mukan's blog

つれづれなるままに ひぐらしPCにむかいて

ああ、これぞ「中動態の世界」の起点

2023-08-31 10:48:41 | 日記
 8月も31日。朝方3時の外気は、涼しい。予報では最低気温26℃というから、さほど低いわけではないが、日中の体温に近い気温に浸ってきた身には、ホッとする秋の気配である。夏はもう終わっていいよと胸中でお別れの挨拶を送る。
 でも長期予報は、9月ばかりか10月までも30℃を超える暑さが続くと「異常気象」を告げている。お彼岸過ぎたら「四国お遍路最終章」に出かけようかと思っているが、暑いのはいやだなあ。秋よ、来い! 早く、来い! だね。
 ネットの記事を見ていたら、《「意識」とは一体何なのか?》という表題が目に止まった。《哲学者トマス・ネーゲルによる意識の定義“Something that it is like to be”》を手がかりに「意識とは」に踏み込むという。
 トマス・ネーゲルという哲学者のことも知らない。だが、彼の「意識の定義」“Something that it is like to be”「それになる感覚」というのは、ちょっと心当たりがあるように感じて読み進めた。
 この記事のメインの研究者・渡辺正峰は、この定義を「何かになったとして、そのときに何らかの感覚がわいたならば、それこそが意識である」と意訳する。う~ん、わかるようで、ワカラナイ。その解説をさらに彼は「わたしの脳になったなら、間違いなく様々な感覚がわくことになる」とまえおきして、こう続ける。
《今まさに、この文章をパソコンで打ちながらわたしが目にする黒の鮮やかなフォント、カタカタと耳に響き、指に伝わってくるキーボードの感触、煎れたてのコーヒーの香り。……脳の情報処理ではない。情報処理を行っている最中の脳にわく、処理ごとの「それになる感覚」である。視覚情報処理をおこなっているときにわく「見える」、聴覚情報処理をおこなっているときにわく「聴こえる」といった感覚だ》
 おっ、これぞ中動態ではないか。しかも渡邊正峰の指摘は、能動と区別して発生する中動態ではない。感覚野の初源にまず「中動態」があり、それと「意識」してから「みる」という能動態が発生すると読み取ることができる。(国分功一郎が解き明かした)ギリシャ語文法上の解析よりもさらに一歩進んで、人の感覚野に「意識」が生まれる手順としての、中動/能動がイメージされる。
 哲学世界で「意識」がどう研究されてきたか(私は)知らないが、トマス・ネーゲルの「定義」とそれを意訳した渡邊正峰の解説は、俄然ワタシの到達した境地に学問的な裏付けを与えてくれようとしている。
 でも、哲学者・トマス・ネーゲルって、誰だ? 生成AI・Bingに聞いた。
***Bing「トマス・ネーゲル」
《トマス・ネーゲルは、アメリカの哲学者で、政治哲学、倫理学、心の哲学、認識論などの分野で活躍しています。彼は1937年にユーゴスラビアのベオグラードで生まれ、ハーヴァード大学で博士号を取得しました。現在はニューヨーク大学の教授です。/彼は有名な論文「コウモリであるとはどのようなことか?」で、意識やクオリアの主観性を強調し、物理主義や機能主義に対する反論を展開しました。彼はコウモリの視点を想像することはできないと主張し、人間の意識は脳の活動に還元できないという立場をとりました。/彼はまた、「なぜ私は私なのか?」という問題にも取り組みました。彼は自分が他の誰かではなく、この人物である理由を知ることができないと述べました。彼はこの問題が形而上学的に深刻であると考えました。/彼の他の著作には、「利他主義の可能性」、「どこでもないところからの眺め」、「理性の権利」、「心と宇宙」などがあります。彼は現代哲学において重要な影響力を持つ思想家の一人です。》
 いや、ご丁寧にありがとう。「コウモリであるとはどのようなことか?」だって? 面白そうなタイトルだ。研究者・渡邊正峰は、
《さきほどの意訳に沿って言い換えるなら、脳になったとして(あなた自身は脳であるわけだが!)、そこに「それになる感覚」がわくからからこそ、わたしたちは「見たり」「聴いたり」することができるのだ》
 とまえおきして、このコウモリに関して、こう付言している。
《コウモリはエコーローケーションという特殊な知覚をもつ。口で超音波を発しながら、その跳ね返りを両の耳で捉えることで空間を把握する。それゆえ、光のまったく入らない真っ暗闇の洞窟のなかでも、ひらひらと舞う蛾の位置を三次元的にとらえ、捕食することができる/この時のコウモリには、具体的にどのような感覚が生じているのだろうか。感覚モダリティとしては聴覚に違いないが、三次元的に外界を捉えるという意味においては、むしろ視覚に近い感覚なのかもしれない。そのような知覚をもたないわたしたちは想像する他ないが、何にしろ、何かしらの感覚が当のコウモリの脳にわいているに違いない》
 科学者というか哲学者という人たちは、何ともメンドクサイ手順手続きを踏むものだ。「大方の神経科学者および哲学者は、哺乳類と鳥類にはまずまず意識が宿ると信じている」と断って、上記のように述べる。
 市井の人生経験八十路の実践者からすると、コウモリばかりか、木や石にだって「それになる感覚」をワタシらはもつことができる。視覚や聴覚とは異なる感覚野で世界をとらえているコウモリを引き合いに出して、ヒトのクセの偏りを補正しようというのが、トマス・ネーゲルの論文の意図するところなのだろうか。
 いや取り敢えず、そんなことは置いておいて、研究者がメンドクサイのは、この「意識」を「アップロードする」意図を持って研究を進めているからでもある。「アップロード」って何だ? 生成AI・Bingはこう答える。
《アップロードとは、通信回線やネットワークを通じて、別のコンピュータへ能動的にデータを送信することです。 また、送信したデータをストレージ上のファイルなど、まとまった形で保存させることもアップロードと呼びます。》
 つまり、個別情報をネットに載せるのがアップロード、それを拾うのはダインロード。後期高齢者はいちいちメンドクサイのだ。つまりこの研究者は、ヒトの感覚野を集約するメカニズムを探っているってことか。
 でも、この研究者・渡邊正峰って、誰だ? これもまた、生成AI・Bingに聞いた。
***Bing「渡邊正峰」
渡辺正峰先生は、東京大学大学院工学系研究科准教授で、意識のアップロードという構想に取り組んでいる神経科学者です。
 なるほど、エライ方なんだ。哲学者の「意識」定義を機械処理に採り入れても、所詮生成AIはヒトのアルゴリズムの枠内で(勝手に)情報処理して、一人前のことを返し来るワケだから、生成AIがテツガクテキになる訳ではない。
 ただこうした脇道で、中動態の世界がヒトが世界を認識する入口の、感覚野の原初形態とわかったことは、ワタシを力づけてくれる。でもこれ、八十路の頭が、まだ進化してるってことなのかい? それとも、単なる世迷い言なのかい?

AIはヒトの映し鏡

2023-08-30 07:08:02 | 日記
 先日(2023-08-26)「人は身体的直感を重んじる」と、AIとヒトとの違いを掬い上げた。AI研究者・西垣通氏のインタビュー記事から拾った言葉だ。そのときはシンギュラリティという言葉に籠められた、人智を超えるAIの時代が来るのかと考えていた。だからAIにできないヒトの特性を拾うことに心持ちが向かっていた。
 だが昨日(8/29)の朝日新聞のインタビュー記事「AIと私たち」は、生成AIの学習能力がヒトの映し鏡であることを指摘している。インタビュイーはチリツィ・マルワラ氏(国連大学学長、1971年生まれ)。南ア生まれ、ケンブリッジ大学で博士号を取得しているAI研究者、と付け加えるのは、門前の小僧であるワタシの値踏みである。
 マルワラ氏はAIに学習させる事例を挙げて、こんなことを言う。
《がん細胞を見つ出すAIをつくるなら、実際のがん細胞の画像と正常な細胞の画像をAIに与えて、訓練することが最善です。/しかし現実には、別のAIがつくった合成データを使う例が増えています》
 合成データの方が「安い」からだそうだ。そこからすでに、グローバルサウスとグローバルノースの差異が生まれ、差別と偏見が再生産され拡大されていく、と。
 あっ、と思ったね。AIの学習データというのは、皆同じと門前の小僧は思っていた。ところが読み込むデータの「値踏み」をAIがしているかというと、そうではない。ただ、反映しているだけなのだ。つまり、ヒトの悪いクセを一つひとつ丁寧に取り除いて、アウトプットする最終叙述をしているわけではない。
 とすると、例えば目下世界市場経済のよりましな最終形態じゃないかとされている資本家社会的市場経済システムは、しかし、国民国家の仕組みを通じて再配分をしなくてはならないほど富の不均衡を生み出し、社会インフラすらも窮地に追い込んでいる。これをどこが、どのように采配を振るって、世界規模で取り仕切るか。そのセンターとして思い浮かぶのはせいぜいが、国連。安保理はすでに大国の利権擁護で対立してその役を果たしていない。UNESCO、WHO、WFOという国連機関が、いつも後追い的に手当てをしているのが、せめてもの振る舞いである。
 国民国家を主体単位とする国際関係は、力が決定力の基本である。もちろん軍事力ばかりではなく経済力や政治力も「力」であるが、近代社会が築き上げてきた「理念」は、今や瀕死の様相を呈している。COVID-19の襲来は、グローバルなヒトの結束がどれほどの力を発揮するかを試したようなものであったが、ものの見事に経済力によって分断され、資本の論理以外の「力」は、軍事力と政治力に限定されていることが明々白々となった。「理念」は如何程の「力」にもなれず、むしろ真実の「力の論理」を覆い隠す虚偽虚飾の衣装にすぎないと見立てられている。
 WWⅡという世界規模の悲劇さえも、思い起こせば、騒乱の主導権を握る大国の論理が罷り通り、その他の国々や地域は、まさしく「その他」として顧みられることがなかった。唯一、WWⅡの連合国の結束がもたらした国連が体裁を保ってきたが、それが風前の灯火であったことは繰り返すまでもない。
 さて冒頭のマルワラ氏のインタビュー、「何がほんとうかを見極める大切さを、身に付けさせてくれた」ことを「別の光」と表現して、こう述懐する。
《私はまだ近代化が進む前のふるさとの村で、祖父母の家で育ちました。私の祖母は読み書きはできず、英語も話せませんでしたが、自然に関しても人間に関しても深い智慧に満ちた人で……毎朝5時から6時には、きまって近所の人が私と同じ部屋で寝ていた祖母のところにやってきて、さまざまな話をしていきました。……あの時浴びた光が身に付けさせていてくれたように当時から思っていました。》
 この「別の光」を感じ取った原体験に似たことを私たちも通ってきているように思う。はて、なんだったろうと、遠くを眺めるような目で、わが身の裡を覗いている。

「場」の取り仕切り

2023-08-29 08:29:48 | 日記
 今日(8/29)の朝日新聞に、ゲティスバーグで行われた政治討論会のことが取り上げられている(多事奏論)。テーマは「トランプ前大統領は再選されるべきか」。参加者は民主党支持(青)、共和党支持(赤)、中間(黄)の標識カードをぶら下げて、言葉を交わす。ただ、「議長の許可を得て発言する」というルールは守らなければならない。すると議長が議論にする。「議論」になる。何をどう進めているのか子細は推測の限りでしかないが、たぶん論点整理して、発言者に問い、それをまた論点を絞って「議論にする」。
 と、記事を読んで、何の変哲もないことなのに、先日の同級生の会継続の代表者決定との違いを思い出した。何の変哲もないことと感じたのは、ワタシが長年の仕事上でやってきた「決定法」と異なることろが基本的にないから。「基本的にない」というのは、予めの「立場」の表明が、列島住民においては、ない。
 あっ、それで想い出した。昔々、もう50年も前のことだが、組合の会議で主流派の人たちが発言するときに「提案を支持する立場で発言します」と前置きして、私などの主張に非難を浴びせていた。どうしてそのような物言いをするのだろうと不思議だった。身を寄せるよりどころを鮮明にしてから発言しないと、発言中にとんでもないヤジを受けることになるからかと思ったりしていた。後にそれは、そうではなく、彼らが裏で仕組んだ党派的発言をするときの符丁だったとわかった。
 ン?
 そのココロは、「議論をする」気持ちはこれっぽっちもなかったってコト。
 執行部にとって「討論」は、通過するべき儀式。ただ組合の議論は、発言内容を聞いて、それによって態度を決める人たちもそれなりに数がいたから、旗幟鮮明にする「まえおき」は党派性を色づけするために必要とされたのであったろう。発言者は、端から聴く耳を持ってはいなかった。
 アメリカの民主党と共和党のどちらがいいかと来年の大統領選を前にして「論議」を交わすというのは、日本の報道をみている限りでは「やりとり」が成立するようには思えない。だが、冒頭新聞の記事では、ずいぶんと踏み込んで(夫婦の間で異なる立場を取る人もいたのに)「議論が交わされた」という。
 そうだ、また横道に逸れて思い浮かんだことがある。上記の党派的振る舞いについて。
 1年前のa元宰相銃撃事件以来、旧統一教会の社会活動についてメディアの非難と政治家たちの(何がワルイの?)と腰の定まらない様子が浮き彫りになった。だが、落ち着く先は、(宗教法人としての処遇の成り行きに任せて)結局有耶無耶の儘になりそうな気配だ。どうして、こうなるか。肚に含むところをもつ社会活動は、何につけ、その意図するところを隠して市民社会に登場するというのは、列島住民にとってもほぼ常識になっている。当の宗教団体が正体を隠して市民に接近し、意図が達成できそうなってから正体を明かして、惹き寄せるというのは、他の社会活動や政治活動や商業的な勧誘や、顧客の呼び込みにおいてふつうに取られているやり口である。だから、旧統一教会の手口を非難するのは、政治家にはできないこと。宗教団体と関わりを持つ集団にもできないこと。商業活動の裏側がどのような阿漕な手立てを講じているかは、電通や博報堂という大手企業がオリンピックでどう立ち回ったかをまとめてみれば、すぐにワカル。あるいは電力会社がカルテルを結び、それがばれると、カルテルを提案し主導していた会社がさっさとその内容を供述して罪を免れ、同調した他の電力会社に多額の罰金を発生させていることをみても明々白々。つまり、列島の社会活動の根柢には、裏と表、タテマエとホンネ、入口と出口の違いが、つきまとっている。それをワルイといわれて困惑しているのが、旧統一教会を巡る1年間の遣り取りに現れている。
 ここでも、旗幟鮮明にしないで、生起している事象に向き合う「列島社会」の住民の主体性が、アメリカ市民社会とは違った文化性を持っているとみることができる。もちろんこれは、逆も言える。アメリカ市民たちも、ようやくここにきて、裏と表、タテマエとホンネ、入口と出口の違いに向き合っているとも読める。だが向き合うとき、立場を鮮明にするカードをぶら下げて「討議」に参加するかどうか、しかも「議長を通して発言する」という「場」の設定をしてそれを「論議をする」ことに活かすかどうかになると、大きな違いとなって現れてくる。
 アメリカの場合、こういうことが「論題」となろう。民主的な政体を採用してきた。その制度の象徴的な一つが選挙である。その選挙の運びを覆す試みが、先の大統領選であった。それは、選挙が単なる儀式的なタテマエなのか、市民の意思を体現するものとして尊重されるかの分水嶺である。民主党を支持するか共和党を支持するかは、裏も表も全部オープンにして社会システムを協議しながら集団的に進めていく体制を、今後も維持していけるかどうかが問われている。誰が問われているか? あなたが問われているのですよというのが、アメリカの現在。
 なぜ、こうなるのか。
 そもそもアメリカは移民社会である。世界各地から何某かのワケを抱えて移動して、ここに集っている。個々人が違った文化単位とみなされる。その子細に分け入ることは端からむつかしい。となると、誰が何をどう考えているか、「論議を交わす」となると、それぞれが旗幟鮮明にすることが必要である。言葉を交わすことによって「できるだけ合意を形成する」必要も、最初から明らかである。
 逆にみると、「できるだけ合意を形成する」必要が、トランプの投げた石によって疑われたのが、2016年の大統領選であった。それを鮮明に拡大したのが、2020年の大統領選。「分断」と呼ばれた事象は、「できるだけ合意を形成する必要」を投げ捨てて、統治権を剥奪するかどうかの覇権争いに(大統領選が)変わろうとしたデキゴトであった。冒頭のゲティスバーグの「討論会」は、まだ、その「合意形成」の余地があることを示している。
 ところが列島住民の場合、あなたが問われているのですよと、なっていない。問われているのは、政治家であり、行政に携わる官僚たちであり、宗教団体などをつうじて、それらの活動にかかわってきた人たちである。大半の列島住民は、傍観者。むろんそれぞれの政治的意見はもっていても、表明することはない。だって、直接関係ない(と思っている)のだから。
 なぜ、こうなるのか。列島住民の場合、そもそも一つのまとまった社会にいるという「実感」から出発している。個々人が文化単位ではない。集団や集落や家族が単位である。当然、利害に関する違いは、属する集団、その場でモンダイになる単位集団ごとの文化単位である。個人は、つねにその集団の利害や文化を体現しているものとみなす。単位集団内の差異は、その集団内のモンダイであり、他から関与介入するとしたら、それ自体が政治工作であり分断への関与政策である。つまり集団と構成個人の差異は、タテマエとホンネの分裂として受けとられ、したがって、つねにその亀裂は「あるものとして」意識されている。それが場面によって裏と表になったり、公と私となったりして、状況や場に応じて公表されたり私秘されたりすることになる。つまりワタシの立場や思いをつねに公然化しておくことはお粗末な振る舞いである。それゆえ、旗幟鮮明を控えることになったのであった。
 この、《そもそも一つのまとまった社会にいるという「実感」から出発している》感覚は、未だに続いている。はじめの方に触れた「組合会議における旗幟鮮明」は、はっきり党派闘争をしている伝統的左翼の西洋的ロゴスを列島的「論議」の場に映したハイブリッドである。言わば西洋的ロゴスをタテマエとして利害得失というホンネにまぶして主張するものであったから、その後の高度経済成長の渦中に呑み込まれて、左翼の理念すらも大衆社会状況に吸い込まれてしまったのであった。
 おっと、冒頭記事で思い浮かんだ、同窓会継続の代表決定との違い。詳細は、2023-08-25の記事「もともとバラバラ、かめへん、かめへん」をみて頂きたいが、《そもそも一つのまとまった社会にいるという「実感」から出発している》この方たちは、公と私の区別もしていない。公的に決定したことを私的な遣り取りでぶち壊しているという意識もない。場の様子によってホンネとタテマエを使い分け、理念もへったくれもなく、自儘を通す。
 こう書いて思うのだが、「理念」というのは、差異を意識し合った者たちの間で共通の土台として築かれたものなんだね。差異がないものの間には、ホンネの利害得失だけが剥き出しになって(それはそれでわが身が動物であったことを振り返ると)爽やかでさえある「かんけい」といえる。
 う~ん、参ったね。せめて「場」を取り仕切るのを誰がやってるかを確認することから、出直しましょうか。

ちょっぴり秋の気配?

2023-08-28 15:25:42 | 日記
 暑い日々がつづいています。残暑お見舞いが、猛暑お見舞いとあったり、残酷暑お見舞いとなったりして、季節の言葉に乗せられない移ろいの乱脈に、伝統文化の崩れかけている気配を感じています。
 それでも昨日は午前中買い物に出て、約1時間半、8㌔足らずを歩き、ちょっぴり秋の気配を感じました。そう、台風10号が東の沖合をゆっくり移動していたために厚い雲が空を蔽い、陽ざしが遮られていたし、風もあっていくぶん涼しかったからでしょうか。のんびりとお喋りしながら師匠に花の名を教わって歩きました。
 昨日教わったのは、ルコウソウ。花は高坏型の輪郭のきっちりしたもの。縷紅草と漢字でかくと、襤褸のルのイメージが浮かびますが、ボロの方の褸は衣偏・「衤」でボロだが、縷は「糸」偏で細い糸の意。文字通り、糸のような葉がたくさん茎から突き出している。ふ~んと耳に入れる。文字に起こすと少しは頭に定着するかなと思う。
 少し行って、「あ、これが、マルバルコウ(丸葉縷紅)」と声を上げたのをみると、花は確かに似ているが、葉は細い糸どころか心形の広いのがどっしりと控えている。モミジバルコウ(紅葉葉褸紅)というのもあるけど、「ルコウソウ」と「ソウ」がつくのは最初のだけ、後の二つは「ソウ」はつかないという。そうか、花の形で名が浮かび、葉の形で分けられ、なお、「ソウ」がつくかどうかでもひとつ分類が進むのかと(勝手に思って)へえ~と肚に収めた。
 帰って図鑑を見ると、ルコウソウの開花は、8月~10月、つまり晩夏から秋の花のようだ。俳句の季語がどうかは知らないが、響きは涼しげであった。
 買い物をして帰宅途中、雲行きが怪しくなった。黒っぽい雨雲がいつの間にか頭上に広がっていて、ポツポツと落ちてくる。師匠は晴雨兼用の日傘をもっている。私は折りたたみ傘をリュックのポケットに入れてある。それを取り出してさすのを待っていたかのように雨粒は大きくなり、ざーっと降り注いできた。いつかのように横なぐりではなかったから、少し濡れるくらいで家に辿り着いたが、膝から下はたちまちびしょ濡れになり、ま、なんとか上半身は濡れ鼠にならないで済んだ。雨が落ちてきたのは11時に近いころ。夏の夕立とは違う。だがこれも、夏は終わったという気分に、いくぶんかは加担しているかも。
 部屋の中を通り抜ける風は、30℃くらいの暑さなら過ごしやすい方に感じさせる。鈍くなってるんだろうか。いずれにせよ、猛暑が烈暑になり酷暑になり、立秋を過ぎたから残酷暑ですねと「お見舞い」の葉書が来ていたことに比べると、朝方の小窓から入ってくる空気に、いくぶんのひんやりを感じるようになった。うれしい。
 あと3日で八月が終わる。今年は台風が沢山やってきそうなのが、ちょっと心配。9月下旬から10月上旬にかけて四国お遍路の最終回をやろうかと思案している。暑さもさることながら、台風の雨と風の中を歩くのは、あまりうれしくない。
 どうするか。ぼつぼつ思案をはじめようか、どうしようか。

「希望」につながる知見

2023-08-27 06:48:03 | 日記
 ドキュメンタリードラマと銘打った『ケーキの切れない非行少年たち』を観た。IQ74という「境界領域」の少年をモデルに、その振る舞いをドラマにし、少年院での様子も採り入れ、日常生活に復帰後の姿を描いている。知的障害には分類されないが平均値領域にも含まれない「境界領域」の少年たちが、こんなふうに(ワケもわからず)苦労していると知っていたら、学校教師であったことにももう少し振る舞い方があったなあと思いつつ見終えた。
(1)IQによる差異と一概に括ってしまうこと自体が、また問題を生んでしまうのだが、ピンからキリまでグラデーションになっている事象の段階ごとの特性を、ある数値で区切って取り出す「分節化」が、その独特の振る舞い特性を持つ少年たちに向き合う大人たちには必要なのだと思った。それを知ることは教師の胸中に寛容の精神をもたらす。
(2)上記のことを知らない大人は、理解が遅い子、なかなかわからない子、課題に向き合おうとしない子、頑張らない、集中力がない、他のことに気をとられて勉強に心を傾けていない子として、受け止めてしまう。翻ってそれは、ヒトってこういうものだとみるスタンダードを内心にもっていて、それに照らしてグラデーションのどこかにその人をマッピングして「理解」しているということである。これは、IQのことに限らずヒトのクセとして心しておかねばならない。ヒトはみな平等であるとか公平に向き合わなくてはならないということも、そのベースの上に築かれている。自分の無意識の反応として(ふだん)どう振る舞っているか、自己批判的な目を持って対象化しなくてはならない。
(3)親子関係でそれがどう扱われることが(当の少年にとって)ふさわしいか。そう考えるとき、当の少年のIQ自体を認めたくない親の心持ちが作用する。それが当の少年の心持ちを不安定にし、追い込んでしまうことにもなる。
(4)残酷なのは、少年たちの向き合い方だ。学校において彼らは、他人をみて自分を描きとることを日常的に繰り返して積み重ねている。ことにそれを(互いの反応によって)集団的に確証することを通じて行うから、それを口にし、振る舞いにしてぶつけ合いことも日常茶飯事となる。動態的なのだ。イジメや孤立ということも、信頼や裏切りということも、意図してというよりは自然過程として出来する。簡略にいえば、ヒトもまた動物なのだ。それが、残酷さを加速する。でもそれをくぐり抜けることによって少年たちは互いに成長していく。
(5)大人の社会は、公平・対等・平等という理念の衣装を着ることによって、グラデーションの差異がないかのようにして、(その少年たちとも)向き合う。現象的残酷さは軽減されるかにみえるが、出来する事象はことごとく当の少年たちの責に帰せられる。街中での失敗、あるいは万引きなどの非行、アルバイトのヘマ、仕事上の逸失などなど、あいつはこういうヤツなんだと世間が定評を落ち着かせるまで、その事象は続く。ところが・・・。
(6)その当の少年の中に、IQ70に居直って、Yutubeの配信をしているドキュメントが挟まれる。明るく「境界領域」の自分を晒し、ヘマやミス、ドジを笑いに交えて紹介すると共に、それでもそれが自分なのだから仕方がないと、あっけらかんと(と他の人が思うほどあっけらかんでもなかろうと思うが)アップしているようだ。これはIQの分節化という科学的知見について、新しい見方を提供する。つまり「境界領域」と判定されても、それはIQチェックがしている一部分の数値的表現であって、ヒトの才能そのものはまだら状に形成され保たれるものだということ。つまり「境界領域」という観念自体も固定化すると間違えるぞという警鐘でもある。上記のようなことを記して何か「ワカッタつもりになっているワタシ」の希望でもある。
  *
 とまあ、そんなことを思いつつ記していたら、1年前(2022-08-26)のブログ記事「姿形が起ち上がる」が送られて来た。夏休みとあって東京へ遊びに来た孫の振る舞いに感じたことを記して、「希望」をもったことを書き留めている。そうか、同じか。ドラマを観ても、孫に出逢っても、そこに「希望」を発見したがっているワタシがいるのだと、思った。