mukan's blog

つれづれなるままに ひぐらしPCにむかいて

無事に年を越せそうです。

2016-12-31 10:06:18 | 日記
 
 12月の半ばに差し掛かるころ、いま使っているノート・パソコンのインターネットへのアクセスができなくなった。「IPアドレスが……」とか「ルーターを設定してください」という表示が出て、無線LANが通じないという。そういえばルーターは、もう十年ほど使っている。買い替え時ということかと、近くの家電量販店へ(なぜかついでにPCも持参して)出かけた。その量販店ではPCに不具合があるかどうか見てみましょうとチェックしてくれたところ、その量販店のWIFIにつながらない。ルーターが古くwindows 10でつながらないこともあるという。それを修理するのに今年中は無理、年が明けてから持ってきてくれと丁寧な応対。さて困った。
 
 遠方に住む息子にメールで相談。インターネットに「検索」をかけて、「困ったときのヘルプ」をいくつか調べてもらった。案外同じように「こまった」人がいることがわかる。コピペしてみると、なんとA4判で9ページにもなった。フローチャートになっていて、ひとつひとつ丁寧にたどればわからないわけではないと思うが、4,5ページたどると気が萎えて放り出してしまった。年を取るということは、頭が悪くて理解できなくなるのではなく、丁寧に「指示通り」に物事を始末する根気がなくなるのだと分かる。とうとう古いデスクトップのインターネットアクセスを使って、何とかメールなどを途絶えさせないで済ませた。というのも、年末に息子一家がやってくるから、そのときに診てもらおうと横着を決め込んだ、というわけ。
 
 そして診てもらった。息子自身の使っているモバイルWIFIにコンタクトしてみると、なんと見事にPCはインターネットにアクセスした。やっぱりルーターが問題なのだということになり、さっそく、件の量販店で買い求めた。持ち帰って組み立て、「30分くらい置かないといけない場合がある」とか「90秒ほどかかる」という「注意書き」を丁寧に守ってセットを済ませた。そうしてPCにつなげる段階になったが、どういうわけか通じない。量販店に出かけてその事情を話すと、「おかしいですね。そんな不具合は聴いたことがないが、持ってきてください、持ち駄目なら取り替えます。」と言ってくれた。外出していた息子が返ってきたので、セットの仕方に不都合でもあったかと診てもらった。問題ない、息子のPCではちゃんとアクセスできる。だが私のPCとつなげようとするとうまくいかない。ということはPCの問題、あれこれと試してみるが、どこが不都合なのかわからない。最後に「リセット」をクリックして、PCを再起動させたら、みごとルーターと通じることができ、いまこうしてアップしている。なぜ通じなかったかは、「わからない」まゝだ。
                                                              
 そういえば25日に、田舎に住む兄から電話があった。結論から先にいえば年賀が書きあがった達成感を電話での私とのおしゃべりに替えたわけなのだが、じつは彼も、私と似たような面倒に巻き込まれていた。使っていたパソコンが突然暗くなって何も表示しなくなり、業者も「なぜかわからない」といい、仕方なく新しいのを購入したが、そのために住所も全部、はじめから入力しなくてはならず、四苦八苦した様子であった。それゆえに発生した達成感というわけだ。私も、デスクトップのパソコンの住所録が取り出せなくなって、同じようにして年賀を作成した。終わって話を交わしてみれば笑い話になるけれども、「何だか時代に見放されそうになってるね、お互いに」と言葉を交わした。上に述べた「根気」が萎えてしまえば、もうすっかり埒外の人になる。ぼちぼちその端境の所に立っていると思われる。
 
 そういうわけで、今年も終わる。何とかまだ、世間とつながって年を越せることを、良しとしなければなるまい。
 
 皆様方も、佳い年をお迎えください。
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無菌室の中の子どもたち(4) 日々、思念上の危険を冒している

2016-12-27 09:31:54 | 日記

 書き落としていることがいくつもあると気づき、追加。

 少女aの「自殺未遂がいじめに起因する」と決めるのにためらいを持っていたRさんが知り合いの精神科医に相談したところ、「ああ、そういう(発作的に飛び降りる)ことって、思春期の女の子にはよくありますよ。ヒステリー症状の一種ですね」と、一般的と断りながら事例を解説してくれた。これを聞いてRさんは気持ちが楽になったという。何か「事件・事故」が起きたとき、なぜそれが起きたのかと因果を解き明かしたくなるのは人の性(さが)。ところがこの精神科医の「解説」は、経験的な知見ながら専門家の間では一般的な「定説」となっている。「病名」がつくことによって因果関係の辺縁がみえたと言えるかもしれない。

 この精神科医の一般論は、現場教師や同級生たちの少女aの動静観察と一致することもあり、aに対するメンタルなケアを注視することになった。前回述べたが、入院中の彼女との接触に現場中学校の女性教師であった教育行政職員が当たることにしたのも、そうした配慮のひとつであった。しかし上記の「一般論」は、aのケースとしては公表できない。たとえ彼女の担当医がそう見立てたとしても、それ自体が彼女のプライバシーを暴露することになる。実際の現場も教育行政も、そのようにして「護るべきこと」を守りながら、メディアへの謝罪や発表を行っている。だがそれは、メディア側からすれば、「隠ぺい」しているように見える。彼等もまた、「因果を解き明かしたくなるのは人の性(さが)」に動かされているからだ。

 マスメディアが定型的な反応をみせている間に、ネットの世界では驚くような風評が飛び交うことになっていた。4月につづいて起こった転落事故も含め、この少女aの転落事故の背景には「謎の首魁・Xがいる」という、現場中学校の生徒や教師たちにとっては奇想天外な風評である。「首魁・X」によって仕組まれたという「陰謀論」的な風評も、「わからない」ことへの手短な得心法であった。集団的無意識の人類史的堆積の末に生み出されてきた「人の性(さが)」の不可思議さを、簡明に解き明かすように見える「陰謀論」は、今の時代の速戦即決的な風潮に見合って、受け容れやすい。アメリカの大統領選でも、日本のアベノミクスでも、(何故かわからない事態)を単純明快に斬ってくれる言説は爽快感を醸し出す。「いいねえ」というわけだ。だが、現場中学校の当事者にしてみれば、奇想天外に思われた。現場教師の見立ても「aを上回る力のある生徒などいない」というものだったから、それに振り回されることはなかったが、「いじめ」を隠蔽しようとしているという「規定観念」に執心していた市議会議員やメディアは、aや父親を動かして、「いじめの解明をせよ」と迫ることになったのであった。

 もうひとつ興味深い視点に、Rさんの話は触れていた。「いじめ」問題に起因する「自殺」案件に対する「司法の判断」のしかたである。1990(平成2)年に福島地裁いわき支部が出した(民事訴訟上の)判決は、「苛烈ないじめ」や「本人の性格」、「家族関係」などを検討したのちに、次のように結論部分を締めくくっている。

 《以上検討したところをまとめれば、当裁判所は、過失相殺ないしはその類推適用の考えかたによって、Aが右2(で詳述)のように自殺したということ自体について四割程度の責任分担をなさしめるべく、また、前記1でみたAの家族らの責任についても考慮すれば、原告らに生じた損害のうち、七割までは原告側の負担とし、被告については三割の限度で責任を負わしめるべきこととするのが相当であるものと考える。》

 刑事訴訟と異なり民事訴訟は、「損害賠償」として争われる。「命の値段」という争い方自体がもっている限界はあるものの、生起した事象(いじめによる自殺)に関する「当事者」の「責任(の重み)」の分担というかたちの表現で、判断したと考えて良いであろう。つまり、自殺したり亡くなった《「犠牲者」は免責される》という「死者に対する弔いのかたち」を、近代法が「責任分担」として乗り越えようとしている。つまり、「いじめ」を原因として自殺したとしても、本人4割、家族3割の「責任」はあるものとし、「いじめ」当事者の責任を3割とみなすという判断である。そんなに簡単に「かんけい」を切り分けるなんてと、庶民は思うかもしれない。だが、取り返せない「出来事」に始末をつける近代法の「民事」では、たぶんこのような「提示」のしかたしかできないのであろう。法が人びとの感情をカバーすることなど、そもそも出来ないことなのである。

 前回の末尾で、「どのような次元で俎上に上がっているのかを見極めなければならない」と述べた。一つの「事象」がなにがしかの現場でおこったとき、現場の持つ具体性を離れて「報道」を目にしている次元は、明らかに異なり、すでにメディアを介しているだけでずいぶんな抽象化を経ている。そのことをわすれると、プライバシーの暴露にもなるし、過剰介入にもなる。ネットに「情報」が氾濫するということは、私たちの思念が日夜試されていることを意味する。私たちはそうした思念上の危険を冒しながら、日々「情報」に接している。そのギャップに目を止め、それを(どう埋め合わせているかを)意識しつつ埋め合わせながら、他山の石としたりしなければならない。そのとき、子どもは《無菌状態で育つのか/育てるのか》という壁を何度も繰り返し超えているかもしれないことを、肝に銘じなくてはならないと思う。

 今の時代の環境を出来るだけ清潔に、穢れ無く保つと思うこと自体に「人間観の大きな欠落」を見ていない問題がある。人は、「性(さが)」を、そう簡単に超えることができない。超えるべく、繰り返し克服しようとしてきたが、なお、それをつづけなければならない、シジフォスの神話のようなことを私たちは背負っている。そう思って、子ども(次の世代)のことを考えていきたいと思う。

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無菌室の中の子どもたち(3) 「事態」を抽象化する次元

2016-12-26 19:11:52 | 日記

 12/9と12/12に「無菌室の中の子どもたち(1)」と「無菌室の中の子どもたち(2)」をアップしたまま、気移りして放っておいた問題をとりあげたい。

 ある地方都市の市立中学校の4階の窓から一人の少女が転落した。自殺未遂であった。転落した少女aが半年ほど前からグループをつくっていた少女bとcとの「人間関係のもつれ」が主要因とわかったが、それをはたして「いじめ」と言えるのかどうかを問題としてきた。市会議員が父親の同意を取り付け、「いじめ」として市議会で問題化し、マスコミがそれに乗じた。その経緯をレポートしたRさんの話を聴いていて、どの場面で「モンダイ」を取り上げるかによって、どんどん「事態」が抽象化されて行ってしまうと、私は感じた。「事態」の起こった中学校においては、転落した少女aの救急搬送と家庭への連絡、警察への報告と手配をすると同時に、市の教育行政当局に報告している。この段階では、少女aとともに、彼女と悶着のあった少女bとcから教師が事情を聴いている。

 ここ(学校現場)では「事態」に具体的に即している。3人の少女たちの振る舞いを知っている教師たちが、彼女たちからだけでなく、クラスの他の生徒たちからも事情を聴き、少女bやcに対するカウンセリングも(親の同席を含めて)開始している。同時に学年保護者会を開いて「事情説明」を行っている。ところが教育行政当局は、その「事態」収拾の進行の報告を受けながら、少女aとその保護者への接触を行おうと試みているが、踵と腰の骨折治療中のaとは(精神的に不安定)との理由で、精神科の医師からの許可が出るまで事情を聴くことができなかった。しかし教育行政当局としてマスコミ向けの記者会見もしなければならない。

 だが、少女aばかりかbやcに関するプライバシーの保護もしなければならない。マスコミは具体的に詳細を「公開せよ」と迫るが、少女aがグループをひきまわしておおよそ「いじめ」を受けるとは考えられないという同級生や教師たちの「証言」を公表することなど、できようはずもない。つまりマスメディアは、自殺未遂をした当事者に何の瑕疵もなかったと前提して、取材し、記事を書く。中には書けないと記事化するのを断念する記者もいるのであろうが、デスクがそれを許さないこともあろう。つまり社会全般の「既成概念」に従って物事の因果を当てはめて、物語りをつくりあげる。となると、文科省の「いじめ」概念の通り、「当人がいじめられたと言えばいじめ」といういうのに従って教育行政当局も「事態」を説明し、「公開」するほかない。自ずから抽象化される。

 そうこうするうちに、転落した3月が終わり学年は改まり、当事者たちも3年生になる。ところが新学期に、転落事故を起こしたのとは別の学年の女子生徒が、やはり2階のトイレの窓から身を投げて、自殺未遂事件を起こした。マスメディアは当然大きな話題にする。しかしこちらは、転落した女子生徒は(その後も)「事情説明」を拒み家族もそれに同じたため、マスコミ的には報じられなかったのだが、それだけにいっそう、入院加療中の少女aにメディアの関心は集中することになり、それがのちの「いじめ」としての訴えになったのであった。

 年度替わりに教育行政当局に勤務することになった職員の一人が、じつはその中学校の女子教員であったことが幸いしたと、Rさんの話でつづく。女性職員に少女aとの接触を担当してもらった。「女性にしかわからないことって、あるんだね」とRさんは感嘆する。a自身のカウンセリングを含みこみながら、彼女の心うちを解きほぐし、人と人との「かんけい」を内省的に振り返るやりとりをしていった結果、ほどなくaは、「自分もいじめていたけど……」といくらかは自分を対象化してみる視線を身に備えるようになり、やがて教育行政的には第三者委員会を設けたこともあって、そちらに「事態」は預けられ、後日の「報告」を待つようになった、という。

 さて問題は、「事態」がどのような次元で俎上に上がっているのかと、私たちは考えなければならない。そのときしばしば、既成概念に寄りかかって、亡くなった人や自殺を試みた人を悪く言わないという社会風潮を、「儀礼」としては認めても、「事態」の解明には役立たないときっぱり見切りをつける必要があると、私は受け止めた。メディアだけではない。教育行政当局も「ただ頭を下げればいい」という事態収拾を行うのではなく、言葉にはできないが子細に入り組んだコトがあると、子どもの成育をふくめて社会的な規範を共有する必要があると思った。そのためには、もっと率直に、しかし、公表はできない「子どもたちのかんけい」をしばらく胸中に溜め置くという、おとなの社会的余裕をつくりあげていきたいと思う。

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市民社会の「法」の精神の原型

2016-12-24 14:28:52 | 日記

 12/21のこの欄で、《「人間の尊厳」の重み》と題して、フェルディナント・フォン・シーラッハ『テロ』(酒寄進一訳、東京創元社、2016年)について記した。後にひとつ書き落としていたことに気づいた。

《第三幕は「判決」。なんとここが二章に分かれ、「有罪」と「無罪」の、二通りの評決が開示される。これもまた、哲学的に読み取れるが、シーラッハは読者が参審員としてどう評決するかに委ねたと思われる。》

 この「判決」、「有罪判決」の方は「撃墜を認める法律は憲法違反」とする最高裁判断という法的根拠を持ち出せば、(日本にいても)法制的には成立する。しかしシーラッハは、その法制的根拠に踏み込み、判決理由に掲げる。イギリスのある事件に関する「判決理由には、素晴らしい文章がのっています。百三十年後のいま、当法廷でもそれを踏襲します」と前置きして、以下のように引用する。

《わたしたちはしばしば基準を設けることを求められるが、わたしたち自身がその基準に達しないものだ。そして規則を作っても、それに満足できないものだ。しかし赦したいという誘惑に駆られてもそう言い渡す権利は一個人にはない。その犯行に同情を覚えたからといって、犯罪の法的定義を変更したり、弱体化したりする権限も一個人にはないのである》

 そのうえで、次のように述べている。

《ルフトハンザ機の乗客の生死はテロリストのみならず、ラース・コッホ被告人の手中にありました。乗客は無防備で、身を守る術はありませんでした。乗客は殺害されました。人間としての尊厳、譲渡不能の権利、人間としての全存在が軽視されたのです。人間はモノではありません。人命は数値化できません。市場原理に準ずるものでもないのです。》

 これを私は、《「人間の尊厳」の重み》と受け止めたのであった。「法の規定」の底面に累々と堆積する「人間の尊厳」を獲得する歩みが感じられ、そういえば日本では、それほどの「重み」を実感する前に、「人間」ははやばやと市場原理に呑みこまれて「個人」になってしまったようにみえる。「原理」は外から与えられるもの、自ら獲得することとは思わないまま、「状況」をうかがって右往左往してきた庶民のありようが、我が臍を噛むように思い浮かぶ。「一個人」の判断と「裁判における判決」とが齟齬することがあってはならないと、どこかで期待している。裁判員裁判なども、司法の「大衆的装い」として採用されていることを、どれほどの人が意識しているであろうか。ドイツの参審制の「参審員は事件ごとに選出されるのではなく、任期制になっている」「犯罪事実の認定や量刑の決定の他、法律問題の判断も行う」という構えであるのに対して、日本のそれは「司法の許容する範囲」にとどめられている。「原理」が天から降ってきた日本では、私的領域の感懐が公的領域の判断と同一平面でつながっている錯誤を抱いたまま、近代に突入してしまった。その悲哀である。

 だが冒頭に記した「書き落としていたこと」とは、「無罪判決」の理由に関することである。「無罪」とする法的根拠をもたない地平で、いったいどういう「理由」をつけているのであろうか。まず、おやっ、と思うことがある。

《われわれの法は、自分自身、家族、あるいは親しい人物の危険を取り除いたものの罪を許す。》

 と切り出す。「正当防衛」ということを言っているのかと思いきや、こう続ける。

《つまり父親が自分の娘を避けようとして車のハンドルを切り、自転車に乗っている人を轢いた場合、罰せられないのです。》

 日本ならば「業務上過失致死傷」ということであろうが、「罰せられない」わけではない。ドイツの法は、どうなっているんだ?

《しかしラース・コッホ被告人と(ルフトハン機が突入目標としていた7万人がいた)スタジアムの観客のあいだにはそうした近しい関係はありませんでした。したがって被告人は、条文にない根拠によってのみ無罪となります。ここで問題となるのはいわゆる「超法規的緊急避難」です。……この超法規的緊急避難なるものは、ドイツ基本法、刑法以下いかなる法律にも規定されていません。当法廷はその点に看過できない評価上の矛盾を見出します。つまり行為者が自身あるいは近親者を救いたい、それだけのために自己中心的に行動すれば、法はその行為者を無罪とし、逆に無私の心で行動したとき、その行為者は法に抵触するという矛盾です。しかしながら、無私の心を持ったものよりも自己中心的なものを優遇するというのでは理にかないませんし、わたしたちの共同体のめざすものとも一致しません。》

 私の疑問を置き去りにして、ドイツ法の矛盾を突く。そうして次のように述べて「無罪」を言い渡す。そこが秀逸だと私は思った。

《……耐え難いことではありますが、わたしたちは、私たちの法がモラルの問題をことごとく矛盾なしに解決できる状態にはないことを受け入れるほかないのです。……被告人の良心に基づく判断に遺漏なく検討を加えるための法的基準を私たちは持っていません。航空安全法もドイツ基本法も、彼ひとりに判断をさせました。そのことをもっていま、被告人に有罪を言い渡すことは間違いであると確信するものです》

 日本の司法は、もうすっかり行政の下僕に成り果てているから、上記のような判決は、どこを押しても出てくる気配がない。しかもシーラッハは、参審制の「判決」として、つまり(共同体を構成する)庶民の「判断」として、法と対峙し「有罪を言い渡せない」とする。私が象を撫でているのかもしれないが、近代市民社会の「法」の精神の原型に触れたように感じているのだ。

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散文と詩と信仰と

2016-12-23 10:55:54 | 日記

 年賀の文面を考えていて思ったこと。今年を無事に過ごせて感謝したいという思いを「お世話になりました」という常套句で片づけてしまうのだが、なるほど「お世話になった」ひとに対してはそれでも良いが、「お世話をした」ひともいるし、「無沙汰ばかり」で「お世話のかかわり」に縁のなかった人もいる。子細に見ると、「お世話」をする動機(わけ)とか「お世話」の効用に思いを及ぼすと、「している」方がじつは「されている」という「かんけい」も浮かび上がる。持ちつ持たれつで、分けることができない。

 つまり具体的に個々のケースで考えていると、コトそれ自体を「お世話」という実態/実体としてみようとしている傾きを感じる。そうじゃないんだよなと思いめぐらしていて、ふと、「方々へ感謝を捧げ」ということばが、泥濘からぽかりと浮びあがった。この「方々」とは、人(かたがた)のことばかりではない。「ほうぼう」と読めば空間と過ごしてきた時間も含まれる。「方々へ」であって「方々に」でないことも、「明確な目あて」を示さない。茫洋とした「取り囲むすべて」を指している。人であったり、環境であったり、世界であったり、宇宙であったりする。宇宙から見るとゴミにも値しない、細菌というかウィルスよりも些少なひとかけらが、「感謝」を捧げる。幸運への祈りである。詩とはそういうものかもしれない。

 そうして改めて文面にしてみると、なんとも陳腐な感謝の表明ではないか。むかしおふくろが宗教に凝っていたころ、よく口にしたセリフと同じである。おふくろは昇る朝陽に向かって手を合わせて、何かを祈っていた。(今思えば)その方がはるかに「信仰」に近い。ほとんど習性のように身に備わっていた、祈りとしての「感謝」である。私にはそれがない。ことばが駆け巡っているだけ。だから陳腐なのだ、と気づく。かすかに(宇宙を基点においてみる)「細菌というかウィルスよりも些少なひとかけら」という自己意識が、「宗教性」をもたらす。古希を過ぎた今になって、やっと私が到達した地点でもある。詩的に言えば、「方々へ」とは「神々へ」でもある。そういわないのは、「神々」という表現が手垢にまみれて、私の辞書に記されてあるから。あるいはまた、「神」のある世界ではなく、「ひと」の世界で私は言葉を紡いできたからである。

 そして、また思う。手垢にまみれていて、いいではないか。受け取る人が「あいつもとうとうへたれてきたな」と思うならば、屁垂れてきたのであろう。つまりそれは、受け取る人と私との「かんけい」が屁垂れてきたことを意味している。それはおふくろ(の信仰)を観ている私が、「陳腐だ」と思うのと同じで、それはおふくろが陳腐だということではない。おふくろのそれを見ている私との(私からみた)「かんけい」が「陳腐」だったのである。「信仰」ばかりではなく、ありとあらゆる「ありよう」が(他者に)どう受け止められるかを算入している間は「感謝」の祈りにはならない。ひたすらな祈りは、見返りも求めない。ただ、いま、ここにあることへの感謝。何に対してとは言えないが、私と私にまつわる「かんけい」が、この一年かようにあったことへの「細菌というかウィルスよりも些少なひとかけら」の捧げる感謝。
 
 「方々へ 感謝捧げて 年を越す」

 そういう季節になった。

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