの木立の中に武尊神社はすっかり寂れて立っているが、9世紀半ばには「利根郡の宝高(ほうたか)神社」としてここにあったと由緒書きが記されている。車のわだちの残る未舗装の林道を30分ほど進むと、広い駐車場があり、5台ほどの車。ミニパトカーも止まっている。やはり登山者のようだ。
 
 その先の登山道を20分ほどで、手小屋沢小屋への分岐に出る。ここへ下山して来ると話して、先へ向かう。ホウの木やトチノキが青々と葉を広げ、白い花を葉の上部につけている。ヤマツツジが緑の間に明るい。ウツギの花がほんのりとピンク色をつけて、楚々としている。背の高い木々に囲まれ、陽ざしは照りつけているのに暑くない。「いい季節だね」と先頭を歩くkwrさんはご機嫌だ。
 
 武尊川の上流を徒渉したあたりから傾斜は急になる。木の根を踏み、岩をつかみ、身を持ち上げる。今日の標高差は1000m。しかも前半2/3の行程はなだらかな登山道だから、後半1/3の傾斜が厳しくなる。振り返ると谷川岳の山並みが雪をつけて、西側に壁をつくる。ムラサキヤシオの花が際立って鮮やかだ。マイズルソウ、コイワカガミ、ゴゼンタチバナが花をつけて手元にみえる。目を上げると、オオカメノキの咲き残りの白い花がみえる。ドウダンツツジのつぼみだろうか、たくさん葉の下にぶら下がっている。
 
 上から降りてくる何人かと、ぱらぱらとすれ違う。
「何時ころから登ったの?」
 と単独行の60歳代にkwrさんが訊いている。
「5時だったかな」
 と返事。逆コースを歩いてきた方だ。

 いま11時。とするとすでに6時間。私たちはここまで2時間かかっている。この方は、このあと下山に1時間半かかるとすると、全行程7時間半か。私は6時間45分と見たてていた。
 
 一息ついて木々の間をみると、北の方に沖武尊(武尊山)が雲をただよわせた青空に頂をみせている。その左の方には、今日下る予定の稜線の岩場が急角度で姿をみせる。「行者がえし」といったか。何年か前、手小屋沢小屋の方からここを歩いたとき、鎖が設えられていて、面白かったことが思い浮かんだ。大きな段差にysdさんがバレーを踊るみたいと笑っている。
 
 急傾斜を上っていて、kwmさんの気分が悪くなった。もう12時を超えている。彼女は「体不調」で先週の山を休んだ。五十肩の一種なのか、肩の腱がこわばり、ほぐすことができない。整骨医に診てもらっているようだが、本調子でなかった。今日の山も、「ムリはしないで」と言っておいたが、「何のこれしき」というのが、彼女の生きがいというか、性分。ギリギリまで頑張ってしまう気性が、私と違って際立つ。それがあるから彼女は、ここまでいろいろなことを頑張ってこられた。でも、それって困ったことなのよねと、私は何度か、歳を重ねることと体の頑張りが利かなくなることを話してきた。今日は頑張りのkwmさんだったが、上りの急傾斜に悲鳴を上げているのではないか。
 
 しばらく休んでとりあえず、あと10分ほどの剣が峰まで行きましょう。そこから引き返すことも考えてと、話す。ysdさんと私が先行する。アズマフウロのような花が岩に咲いている。コイワカガミの群落が、これ見てっと謂わんばかりに花を咲かせている。kwmさんの身体が重そうだ。最後の岩場を上って、剣が峰に12時35分着。山頂は狭い。川場スキー場の方から登ってくる登山道の幅しか余裕がない。だが、そちらからひとが登ってくる気配はない。すっかり季節を終わったシャクナゲの花が一輪。触れると落ちてしまった。灌木の奥にいま見ごろというシャクナゲが一輪。それをカメラに収める。
 
 北の方を見ると、剣が峰からの馬の背と山頂へつづく稜線の谷間に雪をつけた沖武尊(武尊山)とそれに連なる山々が東へと見事な姿を見せている。いかにも奥深い。その向こうは、たぶん尾瀬の山々になる。西へ目を移すと、先ほどまで雲に隠れそうになっていた谷川連峰に連なる山々が、やはり雪を残した山体をこちらに向けて立ちはだかる。

 「その向こうに見えてるのは、浅間山かい?」
 とkwrさんはいうが、方向が分からない。苗場山もあるし、中空に浮かぶ雲もある。だが標高は2000mを越えるだけあって、陽ざしはあっても、涼しい。
 
 お昼にする。kwmさんは野菜ジュースを飲んだだけで、食べ物を口にできない。来た道を下山することにした。kwmさんは申しわけないとくりかえしていたが、山ではそういうこともある。私のみたコースタイムで2時間45分のところを、3時間半ほどかかっている。後半部分をコースタイム通りに歩いても、下山時刻は5時近くになろう。急傾斜を下るのも大変だが、最初の1/3だけ頑張れば、あとはわりとなだらかなルートになる。「大丈夫です」というkwmさんのことばにリズムをつけるように、kwrさんが先行する。
 
 前が立ち止まる。kwmさんが指さす先に、ホシガラスが2羽いる。そう言えば先ほどから、ぎゃあぎゃあとしゃがれた声が聞こえていた。松の木に止まって鳴き交わしていたようだ。ysdさんもこんな標高のところにいるんですねと、覗き込む。標高は1900m。下山しながら上からみる花々も、なかなかいいもんだ。急傾斜の下りは身体のバランスを保つのがむつかしい。ストックを仕舞って降りている。私はストックを突いて下る方が、身体が草臥れなくていいと、バランスをストックに扶けられながら、下っていく。滑りやすい。段差の大きなところでysdさんは、身を降ろしてくるりと向きを変えて、先へ進む。へえ、オモシロイ。
 
 武尊川の上部を徒渉したのは、下山開始から1時間半ほど。あと1時間くらいかと見たのは、大間違い。えっ? こんなところ登ったかなあといいながら、結構な傾斜もあり、足元も緊張を要するところが何カ所かあった。ysdさんは、
「あ、これ、ギンリョウソウ」
「これ、ラショウモンカヅラですよね」
 と、立ち止まっては傍らの花をのぞき込んでいる。
 
 手小屋沢小屋との合流点に着いたのは15時少し過ぎ。そこから40分ほど歩き、武尊神社脇の駐車場に戻った。大きな観光バスが止まっているのは、裏見の滝の見学客であろう。駐車場の車は私たちのを入れて3台しかなかった。今日の行動時間は6時間40分。もし沖武尊へまわっていたら、下山は5時を過ぎたであろう。
「今度来るときは一泊するようだね」
 とkwrさん。kwmさんが運転するという。大丈夫です、山道ですからと笑う。彼女が運転し、高速に入る手前でkwrさんと運転を交代して、高坂SAについたのは5時半。ちょうどそのとき、交通事故があって、高坂SAから川越まで45分かかるとインフォメーション。下り線のSAに止めてあった私の車は東松山で降りて、ysdさんの勝手知ったる川島町の田圃の脇を通って浦和へさかさかと返ってきたのでした。
 
 けさ4時に目覚め(山を歩いて身体がご機嫌なときは、朝早く目が覚める)、新聞を開いたら、鷲田清一の「折々のことば」に、
《物事には納得できる矛盾と納得できない矛盾がある》
 と枕に降って、
《このうち感覚として納得できる矛盾は「大きな可能性を持つ」と美術家は言う》
 と紹介している。大竹がいう矛盾と、今回の山歩きのルート変更とは全く違うことだろうが、私は内心(そうだ、そのとおりだ)と、腑に落としていた。
 せっかく沖武尊を目前にして下山するって……と(読む方々は)思うかもしれないが、そうではない。今回のは「納得できる矛盾」であった。また機会があったら訪ねてみようという余韻が「ポジティブなあきらめの気持ち」として残っている。山歩きって、そういうものだ、と。

一つひとつの、つれづれ草の片づけ

2019-06-25 09:55:54 | 日記
 
 5月に管理組合の理事長を解任してもらって、いそいそとモンゴルの旅へ出かけ、その旅の記録をやっと一昨日(6/23)書き終えた。その都度アップした連載9回をひとまとめにして、二段組みにしたら20ページ余になった。400字詰め原稿用紙にすると80枚を少し超える。それを印刷して校正している。ついでにカミサンに目を通してもらって意見を加えてもらおうとしたら、読んだ後、旅のコーディネートをしてくれたngsさんに送った? と聞くから、「いや、まだ」と応えただけ。手直しのことを訊ねると、いやこれはこれでいいよ(あなたのおしゃべりなんだから)と応じて、それっきり。今朝、白馬に向かった。
 
 カミサンがそちらを読んでいる間に、私は、先月解任された管理組合理事長の合間に書き綴ったことごとを、ひとまとめにしようと考えた。ブログの素原稿のファイルから抜き出して、「団地というコミュニティ」と題してひと綴りにする。

 するとこれが、81ページになる。400字詰めの原稿用紙に直すと、320枚余。2018年2月の初めから2019年5月の26日まで。おおよそ1年4カ月の記録である。

 その期間に私がブログに書いたものの総量でいうと、どれくらいになるか。調べてみると、その期間に書いたブログのページ総数は535ページ。そのうちの81ページだから、15.1%にしかならない。むろんそれには、理事会に提示した「議案書」や「討議資料」は含まれない。あるいは、傍聴した「前理事会」などの理事向けの「報告」なども入っていない。

 ブログに乗せる関係もあって、ちょっとステップアウトして、管理組合理事会とか理事長仕事とか、その相互の関わり合いなどを外から見て、社会学風にというか、文化人類学的にというか、醒めてみている視線で書き記している。そういうわけだから、これはこれで、ちょっとした新書版くらいの分量にはなる。これも、暇に任せて校正し、プリントアウトして一冊にまとめ、遺品の書架に飾っておこうか。
 
 モンゴルへの旅は、今回で3回。これまでの分を全部まとめてみてもいいかもしれない。そんなことを考えながら、遺品棚を考えている。
 だれが読むの? とカミサンは冷たい。
 いいんだよ、私の自画像なんだから、私自身が描いていたってことで。
 
 生きた証なんて気取ってみても、「証」がだれにとって何のために必要かというと、だれも必要としていないことは、すぐにわかる。私の生きた証なんてものは、もうとっくに子どもや孫という存在として伝わっている。いまさら、名を残そうなんて考えてはいないし、残せる名もない。
 
 思えば古来稀になって、もう七年になろうとしている。人生百年などと恐ろしい話を、目下の政界は大まじめに言っているが、元気なうちにころりと逝くのが一番、世のため、人のため。何より自分のため。
 
 あとに何も残さないようにするってのも、いわば、ひとつの意思だ。それさえも捨てて、すべてを成り行きに任せる。何ともちゃらんぽらんの、いい加減な男がいたんだねえ。それもそれで悪くなかったようだねえ、とみてもらうのが、本意ではあるが、そのように目に止まること自体が、人為的な匂いがして、いやらしい。いや、生きていること自体、いやらしいことなんじゃないか。
 
 自然体というと聞こえはいいが、自然体は臭い。放っておくと、腐るし、ハエがたかる。「わたし」自身は旅立った後だから、その見栄えがどうであるかさえ、どうでもいいように思う。
 
 ははは。そんなことを想いうかべながら、つれづれ草の片づけをしているのであります。

探鳥の奥行きの深さ(3)政治とも絡まる鳥の奥義

2019-06-23 11:52:21 | 日記
 
 フルフ川のキャンプ場を出発した私たちは、バンディングを見に行くというのに、それとは違う方向へ車はすすみ、珍しくある針葉樹の森の方を抜けて、小高い丘を迂回していきました。聞くと、このキャンプ場のオーナーの爺さんが、その先にノガンがいたと情報をもたらしてくれたのだとか。ツグソーさんの人脈は、この辺りでも生きているようでした。4羽、2組のノガンが、草原に降り立ち、飛び去るのをばっちり観ることができました。
 
 草原を車で走っているとき、かたわらから慌てて飛び立つ小鳥をいくつも見ました。子育て中ということもあって、私たちの目線をそちらに引き付けるかのように激しく囀りながら飛び上がるモンゴリアン・ラーク(コウテンシ)もいました。「近くに巣があるんじゃないか」と探していたucdさんが草叢の小さな巣を見つけました。卵が三つ。抱卵中だったのですね。「あまり長く(私たちが)邪魔をすると、巣を放棄することもある」と誰かが話し、立ち去ったのですが。
 
 草原にみかけるのは小鳥ばかりではありません。ソウゲンワシ、オオノスリもクロハゲワシも、木々がないところですから(飛んでいるの以外は)、草に降りています。アネハヅルやマナヅル、オオチドリも(はじめのうちは)見かけては車を止めて双眼鏡やスコープを覗きました。ハマヒバリ、ヤツガシラ、カササギや各種カラスは、そのうち目もくれなくなりました。
 
 ツグソーさんの研究拠点、スフバートル県のハザラン村の保護研究センターは、舗装国道からさらに60kmも草原の凸凹道を駆け抜けた奥地にありました。5棟のゲルがあり、すぐ脇に風の吹き抜けるコンクリートのたたきを設えた四阿が建っています。尋ねるとBBQ場だと。そういえば、モンゴルのホテルにも、コンクリートのたたきに屋根をかけただけの素通しのバスケット場のよう施設がありました。日曜日などにここでBBQをするためにやってくる人たちがいるのだそうです。肉を食べる文化の欠かせない食事施設というところです。だいぶ離れたところに2棟のトイレ、その向こうではシャワーも浴びられるよと話していましたが(事前にガイドのバヤラさんが、シャワー設備ありませんといっていたので期待もしていませんでしたし)そこそこ寒かったので、だれも使いませんでした。ゲルは(ここだけでなくどこでも)夜、ストーブを焚いてくれました。ことにここ、ハザラン村のゲルでは寝袋を用意してくれ、それが珍しく、また快適であったとucdさんは、すぐにでも手に入れて持ち帰りたい様子でした。あとで分かったのですが、この寝袋はバヤラさんがウランバートルから用意してもっていったもの。実際私たち12人が4つのゲルを使用してしまいましたから、ドライバさんたちが泊まるゲルはなく、彼らは車に寝たということでした。
 
 さすがに保護調査センターのあるところは、ツグソーさんの仕事現場とあって、掌を指すようにお目当ての鳥をみせてくれました。まず、ワシミミズク。2羽の一組の成鳥が岩に止まっているのをみつけ、そのあとで、3羽の巣立ちしたヒナが親鳥とは離れたところの岩壁にてんでに身を隠すようにしているのを見つけてくれました。ucdさんはワシミミズクの羽を拾って土産に持ち帰りました。セイカーハヤブサが巣作りをしていると思われる岩場ものぞきました。
 
 研究センターから少し離れたところにちょっとした小さな町がありました。多分ここがハザラン村と呼ばれているところでしょう。大きな変電所があります。でも何を産業として成り立っている集落なのかは、わからずじまい。飛び散る紙屑と臭いがそこにゴミ捨て場があることを示し、それを見て人の生活を感じとるようでした。そこを通り過ぎて、小さな川の流れがある渓に入り、少しばかりある柳の木々などと岩場を飛び交うたくさんの小鳥やシラコバトなどをみて、さらに奥へと車を走らせました。サケイをみせようとツグソーさんはずいぶん力を使ったようです。じっさい、6羽のサケイが飛ぶのを観た人もいたようですが、しかと確認できません。だが小さな岩の上に姿を現したでコキンメフクロウを、スコープを通してとらえたのは、やはりツグソーさんの指さす先でした。
 
 6日目の昼、研究センターのゲルの脇で鳴き声がします。ツグソーさんが手招きをして、掛けた覆いをめくってみせてくれたのは、5つほどの金籠に入ったタルバガン(マーモット)。20頭ほどが今朝届いたとか。タルバガンをこの地に移殖するために、ウランバートル地区から運んでもらったのだそうです。それが思いのほか早く着いた。腹を空かせて鳴いているから少しでも早く野生に戻してやりたいと、ツグソーさんはこのあと、私たちを60km先の舗装国道まで見送り、ガイドを切り上げました。
 
 そのあと舗装国道を160kmほどを走って、4日目に泊まったウンヅルハーン村のホテルに一泊。その町の近くの川では、若い人たちが水浴びをし泳いでいました。そこでの探鳥も、カラフトムシクイやムジセッカなどを間近に見ることができて、なかなか興味深かったのですが、後で思い起こすと、この辺りからあと、翌日の探鳥と記憶が重なっていて、どこで何がどうであったかが、頭の中で一緒くたになっていることに気づきました。たぶんくたびれて、私の記憶の許容量を超えてしまったのでしょうね。
 
 この村からウランバートルへ戻る7日目の240kmのことは、すでに記しました。交通事故のこと、チンギス・ハーンのお祭りのこと。だが夕食のときに話題になった興味深いことに、二つ触れておきましょう。
 
 ひとつは、チンギス・ハーン記念碑の近くにある少し大きな池をのぞいたとき。オオハクチョウやコチドリ、シベリアハクセキレイなどを見ながら、対岸のシャーマンの踊る姿をみかけたところです。トイレを借りることもあって立ち寄ったのですが、そこでアカツクシガモの成鳥2羽が15羽ほどのヒナを連れて泳いでいるのを2組みました。身体の大きさもさることながら、親鳥と似ても似つかぬ姿のひな鳥が懸命について行こうと泳ぐのは、なかなか可愛くも興味深いものでした。
 
 ところが夕食の後でngsさんが「アカツクシガモの一腹卵数は、いくつかわかる?」と sshさんに訊ねて、そういう「領域」があったのかと気づかされたのです。ngsさんが言うには、種内托卵がある、と。つまり一羽の雌が一度に生み育てるヒナの数以上だと、ほかの雌が托卵している可能性がある。それを種内托卵というそうだ。じつは池でそれを現認したとき、私の双眼鏡では雄雌の区別ができませんでした。近くにいたスコープをもった誰かが、生長が2羽いることのを「あれは雄だね」といったのを聞いて、「へえ、じゃあ託児所だね」と言葉を交わしたのでした。託児所ではなくて、托卵なのか。面白いと思いました。
 
 それまで私は、ホトトギスやカッコウなどの杜鵑類が托卵すると思っていました。「種外托卵」といって、種内托卵と区別するのだそうです。なぜ、種内托卵するのだろうという話が転がって子育てが得意な雌もいれば苦手な雌もいると広がります。しかし、たとえばペンギンがほかのヒナはつつき殺してでも排除するのに、アカツクシガモのように平穏に子育てするようになるには、どのような(種内の)進化が起こっているのだろう、その種内の共同性の佇まいも関係して来るのではないか、と私は興味津々に耳を傾けましたが、アカツクシガモの一腹抱卵数は、そのときはわかりませんでした。帰国して後、6/19にngsさんから次のようなメールが来ました。
 
 「アカツクシガモの一腹卵数が解りました。8個だそうです。岩の隙間、崖の穴などに営巣し、自身の羽毛を敷いた上に産卵し、雌だけが抱卵育雛するようです。抱卵日数は29日位だそうです。/やはり、15羽+の雛を連れていたアカツクシガモは種内托卵によるものだったようです。」
 
 29日も抱卵するというのも、新しい驚きでした。探鳥というのも、奥行きはずいぶんと深いのだとあらためて感嘆しています。ngsさんのメールは、拾った羽根につても及んでいました。
 
 「拾った羽は、何の鳥の羽だったのか、手元の図鑑では解りませんでした。ノスリ、オオノスリかと思ったのですが、外れました。フクロウ類ではなさそうです。しばらく、楽しみが続きます。」
 
 研究センター近くのハザラン村そばの谷でワシミミズクの羽根をucdさんが拾ったのは、私も見ています。そのほかにも何人かが、羽根を拾っていましたが、ngsさんは、それも調べていたのですね。いやいや、頭が下がります。
 
 最後の夕食での、ngsさんとtkさんのやりとりも、興味深いものでした。口火を切ったのは石川動物園でトキの飼育にかかわっているtkさん。日本のトキが絶滅してのち、中国ではトキが生存しているとわかり、増殖技術が日本から中国へ譲渡されたのだそうです。そしてさらにのちに、中国からその御礼として天皇へトキの献上がなされ、日本では再び、トキの増殖をしています。tkさんの問題提起は、そうして日本のトキは滅び、中国から移入していま増やしているが、それは、ニッポニアニッポンを増やしていることになるのか、という疑問でした。(なにがモンダイなの?)とngsさんが、問いかけます。tkさんは、ニッポニアニッポンを残すということになるのか、単にチャイナトキニッポンを残すにすぎないのかと、問うていたように思いました。これも面白い問題提起だと思いました。誰かが「DNAを調べればいいんじゃない?」と口を挟みましたが、年間5000万円の(トキ)借用量を中国に支払っていることに関して、tkさんがわだかまりを持っているのではないかと私は感じました。トキを政治利用する中国への反発が根っこにあるのではないか。
 
 たとえ鳥のことといえども、政治と切り離せない現実。ただ単に、科学とか人類とか探鳥というだけでない政治や文化に関する絡まりが組み込まれている問題提起と受け取りました。現場でやりとりしていると、そうしたモンダイも避けて通れないのだろうと、感じ入った次第です。(終わり)