mukan's blog

つれづれなるままに ひぐらしPCにむかいて

変わった日本に変わった規範を――規範はどうかたちづくられるか(8)

2017-06-28 11:36:56 | 日記
 
 東洋経済オンラインを読んでいたら、《外国人が日本に来て感じる「美徳と違和感」》という記事が目に留まった。
 
《先日、知り合いのギリシャ人6人を連れて、東京観光をしました。日本が初めての彼らは、電車の中がとても静かだったことに驚いていました。ギリシャでは、電車に乗っているときでも電話で話すのが当たり前です。》
 
 と、ギリシャの人びとの振る舞い方と日本のそれとを比較して綴っている。その他にも、電車の停車駅や時刻の車内案内が丁寧に繰り返される日本の交通といつ来るのかわからないギリシャの鉄道、時間を守ろうと緊張する日本人、家族よりも公的仕事を優先する日本人、母親の料理の方がおいしいと新妻に告げるギリシャの亭主、踏切で電車にぶつかった人にお前が注意していないからだと非難する(踏切遮断機を降ろし忘れた)ギリシャの踏切手と事例をあげ、表題のような記事になった。
 
《ギリシャ人としては、日本のように規律を大切にすることや他の人のことを思いやることなど、見習わなければならないことはたくさんあります……(だが)……きちんとしているけど、息苦しいときもある》
 
 と締めくくる。私は、2年ほど前にこのブログに書いたことを思い出した。生物学者の福岡伸一に、「嘘をつかない、盗みをしない、他人に迷惑をかけない」という日本人の子どもの教育方針について「意見」を聞かれた文化人類学者のジャレド・ダイヤモンドはこう答えていた。
 
《……「他人に迷惑をかけない」という(社会規範がある)のは、私も初めて聞きました。おそらくアメリカ人が子どもに教えたいことの、トップ25にも入らないでしょう。ほとんどの西洋人にとって、他人に迷惑をかけるかどうかはどうでもいいことですから。》
 
 つまり、欧米社会の人びとは(自分が存在する以上)「他人に迷惑をかける」のは当然と考えている。「迷惑をかけてもいい」と言っているわけではないかもしれないが、それを「迷惑」と受け取るのは、そちらに「問題」があると思っているように見える。「迷惑」と文句をつけるよりも、他人と共に暮らすというのはそういうことだよ、とでもいうように。保育園の子どもの声がうるさいと訴える日本の住宅街の騒ぎも思い出す。欧米では、イヤなら自ら「共に暮らすことをやめな」というかもしれない。ヨーロッパを旅しているとよく耳に(目に)するが、「エクスキューズ・ミー」とか「パルドン」と言いながら脇をすり抜けていく。つまり、(私の通行が)「迷惑」をかけるから「ごめんよ」と声をあげ、コミュニケーションをとって断る。忖度したり気遣ったりするというのは、その場を構成する人々に社会規範が共有されていて、でも、それに対応できない人もいようから(その人が、迷惑をかけないで済むように)心遣いをするという「文化」が日本に広く通用している、ということだ。
 
 2年前のブログは、グローバル化の時代に日本の内向けの規範や美徳では通用しないことが多かろうと考えるのであれば、異文化の社会規範や道徳と決定的に異なる規範や振る舞い方を私たちがもっていることを意識して「寛容」の幅を広げていくしかないのではないか、と記した。それでも、経済関係における商取引では「契約」による「公正な」取引が前提にされているから、異文化とは言え、平和的に(金銭を介在させて)交通をはかれば、アメリカン・スタンダードかそうでないかの違いはあろうが、それほどの狂いはない。だが最近のグローバル化は、国民国家の政治や文化を介在させないではおかないから、経済的な取引だけではなく、まさに文化的な衝突が露わになる。そこで気づかいをし、あたかも共通了解があるかのように前提してやりとりをすると、とんでもない「迷惑」を被ることになる。
 
 つまり目下進行しているグローバル化というのは、外来の文化との衝突というよりも、共有する文化的基盤を失くしたもの同士の小競り合いと考えた方がいいという指摘であった。相変わらず、島国の(日本語を話す人々)という楽観に依拠するのではなく、日本語を話していても「迷惑」などは意に介さない(介せない)人々がたくさん混在していると考えた、社会構成とそういう社会に生きていく適応法とを「道徳教育」として盛り込むべきなのではないか。相変わらず「日本人の美徳」とか「日本の素晴らしいおもてなし」とか「伝統的文化」などと(ほぼ同じ社会規範を吸って生育した人たちばかりがいた)古い時代の社会規範を再興しようというのでは、まちがいなく適応不全になる若い人たちが多数発生することになる。古い時代の規範では「(共同社会への)依存性」もまた、無意識に刷り込まれ、助長されるからだ。
 
 新しい時代には新しい社会規範を。そう言いたくなるほどに、日本は変わってしまったと痛感する。
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「いじめ」は進化に不可欠――規範はどうかたちづくられるか(7)

2017-06-27 20:53:31 | 日記
 
 昨日、大槻久『協力と罰の生物学』が「いじめの快感」に触れた「実験」について、このブログに記した。それに対して「大槻がどういう実験をしたのか。本書を読めばわかるとは思うが、そこを記さないでは、あなたが何に信を置いて『いじめの快感』と思ったのかがわからない。」とメールをいただいた。たしかに、そこまでの、金井良太『脳に刻まれたモラルの起源――人はなぜ善を求めるのか』を読むのと比べたら、ずいぶん大雑把な紹介になっている。大槻はこの著書に「ヒトはけっこう罰が好き?」という1章を設け、「罰」にかかわるこれまでの考察を紹介している。
 
 ヒトは集団生活をするにあたって社会的な認知能力を必要とした結果、脳容量を大きくしていったと「社会脳仮説」を紹介する。その社会的認知能力がもたらした進化のひとつが「協力」。そしてもう一つが、タダ乗りをする「フリーライダー」に対する「罰」であったと想定して、実験経済学では「公共財ゲーム」を行っているという。被験者(たとえば4人)に一定額をもち金として与え、そこから「公共財への投資」を募る。全額投資してもいいし、投資しなくてもよい。ただ、全投資額の3倍の利益が仮定され、それは投資額にかかわらず公平に分配される。とすると、投資しない人は「丸儲け」になり、全額投資した人は(それがもし一人だったとすると)3/4しか戻ってこないことになる。これを繰り返していくとどうなるか。当然、投資額は減少していく。この「実験」の、今度は「罰」を加える。「罰を与えたい相手」を指名していくらかを「指名料」として支払うと、実験者はその人から罰としてお金を奪い取る。むろん「指名料」は戻ってこないから、指名者はその犠牲を払うわけである。ところが、「罰」ありの「実験」を繰り返すと、被験者の「協力レベルは大きく改善した」そうだ。「罰」の存在を知っただけで被験者は、「公共財への投資額を引き上げた」。
 
 ここで大槻は「なぜ人びとは罰を行ったか」と疑念を持つ。自ら犠牲を払って「罰」(指名)を行うことは、(公共財投資)全体への貢献にはなるが、自らへは単なる損失になる。さらに、自分は(投資はするが)「罰」を行わないで、利得だけを手にする「二次のフリーライダー」も出来する。そうなると、「罰」の脅威も減ってくる。公共財ゲームにおける「協力」自体が崩壊するのではないか。ところが予想に反して、罰ありゲームの協力率は高まった。それはなぜか、とつづける。
 そこに「評判」が介在するとみる。実験では、被験者同士が顔を合わせることはないのだが、「罰を行う厳しい人がいた」という「評判」は起つ。その「評判」が《直接互恵性や間接互恵性が罰の背後に潜んでいる可能性を示唆している》と大槻は読む。では「こうした互恵性の可能性を完全に排除した実験をしたら、人は罰しなくなるものか」と仮定して、実験をすすめる。つまり二度と顔を合わせることのない場で「利他的罰」は行われるか。しかし結果は、相変わらずであった。事前の「二度と会わない」という説明にもかかわらず、
 
《罰の存在は単なる脅しとして機能しただけではなく、他の人よりも投資額が極端に低い被験者は、実際に多く罰される傾向があった。》
 
 大槻は「頭でわかっているのに体でわかっていないというようなことが……起こりうる……(それほどに)我々は理性的ではない」と読み取る。「罰(のもつ意味)」が文化によって差があることにも分け入っている。
 さて「いじめの快感」については、「非協力的な人や不公正な人に対して罰を与えるときに、われわれの脳のなかではどのようなことが起こっているだろうか」と自問して、「被験者にお金を渡してタスクを行ってもらう経済学の実験と、そのときの脳画像を記録する神経科学の実験を組み合わせ」る「神経経済学」の分野に踏み込む。この実験の詳細は割愛するが、先述した「罰あり公共財ゲーム」とは異なった「信頼ゲーム」を行っている。ちょっと長いが、紹介する。
 
《二人の被験者AさんとBさんには10単位の金銭が与えられる。AさんはBさんを信頼して、その10単位の金銭を渡すかどうか選択する。もし渡すことを選べば、実験者がそれを4倍してBさんに渡す。この時点で、Aさんは0単位、Bさんは50単位を保有する。ここからが実験のメインとなる。もともとはAさんがBさんを信頼して渡してくれたお蔭で50単位を保有しているのだから、Bさんは期待に応えて25単位をAさんに返してくれるのが当然と思う。逆に25単位が返ってこない場合、AさんにはBさんを罰しようとする動機が生じる。このような場合、Aさんはいくらかを支払うことでBさんに損害を与えることができる。その最中に脳画像を撮影した》
 
 罰を行使できない場合に比べて、罰を実際に与えたときにより活性化している脳の部位を探したところ、「尾状核」が浮かび上がる。この尾状核は欲求が満たされたときに活性化することで知られる、報酬系と呼ばれる神経系の一部をなしている。つまり、罰を与えるときに「快感を引き起こす神経回路が活性化していた」のだ。大槻久は次のように結論的に読み取る。
 
《快感は、人がある行動をとるための積極的な動機となります。突き詰めて考えれば、ある行動に「快」の情動が伴っているということは、その行動をとることが進化の過程において有利であった有力な証拠です。罰と快感が密接につながっているというこの実験結果は、罰行動をとることが進化の過程で有利であった可能性を示唆しているのです。……このように人々は罰を好んで行い、またその行動には脳科学からの裏付けもあることがわかりました。協力をしない人を罰することで、社会において協力は促進されると考えられます》
 
 大槻の関心が「進化」にあり、この本もそのために書かれているのだからこのような記述になるのはよくわかるが、私は「いじめの快感」を読み取ったわけだ。ある意味では、人の本性的な「かんけい」において「いじめが快感」として作用する衝動を進化的に獲得したともいえるのである。
 
 大槻はそのうえで、先に述べた「罰あり公共財ゲーム」と「報酬あり公共財ゲーム」と「報酬・罰あり公共財ゲーム」の3種の実験を行ったケースを比較する。その結果、
 
《「報酬あり」条件でも、「罰あり」条件でも、公共財ゲームにおける投資率は、なにもないときに比べて高くなることが明らかになりました。罰の代わりに報酬を用いても、協力は達成できたのです》
 
 と、「罰」と「報酬」との比較的関係へ考究をつづけている。彼にとって「いじめ」が関心外なのは別に責められることではない。とりあえず私は、彼の紹介した「神経経済学」の脳科学的な考察が、思わぬ「いじめ」の本質を浮かび上がらせたと受け止めた。ここまでが前回への補足である。「罰にはまだわからない点も多いようです」と大槻は述べていたが、「いじめ」は道徳的な心構えで克服できる事象ではなく、ヒトが進化過程で人となっていくために「必要」とした不可欠のことなのではないか。そういう起点をはっきりとさせたいと思ったのだ。
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いじめは快感である――規範はどうかたちづくられるか(6)

2017-06-26 19:57:32 | 日記
 
 大槻久『協力と罰の生物学』(岩波書店、2014年)は、金井良太『脳に刻まれたモラルの起源――人はなぜ善を求めるのか』(岩波書店、2013年)がとりあげてきた共感と利他性を、もう一歩生物学的なレベルに移して観察し、進化の現段階を解き明かそうとしている。
 
 まず、生物の中に見られる様々な「協力」に目をやる。台所のヌルヌル、これは有機物にとりついた細菌が「協力」してつくりだした多糖類がその正体。これによって排水溝の表面に流されないでとどまる膜状のバイオフィルムをつくるのだそうだ。一個の細菌では到底かなわない水流に、「協力」してバイオフィルムをつくって抵抗する。これをつくるに値する状況にあるかどうかを(それぞれの)細菌はシグナル物質を読み取って見極めるという。キイロタマホコリカビは、食べ物が乏しくなると多細胞の集合体をつくり、背を高くして先端に付けた胞子を遠くへ飛ばして飢餓を避けるという。そのとき、背を高くするために20%のキイロタマホコリカビが犠牲になり、80%の個体が生き残るチャンスを作る。こう聞くと、アリ社会における働きアリを思い起こす。あるいはイソギンチャクとクマノミ、大型魚とその寄生虫を食べる掃除屋・ホンソメワケベラとのような「共生」関係も例示として上がる。
 
 では、その「協力」や「共生」にタダ乗りするやつはいないのか。むかし日高敏隆らが研究した働きアリの研究では、20%は働いていなかったと報告されている。そこで、働いていないアリばかりを集めたところ、その80%は働きだした、とも。また逆に、働きアリばかりを取り出してひと集団をつくったら、やはりその20%は働かなくなった、と。つまり、なぜかわからないが、20%の働かないアリを抱えていることによって、集団の「危機管理(何か危急の事態が生じたときの対応)」がなされていると説明をしていた。
 タダ乗りするやつはいるのだそうだ。生物学の世界では「フリーライダー」と呼んでウィルスの世界からも、その存在が確認されている。しかも、日高敏隆の観察のように予定調和的には運ばず、フリーライダーばかりを集めたアミメアリのコロニーは、誰も子育てをしようとせず卵は腐りはじめ、衛生状態もの面倒をみようとせず、惨憺たるありさまになったという。
 
 大槻久はこの「協力」と「タダ乗り」の関係を人間の世界に持ち込む。その間に、昆虫や動物における「血縁関係」がどう作用しているかに目を向ける。ウィリアム・ハミルトンは「血縁者の間でならば協力行動が進化できることを」示した。そうして一人の進化生物学の研究者・ロバート・トリヴァーズに着目する。彼は、「直接互恵性理論」を提起する。必ずしも血縁でなくとも「もちつもたれつ」という関係に入ることを意味している。さらに彼は「フリーライダーに関する警戒心の進化を予測した」と大月は評価する。
 心理実験に「囚人のジレンマ」という「数学モデル」がある。「裏切り……すなわちフリーライダーになる魅力と、互いが協力してもたらされるよい結果が決して両立しないことを教えてくれます」と大槻は紹介する。それを介在させて「間接互恵性理論」が「血縁関係が助け合うという協力」の進化のかたちだと設定している。「情けは人の為ならず」という俚諺が浮かび上がり、道徳心の誕生につながる。
 
 大槻は「罰」の諸形態を、昆虫や動物の「進化」をたどりつつ、人の世界における「罰」へと論及をすすめる。「人は裏切り者検知が得意であり、検知されることに敏感」「罰は、互恵性の可能性がないときにも起こる」「報酬と罰は共に協力関係を促進するが、それらの役割は必ずしも対照ではない」と説くが、その一つに、私の気を惹いた「実験」があった。「人びとは、自分が他者を罰することに快感を覚える傾向があります。しかし、他者が他者を罰していても、その評価をあげようとはしないのです。……罰にはまだわからない点も多いようです」と、結論付けている。
 
 おおっ、これは、「いじめの快感」に触れているのではないか。「いじめ」がいじめる当人にとってどのような効用をもつのかは、とりあえず棚に上げておく。だが、「じぶんが行う罰は好き」というのは、そうすることによって「じぶんが、いじめられている当人とは違う」という確信を得ているのではないだろうか。「いじめは良くない」と格言的に教えても、それが効果をもたないのは、「いじめる快感」に通じているからである。これを出発点にしない「いじめ」論は、どんなものであれ、意味がない。
 
 大槻の論及は、こうして、「協力と罰」という社会システムが、どのような「進化的根拠」をもち、私たちの現在に「存在」しているのかへと、話しを繋げる。規範がどうかたちづくられるのか、佳境に入る。
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やはり耄碌

2017-06-24 10:22:22 | 日記
 
 昨日、後期高齢者になる人向けの「自動車運転免許証・更新時講習」に義務付けられた「認知症検査」を受けてきた。自動車学校の教習がはじまる前の早朝の1時間半。15人ほどが来ている。この人たちが上の階にある「検査室」へ移動するのを見て、これが同じ年代の人たちかとわが目を疑った。階段を上がるのが、なんともおぼつかない。いや、おぼつかないから車に乗っているのか。そう思うと、頑張ってくださいねと声をかけたくなる。逆に言うと、私は、全然これに引っかかるとは思ってもいなかった。
 
 記憶力・判断力の検査だと趣旨を説明し、この結果によって、さらに医師の診断を受けたりするかどうかをお知らせするという。なぜ私がダイジョウブと思っているか。私は山の会を主宰している。月2回の山行を(そのうち1回は会のメンバーが交代でCLになって)する。そのときの山行記録を書く。あるいは、鳥観の旅に連れて行ってもらって、その旅の記録も書く。そのとき、あまりメモを取らない。時間順に記憶に残っている部分を想い起し、書きつけていく。移動した経路、利用した路線、宿泊した宿、その食事など、目にしたもの、耳にした話、印象に残る出来事など、一つひとつ思い出して書き記す。たぶん、想い起せないで捨て置かれていることもあるし、前後が入れ替わっていることも(何日もかけた旅だと)あった。だがこれが、トレーニングといえばトレーニング、朽ちていっているとしたら、それはそれで素直に受け入れるしかないとカンネンしている。でもまあ、それなりに「記録」になっているから、記憶力はそこそこと思っていたわけである。
 
 まず、年月日、曜日、今の(推定)時刻を書く。これが第一段階。ついで、16枚の絵を見せて「憶えておいてください」という。ふ~ん、ま、大丈夫だろうとタカをくくる。続けて、一桁数字の乱数表を見せ、それから指示した数字を消していく作業を二個、ついで三個と行う。これもページ一杯の末尾までやり終える。
 
 そうして次に、16枚の絵にあったモノを書きだせという。さかさかと書いて行ったが、12個を過ぎたところで、はたと止まった。はてなんであったか。あとの4個が浮かんでこない。そうか、覚えようという努力をしないと、記憶にとどまらないのか。わが身が耄碌をし始めていることに気づいて、愕然とした。その次の作業が16枚の絵の「ヒント」を手掛かりにして書きだせというもの。「文房具」とか「台所用品」とか「動物」という「ヒント」が書きだしてあり、それが何であったかを想い起す仕掛けになっている。こうして「ヒント」をもらうと16個の記憶が次々と思い浮かぶ。これは苦も無く書き終えたが、はたして、私のダイジョウブという「記憶」はなんであったか。時間順とか、行程順とか、地理的な動きや「関係の記憶」と、モノやコト、それ自体を何かと関係づけずに記憶する「モノ自体の記憶」とが別のことなのではないか。私の山行記録や旅の記録は、つねに「関係の記憶」であった。鳥の名前や植物の名前をきっちりと記憶することは苦手。苦手というよりも、そういうことに意味を感じないから覚えないという「バカの壁」をつくっている。鳥や植物を関係的にとらえることができるようになれば、(たぶん)名前も記憶に残るようになると居直っているように聞こえるかもしれない。たぶん居直っているのだろうけれども、だからといって、耄碌してないと誰も言ってはくれない。
 
 この「モノ自体の記憶」の欠点は露わになった。一応それだけで、90点台の結果をもらって、次の更新時講習を待つことになった。やれやれ。
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窓を通して世界をみる――規矩準縄を打ち破る衝動

2017-06-22 11:46:31 | 日記
 
 今月の「ささらほうさら」の講師はnkjさん。お題は「My photo」。この方が写真やカメラや被写体とどう向き合って来たか、40枚ほどの写真をみせながら来歴を語った。それは彼自身の身の輪郭を描き出す振舞いであるとともに、彼が「世界」をどうみてとってきたかを浮かび上がらせる話しであった。なかなか興味深い響きを湛えていた。
 
 仕事をしているときにも、札所巡りをしたり五百羅漢などの石仏を観に行ったりして、ときどきカメラにおさめてはいたそうだ。だが、「写真を撮ることに夢中になり羅漢はろくに観察しなかった(ことに)気づいた……写真を目的にしないときはカメラを持参してはいけない」と自らに禁じ、以後、目的的にものごとを観ることに心を傾けたという。まだ、デジカメが流行りはじめる前の話である。
 
 「写真を撮ることに夢中になり……」という話には、私もちょっと思うところがある。私は山歩きを主として日々を過ごしてきたが、定年後はただ山を歩くだけではなく。鳥を観たり植物を観察したりすることをすすめられ、師匠を得て、教えてもらってきた。鳥観の先達たちは双眼鏡をつかう。スコープも使う。私は師匠から譲り受けた双眼鏡を持ち歩き、ときどき師匠のスコープを覗きこませてもらって、鳥観を愉しんではいる。そのとき気付いたのだが、8倍の双眼鏡、30倍のスコープは、見事に鳥をクローズアップして、眼前においてくれる。はるか50m、100m先の鳥も、間近に引き寄せる。ほほお、あんなに顔周りが多彩な色のグラデーションに彩られているのかと、見なれたシジュウカラに感動したり、ヤマガラに驚いたりする。光の当たり具合によって変幻する色合いにも目を瞠る。双眼鏡やスコープでみる対象は、「世界」をみているというよりも、対象だけを「世界」から切りとって「名づける」分節化をしているのだ。
 
 「世界」を「地」とすれば「鳥」という「図」を取り出している。いつであったか旧知の友人から「鳥や草花を観て名前を知るって、だから何なの?」と聞かれたことがある。「なんだろう、親しくなるってことかな」とあいまいに答えて、そのまま棚上げしたことがあった。だが「親しくなる」ってどういうこと? という疑問はずうっとつきまとってきた。いまはこう言える。「親しくなる」というのは、「世界」が我が身の一角を占めること。つまり「鳥」や「草花」を分節化して名前を識るってことは、それまで無明混沌の海に没していた世界の一部が我が身の輪郭のひとつを占めるように意識されることだ、と。「じぶん」はいまだに、生まれ落ちた子どもの延長上にあって、混沌の海から「我が身」を引きずり出しつつある。引き摺りだした分だけが「私」として意識される。無明の混沌のすべてが「わが世界」であったものが、分節化するごとにその分だけ「じぶん」が「世界」から切り離され、心細くなる。親から、近親者から、ご近所から、友人から、社会からと、緩やかに分節化は広がり、それはますます「世界」から「孤立するじぶん」を照らし出す。「ひとりで生まれ、一人で生き、一人で死んでいく(わたし)」と観念する。
 
 それに耐えきれなくなるところで「わが身」の身体に刻まれた「安定装置」が起動し、連れ合いを求めたと、今ならば言える。「安定装置」は私の内的な衝動だ。連れ合いが同じように感じていたかどうかは、いまとなってはわからない。ただ、互いの生育歴中の文化(的な差異)がせめぎ合い、あるいは(互いの)遠慮や思い遣りや加害意識が補完的に作用する。そのようにして、文化の差異を埋め合わせ、あるいはそれが主題ではないと棚上げし、そのうち忘れて(差異など)どうでもよくなり、生活習慣としての同一化に馴染み、ふと気づくと半世紀を過ごして互いに「元気で留守がいい」と感じるようなパターンができあがっている。
 
 「親しくなる」というのは、無明混沌の海に没していた「世界」が引きずり出されて「わが身」に一体化する鳥羽口に立つこと。鳥観や植物観察について、いつまでも門前の小僧である私は、ひょっとすると、簡単に一体化することを拒んでいるのかもしれない。あるいは、もうこの歳になって、いまさらそこまで「世界」を引き寄せたくないと、世界の初めから刻まれしバカの壁がうめき声をあげているのかもしれない。あるいはまた、師匠と同じ領域を生きることをしてはいけないと、なぜか制動をかけているのかもしれない。そこにもまた、じぶんの自然観が働いていると感じてはいるのである。
 
 話を元に戻そう。nkjさんは、2005年にデジカメを手にする。そうして「なぜ、風景、鉄道、人物などではなく花が好きなのか」と、対象の選好について自問し、母親の影響を取り出す。これも「じぶん」の輪郭を描き出す鳥羽口に立っていることを示している。彼はその写真処理をパソコンで行う。そのうち、母親のフィルム写真をパソコンに取り込んで保存することを行うのだが、その気質の方にむしろ、彼の生き方が表れていると私には思えた。
 
 花に魅かれた彼は、イヌタデの写真を示して「少し写真が小さいのでわかりにくいと思うが……ふだん自分の眼で見たものと違うように見える」と記す。ここに「窓を通じて世界をみている」感触が垣間見える。さらに彼は「花の写真でさえこう感じるのだから、人物を専門に撮っている人はすごく感じているのではないだろうか」と話しを広げる。面白い。そのように人は、「世界」の感触へ触手を伸ばし、じつはじぶんの関心事を予感している。彼は「カメラを提げて子どもや人物に目を向けていると誤解されるから、できるだけそういう場に身を置かない」と付け加えたが、私はむしろ彼は、「誤解」されるほど人物に関心を向け、カメラを向け、ときにはその対象人物の、意図して身につけているものを引きはがして見て取るような鋭い視線を送りたいのではないか。そうなると面白いのに、と思った。そこを突破しないと、「一眼レフで撮影した方が、画像に深みがあると感じる」という彼のセンスを、解き放つことはできないのではないか。芸術へ向かう衝動は、抑えることを排撃する。世の規矩準縄を踏み外すことなく70年も生きて後に到達した地平であれば、たとえそれが世の規範を逸脱していようとも、冒すに値する冒険だと私は思う。
 
 古希をすぎてみれば、もう何も恐れることはない。不良老年と謗られようと、誤解されて逮捕される憂き目をみようと、それはそれで、これまで経験したことのないような体験を味わえるかもしれない。ある窓から「世界」を覗く(カメラ)というのは、それほどにきわどいスリリングな「目撃録」だと私は思う。「写真は私の眼ではとらえきれないものを映し出す」と、写された画像に思いもよらない発見をすることがあると記している。カメラというメディアをもって世界を見て取ろうとする芸術への衝動を、ぜひとも開花させてもらいたいと思った。
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