8月も31日。朝方3時の外気は、涼しい。予報では最低気温26℃というから、さほど低いわけではないが、日中の体温に近い気温に浸ってきた身には、ホッとする秋の気配である。夏はもう終わっていいよと胸中でお別れの挨拶を送る。
でも長期予報は、9月ばかりか10月までも30℃を超える暑さが続くと「異常気象」を告げている。お彼岸過ぎたら「四国お遍路最終章」に出かけようかと思っているが、暑いのはいやだなあ。秋よ、来い! 早く、来い! だね。
ネットの記事を見ていたら、《「意識」とは一体何なのか?》という表題が目に止まった。《哲学者トマス・ネーゲルによる意識の定義“Something that it is like to be”》を手がかりに「意識とは」に踏み込むという。
トマス・ネーゲルという哲学者のことも知らない。だが、彼の「意識の定義」“Something that it is like to be”「それになる感覚」というのは、ちょっと心当たりがあるように感じて読み進めた。
この記事のメインの研究者・渡辺正峰は、この定義を「何かになったとして、そのときに何らかの感覚がわいたならば、それこそが意識である」と意訳する。う~ん、わかるようで、ワカラナイ。その解説をさらに彼は「わたしの脳になったなら、間違いなく様々な感覚がわくことになる」とまえおきして、こう続ける。
《今まさに、この文章をパソコンで打ちながらわたしが目にする黒の鮮やかなフォント、カタカタと耳に響き、指に伝わってくるキーボードの感触、煎れたてのコーヒーの香り。……脳の情報処理ではない。情報処理を行っている最中の脳にわく、処理ごとの「それになる感覚」である。視覚情報処理をおこなっているときにわく「見える」、聴覚情報処理をおこなっているときにわく「聴こえる」といった感覚だ》
おっ、これぞ中動態ではないか。しかも渡邊正峰の指摘は、能動と区別して発生する中動態ではない。感覚野の初源にまず「中動態」があり、それと「意識」してから「みる」という能動態が発生すると読み取ることができる。(国分功一郎が解き明かした)ギリシャ語文法上の解析よりもさらに一歩進んで、人の感覚野に「意識」が生まれる手順としての、中動/能動がイメージされる。
哲学世界で「意識」がどう研究されてきたか(私は)知らないが、トマス・ネーゲルの「定義」とそれを意訳した渡邊正峰の解説は、俄然ワタシの到達した境地に学問的な裏付けを与えてくれようとしている。
でも、哲学者・トマス・ネーゲルって、誰だ? 生成AI・Bingに聞いた。
***Bing「トマス・ネーゲル」
《トマス・ネーゲルは、アメリカの哲学者で、政治哲学、倫理学、心の哲学、認識論などの分野で活躍しています。彼は1937年にユーゴスラビアのベオグラードで生まれ、ハーヴァード大学で博士号を取得しました。現在はニューヨーク大学の教授です。/彼は有名な論文「コウモリであるとはどのようなことか?」で、意識やクオリアの主観性を強調し、物理主義や機能主義に対する反論を展開しました。彼はコウモリの視点を想像することはできないと主張し、人間の意識は脳の活動に還元できないという立場をとりました。/彼はまた、「なぜ私は私なのか?」という問題にも取り組みました。彼は自分が他の誰かではなく、この人物である理由を知ることができないと述べました。彼はこの問題が形而上学的に深刻であると考えました。/彼の他の著作には、「利他主義の可能性」、「どこでもないところからの眺め」、「理性の権利」、「心と宇宙」などがあります。彼は現代哲学において重要な影響力を持つ思想家の一人です。》
いや、ご丁寧にありがとう。「コウモリであるとはどのようなことか?」だって? 面白そうなタイトルだ。研究者・渡邊正峰は、
《さきほどの意訳に沿って言い換えるなら、脳になったとして(あなた自身は脳であるわけだが!)、そこに「それになる感覚」がわくからからこそ、わたしたちは「見たり」「聴いたり」することができるのだ》
とまえおきして、このコウモリに関して、こう付言している。
《コウモリはエコーローケーションという特殊な知覚をもつ。口で超音波を発しながら、その跳ね返りを両の耳で捉えることで空間を把握する。それゆえ、光のまったく入らない真っ暗闇の洞窟のなかでも、ひらひらと舞う蛾の位置を三次元的にとらえ、捕食することができる/この時のコウモリには、具体的にどのような感覚が生じているのだろうか。感覚モダリティとしては聴覚に違いないが、三次元的に外界を捉えるという意味においては、むしろ視覚に近い感覚なのかもしれない。そのような知覚をもたないわたしたちは想像する他ないが、何にしろ、何かしらの感覚が当のコウモリの脳にわいているに違いない》
科学者というか哲学者という人たちは、何ともメンドクサイ手順手続きを踏むものだ。「大方の神経科学者および哲学者は、哺乳類と鳥類にはまずまず意識が宿ると信じている」と断って、上記のように述べる。
市井の人生経験八十路の実践者からすると、コウモリばかりか、木や石にだって「それになる感覚」をワタシらはもつことができる。視覚や聴覚とは異なる感覚野で世界をとらえているコウモリを引き合いに出して、ヒトのクセの偏りを補正しようというのが、トマス・ネーゲルの論文の意図するところなのだろうか。
いや取り敢えず、そんなことは置いておいて、研究者がメンドクサイのは、この「意識」を「アップロードする」意図を持って研究を進めているからでもある。「アップロード」って何だ? 生成AI・Bingはこう答える。
《アップロードとは、通信回線やネットワークを通じて、別のコンピュータへ能動的にデータを送信することです。 また、送信したデータをストレージ上のファイルなど、まとまった形で保存させることもアップロードと呼びます。》
つまり、個別情報をネットに載せるのがアップロード、それを拾うのはダインロード。後期高齢者はいちいちメンドクサイのだ。つまりこの研究者は、ヒトの感覚野を集約するメカニズムを探っているってことか。
でも、この研究者・渡邊正峰って、誰だ? これもまた、生成AI・Bingに聞いた。
***Bing「渡邊正峰」
渡辺正峰先生は、東京大学大学院工学系研究科准教授で、意識のアップロードという構想に取り組んでいる神経科学者です。
なるほど、エライ方なんだ。哲学者の「意識」定義を機械処理に採り入れても、所詮生成AIはヒトのアルゴリズムの枠内で(勝手に)情報処理して、一人前のことを返し来るワケだから、生成AIがテツガクテキになる訳ではない。
ただこうした脇道で、中動態の世界がヒトが世界を認識する入口の、感覚野の原初形態とわかったことは、ワタシを力づけてくれる。でもこれ、八十路の頭が、まだ進化してるってことなのかい? それとも、単なる世迷い言なのかい?
でも長期予報は、9月ばかりか10月までも30℃を超える暑さが続くと「異常気象」を告げている。お彼岸過ぎたら「四国お遍路最終章」に出かけようかと思っているが、暑いのはいやだなあ。秋よ、来い! 早く、来い! だね。
ネットの記事を見ていたら、《「意識」とは一体何なのか?》という表題が目に止まった。《哲学者トマス・ネーゲルによる意識の定義“Something that it is like to be”》を手がかりに「意識とは」に踏み込むという。
トマス・ネーゲルという哲学者のことも知らない。だが、彼の「意識の定義」“Something that it is like to be”「それになる感覚」というのは、ちょっと心当たりがあるように感じて読み進めた。
この記事のメインの研究者・渡辺正峰は、この定義を「何かになったとして、そのときに何らかの感覚がわいたならば、それこそが意識である」と意訳する。う~ん、わかるようで、ワカラナイ。その解説をさらに彼は「わたしの脳になったなら、間違いなく様々な感覚がわくことになる」とまえおきして、こう続ける。
《今まさに、この文章をパソコンで打ちながらわたしが目にする黒の鮮やかなフォント、カタカタと耳に響き、指に伝わってくるキーボードの感触、煎れたてのコーヒーの香り。……脳の情報処理ではない。情報処理を行っている最中の脳にわく、処理ごとの「それになる感覚」である。視覚情報処理をおこなっているときにわく「見える」、聴覚情報処理をおこなっているときにわく「聴こえる」といった感覚だ》
おっ、これぞ中動態ではないか。しかも渡邊正峰の指摘は、能動と区別して発生する中動態ではない。感覚野の初源にまず「中動態」があり、それと「意識」してから「みる」という能動態が発生すると読み取ることができる。(国分功一郎が解き明かした)ギリシャ語文法上の解析よりもさらに一歩進んで、人の感覚野に「意識」が生まれる手順としての、中動/能動がイメージされる。
哲学世界で「意識」がどう研究されてきたか(私は)知らないが、トマス・ネーゲルの「定義」とそれを意訳した渡邊正峰の解説は、俄然ワタシの到達した境地に学問的な裏付けを与えてくれようとしている。
でも、哲学者・トマス・ネーゲルって、誰だ? 生成AI・Bingに聞いた。
***Bing「トマス・ネーゲル」
《トマス・ネーゲルは、アメリカの哲学者で、政治哲学、倫理学、心の哲学、認識論などの分野で活躍しています。彼は1937年にユーゴスラビアのベオグラードで生まれ、ハーヴァード大学で博士号を取得しました。現在はニューヨーク大学の教授です。/彼は有名な論文「コウモリであるとはどのようなことか?」で、意識やクオリアの主観性を強調し、物理主義や機能主義に対する反論を展開しました。彼はコウモリの視点を想像することはできないと主張し、人間の意識は脳の活動に還元できないという立場をとりました。/彼はまた、「なぜ私は私なのか?」という問題にも取り組みました。彼は自分が他の誰かではなく、この人物である理由を知ることができないと述べました。彼はこの問題が形而上学的に深刻であると考えました。/彼の他の著作には、「利他主義の可能性」、「どこでもないところからの眺め」、「理性の権利」、「心と宇宙」などがあります。彼は現代哲学において重要な影響力を持つ思想家の一人です。》
いや、ご丁寧にありがとう。「コウモリであるとはどのようなことか?」だって? 面白そうなタイトルだ。研究者・渡邊正峰は、
《さきほどの意訳に沿って言い換えるなら、脳になったとして(あなた自身は脳であるわけだが!)、そこに「それになる感覚」がわくからからこそ、わたしたちは「見たり」「聴いたり」することができるのだ》
とまえおきして、このコウモリに関して、こう付言している。
《コウモリはエコーローケーションという特殊な知覚をもつ。口で超音波を発しながら、その跳ね返りを両の耳で捉えることで空間を把握する。それゆえ、光のまったく入らない真っ暗闇の洞窟のなかでも、ひらひらと舞う蛾の位置を三次元的にとらえ、捕食することができる/この時のコウモリには、具体的にどのような感覚が生じているのだろうか。感覚モダリティとしては聴覚に違いないが、三次元的に外界を捉えるという意味においては、むしろ視覚に近い感覚なのかもしれない。そのような知覚をもたないわたしたちは想像する他ないが、何にしろ、何かしらの感覚が当のコウモリの脳にわいているに違いない》
科学者というか哲学者という人たちは、何ともメンドクサイ手順手続きを踏むものだ。「大方の神経科学者および哲学者は、哺乳類と鳥類にはまずまず意識が宿ると信じている」と断って、上記のように述べる。
市井の人生経験八十路の実践者からすると、コウモリばかりか、木や石にだって「それになる感覚」をワタシらはもつことができる。視覚や聴覚とは異なる感覚野で世界をとらえているコウモリを引き合いに出して、ヒトのクセの偏りを補正しようというのが、トマス・ネーゲルの論文の意図するところなのだろうか。
いや取り敢えず、そんなことは置いておいて、研究者がメンドクサイのは、この「意識」を「アップロードする」意図を持って研究を進めているからでもある。「アップロード」って何だ? 生成AI・Bingはこう答える。
《アップロードとは、通信回線やネットワークを通じて、別のコンピュータへ能動的にデータを送信することです。 また、送信したデータをストレージ上のファイルなど、まとまった形で保存させることもアップロードと呼びます。》
つまり、個別情報をネットに載せるのがアップロード、それを拾うのはダインロード。後期高齢者はいちいちメンドクサイのだ。つまりこの研究者は、ヒトの感覚野を集約するメカニズムを探っているってことか。
でも、この研究者・渡邊正峰って、誰だ? これもまた、生成AI・Bingに聞いた。
***Bing「渡邊正峰」
渡辺正峰先生は、東京大学大学院工学系研究科准教授で、意識のアップロードという構想に取り組んでいる神経科学者です。
なるほど、エライ方なんだ。哲学者の「意識」定義を機械処理に採り入れても、所詮生成AIはヒトのアルゴリズムの枠内で(勝手に)情報処理して、一人前のことを返し来るワケだから、生成AIがテツガクテキになる訳ではない。
ただこうした脇道で、中動態の世界がヒトが世界を認識する入口の、感覚野の原初形態とわかったことは、ワタシを力づけてくれる。でもこれ、八十路の頭が、まだ進化してるってことなのかい? それとも、単なる世迷い言なのかい?