mukan's blog

つれづれなるままに ひぐらしPCにむかいて

秋色深まる

2022-10-31 08:02:20 | 日記
 久々に見沼田圃を歩いた。通船堀の西側部分は目下改修工事中。川床をさらい、小石を敷き詰め、その上に鉄の網を被せて泥鰌などは住めない水路に変えている。芝川が逆流している。東京湾が満潮に向かっているのだね。この辺り、たぶん標高で3、4mほどだから、こういうことが起こる。もし関東大震災が起こって津波が押し寄せたら、どうなるのだろう。海から30kmほどもあるから、ここまではこないか。我が家の標高が8mなのを思い出す。
 9時前だが、ちょっと寒い感じ。上着の下にチョッキを着てきた。ちょうどいい感じ。ゆっくりと秋が深まっている。一つ気づいたことがある。木々の大きさといい色合いといい、夏場よりも今の方が大きくて、緑色が深い。用水路沿いのサクラはすっかり葉を落としているが、照葉樹も広葉樹も、8月より大きく育っている。樹形が最大値になるのは10月じゃないかと思った。途中でチョッキを脱ぐ。
 調節池には葦や萱が背丈よりも伸びて鬱蒼とした感じを回り込んで入り込む。春には一望できる調節池の水面も、葦を刈り取ったところに行かないと大きく見えない。そういう所には、スコープや望遠カメラを据えた人たちが屯している。
 なぜ屯するのだろう。そう言えばソウルのハロウィンの将棋倒しも、ヒトが屯するからだ。あんな狭い、上野のアメヤ横町のような通りに、まるで昔のラッシュの乗客のように人が集まっている。渋谷の様子もカメラは写していたが、その比ではない。ヒトは本性的に屯していないとジブンが判らなくなる不安があるのだろうか。確かに映す鏡がないとジブンが何者かワカラナイ。でもジブンを映すだけならあんなに大勢で屯する必要はない。だが催し物にせよスポーツ観戦にせよ、観光にしても、大勢が集まるところに行きたくなる衝動が身に埋め込まれているのではないか。その本性が、ある閾値を超えたら、あとは孤独であることも平気になるし、むしろ屯することを煩わしいと感じるのではないか。ワタシはどこの段階で、一人でいることを好ましく感じるようになったろうか。
 車道を避けて森や畑を抜け、1時間余歩いて国昌寺の手洗いを借りる。このあと鷲神社を通ると見沼自然公園までに時間がかかりすぎると思う。えっ、これって、草臥れてるってことか? そう思いながら、見沼用水路東縁の道を辿って北へ進む。サクラは葉を落としているが、ハナミズキは葉を枝から垂れ下げて朱くなっている。銀杏は実を落として、あのクセのある匂いを放っている。自然公園に入ると甘い香りが鼻先をかすめる。カツラが黄葉しているのだ。
 幼い子がよちよちと池の方へかけていく。少し大きいお姉ちゃんがもっていたペダルのない自転車を放り出して、後を追いかける。スマホを見ながら付き添っていた母親が「危ないよ」と声をかけてみている。池にはヒドリガモやオナガガモが集まっている。大きなカルガモは気圧されてか隅の方にいる。オオバンも池の中央へ逃げるように急いでいる。そう言えば、調節池には、コガモ、マガモ、カンムリカイツブリも来ていた。カイツブリやウ、ダイサギやアオサギなどもぽつりぽつりとたたずんでいた。
 ベンチに腰掛けてお茶を飲み、ビスケットを食べる。草臥れたなあと身が訴えているようだ。10.7km、2時間20分くらい歩いている。市立病院の方へ抜けて、遠回りして帰ろうと考えていたが、最短距離を辿ろう。広い見沼田圃の中央を流れる水路に沿って総持院傍を通る車道に出て芝川を渡り、渡るとすぐに西縁寄りの細い畑作業道をあるく。ジャンパーが暑い。脱いで腰に巻く。近くの農家が「野菜売り場」を開いている。何かあれば買っていこうと近寄る。ほどなくお午だ。アラカンの女性が売主と何か話している。
 里芋を買うなら掘ってくるよ。1㌔くらいでいいかね。
 えっ、1㌔ってどのくらいあるの?
 そうだねえ、6,7個かな。
 じゃあ、御願いします。
 大根も持ってこようか。
 はい、いいですね。
 あ、そうだ、自分で掘る?
 えっ、いや、そういう服を着てないから。
 私も、里芋と大根はほしいと思ったが、掘ってくるのを待つほどの体の余裕がない。その場を後にして、東縁の方へ向かう。前の方を高校生くらいの男の子と母親らしい二人連れが歩いている。
 明の星の東側水路から東浦和駅に出る。駅前のロータリーのベンチに腰掛けてお茶を飲む。ホッとする。駅から家までの帰路、後ろから来たアラサーの、5センチくらいのハイヒールの女性に追い越された。自然公園から家まで7.2kmあった。1時間20分ほど。合計3時間40分ほど、17.9km歩いた。時速5キロってとこか。


門前小僧の受想行識

2022-10-30 06:30:16 | 日記
 昨日の記事「文化の戦争」の最後のところで、著者のことばを引用して「中国やトルコのような」統治センスだと「政敵の検閲を正当化するために反ヘイト法を利用しかねない」懸念を表明した。違う。そうじゃない。文化の戦争は法的な整備のモンダイではなく、すでに世間というか、私たちの生活の平場で戦争ははじまっていると思うネットニュースをみた。
 TBSが22日土曜日に放送した「報道特集」にフジTVが質問状を出したという。TBSの報道は旧統一教会の二世信者が「安倍元首相へのオンライン献花を呼びかけている?」というもの。番組は、二世信者へのインタビューで構成され、何人かの「呼びかけられた」とする手づるを伝って発信元を辿ったが、遂にわからないままになったというものであった。フジTVの質問状は、そういう世間の不確かな流言蜚語を番組として取り上げること自体が、旧統一教会に対する印象操作ではないかというもの。TBSは、確かな情報に基づいて取材し構成しているので、指摘されるようなものではない、という趣旨の返答をしたとあった。
 著者の言うような「恐れ」は、統治的センスの政治空間で問題とされることだ。私たちの暮らしの平場では、むしろ流言蜚語の応酬に満ちあふれ、それをSNSなどのネット空間は増幅し、加速している。それを「法的に規制する」というのは、端から統治的センスの問題解決法であった。それが通用するのには、ドイツの人々が共有する(エマニュエル・トッドがいう)哲学的な社会的共通感覚が必要になる。日本のような自然的な身の自然(じねん)を共有している一体感覚だけでは、統治は為政者にお任せになって、平場では、違う対処法をしなくてはならない。それだからこそ「文化の戦争」なのだ。
 どうしたらいいか。ことばとしては「情報リテラシー」と簡単にいう。だが、知的能力を高めて・・・などというのは、何も言っていないのと同じだ。ドイツの人たちがカントやヘーゲル哲学を常識のように共有しているように(たとえば)西田哲学や柳田國男の民俗学を共有していこうというのは、荒唐無稽な話しだ。
 文化の戦争は、日々日常の暮らしの中で行われている。私のような戦中生まれ戦後育ちの年寄りは、身に染みている或る種伝統的な文化の振る舞い作法が、SNSなどの発信に違和感を醸す。その違和感がなぜ起こるのかと、自らの躰に聞くようにしていくことが、情報リテラシーになっているのかな、と思う。
 えっ、なによそれ? と問われるかもしれない。
 昨日引用したエイミー・チュアのことば《往々にして、民族、性、文化、あるいは宗教を隔てる境界――わたしたちのアイデンティティの最も深い層――に沿って分断が起きる傾向にある》ということが、わが身の裡に起こっているのかもしれないと、まず最初の構えを作る。簡略に言えば、ジブンを信用しない地点から「違和感」の根源を探る。
「或る種伝統的な文化の振る舞い作法」がジブンの身を作っていると思っているから、その探索は、戦中、戦後の食糧難や混沌、経済の復興と高度経済成長、一億総中流という高度消費社会、そしてその崩壊と失われた*十年。その過程の、いつどこでこの「違和感」の素がつくられたのか。それはさながら自分史の総覧であり、言葉を換えて言えば、わが身から振り返る戦後史の総括でもある。
 そうして行き着いたところが、エイミー・チェアのことばじゃないが、「わたしたちのアイデンティティの最も深い層」の感触だ。
 いつかも書いたが、寿老人の一人「一万歩老人」が「ねえ、どうして人って憎しみあうんだろう」と溜息をつくように訊ねたことがあった。私が、カインとアベルの時代からそうじゃないか? と応えると、えっ、あんたいつからキリスト教徒になったのよと、すっかり神話を神話の儘に受け止めて笑ったが、それこそ世の初めから隠されていることが、わが身にきっちりと刻まれている。
 若い頃にはそれに振り回され、どうやってかワカラナイがいつしかそれをクリアしてここまでやってきた。振り返ってみると、仏教的な観想が一つの軸になっている。祖母が亡くなって暫くの間、母親が誦経するのに付き合って門前の小僧をしたことがあった。何を言ってるんだか判らないが、そのテンポ、リズム、もうそろそろ終わりだなという呪文が出逢いの一歩。その後二歩目の一歩は、濫読の御蔭で出合った仏教関連書やその解説引用本のあれやこれや。
 そして還暦を過ぎて引退後、四国のお遍路をして般若心経をしみじみと詠んだ。その一言一句をほぐしながらあじわってみると「色即是空 空即是色 受想行識亦復如是」というのが、身に響いてくる。悟達というのではないし、達観というのでもない。わが身を見る起点であり終着点の感触。どちらも、ずうっと遠方に見える。わが身が誕生する遙か以前からわが身を見晴るかすとそう見える。そしていま、そう感じられるといいなあという感触。わが身が人類史だけでなく、生きとし生けるものというだけでもなく、全宇宙の大海の中に一体となって溶け込んでいく感触に、そうだこれだと膝を打ち、生きているということは、目下受想行識の途次にあると観念することとなった。相変わらず門前小僧の儘である。
 つまり、生きているあいだずうっと、違和感を媒介にしてジブンと向き合って、なぜだ? どうして? と問い続ける。この自問自答こそが、情報リテラシーなのだと思うようになった。わがアイデンティティの根源に触る寸前というような感触で受け止めている。


文化の戦争

2022-10-29 14:51:47 | 日記
 旧統一教会に対する文化庁の「質問権」の行使が行われるという。それが「解散請求」に繋がるかどうか取り沙汰されているが、果たしてそんなことができるのか。マインドコントロールとメディアは言うが、そんなことを立証することなどでとうていできまい。となると、せいぜい「献金」を制限することとなろうが、そうなると旧統一教会ばかりか、多くの宗教団体が「質問権」を行使されることになるのではないか。だいたい寄付行為が一般的でない日本社会で消費サイドから切り込むというのは、どんな法的隘路があるのだろう。
 そんなことを考えながら、ユリア・エブナー『ゴーイング・ダーク――12の過激集団組織潜入ルポ』(左右社、2021年)を読んだ。ネオナチ、Qアノン、ISIS、ジェネレーション・アイデンティティ、トラッド・ワイフなどの過激組織に潜入し2年間に渡って取材したルポルタージュである。彼らがどうメンバーを勧誘し、主義主張を広く宣伝し、過激な行動へつなげているかを、著者が現場に乗り込んで取材している。
 サイバーテロやSNSを駆使した「勧誘」からいつしかヘイトクライムにのめり込んでいくプロセスが活写される。その活動の様子は、旧統一教会の手練手管が「霊感商法」という呼称が持つ旧弊なイメージとは全く違って、ごく日常的な関わりからヒトの最も根源的な欲求と欲望に触れて、人の心裡にじわじわと染みこんでいくのと同じ恐ろしさを湛えている。7月に元宰相を銃撃したyの母親のように、わが子の苦難をも顧みず信仰に投企し、事件の後もyの行動の起点に自らの振る舞いがあったことに気づきもしない。その「狂気」は、彼女がすっかり旧統一教会の「群れ」に帰属していることを示している。そのように、ISIS(イスラミックステイト)の残忍なテロでさえ、日常生活の延長上に発生しているかのように思わせる。
 「アメリカの部族主義がトランプをホワイトハウスに送り込んだ」と(アメリカを拠点とする部族主義の専門家)エイミー・チュアのことばを引用して、その特徴を「部族主義」と著者は見て取る。
《部族主義は人間の根源になるものだ。その力学には政治的な色もなければイデオロギー的な方向もない。とはいえ往々にして、民族、性、文化、あるいは宗教を隔てる境界――わたしたちのアイデンティティの最も深い層――に沿って分断が起きる傾向にある。そしてソーシャルメディアは、こうした境界を際立たせたいと考える周縁の集団に、彼らの部族を無理矢理押し上げるための武器を授けてくれる。その結果は不穏なものだが、それはまた予想がつくものでもある。》
 こうも言えようか。政治的な色合いとかイデオロギー的な方向というものはヒトの根源的な欲求である「群れる」ことの上着のようなもの。ヒトは自らの内発的な衝動を意識することなく上着を着て「繋がり」群れることによって、自己の実存を確認する。個人が直ちに狂気に走るわけではなく、上着を羽織ることによって狂気が芽生え、その振る舞いを「英雄的」と錯誤するようになる。それを上手く操作するように過激集団がSNSなどを通じてアクセスしてくる。
《これは、国際人でリベラルな「どこにも属さない者」と、地元に根を張った保守派の「どこかに属する者」の対立である。それを「価値観による部族主義」と呼ぼうと「アイデンティティ・ポリティクス」と呼ぼうと、どちらにせよデジタル時代はこの現象を著しく悪化させている。》
《国際人でリベラルな「どこにも属さない者」》の抽象性よりも《地元に根を張った保守派の「どこかに属する者」》の具体性の方に分がある。「神は細部に宿る」からだ。トランプの醸す熱狂も、ここに起点がある。ヒラリー・クリントンの「欺瞞性」も、彼女の理念的な呼びかけが上着とみなされたからだ。
 とすると、旧統一教会を「排除」するのはフランスの「セクト法」のような発想を日本の政治家たちがこなさなければならない。だが、宗教団体に対して(裏面での政治家との関わりが深いからこそ)腫れ物に触るようにおずおずと見ているだけの行政機関に、フランスのそれほど明確な指針が提示できるか疑問である。
 というのも、日本の「部族主義」は、自然条件に大きく抱かれて「自ずと醸成された心地良い一体感」に包まれた感触を土台にしている。しかし、「セクト法」が意味するような理念に基づく人為的な切除は、フランスのようなカトリックの伝統が根強く、その上知的エリートが取り仕切る階級社会だからこそ、庶民の苦難を救済するという視点で取り組めるている。だが、日本のような(八百万の神信仰が身に染みこんでいる)大衆平等社会に於ける心の救済システムである宗教団体に、行政的な介入は無理なのではないか。
 あるいは、ドイツのように、ナチス時代に行ったホロコーストとそれに対する厳しい自己批判を通して法的規制が成立してはじめて、実のある規制へと機能する。と同時に、エマニュエル・トッドが述べているが、ドイツ国民がごく一般的な通念として持っているドイツ観念論哲学の共通感覚をベースにしていてこそ、その法の施行が現実的な力を持ってくる。それとは異なる「自然に醸成された共通感覚」で結びついてきた人々の社会で、理知的な規制として作動するだろうか。
 先の大戦の戦争責任を曖昧にぼかし、戦争をあたかも自然災害に出くわしたかのように取り扱ってきた日本の、殊に政治家たちは「セクト」の意味合いが「部族主義」的に解され、直に人種差別的とかナショナリティを峻別する「アイデンティティの最も深い層」へ一足跳びに結びつきかねない。
 著者のユリア・エブナーは、こう警告する。
《ドイツは2017年にいち早く、バーチャル世界の過激思想のコンテンツを罰することにした。この議論を呼ぶ「ネットワーク執行法」は、アクティブユーザーが2000万人を超えるウェブサイトに対し、テロのプロパガンダやヘイトスピーチのコンテンツを24時間以内に削除するよう要求するものだ。これを浄化するための前途有望なモデルとなるとして歓迎した者もいれば、「他国にとっての危険な見本になる」と非難した者もいた。懸念されるのは、中国やトルコなどの余り民主主義的でない国が、政敵の検閲を正当化するために反ヘイト法を利用しかねないことだ》
 この末尾にある「中国やトルコなど」の為政者が持っている統治的センスを、アベ=スガ政治でみせてもらった。またそれが、それなりに選挙民に支持されてきたことを体験した者としては、そちらの方を懸念する。
 本書の著者・ユリア・エブナーが向き合っているのは、過激主義組織が繰り出す戦術ではなく、それに自らを投じていく人々の文化であり、身体性であり、そうしないではいられない社会的な構造とそれの醸し出す苛立ちである。まさしく、文化の戦争を闘わねばならない地点に着ている。そして、私たちも。


片付けの社会システム

2022-10-28 08:22:46 | 日記
 給水管給湯管の取替工事と風呂のリフォーム工事が終わった。
 実を言うと、風呂は別に不都合があったわけではない(と私はおもっていた)。だがカミサンからみると、あちこちに黴がつき、どうやっても取れないと苛々していたから、取替工事のときにいっそうのことリフォームしようということにした。何しろ32年も使っているのだ。
 給水管給湯管の取替工事を引き受けた業者は、オプションとしてそうしたリフォームを引き受け製品の仲介もしてくれた。風呂リフォームの大まかな希望を聞いて「要望書」を作りTOTOの商品展示館へ足を運んでくれという。行くと「要望書」はすでに届いていて、こちらの希望に添う商品を案内する。こちらは、風呂桶や壁色、鏡や物置台の要不要などを選択するだけで、さかさかと決めていける。わが身の不都合になったときのことも考えて、起ち上がるときに摑む手すりを風呂に取り付けた。カミサンは「介護が必要になったら、うちの風呂は使えないっていうから」と、人から聞いた話しをして、最小限の設備にした。もちろん新しい風呂は気持ちがいい。私は新しもの好きなんだとあらためて使い捨て文化に乗ってきたことを再確認する。
 とすると、と、私の思っていることが別の方へ転がる。
 新しもの好きのワタシが、どうして本やもう使っていない物の断捨離になかなか踏み切れないのか。リフォームには簡単に応じるのに、なぜ使いもしない物を溜め込んでしまうのか。
 リフォームとか給水管などの改修工事は、金属管の劣化という使用期限がある。風呂も黴が取れない、換気扇が劣化しているという機能的な不都合がある。つまり、私の思惑を超えたシステムが前に出ていて、ワタシの思い入れは、ほとんどカンケイなく用いている。
 ところが本や物品となると、ワタシの人生のカンケイ的な堆積がその物品に塗り込められているように感じているんじゃないか。本には、それを読んだときのこともあるが、その本を持っているだけで何だかちょっと違ったジブンになったような気がした思いも甦ってくる。花田清輝著作集とか林達夫著作集や神聖喜劇全5巻とか柳田國男全集などなど、学生の頃からのものも混じっている。果たして全部読んだかどうかも定かでないし、今となってはボンヤリとした印象すら更にボケて薄らいでいるのに、捨てるとなるとわが身を捨てるような心持ちになる。これって、所有するってこととカンケイあるのだろうか。
 ときどきに買い求めて読んできたそのほかの本も、手に取ってみていると読んだときの感触がじわじわと湧き出してくる。これはワタシの不思議のひとつだ。執着心というのとも違う。本に向き合うと何か不思議な秋気というか妖気が漂うというと妙な本を読んでいると思われるかもしれないが、その本に接したときの時代とわが身とその仲介をした本の実存的気配が湧き起こってくるような気がするのだ。
 さて話しを本題に戻そう。
 本の一回目の始末は、引き受けた本を買い取ってNPOに寄付するというシステムに乗っかった。寄付額は僅か3,000円ちょっと報告が来たが、これで残りの本も存分に始末できることが判った。ゆっくりとやっていこう。
 問題は、古いパソコンや使っていないオーディオの品。ネットで調べると大手家電量販店が宅配業者を通して無料でパソコンの廃棄をしてくれることが判った。だが困ったのは、宅配業者に任せるのに必要な段ボール箱がない。デスクトップの古いヤツは大きくないと収まらない。加えて記載する製品の番号というのが、どこに記しているのかわからない。ああそうだ、近くの量販店に聴きにいけばいいか。行って聞くと、ここへ持ち込んでくれたら1台100円で引き受けますという。一挙に二つの難題が解決する。車に積んで持っていった。
 車から運び入れる台車も、これを使ってと貸してくれる。廃棄を専門的に取り扱っている社員がやってきて、手を貸してくれる。機種番号はその社員も困っていたようだが、2台のデスクトップと1台のノートパソコン、モニターやキーボードなどをまとめて300円です、いいですか? と言う。ハイと言って私が財布を出そうとすると、笑って向こうさんが300円で引き取ると言った。一緒に持ってきたスキャナーとプリンタは、廃棄料各1100円を支払うことになり、差し引き1900円で、全部始末できた。
 オーディオ製品は燃えないゴミで始末していいとネット情報にあったので、思い切ってゴミの日に出した。ついでに大きなオーディ・ラックも大型ゴミとして出した。持って行ってくれるかどうかカミサンは後で確認しなきゃあという。
 郵便を出しに外へ出た帰り、ゴミ置き場から私の出したレコードプレーヤーをバンの荷台に積もうと運び込んでるオジさんがいる。これは処理業者じゃない。金目のものを物色する人だろう。廃棄するより使って貰った方がいい。私はホッとした。うちでカミサンにその話しをすると、さっき見たら未使用で廃棄しようとしたトースターも持ち去られていたという。でもね、と続ける。売ろうとして売れなかったらその人たち、そこらの公園に捨てちゃうんだよね、とマイ・フィールドである秋が瀬公園の話しをする。う~ん、そいつは、参ったなあ。
 夕方近くにゴミ置き場を覗くと、大型のラックも、アンプなども全部なくなっていた。やれやれ。これであらかたの電化製品関係は始末が終わった。そういう社会システムに上手く乗れたと言うことか。


始末の文法

2022-10-27 08:43:15 | 日記
 雲ひとつない青空。朝の内は少し寒いと思うほどで、外を歩くのが心地良い。ふと思い立っていつもの床屋に行ったら、「閉店します」と貼紙がしてある。
 この地にやってきたときは、30歳ほどだったろうか。もう一人若い共同経営者という感じのスタッフがいて、新しい髪スタイルに挑戦する競技会に出るような言葉を交わしていた。丁寧な仕上げが良くてその後ずうっと通い続けた。そのうち一人が独立したのだろう、姿を消し、おかみさんも櫛と鋏を持つようになった。
 夏前だったか、おかみさんが乳児をだいて娘さんであろう方とご亭主と、床屋前の通りで談笑しているところに通りかかり、挨拶を交わしたこともあった。そうかこの人たちも爺婆になったんだと、穏やかに過ぎゆく時を感じていた。
 先月の散髪はおかみさんがやってくれた。私はマスクを外して帽子と一緒にしまう。別のマスクを手渡し、してくれという。髪を洗い「いつものようでいいですか?」と言いながらバリカンを入れ、鋏で丁寧に整える。マスクを外して髭をあたり、肩を叩いてほぐしてくれる。50分ほどのこの手入れは、ひと月経っても崩れないほどのしっかりとした髪の型を作る。
 このところ近くを通るとき、定休日でもないのに、シャッターが降り、「本日休みます」と書いた紙が貼ってあることがあった。先月の経営者夫婦は元気そのものだったから、還暦祝いの旅行にでも行ってるのだろうか、それとも老父母に何かあったかなと思いつつ、わが身に起こった径庭を思い起こしていた。生まれ育ちがどこの方だったかも、知らなかったなあと、さして言葉を交わしたこともないことに思い当たる。
 そしてこの「閉店します」だ。都会地の幕切れはあっけない。関わりの空っぽさが、さっぱりして心地良いとも感じている。知らないこと、第三者であること、でも穏やかに人生の道を歩み、またそこに住まい方を大きく切り替えなければならないデキゴトも起こってくる。それは、幸不幸という価値評価を寄せ付けない、誰もが歩む道筋である。ここにも、次元の違うセカイがある。
 そうして昨日、いつも買い物に行く生協への途次、ニトリの入ったショッピングセンターの壁に「カット・ファクトリー1000円」と看板があるのに入った。順番待ちの男が一人。椅子をひとつ空けて座ると、その男が入口の方を指さして「チケット」と言う。なるほど、自販機がある。1000円と消費税100円を入れると、番号を記した紙が出て来る。陰になって見えなかったが、3人でやっているようだ。番号が呼ばれて椅子に座る。荷物と帽子とマスクは椅子の前のボックスに入れる。「スポーツ刈りに」と言って座る。電動バリカンで借り上げ、櫛と鋏を使ってさかさかと整える。後は掃除機のような大きな吸引器で切り落とした髪を取り払って、鏡を頭の後ろに掲げ、私がうんと頷くと掛けていた覆いを取り、肩や首回りの汚れを払うようにして終わった。洗髪も眉や生え際へのカミソリもない。髭剃りもない。言葉も交わさない。10分もかからなかったように思った。いかにもファクトリーであった。
 致し方ない。ま、これまでの4分の1の料金だ。もっと頻繁に来てカットして貰ってもいいかもしれないと思いつつ帰宅。夜、風呂で髪を洗い、髭を剃った。
 人との関わりとわが身の始末が、ほんのひと月の間に4分の1になったような気がした。薄くなり、軽くなる。こうして、世間には何のこだわりも残さず彼岸へ旅立つのか。そんな気がしている。