mukan's blog

つれづれなるままに ひぐらしPCにむかいて

爽やかな空気を吸う

2023-05-31 15:05:08 | 日記
 友人二人に声をかけられ、奥日光を歩いてきた。昨日(5/30)のこと。朝5時半ばすぎに家を出て夕方7時に帰宅する行動時間13時間余のハイキング。私はルートのナヴィ役をするだけであった。車中も歩きながらも言葉が交わされる。静まり返った樹林のあいまをぬって降り注ぐ陽の光の荘厳さに沈黙の応対がふさわしく、身の程が佇まいを整えて好ましい様子を作り出す。こちらはもっぱら聞くだけだから面倒がない。
 赤沼から小田代ヶ原、泉門池、湯滝、戦場ヶ原と、4時間半かけてゆっくり経巡り、背の高いカラマツの葉の新緑の木陰に包まれるようにぽつぽつとおしゃべりを聞きながら進む。シラカバの白い木肌、生い茂るズミのほの赤い蕾と白い花の入り混じった楚々とした感触が、ほほおと足をとどまらせ、アクセントを付ける。ホトトギスの声がこだまするように響く。まだやってきたばかりだからだろうか、伸びのないカッコウの、名前通りの鳴き声が森の向こうから聞こえてくる。日差しに透き通る空気の爽やかさが降り落ちてきて全身を包む。いい季節ねとここに身を置く至福を称える溜め息が溢れる。
 時々目に入る小学生の遠足だろうか修学旅行だろうか、ハイキングをする集団の何組かとすれ違う。改修されて広くなった木道がありがたい。だがまだ3年も経たないと思われるのに、随分と傷んでいる。冬の雪の下でも分解菌はせっせと食い散らしているのだろうか。
 車の運転もおまかせ。ただ奥日光は私のフィールドなのでルートガイドはするが、意外な晴れ間が何よりのウェルカムを演出している。2週間ほど前に話が来た。当初は土日のプランであった。仕事現役の若い男に運転させようという算段。だがこの時期の休日のいろは坂の混み具合は尋常ではない。朝早く発ち、現地も午後早くに出立するならと話すと、そのプランは消えた。そして火曜日の昨日。いいよ、天気予報を見て決めることにした。10日前、奥日光は「雨、降水確率90%」。ま、も少し近づいてからと1週間前にみると「午前6時まで雨、9時から12時まで曇り、12時から雨」と変わる。行くことにして始発で大宮駅まで来てくれとなった。わかった、そうする、と。だが三日前、1時間毎の天気を見ると「午前9時まで雨、10時から12時まで曇り、13時から、また雨」。それを知らせると、集合が1時間あとになった。今日出発前に見ると、「一日概ね曇り、午前中晴れ間」が覗いている。そして歩き始める頃、青空に日差しが指す。待ってましただね。
 一人は十勝岳の単独行をするほどの健脚。もうひとりは膝に難点を抱えていたと思った。ところがだいぶ良くなったので二人で街歩きをしている。そろそろいいのではないかと奥日光の案内をしようと私に声をかけたのであった。街歩きと言っても、前橋とか足利とか訪ねてみたい街へ電車で行き、神社仏閣や美術館などを訪ねながらの観光ハイク。聞きながら、今日のコースを思案する。クリンソウを見るなら千手ヶ浜まで行くか。とすると無公害バスに乗って西ノ湖から取り付いて千手ヶ浜、またバスに乗って小田代ヶ原まで戻り、戦場ヶ原を横切って赤沼に戻るか。思案しつつ赤沼に着いた。ちょうど低公害バスの出発時刻になっていて、乗るならすぐにと車掌役が急かす。それが嫌で、いや乗りませんと断って、今日のルートが決まった。でもそれが良かった。ポツポツと口をつくおしゃべりのペースと樹林の合間をブラブラと歩くゆっくりペースが噛み合い、あとから来る人に道を譲り、木々から降り注ぐエゾハルゼミの声シャワーに身を浸して透き通る空気を吸う。こんな心持ちでここを歩くのは何年ぶりだろう。
 60代なかばの二人は元気そのもの。リタイア後のこの年代は「ゴールデン・シックスティーズ」と私は感じてきたが、目の当たりにするとつくづく自分が年を取ったと痛感する。歩くことだけではない。彼女たちの交わす話題が外へ開いている。巻爪の治療のことも、娘の結婚と海外移住で独り暮らしになることも、こだわりなくあっけらかんと話す。かと思うとバタフライ・イフェクトが印象に残るとTV番組がネタとなり、「百金マクロ」と植物の不思議の話が乱入する。どうしてこれがキラキラに感じられるのだろうか。若いからか。いや、それだけとは思えない。(私に気遣ってのことと思うが)同じ職場の元同僚であった人たちの名がポンポンとあがって消息が交わされても、私の胸中では、そうかそういう人もいたなあと名前が平面に浮かぶだけなのに、彼女たちの言葉の中では起ち上って動き始めるようだ。時間的な近さなのだろうか、世界の見立て方の違いなのだろうか。そうか、彼女たちの関心と好奇心が形を得て飛び出してきているのだ。
 そうか、私が年寄りばかりとつきあっていることもあって、こうしたむき出しの関心の払い方に曝されていないから、新鮮で押し寄せるように攻撃的に感じられるのかもしれない。とすると、先日来私が愚痴っている傘寿年寄りの閉じた感性の有り様は、ただ単に齢を重ねたことの結果ではなく、交友関係が皆年寄りになり、誰も彼もが身の習いとなった振る舞いに満たされ、外からの刺激さえも厭わしくなっているってことではないか。
 そうだ、一人が口にした話題が面白かった。住まい暮らしている近くの田んぼの蛙の鳴き声がうるさい、田の持ち主にそれをやめさせろと訴えた人がいたそうな。ははは、そりゃあカエルの王様に申し出てよきに計らってもらうしかないねと返したが、年寄りの頑固さは新規な好奇心の羽ばたきをもウルサイと感じるのかもしれない。

奥行き

2023-05-29 07:22:17 | 日記
 昨日触れた橋爪大三郎の「米中戦わば」について、書き落としていたことがある。橋爪の奥さんは中国人、娘はアメリカで仕事をしている。家族で話をするときには、日本語/中国語/英語が飛び交って、あれ、今どの言葉で話してるんだっけと戸惑うこともあると、著書の「あとがき」で記している。これほどの橋爪が、でも同じことを言おうとしても、どの言葉で言うか、微妙にズレが出ると、言語の成り立ちに深く身の習いの色合いが染み付いていることを呟いている。私にはかろうじて、日本語の表現がきっぱりと割り切ることのできないこと、割り切ってしまうと、いや、ちょっと違うなと感じることがある程度だから、門前の小僧の悲しさと思う他ない。
 だが、その橋爪が「米中軍事衝突」を想定しているのを、推奨している論考と誤解されるかもしれないと感じたので、補足する。
 橋爪は米中の立脚点が、非和解的に食い違っていることを指摘している。法の支配ということについてアメリカは、条約や条文に記されたことを、神の言葉を人が代理して記したもののように受け止めて(正確には、神の国が実現するまでの間、人が人の言葉で)取り仕切っている。条約や法の条文はヒトを超越する(国家権力を握る者にとっても)規制力を持つものと受け止めてふるまっている。これがキリスト教文明の影響下において形成された身の習い(=気質)と解析する。
 それに対して中国の法の支配は、支配権力が人民を規制するものであり、それは統治権力者がどう解釈するかによって如何様にも適用される。つまり人意の支配がまかり通る。これが国際条約がどうあれ、自らに不都合なものはこれまでの誤ったルールとし、自分流のルールを押し通す南沙諸島の振る舞いをやってしまう。都合の良いところでは、例えば国連安保理の拒否権行使とか、国民国家の内政干渉ということを「人権宣言」を無視して言い立てる。中国の振る舞いは、自らが力を持たないときは、ひたすら耐え、力を持ってきたらルールの変更を押し通すというもので、国際条約などに斟酌しない。それが実は、儒教という中国文明のベースにあると解き明かす。
 こうした彼の考察の奥行きを考えると、「米中軍事衝突」というのが「非和解的事態」とはいえ、衝突を避けるべく道筋を探ることが賢明であることはいうまでもなく、英語文明のアメリカには理解できない漢字文明中国の何かに日本はアプローチできるんじゃないか。軍備を整えるよりも、その道筋を探ることに力を入れたほうがいいのじゃないか。
 と、まあ、門前の小僧が呟いても、ほとんど力に離れない。でも市井の老爺としては、これくらいしか言えないんだよねえ。

米中戦わば

2023-05-28 09:11:13 | 日記
 社会学や政治哲学を専門とする橋爪大三郎が、その著書『中国vsアメリカ』(河出新書、2020年)で、米中のf軍事衝突を想定している。珍しいことだ。その主張する要点は次の②点だ。
(1)米中軍事衝突は避けられない。
(2)今は互角。台湾近海では中国が優位。あと何年かすれば中国の軍事力がアメリカを凌ぐ。
(3)米中の軍事衝突の大義には、現在のところ双方ともに優劣はない。
(4)だがもし、南沙諸島海域における中国の横暴な進出をアメリカが抑えることとなれば、それは国際条約を無視して強行している中国に理はない。上記にアメリカが仕掛ければ、現段階では中国は引き下がるしかない。
(5)上記(4)の報復として中国が台湾に武力攻撃を仕掛ければ、国際世論はアメリカに理があるとして、その支持が増えるであろう。
 (1)が必須だとして軍事的な力の差異と衝突の形を検討し、勢力均衡の要素として「国際世論」の支持を取り付けるにふさわしい「大義」を手に入れる手立てを講じんがために(5)を「提案」するという大胆な論考は橋爪の類書に見ないものである。しかも、軍事力を比較考察する際に、全くズブの素人である橋爪が、自身が一つひとつ納得するように、戦艦と空母と巡洋艦と駆逐艦と制空権と船団戦略と上陸作戦などを、まさに素人が納得するプロセスを踏んで記していく。それこそ、知識人として高みから解説するというのではなく、物書きとしての当事者性をもって軍事衝突を語る土台を作っていくように見えて、好感する。ミサイルや核に対する見て取り方も、読むものの肌合いに照らして相応の響きを持つ。
 そして実は、日本がどのような立ち位置に置かれるかを(読者である)私は問われていると感じる。橋爪自身は、日米の枠組みから考えるのが最も必要で、24時間以内に相応事態に反応するしか道はないと日本政治の弱点を見通して進言する。状況の推移と周辺国の様子をうかがって重い腰を上げる「日本政治の弱点」こそが、国際的な信用を失墜させる行為であると、告げているようである。この当事者性の明快さが、従前から彼が展開してきた政治哲学と社会観察の的確さを読んできた者にとっては、腑に落ちる所論だと思う。
 それと同時に、目下のウクライナの成り行きがすでに東アジアにおける緊張の開始を告げる警鐘のように響いてくる。この日々刻々変わる情勢に振り回されないためには、借用した漢字を表記法として用いて、ひらがな、カタカナにまで変貌させ、共用することにした日本語のエクリチュールの由来と、近代的な知恵知識の多くを、もっぱら西欧に学んだ由来径庭の混在という日本文化の来歴を意識的に踏まえなければならないと、我が身の記憶が訴えている。橋爪はそれらを知識人として探求してきて、現在地にある。私は門前の小僧として聞きかじり、耳学問として集積し、いつしか私の無意識に堆積してきただけの市井の老爺である。同列に居並ぶわけには行かない。やはり我が身の経験的に習いとしてきたことを疑いつつ、自問自答してその根拠を問い、橋爪のようには走れないけれども、一歩ずつ歩むしかない。
 そう。走るな、歩け。なにかに間に合わなくても、慌てるな。だって先は、もう見えているんだからさ。

沖縄とワタシの当事者性

2023-05-27 09:14:37 | 日記
 映画『島守の塔』(監督・五十嵐匠、2022年)を観ました。太平洋戦争における沖縄戦を描く。本土から派遣されてきた県知事と警察部長という二人の官僚の動きを軸に、なすすべもなく逃げ惑う沖縄の人たちと本土決戦を長引かせることを意図した軍人の振る舞いを切り取っています。
 県民を守ることを使命と考えている官僚の姿も、しかし、今の時代となっては新鮮味を感じさせません。二人の官僚の「覚悟」だけが、いかにも腹切り時代の名残をとどめているが、これとて果たして、責任ある振る舞いかと考えてみると、わからない。
 なぜワカラナイというか。軍にせよ行政官僚にせよ、沖縄への統治的視線から一歩も抜け出していないからだ。もちろん、行政官僚がそうした視線から自由でないことは、今だって変わらない。だが「生き延びよ」というキーワードは、結局の所、本土から派遣された行政官僚が口にすることで、死して虜囚の辱めを受けずを金科玉条とする軍の方針と対照させてしか重みをもたせられない。沖縄のただの庶民には、抜け道がない。
    ひとつ鍵になることをみつけました。三線を弾き歌い踊るカチャーシーの意味するところです。喜びも悲しみも分かち合うという意味だと知事付きの若い地元の軍国女性が知事に解説するところです。戦場になっているこの場で、お酒を飲み、カチャーシーを歌うことは不謹慎と考えるこの助成に対し、本土から赴任したばかりの派遣知事が(こんなときだからこそ)飲み歌い踊ることをせめて許容しようと振る舞う場面です。
 カチャーシーが示すことは、生きとし生ける人がどんな場面においても最上のこととして保ち続ける指標です。それを今取り上げるとすれば、派遣官僚の「温かい愛線」を持ち上げて称賛することではなく、沖縄びとが自らの手でそれを実現する道筋を探ることではないか。そう切実に思えたのです。そこへの道が、この映画では開かれていません。「島守の塔」という鎮魂碑を建てて本土官僚の善意に期待するのは、とっくに裏切られているからです。何だこの映画監督も、結局統治的目線でしか沖縄を捉えていない。それが、私が新鮮味を感じない根拠でした。
 沖縄戦が、今は台湾へに対する中国の軍事統合を巡って現実の響きをたたえているからです。そのとき再び本土を守るために沖縄は本土政府の法的強制力によって、いいようにあしらわれています。沖縄自治政府も抵抗はするものの、とどのつまり(本土政府)国家の支配力によって身動きできない状態に追い込まれています。これをほぐして道筋を見つけるには、カチャーシーによる自立しかないと思いました。琉球の独立です。
 独立して、経済的にやっていけるのかも計算しなければなりませんが、戦場で踊るカチャーシーを考えれば、貧しさはなんとでもなると、戦中生まれ戦後育ちの私は考えています。それよちも先の「沖縄戦」で沖縄びとが学び取るべきことは、自分たちのことは自分たちが決定してカチャーシーに暮らしていくこと。それはもちろんのこと、全体主義的に政治経済を牛耳っている中国の傘下に入ることは意味しません。もちろん、日本国にとどまってもっと完璧な自治権を手に入れるという道筋もあるかもしれません。政治経済だけでなく、「新鮮な空気を吸う」ことのできる暮らしをベースに身に刻まれた文化を、日米中の綱引きの間で、したたかに保ち作り上げていく。そういう新しい時代を見る転機に立っていると思えたのです。
 本土に生まれ、本土に暮らす私にとって沖縄問題とは、より完璧な自治権を手に入れて暮らしていくことです。ただこちらには、飛鳥・奈良の頃より長く身に堆積してきたニッポンジンという柵(しがらみ)が幾重にも纏わりついています。それをほぐすには、たぶん「沖縄独立」以上の力が必要になると思います。そういう意味で、我が身の問題としてのオキナワは、ワタシの当事者性を起ち上げています。

手探り

2023-05-26 08:10:52 | 日記
 一昨日記したようにPCが壊れた。とりあえず旅のとき持ち歩くために用意していて、一度も使っていなかった小さいノートパソコンを引っ張り出して、四苦八苦しながら使いはじめた。何よりこのモバイルPCはchromebook、これまでのマイクロソフトとシステムが違う。文字入力ソフトもこれまで使っていたやつを入力することができない。保存もクラウドを使うらしい。いやなにより、キーボードにファンクションキーがないとかデルキーもないとか、違いが大きい。文法が違うのだ。どうすればいいか、その都度立ち止まって思案する。保存も、どうやるのか操作手順がわからない。タイプしたものを印刷しようとして、プリンタは指定したものの、操作しようとしても「保存」キーが浮き彫りになって、「印刷」へ進まないで困った。
 あれかな、これかなと手探りでやっていて、ひょいと作動する。ふむふむなるほどと一つ一つ確認しながらすすめる。だが、あれこれやっているうちに、さてさきほどはどうやったんだっけと忘れている。いつだったか遊びにきた高校生の孫に聞いたら、ああこれは学校で使ってたのと同じやつだとさかさかと操作説明をしてくれた。だが、それも聞いてるうちはふむふむとうなずいて聞いたが、思えば目に止まらぬ速さで、覚えるにはムツカシイ。この若い子たちは、どうしてこうも簡単に慣れ親しむように手指が動くのだろうか。歳のせいにしてしまいたくなるほど、こちらはいちいち頭で考えなくては記憶に残らない。
 ここまでで、欧米流に頭がヒトの最高司令部だという言説は間違っていると言いたくなる。多分孫たちの若い世代は、生まれたときからデジタル機器に取り囲まれ、その操作のおおよその手順が身に刻まれている。ちょうどどのキーを押したらカタカナになるとか漢字変換の様々が閲覧できるとか、そう云う手筈のすすめかたが、覚えるというよりも実の習いになっている。言葉を覚えるように、まず意味も訳もわからずにデジタル機器操作の手順がシャワーのように浴びせられ、それを身のうちで文@ポウとして一般化していったのが、若い世代。ところが私たちアナログ育ち世代は、それを一つひとつ頭で覚えていって、習熟して見の習いにして初めて、デファクトスタンダードだと身に刻むことができる。若いうちに習熟するというのは、そういう特権のもとにある。
 この文章のプリントアウトするとき、「書式」を操作する箇所がない。行数や一行の文字数、上下右左のスペースを思うように設定することも、どうやったらいいか、まだわからない。この高齢になって、子どものように一つひとつを身のうちに文法化することの困難さに直面して、参っている。明後日にはseminarがある。それに用意する「次第」もこうして私の練習台になっている。