mukan's blog

つれづれなるままに ひぐらしPCにむかいて

12年目に突入する外部記憶装置

2018-11-30 17:01:37 | 日記
 
 11月30日は、11年前にこのブログがはじまった最初の日。2007年。65歳になった翌月に起ち上げた。今日から12年目に突入する。だからなに? と問われて、何か意味があるようなことを口にするのは、はばかられる。ただの日録だ。だが一回りやって来たことになる。継続は力だと、若いころはよく耳にした。それは、継続することでその領域の能力を磨き、センスを高めることに通じたから、それなりに頷きながら心の習慣になるように身を処酢と考えた。だが今は、能力を磨いてどうする。センスを高めるったって、身は日々衰えを見せている。センスだけが高まったりすると、身の程知らずになると、身体がどこかで承知している。
 
 それでも、ブログって3年続けばいい方と、その道を知る人は言う。とすると、11年ももつのは、良い方じゃんかと自画自賛したい気持ちも、ないわけではない。でもねえ、その中身たるやほんとうにたいしたことではないから、自賛しても仕方がない。ただ飽きもせず、11年も書き続けたってことが、ひょっとすると、鈍感の証明だったり、センスの退化を示すものだったりしていて、歳をとることと並行しているのかもしれない。
 
 ブログに書きつけるという作業は、独りでできる。誰かが読んでくれるとか、どなたかが評価してくれるという期待をもったりしないで、ただ坦々と自分に向き合って心裡に垂鉛を降ろす。ときどき自分で読み返してみることがあると、ほほうこんなことを考えていたのかと、誰か別の人の文章を読むような感慨を持つ。そう思うとブログに書きつけるってことは、別のじぶんに出逢える機会を、自分で仕組んでいることなのかもしれない。それは、意外と面白い。
 
 さて、11年前の「2007.11.30」には鬼石の冬桜を観に、友人のkさんを誘って出かけている。いまkさんとは半年ほど逢っていない。彼が山歩きをやめたからだ。
 
 10年前の記事をみる。2008年のこの前夜29日は、勉強会がおわってから、お酒も飲まずに早引きして帰ってきている。風邪を引いていたのだ。
 
 9年前の11月30日(月)は大学の授業に出かけている。まだ、仕事をしていたんだね。前日の日曜日には昭和記念公園でモミジをみながら、昔馴染みとお酒を酌み交わす会に顔を出した。そしてブログを11日間もさぼっていたことを、詫びるように書いている。気鬱であった、と。そう言いながら、お酒を呑む会には顔を出すのだから、鬱って言うよりも、無精が昂じたってところじゃないか。
 
 2010/11/30には「朝、歩いているだけでうれしくなる」とタイトルをつけて四日分の動静をまとめて記している。「このブログの4年目の元旦」とも書いているから、やはり特別な日という感懐は(元気とともに)あるのだ。
 
 2011年の11月末には、2日前の大学での授業のことが書いてある。学生が「原発」の問題を取り上げた。「原発をやめようというのは言うまでもない世論」というのに、私が、「どうして」と噛みついて事態が明らかになった。受講している学生8人のうちの4人が福島出身だったのだ。そこで、そういう方向へ話が転がっていったことを印象深く記している。思えば、2011年という年だ。まだ生々しい場面にも出くわしていた。いまのように(と言ってもわずか7年だが)忘却の彼方に起こった出来事のようには、メディアも扱ってこなかった。ボケるのが早いなあと、わが身ばかりでない、ヒトの頼りなさ、儚さを思う。
 
 ま、こういうふうにおぼろになり始めている私の記憶の外部装置として、ブログは機能している。独りでできるっていうのが、なによりだね。

対照的な里山

2018-11-29 07:01:54 | 日記
 
 天気が崩れるかもと言われた昨日(11/28)、秩父盆地の入口にある埼玉県寄居町の里山を歩いた。来週行く予定だった、この山のチーフリーダーが「鎖骨骨折で行けなくなった。あとをよろしく」とメールがあった。えっ、俺も行ったことがないよと応答したが、まあいいか、今週の山に組み込んで歩いてこようと出かけたわけ。
 
 奥秩父に降った雨を集めて源流から流れ下ってきた荒川が、一筋、秩父山塊の弱いところをついて削りとり、関東平野に流れ込んでいる出口がこの寄居にある。暴れ川を制御するために、まずこの出口にダムをつくった。細長い玉淀湖が満々と水を湛えている。その両岸に、秩父へつながる山が起ちあがり、川の右岸は奥武蔵と名づけられた山々をなしている。昨日登ったのは左岸の山。山並み自体がここを終点にして、平野へと姿を変える。文字通りの里山である。
 
 その山並みに沿うように古い国道254号線が走る。ニコヨンと呼ばれてきた。江戸のころは、信濃に抜ける旧中山道の裏街道として使われ、ヒメ街道と呼ばれた。どうして姫か? 「入り鉄砲に出女」というあの街道筋だからヒメなのだ。さらに遡れば、北条氏の支配下にあったこの地には、鉢形城が置かれ、支城として出城が築かれて、豊臣秀吉の軍勢が真田昌幸に率いられて北条氏と戦った合戦とでは鐘を鳴らして、敵の侵入を知らせたといわれる。山の名も鍾撞堂山330m。
 
  登山口の駅に着いたのは8時11分。すぐ近くの高校に登校する生徒たちと一緒に下りた。だが大雑把に聞いていたルートでは、どこを歩くかわからない。地理院地図をみると、登山道は四通八達している。どちらから登りどちらに抜けるか。ルートが自在にとられている。鎖骨骨折のリーダーは「駅に地図があります」と言っていたから、駅舎の片隅のチラシを置いてあるラックを見るが、それらしきものがない。駅員は、車いすの乗客を送り出すためにプラットホームの向こうの端に行ってしまった。待つこと5分ほど、「ああ、ありますよ」と引出しから地図を出す。ところが、この桜沢駅から登り、寄居駅に下るルートを紹介している。それだと、たぶん2時間ほどの山歩になる。波久礼駅に下るというと、えっ、と驚いている。地図にはない。
 
 国土地理院のこの周辺の地図はコピーしてきている。ま、何とかなるだろうと歩きはじめる。国道が何本も交錯して横断歩道がない。歩道橋を渡る。八幡大神社への階段を上っていると、脇の道を一人の高齢者が上っている。

「鍾撞堂山にいくんですか?」
「はい。そちらの道ですか」
「そう、神社へ登ると行き止まりですよ」
 と教えられて、脇道へ入る。この方、二日に一辺、この山へ登っているそうだ。

 ごめんと言って、私が先行する。入口の標高が110mだから、220mの標高差を登るだけのハイキングだ。「八幡山コース」と木に標識が縛りつけてある。赤城山や筑波山まで見える眺望がいい山とチラシ地図には紹介してあったが、私はむしろ、寄居の町が見下ろせるのに驚いていた。こんなに大きな町であったかと思うほど、住宅と工場と高速を含めた広い道路を平坦な関東平野へと広げていく様子がうかがえる。
 
 結構急な上りがあり、しかし、ほんの10分も歩くと稜線上に出て、おおよそ標高200m~300mを快適に歩く。登山口からわずか20分で八幡山の山頂に着いた。樹々が視界を遮る。ベンチが設えられている。紅葉は進んでいるが、間近で見ると赤茶けてきれいじゃない。木々の間を抜ける木漏れ日が美しい。そう言えば気温もほどよく、汗もかかない。要所に案内標識が立っている。道が分かれているかと思えば、巻道だったりする。
 
 「ホンダ・寄居町 協働の森」という表示板が建っている。両者と埼玉県がオイスカという公益財団法人をつくり、11年間森づくりをし、それが完成したと記している。今年の6月のようだ。「水の町寄居」というのも、初耳だ。後ろからやってきた二日に一辺登っているという方が荒川の対岸の風布に山からの湧水があって、評判だと話す。1時間ほど歩いたところで「←鐘撞堂山200m」と標識が立ち、登りが急になる。木立が切れ、町が見える。周りの山肌の紅葉が、全体としてみるときれいだ。
 
 鐘撞堂山330m、9時37分。出発してから1時間17分。良い散歩コースだ。山頂の広場にはさらに3メートルくらい高い展望台がつくられている。鐘が撞いてくれと言わんばかりに置かれていて、堂守が飛脚も兼ねていて、戦時編成の守備隊として敵の動きを早鐘によって知らせたとある。山名の由緒由来を語っているのか、この地の来歴を記しているのかわからないが、文字通り里山だ。円良田湖への道も何本かあるようだが、「円良田あんずの道→」と、ルートガイドがある。これなら地図は要らない。
 
 下る。道はしっかりしている。道の右側にロープが張られ、「カタクリの群落 立入禁止 深谷市」と表示がある。そうか、ここは寄居町と深谷市の境目か。古くさび付いた標識が「円良田特産センター28分→」と方向を示す。標高170mほどまで下ったら、舗装路に出た。上からみるとその先に、二車線の車道が走っている。美里町と寄居町とを結ぶ県道だ。ちょうどこの辺りが町の境界らしい。県道に降りて、円良田特産センターへ寄る。プレハブの民家が「えごま油」の幟をたててひっそりと商っている。中では一人のご近所の客と中年の店番がいる。「深谷市」との端境なんだとカタクリの標識を持ち出して聞くと、店番の男が

 「ここはね、入り組んでんだよ。花園町が深谷に編入され、児玉町が本庄市になり、美里町と寄居町はそのまんま残ったからね」
 と、平成の大合併がもたらした行政区画の変わり方を話す。
 
 道路を渡って、虎ヶ丘城址へ向かう。左前方の山肌がきれいに色づいている。脇へ逸れる舗装路を少し歩いて、そこを踏み外して登る。急に足元が草に覆われ、枝葉が行く手を遮る。木立が迫り、暗くなる。稜線上の峠に出る。「←波久礼駅2400m・160m虎ヶ丘城址→」と標識がある。城址の方へ向かう。百数十段の木製の階段が設えられ、急な上りになる。上ると山頂だ。標高337m。東屋がある。10時40分。早いがお昼にする。北東方面が少し開けているが、山肌の色づきが見えるだけ。眺望は良くない。
 
 11時ちょうど、「波久礼駅(70分)→」の標識脇を抜けて、やって来た道を峠へと降る。峠を過ぎて南へ向かう。ルートはこの山の幟同様、あまり整えられていない。緩やかに下るから危なくはないが、片側が切れ落ちたトラバース道に、山側から野草が覆いかぶさり、崩れかけている。あまり人が歩かないのかもしれない。陽ざしを受けて照り輝く照葉樹の葉が、きらきらと美しい。
 
 40分足らずで「←円良田湖・かんぽの宿→」の分岐に出る。右へ行くとすぐに舗装路に出た。かんぽの宿は少し戻る。骨折リーダーは「風呂もビールもあります」と案内文書に書いてあったが、そのまま駅の方へ向かう。10分ほどで駅に着く。11時50分。時刻表を見ると9分後に電車が来る。秩父線から東上線へ寄居駅で乗り換え14時過ぎには帰宅していた。
 
 鐘撞堂山へのしっかりした道と虎ヶ丘城址への荒れたルートの違いは、虎ヶ丘城址(別名・城山)が美里町に属することによるのではないか。ホンダ工場がやってきて、わりと予算の豊富な寄居町と里山だけでひっそりとやってきた美里町とでは、かけられるお金が違うのかもしれない。これほど対照的に里山を歩きみたもは、久しぶりのような気がする。

人為的なものは冷血で良い

2018-11-28 05:43:29 | 日記
 
 太田光『違和感』(扶桑社、2018年)を読んでいて、「モラルと道徳とルール」という節が気にかかった。要は、「ルールは厳しくていい。法律は冷血で良い」と言う。それを見て、そうか、と腑に落ちるところがあった。
 
 モラルや道徳というのは、蝟集する人々が醸し出す「雰囲気」みたいなものだ。どんな人が、どこに集まって、どういう関係を紡いでいるからどう振る舞っている、というところの「気配」だから、これは、「自然(しぜん)」に醸し出されているというか、場の「自然(じねん)」が醸し出していることだ。意図的に操作してつくれるものでもない。人という自然存在が作り出すものではあるが、なるようになる、なるようにしかならないことだ。当然、集まっている人たちが身に備えている「文化性」によって、紡ぎだされる「雰囲気」は違ってくる。
 
 ところが、ルールとか法律というのは、振る舞いの大枠をなす事柄だ。大枠といたって、大雑把ということではない。頑としてそれの外へ出ることを許さないという境界線、ボーダーだ。それを踏み越えたら、銃撃されるよっていう仕切り線だ。歴然たる暴力に裏づけられた「権力」が介在している。考えてみれば、これほど人為的につくられた端境はない。
 だがもともと、人為的なことって「しぜん」からすると破壊的であった。アジア的な汎神論的な、すべての存在物に同等な魂が宿っていると考える自然観の持ち主の目から見ると、そう、言える。西欧の人たちは、その疚しさを神に預けた。そうして、神から人間は全ての神の被造物を支配することを赦されたという物語を枕に振っておいて、ありとあらゆる人為的な活動を情け容赦なく開始した。ことにそれは、それは神の被造物のなかでも、神を信じていない人間に対して容赦なく、破壊的な振る舞いをしてきた。世界の歴史を繙いてみれば、それは明々白々である。
 
 私たち人類は、そのような法律を作ることによって、逆に、自由を獲得してきたとも言える。自由というのは、不安からの解放でもあった。不確実性を生き抜く智恵でもあった。「くに」とか国家という共同体は保護的と同時に抑圧的であった。それは、それを受け容れる人がどこに位置してその共同体を観ているかによって、異なってくる。つまり生活者の心的安定を売るために「くに」の暴力的権力を支持し、社会契約という物語をつくりあげることによって、さらに、強く自己規制をすることを通じて、共同体外の人びとに対する冷血を築いてきた。もちろん内部の人間が越境するのにも、当然のように冷血は襲う。ルールとは支配である。
 
 とすると、「法」というのは、デジタル時代の考え方に似合っている。YES/NOが明白だ。迷うというのは、流れにのれない。あいまいで、どちらともつかないグレーゾーンは、時代の風潮に合わない。いまそのようにして、ものごとの白黒がつけられつづけ、人間はそれに合わせるように自己改造をすでに始めている。つまりモラルも道徳も、ことごとく冷血になりつつあるのだ。著者・太田光は、それに気づいているだろうか。

いい加減な奴

2018-11-27 10:00:42 | 日記
 
 団地管理組合理事長の仕事をしていて、「自然という傾き」などと昨日、ためらいもなく自己批評をしたが、それにはもうひとつ、不可欠の軸がある。ちゃらんぽらんという気性だ。
 
 管理組合は、毎月、理事会を開く。その都度、総務理事が「議事録」を記し、それを次の理事会に提出して、訂正するべきところは訂正して、「議事録正本」に署名捺印して保管している。今年の理事長候補になったとき、前年の理事会に傍聴を求められ4回の理事会を傍聴した。前年の理事会は、そのやり方を次年度理事長らに見せて、事務引継ぎなどをスムーズにしようと考えているのだと思った。その場で、上記の「議事録」の扱い方を見せてくれた。だが私は、まったく別のことを学習していた。
 
 というのも、その理事会の場では、前回の「議事録」の文言をめぐって、ふたたびやりとりが再燃し、同じような意見が取り交わされ、それで半分以上の時間が費やされていた。つまり、何を決めたのか決めなかったのか、議事を一つひとつ押さえて会議が進められていない。そもそも「議題」の提起が、話題の提出と相談になってしまって、何を決め誰が取りまとめるのかさえ、曖昧模糊としていたのであった。
 
 だから私は、「理事候補の準備理事会」をスタート前に開いて、理事会の持ち方、決め方などを提案した。「原案」を提出する。意見を交わすが、原案を修正するか承認するか否決するか、やり取りの結果を明確にする。前回の「議事録(案)」は次の理事会の少なくとも一週間前に全理事に配布し、全理事はそれに対する修正や補足や意見を、これも二日前までに理事長に提出する、とした。そうして「前回理事録」の扱いを「議題0」として、基本的に時間をとらないようにしたのだった。
 
 こうした会議のやり方は、たくさんの人と共同で仕事をしている勤め人たちにはおおむね歓迎された。ただ職人仕事や個人事業主や自由業とかサービス業の方や主婦たちには、馴染めなさがあったかもしれない。「原案」を提起できない。「どうしたらいいか皆さんで相談してください」と提出する。何をいつどうやろうと考えているのか、それだけでも原案として出してくださいというと、なんとか格好はつく。つまり、「企画」をたて、それを遂行するための段取りを決めて、皆さんにみてもらうというかたちをつくるのを、まとめ役の理事長が主にメールでやりとりしながら、指南しているような状況もあった。
 
 でも植栽のことなど全く知らない環境理事のためには、「小委員会」を起ち上げ、ボランティアで植栽に詳しい人たちにボランティアをお願いして、補佐機関と位置づけた。それもあって、半年たった冬の剪定には、具体的な伐採計画を組み込み、業者と小委員会を交えて相談をして、いくらか修正を施しながら、実施計画が提出された。ほかの理事たちも(いうまでもなく私も)植栽のことなどわからない方が大半であるから、そうした補佐機関の設置は環境理事だけでなく、理事会全体としても必要なことであったと、振り返って思う。
 
 そうして今の時点で振り返ってみると、私が仕切っていたのは何某かのことを取り仕切る「はこび」だけだ。その内実がどうかは、私はほとんどこだわらない。こだわらないというと聞こえがいいが、その実、ちゃらんぽらんなのだ。それが良かったと思う。だから、総務理事が提出する「議事録」も、ほぼそのまんま、全理事に流す。すると理事の何人かから、文言の修正や記録に止める必要のない部分の指摘、順番の番号の振り方などまで細かくチェックして、触れてくれる方がいる。そういう目が必要と思うから、その「指摘」もまた、そのまんまに「議事資料」に掲載する。論議はほとんど交わさないで、受け容れるところはどことどこと総務理事も応じて、時間を食わない。時間を食わないことが重要というよりも、その原案と指摘のやりとりが理事相互の関係にとって重要と私が考えていることが、自分に分かるようになった。だから「自然(じねん)」とほざいているわけである。そのおおもとには、ものごとにこだわらないちゃらんぽらんな気性が役立っている。もちろん、綿密にこだわって、まるで新聞雑誌社の「整理・校正係」のように用語や文章の句読点にまでコメントを加える方がいてこそ、全体としてうまく運んでいるといえるわけだと、今のところ自賛している。
 
 この気性は、時代的な土壌によって育てられたものが半分、私自身の親や兄弟との関係の中で、私が占めるべきポジションとして育ててきたものが四分の一、残りの四分の一が、私の身を置いた職場や友人関係の固有の規範が作用して育んだものと言えようか。そんなことを見立てて、今もまだ、私の気性を育てようとしていると、理事長職を眺めている。

自然(じねん)という傾き

2018-11-26 20:26:36 | 日記
 
 このところ、わが団地の理事・役員の交代制の改善案を策定している。五階建ての団地の階段毎に一人の理事を輪番で選出して13人で理事会と自治会役員会を構成する。理事と役員はダブっている。つまり、自前で管理し、自治会活動も一緒にやろうという態勢でやってきた。もう28年もつづいている。
 
 それとともに住民も年をとり、理事・役員が務まらないという「不安」が募るようになった。じつはもう十年も前から「論題」にはなっていたが、まだわがコトとして考えるほどではなかったのだろう、理事会の議題に上がるようになったのが、2016年度。昨年も検討をつづけ、その間何も公表されることなく、今年の私たちに受け継がれた。「メモ」が3枚。任期を2年にするとか、80才以上を役員免責にするとか。いろんな方法が「提案」されたようだが、どれも成案を得なかったという。
 
 今年は、その検討経過をまとめ、私が「試案」を出して、皆さんの意見を聞くことから始めた。いろいろな思い付きが出る。それを文面にしてよと呼びかける。文面にすると、具体的になる。半数ずつ入れ替わって2年任期制にするのも、いつから実施となる。と、「まず隗より始めよ」っていう言葉も出てくる。つまり、今の理事の半数が居残って2年やるのから始めよってことも出る。
 
 それはしかし、「覚悟」がないということで、「総会」の承認を得てから実施しようということになる。それは「乱暴だ」という意見も出る。その「乱暴」というのはなぜ? と聞くと、上手く答えられない。その「乱暴だ」と言った方が、棟から選んで、理事会と自治会を分け、20人態勢でやろうと「新提案」をする。この方は、それは乱暴だとは考えていない。だが、どう選出するかには、思いが及ばない。この「提案」は聴いた方が乱暴だなと思っている。
 
 私は、最初に話しの口火を切ったから、あとはみなさんのいろいろな言い分を聞いて、ほぼほぼこういうところかなという地点を見計らって「落ち着きどころ」を探ればいい。それを5ヶ月も続けていると、もうそろそろまとめなくてはならなくなる。いくつかを持ち越しの検討議題にして、とりあえず来年度から半数交代の2年任期に移行する。理事選出は、階段の隣の誼(よしみ)で、理事が務まらない人はパスして役員を自前で出してくださいという、なんとも締まらない「まとめ」提案。
 
 各種の「提案」が私の「自然(じねん)」にしっくりこない。しっくりくるのは、どこかに知恵で事態を変えようとするのではなく、身体を動かすことを通じ、具体的なかかわりをつくることで、「かんけい」を変えていくのが自然だと思っている節が感じられる。自前で管理をしようという(出発当初は住都公団がつくった)理事・役員の交代制だが、思えば昔日の全共闘世代が中心だったろうから、「自主管理」的な感覚が馴染んでいた。それが、体に沁みついていて、丸投げ的な業務委託の提案に抵抗を感じている。そういう自分を発見するような思いがしている。でも、「自主管理」というのは言葉の響きで抵抗があろうから、「自前の管理」と言い換えてさらにそれは、Do It Our-selves(ドイト)だと略称して、団地住民の中の自助態勢をつくってもらう提案をしようと準備している。
 
 はたしてほかの方々の「自然」とどう絡み合うのかわからない。だが私の「自然」って、なんとも穏やかな(時をかけて少しずつ変化する)日本の自然と同じじゃないかと、思わないでもない。どうしてこうなっちゃったんだろう。いや別にそれが悪いと思っているわけではない。仕事をしていたころの尖がって理屈っぽくやりとりしていたことを想いうかべて、オレって変わったんだろうかと、自分を眺める目を意識しているところである。