mukan's blog

つれづれなるままに ひぐらしPCにむかいて

1年の4分の3が見せる自助・自律

2021-09-30 11:21:36 | 日記

 今日で9月が終わる。1年の4分の3。これは、コロナウィルスの到来から1年と4分の3でもある。この間にどれだけ学ぶことができたかが、人類の叡智ということになろうが、そう考えてみると、「現代」の歪が浮き彫りになる。
(1)コロナウィルスの発生源とその拡散経路の探査は、分からずじまい。国家利害の対立に阻まれて雲散霧消してしまっている。その国家利害も、その国の統治者の代表する部分的な利害が前面に出ていて、どこにも「全体の代表者」という気配を感じない。第二次大戦の折に、連合国は「全体主義vs.民主主義」という対立構図を「叡智の上着」にした。後にその上着を「理念」と呼ぶと,戦中生まれ戦後育ちの私たちは知って、それなりにまとった。
 今やそれさえも、脱ぎ捨てたと言えようか。いや、かつては「叡智の上着」らしいぱりぱりにみえた上着であった「理念」も、長年着ているうちにすり切れてボロボロになり、もはや下着が透けて見えるようになった。それを取り繕う「理念」を、すでに世界は持ち合わせていなかったのであった。
 着古した上着のせいというよりも、世界の進展とそれに伴う人間の変容が、窮屈になった上着を取り替えることを求めているとも言える。だがグローバリズムという戦後理念の延長で取り繕うことをしてきたから、「にんげん」としての一体性すらも見失ってしまう様相を呈するようになった。それが大統領選におけるヒラリー・クリントンの敗北であった。
 その対抗軸が、トランプだったことが、「人類の叡智」の貧困を語っている。かれは、下着姿にしたのは、そもそもの上着であったと、その「(近代の)理念が裸である」ことを衝いた。だったら何も隠すことはないと、グローバリズムにおける「強さ」をむき出しにして、しかも対面交渉という「弱いもの相手」には一番の武器を取り出して、世界を4年間掻き回してきた。それが大国トランプの時代であった。
(2)他方で、「理念の根拠」から編み直すことも始められていた。「自由と民主という近代の上着」もさることながら、気候変動という「近代のもたらした災厄」に目をとめ、そこに「人類連帯の必要性の根拠」を置き、羽織る上着を紡ぎ直そうという西欧発のエコロジー。コロナウィルスが到来したこともあって、ますます「人類連帯の必要性」は求められたのだが、発生源の調査どころか、ウィルスへの対処の仕方についても諸国統治者の思惑が絡んで、一様に進まない。それどころか、ワクチン接種の優先順位が、やはり国民国家対立的に、かつ資本家社会的に行われている。感染拡大がなぜ起こるのか、なぜ縮減するのかを、1年と4分の3経っても「わからない」と為政当事者がいう。しかもワクチンも、シートベルト程度にしか利かないといわれては、自己防衛的に用心するほかない。つまり、国家の統治機能さえ信用を失い、科学的判断への信頼も、WHOなど専門機関の権威も薄れ始めている。
(3)人類が積み上げてきた「上着」が剥がれてくるとともに、国家的な統治や世界的な仕組みに対する幻想が浮き彫りになった。マスクをするしないということも、蓄積してきた文化の違いがむき出しになって収まりがつかない。何がフェイクか,何がほんとうかも、自ら見極めるほかない事態になっている。とどのつまり、自分たちのことは自分たちで護るしかないと「自律の志」が芽生えてきた(かもしれない)。思えばこれは、人類史の原点に戻るような「自律」だ。だがそれも、国民国家という「現代の枷」が囲い込み、その中での「自律」と、甚だ心許ない。「民主主義vs.専制主義」という構図を描き出して、夢の再来を試みている大国家リーダーもいるが、果たしてそれで昔日の「人類史的連帯感覚」が戻っているかどうか、頼りない思いをしている。
                                      *
 そういうわけで、はなはだお先真っ暗の「自助・自律」状態におかれている庶民としては、なにが「まことのことか」を一つひとつのデキゴト毎に,自らの自画像を描くように吟味しながら,一歩一歩先へ歩いて行くしかない。この情報化時代に。慥かに心許ないが、心持ちの環境としてはかえってサバサバして、さあここからジンルイ史を紡ぐことになるぞと決意するような気分ではある。出立したばかりのホモ・サピエンスと思えば、不安と一緒にわくわくするような思いが湧き起こってくる。
 と、いいなあと、年寄りは考えている。


納得ずくの世界は混沌の海

2021-09-29 07:58:00 | 日記

   劉慈欣『三体Ⅱ 黒暗森林(上)』(早川書房、2020年)を読んでいる途中で、面白い記述を見つけた。9/24に書いた「英雄か敵か? 歴史だ! 虫けらだ。」の続編に当たるSF物語。だんだん面白くなってきた。物語は省くが、数世紀先に待ち受ける地球の命運を賭ける人物(複数)を国連が選び、その人に「すべてを託す」。
 その人物たちの要求はすべて国連のある機関に伝え、そこだけが精査することになっているシチュエーション。その場面で、警護に付き添う元警官と国連の派遣するスタッフとの会話。その人物(複数の中の一人)が「夢の恋人」を見つけてほしいと元警察官に頼み、彼は国連スタッフにそれを伝える。そのとき国連スタッフは、それを拒む。
「いくら何でも、それは甘やかしすぎだろう。すまない。それを上に伝えることはできない」
「だったらあんたは、(国連決議)に反することになる。……いかに理解不能であっても、すべて報告し、実行しなければならない。拒否権は(国連機関)にのみある」
「しかし、社会のリソースをあんな男の王侯暮らしに浪費するわけにはいかない。あんたのことは尊敬している。経験も洞察力もある人だ。だから本音を聞かせてほしい。(かの人物は)計画を遂行していると本当に思いますか?」
「わからん。だがあんたは,どんなことにも理由を問わずにはいられないタイプだ」
「それが間違いだと?」
「正しいとか間違っているとか、そういうことじゃない。もしだれも彼もが,理由に納得できない限り命令に従わなかったとしたら、世界はとっくの昔に混沌に飲み込まれていただろう。」
 数世紀先の地球の危機に備えるための「プランニング」を(地上のあらゆる資源を使ってもよいと)任されたら、どうするだろうという興味が、読み進めるモチーフになっている。だがそれ以上に、上記のやりとりが、この作品の慥かさを醸し出していると思った。
 と同時に、自律した個人というのが、集団で生活していかなくてはならないヒトのありようとして、いかに障害になっているかも描き出している。自律した個人というのは、まさしく「情報化社会」のリテラシーを身に備えた「立派な人」のことだ。
 たとえば、ドイツの軍人は、上官の命を実行する際に、その正当性を自ら判断しなければならないと規定されていると、何かの本で読んだことがある。ナチスの支配を受けた苦い経験を繰り返さないために、軍人に「主体的判断」を義務化したという。それが問われたのは、ハイジャックされたルフトハンザ機を撃墜した罪を問う裁判を描いた、フェルディナント・フォン・シーラッハ『テロ』(酒寄進一訳、東京創元社、2016年)。これについては、このブログの2016/12/21《「人間の尊厳」の重み》と2016/12/24《市民社会の「法」の精神の原型》の二度にわたって,記述している。
 今その子細には立ち入らないが、上記やりとりに描き出された元警官のことばと振る舞いこそ、己をつかむことが世界を捉えることにつながることを示している。そして面倒なのは、「己をつかむこと」と「世界をつかむこと」が順接していないことなのだ。「己」の中はそれまでに触れた「世界の断片」に満ちており、「世界」の中は、「己の幻想」が混じり合っている。つまり、「世界」を読み取っている「己」自身に(そう判断する根拠はなに? なぜ? と)疑いの目を向けなければ、「己」自身が捉えられないし、そう疑うにためには「世界の断片」の何が,いつの間にか「己」に染みこんでいるのか腑分けしなければならない。そのとき、「理由を納得する」ことは、言わば永遠の自家撞着だ。
 結局,目前の我が役割を「それ」として受け入れて働くこと。そのときの根拠は「世界」に対する信頼であり、それは「ことば」にならないわが身に染みこんだ感性や感覚を一つひとつ吟味することを通じて、「ことば」にしていくことに他ならない。そのようにしてつねにつねに、わが身の輪郭を描き出していくことが、即ち生きることだと、元警官のことばから感じ取ったのであった。
 ここに登場する,目下の主人公の「あんな男の王侯暮らし」こそが、ひょっとすると地球の危機を救う驚天動地の手立てに通じているのではないかと(ちょっぴり感じながら)、「上巻」の6合目ほどを読み進めている。まだ「下巻」があるのだから、読後感はずうっと後になるが、こういう断片にぶつかるために本を読むんだなと思っている。


人と「情報」

2021-09-28 06:54:58 | 日記

 今日(9/28)の新聞を見て。容疑者となった時点で(昨日逮捕された)偽版画流通の元画商が「反省の弁は?」と(メディアに)聞かれて「ありません」と応えたと見出しが出ている。まるで「人」という扱いである。と、その下の広告欄に「小室圭さん会見拒否」と女性誌の見出しが躍っている。なんだ、これは! こちらもまるで(当然応答して然るべきなのに)「けしからん」という態度がむき出しである。
 容疑者がメディアに応じることを当然と考えている大新聞の態度が露骨である。小室圭さんという方は、皇女が結婚したいと考えている「一般人」。メディアは皇女に対しては慇懃無礼な言葉を使いながら、その婚約相手には容赦なく(おまえ何様だと思ってんのか!)と言わんばかりの「敵意」むき出し。
 果たして、メディアって、そんなに「公共」なの? って思った。「知る権利」ってメディアが代表してんのか? 「いつ、代表してくれって頼んだよ」っていうのは、素人も素人の一般人の言いそうな愚痴。頼もうと頼むまいと「立場」が「公共」なんですよって、(たぶん)答えが返ってくると思う。
 とすると、メディアの「問いかけ」自体が「公共性」を持っていなければならない。だが「問いかけ」は、取材記者や編集部員の下世話な「関心」が繰り出されているだけではないか。そもそも記者のどういう関心が土台にあって,そういう問いが繰り出されているのか、自問自答したことはあるのだろうか。
(たぶん)編集デスク辺りで、「バカめ、こんなことに(報道)価値があると思ってんのか!」と罵声が飛び交ってんじゃないか。「売れる記事を書け」とか「読者がこんなことに金を払うかよ」と叱りつけてんじゃないか。つまり、記者や編集者自体の「下世話な関心」を、(読者が読みたがる/知りたがっている)と勝手に忖名付けて、「問いかけ」「報道して」いるに過ぎないじゃないか。メディアの記者って、自分の言葉を使わないのよね。誰それがこう言ったと、他人様の言葉を勝手につぎはぎして「作文」している。それが彼らメディアの「正当性」の根拠になっている。これは、売れるのが正義という根拠である。「商業主義」と呼ばれてきた。
 だが同時に、取材したことが,ことごとく記事になるわけではない。そりゃあ紙面の制約があると、編集者はいうかもしれない。だったら、「知る権利」を代表しているような口を利くなと、一般人は思う。報道される事々に取捨選択が偏ると、まるで世の中がそれへの「関心」に満ち満ちていると思えるような事態が、生み出されるからである。
 たとえば、「小室圭さん」の場合、皇女は「公人」である。むろんその根拠は、憲法に規定された「国民の象徴」的存在に連なる暮らしをしてきたからに他ならない。ことに今回の皇女の場合、婚約者の母親の「借金」がモンダイとなった。それを皇女の「持参金」という名の税金が補填するのではないか(それはいくら何でもたまらないよね)と感じる「国民の関心」が、その後のあらゆる「報道」の(問いかけの正当性の)根拠になっている。だが私などは、母親の借金モンダイをどうして息子が応えなくちゃならないんだよと思う。そんなに(知りたければ)母親に訊けばいいじゃないか。だが、どっこい、母親は「一般人」だから、メディアが問い詰める根拠がない。だから息子に「攻撃」が差し向けられているってわけだ。
 放っといてやれよと、私は思う。そもそも論から説き立てると、30年ほどの間「象徴的存在の人質」として(当人の意思に関係なく)制約してきた。だから「持参金」でご苦労様って「解放」してやるんじゃないのと思う。「持参金」は「くに」からの慰謝料みたいなもんだ。1億5千万円ほどというが、毎年500万円とみて30年でその額になる。「くに」の人質の身代金としては、それほどべらぼうとは思わない。その「元皇女」の持参金が何にどのように使われようと、口出しする事柄ではない。金銭モンダイとしては、それで十分ではないか。
「持参金」は、結婚後も惨めな暮らしをしてたんじゃ「くに」の面目が立たない(からもたせる)とか言ってる「皇室報道記者」がいる。だが、結婚後一般人になるってことは、「くに」の面目の領域から外れるってことじゃないか。もし「くに」の面目を言うのなら、貧しくて餓死寸前になっている「民」のことを取り上げて、面目を語れよって、思うね。
 一般人になってしまえば、猥雑混沌の海に溶け込んで、忘れられるってのが、これまでの作法である。いやじつは、結婚後も「公務に類する」お役目を果たしていると「皇室報道」はいうが、伊勢神宮で果たしているお役目は天皇家の私事。あれこれ口出しすることじゃない。それをどこまでも(情報メディアが)追っかけて、月額いくらのマンションに住むとか、セキュアリティがどうなってるとかいちいち「報道」するものだから、「読者」はますます出歯亀のようになって私事に「関心」の刃を向ける。こういうのは、「公正」とはいわないんじゃないか。
 皇室だろうと一般人だろうと、慇懃無礼だけは堅持して容赦なく下世話な話に持ち込むってのは、江戸の頃からの(いや、浪速の時代からの)庶民の流儀。それを「報道」というのなら、そこにはそこの「公正」がある。文春砲のような、情報の刃は、「正義」を振りかざさない。こちらは、一つひとつ、ではこのメディアは何を根拠に「正当性」を主張してるのかと明らかにしなければならない。「世論」というわけの分からない雲霧のような下世話が背景にあると開き直る。だから、大目に見られているんだよ。
 つまり「人の下世話」が「情報」化社会というなら、「公共性」をかなぐり捨てなさいよと思う。「公共性」を被って「知りたい権利」を掲げるなら、取材したことを勝手に取捨選択しないで「報道網」に載っけなさいよ。なによりも、取材記者が,何を根拠に「情報」を追い回しているか、つねにつねに明らかにしておきなさいよと思ったね。


36会第二期第13回seminarご報告(2)電気自動車も化石燃料に依存している

2021-09-27 16:43:54 | 日記

 今回の講師はミヤケさん。お題は「電気自動車・水素社会・原発」の3題噺。そう書き始めてから見た、今朝(9/27)の朝日新聞の朝刊の「記者解説」欄は《EV転換 世界の潮流》。まるでこちらの関心を推し量ったような解説記事である。
 EUが2035年までにガソリン車の新車販売禁止を掲げ、アメリカは(州による違いはあるが)2030年に新車販売の半分を「排ガスゼロ」にすると宣言している。日本はハイブリッド車で他の先進国の自動車業界をリードしているが、菅首相が2035年までに新車販売をすべて「電動車」にする方針を発表した。記事は、「気候温暖化」というEVへの切り替えの大義名分と同時に、製造業界の覇権争いがあり、同時に、EV化によって業界の雇用が12%ほど減少することとか、他業種が競争に算入してくるという業界事情を紹介している。平坦な道ではないことが分かる。
 しかし三宅さんの3題噺は、この「電気自動車」へ切り替える事情の技術的側面を、根っこから説き起こそうというもの。24枚のパワーポイントのシートを用意して、話し始めた。
 ポイントは「お題」の通り、大きく分けると次の3点にあった。
(1)EV(電気自動車)とガソリン車、ハイブリッド車のCO₂排出量の比較
(2)水素社会をつくる方法と問題点
(3)期待される高温ガス原子炉の安全性と技術的メカニズム
 順次説明していきましょう。

(1)電気自動車
 EUが2035年以降のガソリン車販売を認めないと決議したことで、世界の自動車会社が動き始めました。日本はハイブリッドの開発で世界をリードしていたのですが、EUのこの決議は,日本企業との競争も意識したものといわれています。
 三宅さんの説明は、しかし、「軽四輪EV(電気自動車)」は可能かとはじまりました。日本の自動車の4割を占めているのが、軽自動車です。扱いやすい。税金も安い。細い田舎道もそれなりに走れる。近頃は、「遊べる軽」と銘打って、機能性では普通車に劣らない性能の面白いのまで売り出されています。
 だが、EV車化するとなると、軽(ばかりではないのだが)の寸法制限が大きな問題になります。また、軽であるが故の「安価」さにも負荷がかかるので、全部の車をEV化するというのは、ムツカシイというのが、三宅さんの見立てです。
 車両側のフロアパネルを変更せずにLEJ(リチウムエナジージャパン)製の大容量電池パック(重さ230kg、縦1m×横2m)を配置すると考えた「EV用リチュウムイオン電池」を図示して説明する。リチウムイオン電池の単体(セル)88個組み込んだものがひとパック。これを二パックも組み込むと、普通車の床下は電池だけでいっぱいになる。軽では寸法に収まらない。
 ミヤケさんは、EVのエネルギー消費について、まず勘違いをただす。通常電気自動車がCO₂排出ゼロと言われているのは、車のtank,つまり電池から車輪までのことを指している。だが、その充電する電池が化石燃料を使用しているとしたら、「tank to wheel」ではなく、石油発掘の油井から車輪を回すまでのCO₂排出量を算出しないと、公平ではない。「well to wheel」を区別するよう促す(とはいえ、車両本体の全部を生産するのにどれほどのCO₂を排出するかまで計算しようとすると、複雑な工程が関わってくるから、とりあえず、車輪を回すことだけに限定して、EVとガソリン車とハイブリッド車の比較をしている)。表にすると次のようになる。
      「well to tank」 + 「tank to wheel」 = 「well to wheel」
電気自動車……  42.9%              66.5%            28.5%
gas HV  ……    82.2%              30.2%            24.8%
ディーゼル車…    88.6%              17.8%            15.8%
ガソリン車……    82.2%       15.1%            12.4%
 gasHVというのは、ガソリンハイブリッド。
 各車の「well to tank」は油井から精製・輸送・発電・送電を指す。
 「tank to wheel」は走行効率。
 それらの合計「well to wheel」が熱効率ということになる。総合効率は、電気自動車が最高となっている。
  それをCO₂排出量で較べると、電気自動車はガソリン車の1/3、72%の低減となる。1台当たり年間1万㌔走行の場合のCO₂削減量は約1トンとなる。gasHVの1/2だ。
 各国の発電における「火力発電の占める割合」と「CO₂排出の関係」をグラフにした「EVモード走行時の電力を充電する際のCO₂排出量(発電時の電力構成比とCO2排出量)」をみせる。火力の占める割合は、フランス、ブラジルの10%を最低に、カナダ、ペルー26,27%とつづき、45%ウクライナと間が開いている。日本は「世界平均約68%」よりは少なく「53%」ほど。チリやブルガリアと同じ程度。80%を超えているのは、イタリア、中国、インド、インドネシアと高くなり、93%のタイ、マレーシアと多くなり、98%ポーランドと火力依存が高くなっている。
 CO₂排出量は火力依存が低いほど低く、高くなるほどおおむね排出量が多くなる。おおむねというのは、(たぶん)車社会化の度合いがどの程度かによって、排出量が増減するからであろう。もしCO₂だけに焦点を合わせると、化石燃料から離脱することが、ひとつの道となる。フランスが低いのは原子力発電が圧倒的だからであり、ブラジルが低いのは、水力発電が主力を担っているからである。
 つまり、電力が何に依存して作り出されているかを問わなければ、CO₂排出削減という課題にはなかなか結びつかないのである。(つづく)


36会seminarご報告(1)低空飛行の持続

2021-09-26 09:44:39 | 日記

 昨日(9/25)、36会seminarを開催しました。前回に続き、新橋の「ももてなし家」が快く会場を引き受けてくださり、ワクチン2回接種者のひとつの「社会実験」として「会食」まで行うことができました。そのせいでコロナ感染が発生するかどうかは,まだしばらく様子を見なければなりませんが、まもなく傘寿に手が届こうという高齢者の集まりとしては、行き帰りの交通機関も含めて、参考にできようかと考えています。
 さて、7月のseminarより参加者が3人減りました。一人は別の予定と重なったからでしたが、あとの二人は、急遽入院したご亭主とそのお内儀でした。「行き交う同窓生の十字路」と『うちらぁの人生 わいらぁの時代』(2020年刊行、p4)に記された新橋のお店の経営者ご夫妻。「36会」の名付けの親であり、「seminar」の言い出しっぺです。
 9月3日、ミスズさんからこんなメールが入りました(以下、カタカナ人名は仮名です)。
《今ミコちゃんから電話がありました。マンちゃんが、肺に膿が溜まり、S病院に入院したそうです。16日に、胃癌の初期で入院が決まっていましたが、今朝突然身体が動かなくなり、診てもらったらしいです。コロナ騒動で、家族も会えないみたいです。》
 マンちゃんは長年糖尿を煩っていましたが、一病息災の「低空飛行」。「いつ墜落するか、わからんけえの」と冗談を口にしていました。79歳の今日までご夫婦で店を守って働いてきました。いやじつは、仕事を辞める機会を逸して、ずるずると来てしまった事情がありました。私は60歳の定年で仕事を辞め、気ままな暮らしで、ときどきマンちゃんと顔を合わせては、おしゃべりをしていました。お店が入っているビルが近々建て替えになるから、それを機に店をたたむと言っていたのです。ところがビル建て替えの話が突如宙に浮いてストップしてしまいました。
 どうして?
 東京五輪です。それが2013年の9月に決まり、いきなり東京は建設ラッシュになりました。この国の建設業者も政治家たちも、ハコ物が得意中の得意。何に使うか、どう使うかよりも、まずは建ててしまえ、後は野となれ山となれってワケで、糊口を凌いできたのです。この建設業界のバブルのあおりを受けて、お店の入っているビルの建て替え話は五輪後に持ち越されました。悪いことにコロナウィルスの襲来があり、五輪は延期、立て替え話はさらに持ち越されて、さて五輪が終わったこれから再始動というところでした。
 考えてみると、彼ら夫婦の仕事納めの話が8年延長されてしまったわけです。東京五輪さえなければ、71歳で仕事を納める段取りであったのが、79歳まで延長になりました。思えばよく頑張ったものです。
 ミコちゃんに電話を掛けますが、なかなかつながりません。ミスズさんにその後の様子をうかがうと、次のようなメールが来ました。
《マンちゃんの病名は膿胸です。重症の時は、外科的手術ですが、初期だと思います。呼吸器内科に入院しています。管で膿を吸いとり、薬治療していくのだと思います。ミコちゃんの方は、今日から店に出ている筈です。姪御さんに手伝ってもらいながら頑張るそうです。夜固定電話に掛ければ繋がります。ただし足が不自由なので、長く長く受話器を取り上げるまでかかります。気長に待っていてあげて下さい。》
 ミコちゃんに電話をしました。彼女はマンちゃんの入院に驚天動地、面会もかなわないとあって、ますます気落ちしていました。コロナがもたらした「分断」です。マンちゃんの入院先が彼らの息子さんのマンションから見えるところとあって、息子さんが病院とのやりとりを引き受けているようです。
 つい3日前、ミコちゃんから電話があり、seminarに顔を出すと元気そうな声が聞こえました。マンちゃんの退院が10月1日になるとも話していました。良かったねえ。皆さんへのマンちゃんの病状報告をしてくださいねとお願いして、seminar当日を迎えたわけでした。
 ところが、ミコちゃんは現れません。ミコちゃんを気遣って訪ねて行っていたMs.Greenさんからメールが入っていたのを見忘れていました。Ms.Greenがやってきて、話してくれたのは、マンちゃんの病状はまだ見通せないということ。それを知ったミコちゃんはすっかり気落ちして、seminarに顔出しできないという話でした。
 そうだよね。何十年も連れ添っていれば、それも四六時中店番をして一緒に過ごしていれば、ほぼ一心同体。連れ合いが弱れば、気持ちも落ち込むわなあと思いました。
 そういうわけで、seminarのお話はまた後ほどになりますが、コロナ禍ワクチン接種2回済み高齢者の集会という「社会実験」がはじまったのでした。できれば「アルコール付きの会食実験」にしたかったのですが、お店の方がかっちりと規制を守っていて、提供してくれませんでした。果たして、次の「解除」の時に「アルコール規制」も解除になるかどうか。その「実験」は次回ご期待くださいってことになりました。